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考える道具を考える

The instrument which I think

何だかTwitterというものが最新の「流行」らしい。
140字の中に、「今、何している?」という問い掛けに、自分が今何しているか書き込む。

一体、誰が、登録した私に問い掛けているのだろう?
今、起きた。朝だ! 顔洗って、出かけるところだ‥‥
こんなことを書く人はあんまりいないが、せっせと、「今」を書くのが流儀なのだそうだ。

そういう「今」を「つぶやいて」、それで共通したキーワードにひっかかった未知の人々とのコミュニケーションを楽しむのが基本的態度なんだそうだ。

誰をフォローするのかは自由だし、誰にフォローされるかは不明。

‥‥

様々な機能を使って、「つぶやき」を立体的に活用することで、何より情報収集することのメリットが大きいと多くの人がいう。「テレビより早いニュースが読める」とか「今まで知り合った人より多くの効果的な人脈が形成できる」とか‥。

で、始めてみたものの、このメディアと係わるのは本当に大変だということが分った。
そもそもTwittetにアクセスしなければ見れないわけだし、フォローしている人が言い放った「つぶやき」に反応したりしていたら、日がな一日付き合わなくてはならない。

最初は誰をフォローしていいのか、誘われた友人のもの以外には初期登録した時に推薦されている有名人をフォローしてみた。勝間和代さん、ジャックウェルチ、ヨーコ・オノ、それにゴルフのイアン・ポールター。

で、で、ウェルチのつぶやきを英文で読んで一度は感激したものの、まぁ、世界で一番忙しい人が、毎日、Twitterに取り組んでいるわけでもない。勝間さんは、実にコマめにふづやいていらっしゃいますが、その会話にはほとんど入れない。誰かと何かをヤリトリしているのは分るけど、そこに割って入っていいものかどうか‥できる筈もないのですが‥。

ということで、このメディアがSNSやブログを超え、2チャンの世界を超えるコミュニティチャンネルになるといわれている意味が、良く分かりません‥‥というのが、今の実感としての私の「つぶやき」でした。

 ‥そういえば「つぶやきシロー」は、今、どうしているんだろう?


本日は東京にも雪。

ノーベル文学賞受賞者、作家 川端康成の「雪国」の冒頭は、日本人ならだけでも知っている。

 ‥国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

この「国境」を「こっきょう」と読むのか、「くにざかい」と読むのか。

それはともかく、雪が降ると何故か私は「国境」という言葉が浮かんでくる。


この作品は、親の遺産で食っている島村という一見草食系男子の代表のようなフリーターが、雪深い別世界に足を踏み込んで得た妄想の世界での恋愛劇といった人もいましたが、それはともかく、日本という島国の中にもまだ「国境」感覚が残っているという社会背景に共感することも事実です。

国境に線を引いて、そのエリアの中で安住する。
日本人の心の安定感は、こうした生き方に由来すると言えるのでしょうか?

そして国境は、外部を隠す。

知らないことは存在しない。私にとっては‥。

反対に、その隠された世界の、漠たる存在があるから、
人々の想像力は大きく羽ばたく‥‥。

それにしても、東京の雪は、あんまり奇麗じゃないな‥‥。


物を買うのは「お店」で。
これは昔も今も変わらない。

1970年代から、通信販売という形態が登場し、売り方、買い方に変化の兆しが現れた。その後、消費の姿は多様化の一途を辿り、ここ10年でネットでの売り方、買い方が急速に進展しているというわけですね。通信販売の売上高全体は8兆円だとか。約6兆円がネットの世界で売買されている、というのが現状のようですね。(百貨店、スーパーの落ち込みと反比例している‥)

消費という言葉もなくなり、消費者ではなく生活者になり、今や私達はモノを言う創造者にすらなりつつある。物を買うのは「消し去る」ためではなく、「創る」ためであるというのは、いかにもカッコいい。でも「創る」と残る。残ると家の中は物で溢れることになる。不必要なものは捨ててしまえばいいのだが、捨てるにもお金がかかるようになって、「交換」しようという意識が高まった。ネットでのオークションは、この風に乗って真っ盛りだ。

ネットの価値観は、30歳を分岐点として大きく変わると「フリー」(NHK出版)の作者クリス・アンダーソンは指摘する。1980年以降に生まれた世代の価値観が、ネットの世界を支えているというわけだ。それ以前の世代の人々は、ネットの世界で「無料(フリー)」で展開されている売買(?)にまだまだ懐疑的だという。しかし、30歳以下の世代は、「無料」が当り前の価値観で、モノの売り買いの世界観を大きく変える原動力になっているというのですね。

グーグルの検索はタダ。
ヤフーでニュースを読むのもタダ。
ユーチューブで映像を視聴するのもタダ。
辞書を引くのもタダ。
‥みんなタダ?


しかし、物を買うのは「お店」で。
これは昔も今も変わらない。
でもここでいう、その「お店」は、必ずしも「現実の」ショップである必要はない。

あるいは現実のショップでないほうがいい。
と言っても現実のショップはなくてはならない。
いや、現実のショップは、より「現実的」でなければならない。

現実より現実的なショップとは何か?
それは超現実。どこか夢ウツツの世界を体験させてくれる「空間」。
ネットの世界が「時間」の流れを失った「空間」だとすれば、
現実のショップは確実に時を刻んでいる「空間」。

 ‥‥私達は、時々、我に帰る時間が必要なんだろうね!

長くなったので、本日はこの辺で‥‥。
さて、ジュンク堂に行って、アマゾンで買う本の下調べをしなければ‥‥。
内田 樹先生の「日本辺境論」(新潮新書、2009年11月刊)は、アジアの辺境の地、世界の辺境の地に住む私達日本人の本質を改めて明かにした名著といわれています。

本著で一貫して言っていることは、次の辺境の定義の言葉の中に集約されていると言ってもいいと思いますので紹介しましょう。

 『ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以後「辺境人」と呼ぼうと思います。』

絶対的価値体は、日本の中にはない。
海の向こうのどこかにある。だから、日本人の価値観は、常に、その「何か」との距離感の中で生まれる。また、何かを実践する時の責任も、同時に外部のどこかにある。だから日本という島国で起きていることは、最終的には自分達の中の誰かの責任ではない‥と漠然と多くの人が思っている。

こういう日本人論に素直に頷いてしまうのも、結局辺境人だからでもあるからでしょうか?
この難解な新書がべスセラーに迫っているというのも皮肉なことではあります。


ところで、バンクーバーで開催されている冬季五輪。
ほとんど盛り上がらない冬のオリンピックではありますが、マスコミは無理無理、ヒーロー、ヒロインの登場を願い、世界のレベルにようやく何とか対抗できるスキルとマインドを持った僅かな選手に誇大な期待をかけていますね。相変わらず。

しかし日本の報道の最近特に顕著な欠落は、世界の状況を報道することをほとんどしないこと。日本のメダル候補と世界の強豪との比較検証をほとんどしない。だから盛り上がらない。

上村愛子選手が、メダルに一歩届かず「4位」であったことを、本人以上に日本人がどれだけ悔しがっているのかは疑問でもありますが、世界の強豪がどんな人で、上村選手のポジションがどのレベルにいるのかを正確に報道していれば、今回の4位は大健闘といわなければならないでしょう。

にも関わらず、新聞のほとんどはお涙頂戴で終始し、技術レベルの解説をすることはない。「何故2位では駄目なんですか?」どこかの体育館で何だかの仕分けをしている時の、ある女性議員のこの言葉が何故かシンクロします。「何故4位じゃ駄目なんですか?」よく頑張ったじゃありませんか? 愛子選手は!


結局、辺境に住む日本人は、世界を冷静に情報収集して比較検証するという「方法」を好まないのでしょう。他国の優れた選手の情報が報道に出てこないのは、そんな情報を流しても日本人には好まれないことを知っているからです。世界を意図的に「隠す」ことで、このイベントを仮想的に盛り上げることでしか「方法」を駆使できないことの哀しさを、私は見ているようでもあります。

腰パンのお兄ちゃんのほうが、メダルに一番近いという皮肉は、何を現しているのでしょうか?



 少し、間隔があいてしまいましたが、
 また、書き続けていこうと思います。

 『多くの人は、物そのものや状況そのものを見ていない。
  その物にまつわる自分の思いや執着やこだわり、
  その状況に対する自分の感情や勝手な想像を見ているのだ。

  つまり、自分を使って、
  物そのものや状況そのものを隠してしまっているのだ。』

 超訳「ニーチェの言葉」(白取春彦訳・ディカバートゥエンティワン発行 2010年1月15日刊)という箴言集に掲載された言葉です。(超訳ということばがあるのでしょうか?)

 10代の私が最も影響を受けたニーチェという哲学者。長い年月を経て、再び書店の店頭で出逢ったニーチェの言葉でした。

 事実と真実の違い。人は自分が目の当たりにした事実の側面を語ることは出来ても、真実を語ることはできない‥‥なんていう分ったような分らないような気分になって、ジャーナリストの道を自分で断ったつもりになったのが20代の前半でした。

 自分のまわりにある「物や状況」の認識は、本来は意味を持たず、そこにそうして「在る」だけなのだが、そこに自分の感情や思いや執着を写し込むことによって、言い換えれば、自分の言葉で語ってしまうことによって、あるがままの状況とは違う何かを描いているだけになる。

 人が語ることとは、そういうものなのだということを認識した上で、他者と本当に心から交流できる言葉とは何なのか、そんなことを考え続けていきたい。

 ‥それにしても、言葉で語ることによって、
  隠そうとするものとは何なのでしょう?