聡明な王子がいた。門からいたずらに外に出て世間というものを知ってから彼は苦行を重ねた。肉体の痛みで心の痛みをやわらげる日日がつづいた。
心の痛み。それが何なのかいつも考えていた。そこで確かに自分が思っていることに気づいた。それを止められれば心の痛みはなくなるのではないのかと思った。通りがけの女の手にのせられていた乳白色の皿。その皿から彼は腐った乳粥を飲みほした。
大きな樹のもとに静かに彼は坐って自分の心の動きを観察した。考えや思いが次つぎと湧いて出ては変わっていった。過去のこと、現在のこと、未来のこと。思いは駆けめぐってまた変わってゆく。思いを止めることができないことを知った。
彼は妄想にまかせてそれに捉われないでいた。呼吸が彼の胸をふくらませた。汗が彼の顎から滴ってその胸を湿らせた。愛を摑めば生きとし生きるものは憎を摑んでしまう。
しかし、と彼は気づいた。この自分の命だけはどうしても否定できない。命があるから愛や憎を思うんだ。私は愛や憎という思いであるまえに命なんだ。自分が生きているかぎりすべてのものが命なんだ。どんな苦しみがあったとしてもそれは自分が、命があるからなんだ。私は自分の思いだけがすべてだと思ってしまっていた。この自分が命なら私が出会うところ命なんだ。
平等であり、勝ってもなく、劣ってもいないそれぞれの命、すべての命。他の人びとはそれに気づかないだけなのだと彼は知ったのだ。大地に腰を落ち着けてじっと坐る彼の頭上で五月の風が大きな菩提樹の葉をことごとく揺らして去った。
2016/05/10
2021/01/26