株式会社テクノコーポレーション -37ページ目

今日は矢沢永吉62歳のバースデー。

今日は私の尊敬する、矢沢永吉の誕生日です。62歳なんですよねー。きっと毎日、身体を鍛えているのでしょうね。毎回パワフルなステージですよね。


実は私は、コンサートにはなかなか行けないんです。なぜなら、喘息持ちだから。コンサートの最中、観客皆でタオルを上に放り投げますよね。あれが、喘息の発作の原因のアレルゲンを撒き散らす行為になってしまうのです。


どうしてコンサートの後に、喘息の発作が出るのか、少年のころは分かりませんでしたが、だんだんと分かってきました。


というわけで、テクノコーポレーション代表取締役のHです。


前回に引き続き書きます。なんか、思い出掲示板みたいになってきましたが、これから会社を立ち上げようと考えている方にとって、少しでも参考になればと思います。


恋ヶ窪のワンルームでも手狭に感じ始め、半年も経たないうちに、東村山市の駅の近くに、2DKの部屋を借りました。そんなころです。


ある日、取引先の角○という男が、退職したので私の会社で働きたいと連絡があったのです。数日後に角○が訪ねてきました。あと二人を連れて。香○さんともう一人。


「いきなり三人かよ?」と思い、どうしようか悩みましたが、結局三人とも受け入れることにしました。


どう考えても、一人分の給料は払えるけれども、三人分は厳しかったのでした。常用の職人さんや点検員もおりましたので。しかし、「新たに仕事を取ってくれば、何とかなるさ」と、いつものように甘く考えてしまったんですよね。


そんなときです。取引先の一社が、倒産したのです。つづく。

チャンスは掴んだら離すな!無理だと分かっていても。

こんにちは。テクノコーポレーション代表取締役のHです。


また真夏に戻ったみたいに暑いですね。私は暑いのが大の苦手です。


さてさて、私が独立を決意した9月12日の記念日は昨日でした。


そして後述するであろう私の父親の命日も9月12日なんですよね。


そんなわけで、法事だのを執り行い、久しぶりに墓参りなどしてまいりました。



前回は、甘く見ていた「新築一戸建て引渡し前クリーニング」が終わらなかったところまで書きました。


その後、他のメンバーを不安にさせないよう、相当気を遣ったのを覚えています。


初日の夕方から、電話帳を見ながら、ハウスクリーニング業者さんに電話しまくりました。


やっと一件、明日から入ってくれるとのこと。しかし、一件あたりおおよそ30000円でした。他の業者さんは、だいたい35000~40000円。高いところは50000円じゃないと無理だと言われたのです。


私はそんな仕事を25000~27000円で請けたのです。本当に相場も分からずに受けた私がバカなガキだったのです。


翌日から、プロの仕事を全員で見学して真似をしようということで、メンバーに伝えました。全員の日当と合わせたら30万円くらいのマイナスでしたが、ここは授業料だと割り切り、真剣に見学しました。


作業している業者さんに、「これは何という道具?」「これはいくらぐらい?」「どこで売ってるの?」などなど、質問攻めでしたよね。きっと、うっとうしかったでしょうね。


おかげで、残りの9棟全て、現場所長さんのOKをもらいました。帰りに、ひばりが丘のガストで、ポテトの大盛を食べながら反省会を催し、次の現場では、とにかく頑張ろうと盛り上がりましたね。


そんな調子でスタートした新築一戸建てクリーニングでしたが、その後はマンションや商業ビルなども請け負うようになり、一戸建ての仕事での経験が、本当に役立ちました。


それから賃貸マンションなどの退出後クリーニング、ついにはクロスの張替えや床の張替え、ユニットバスの交換や台所のリフォームなど、どんどん請けました。当然、「はい、やりますよ!」のノリです。


分からない仕事は、プロに聞けばいいのです。そして仲間がどんどん増えていきました。


チャンスは絶対に掴んだらはなしてはダメなんです。「いやぁー、うちはそういうのやらないんですよ」なんて言ってたら、次のチャンスは当分回ってきません。


そんな調子で、平成8年に、合資会社を設立しました。事務所は、自宅のキッチンでは狭くなってきたので、国分寺市の恋ヶ窪という駅の近くにワンルームを借りました。


常用の職人さんが数名おりましたが、まだ雇用はしておりませんでした。そろそろ社員を雇う時期なのか考えておりました。私は37歳だったでしょうか。

安請け合いは事故のもと。それを身をもって知りました。

株式会社テクノコーポレーションのHです。今日は久々に吉野家で食べました。カレーを始めたようなので、験しに食べてみたのですが、イマイチでした。やっぱりカレーは松屋かな。すき屋も美味いですよね。


時季によって、吉野家・松屋。すき屋での食べる頻度が変わるんですが、寒くなると松屋なんですよね。どうしてでしょう?牛焼肉定食が好きですねぇー。


というわけで、前回に続き書いてみます。


このころから定期清掃や日常清掃を受注するようになりました。私も作業に加わり、大家さんと世間話したりするのが楽しかったですね。


そんなとき、「おたくら、受水槽の清掃とか消毒も出来る?」なんてことを聞かれ、私はいつものように「ええ、出来ますよ」なんて応えてしまったんです。それから水道関連の業者仲間とのバーターが始まったんですね。


建築設備検査や、特殊建築物調査も、そんなノリで請けるようになっていったんです。調子いい男だったんですね。


しかし、そんなに調子よくコトが進むわけありません。


あるとき、あるハウスメーカーさんの所有する共同住宅の消防設備点検とか定期清掃の作業中に、その会社の工事部長がお見えになったのです。「共同防災さん、清掃をやるのなら、一戸建ての引渡し前の清掃やってもらえないかなぁ?」とオファーがあったのです。


私はまた、「ええ、がんばります。やらせてください」と返事。


「1棟25000円くらいで見積もりしてよ」とのことでした。


私は「やった。一戸建ての現場は10棟とか20棟の現場が多いはず。いいぞいいぞ」とウキウキしました。


それに、新築の一戸建てなんて、汚れてるわけないし、一人で一日に2棟くらい出来ると思ったのです。


たしか、10棟現場を受注したのです。忘れもしない、西東京市のひばりが丘でした。


初日に備えて、頭数をそろえました。中には、息子の通う小学校のPTAの役員のお母さんとか、つぶれそうなラーメン屋の店主、家内の中学の同級生、もとキャンギャル、などなど、総勢8人だったと思います。


「今日一日で全部終わらせよう!」とスタートさせました。さて、現場についた私たちは、唖然としました。想像の100倍以上汚れていたのです。モルタルの飛沫、職人さんの足跡、そりゃあもうすごいものでした。


そして初日、仕上げたのはたった1棟。それもワックスはまだでした。


あのとき、冷や汗で寒くなったのを覚えています。


さあ、どうする?引渡しまでは3日しかなかったはずです。もう、引越ししてくる方もいると聞いていました。


仲間はみんな、私の動揺に気付いていません。ワイワイと楽しそうです。  つづく。。。

起業してすぐの失敗は成功の始まり

テクノコーポレーション代表取締役のHです。今日は久々に暑かったですね。。


今日は、新宿から青山、六本木のほうを廻っておりましたが、やっぱりあのへんは華やかですよねー。


同じ東京都でも東村山と比べると別世界です。ちなみに東村山には東京都唯一の国宝建築物があります。


というわけで、前回に引き続き、書いてみます。


開業資金がゼロになり、途方に暮れておりました。事務所を借りるカネも無いので、自宅アパートのキッチンの角に机と電話機、FAXを置いてスタートしました。そのときに買った机は、まだ使っています。


普通、前職で得たお客さんを持っていくのが独立時の常套手段なのですが、私はそれをせず、1から始めました。やはり、背水の陣を布くと、恐いもの無しで前進できますよね。


毎日のように受注しては作業、受注しては作業の繰り返し、カネもだんだん貯まってきました。


屋号は、「共同防災事務所」としました。


仲間との作業、毎日楽しかったですね。作業の後は、その周辺をセールスして回ったり。


そんなころ、ある賃貸マンションの通路で、消火器の粉をこぼしてしまい、掃除していました。そこに運悪くというか、オーナーが見に来られたのです。


私は誠心誠意お詫びしました。ところがオーナーは、「おたくらは、掃除もやってくれるのかい?」と聞いてこられたので、私は調子よく「定期的に掃除しておくと、いつもきれいなままですよ」なんて応えてしまったのです。


「それじゃ、来月から定期的に掃除にきてもらえるかなぁ」と言われたので、「はい、よろこんで」と、軽く請けたのです。


まさか、それが将来の基幹業務になるとは夢にも思いませんでした。失敗は成功の始まりとはこのことでしょう。

起業スタート時の背水の陣

株式会社テクノコーポレーションのHです。


しかし、100年に一度の大不況、1000年に一度の大震災、原発事故、50年に一度の台風被害と、平成20年ごろから辛い世の中になっております。


これからは、明るい話題で日本が盛り上がるでしょう。「日本の未来は世界が羨む」って、モーニング娘。の歌がありましたよね。あのフレーズが好きでした。


さて、経営戦略を考えるようになった時期、当然、業界を取り巻く外部環境やら何やらを考えなくてはいけませんよね。事業領域・目標・方針・計画ですよね。ドメインとかシナジー効果とか、このころは知りませんでしたので、マネジメントの本を読み漁りましたね。


やはり、社会人になってからの勉強は身が入ると聞いていた通り、本当にそうでした。公開講座にもよくまいりましたが、40代50代の中年の方の熱心な姿勢に感動したことを今でも鮮明に覚えてます。


そして丁稚奉公先の社長に、独立することを話す日がやってまいりました。当時の私の給料が120~150万円でしたので、それなりに会社も儲かっていたでしょうね。案の定、「まだ辞めるな」とのお返事でしたが、なんとか円満に辞めさせていただけました。


それからは自分の事務所を開業しなくてはいけないので、いろいろ模索していたのですが、そんなとき、沖縄の病院から連絡が入ったのでした。私の父は、仕事で沖縄に滞在しておりましたが、その沖縄で緊急入院したのです。病名は心筋梗塞でした。


沖縄にすぐ飛びましたが、父は「悪いなぁ、せっかく忙しくなってきたのに」なんて会話をした翌日、今度は脳梗塞を発症。それが最後の会話らしい会話でした。右半身が動かなくなり、加えて言語障害。


そして父が沖縄で作った多額の借金。それらを全部、私の貯金で返済しましたが、私の預金残高は「0」でした。


これから開業というときに、開業資金はゼロになったのです。しかし、あの「背水の陣」が、かえって良かったのだと、後々思えるようになりました。父に感謝です。