靴
N・Hに
霧が発生したときは動かないでという訓えに
したがって長い年月が経った。ただ福原跡の
この街はよく見慣れた見えないところが多く、
その変わり方は八百屋の店先の野菜の種類や、
まだ買ったことのない花屋の花に顕著に表れ
る。
季節の変化に最も敏感なものが植物であると
改めて感じさせられる。桜が咲くまでもたな
いというおまえのいのち。おれにはそれが、
おまえが履くのに苦労した悲しい靴の並べ方
のように見えるのだ。玄関に並べられたこの
前の再会の時の靴。おまえの前に呆然として
立っているらしいおれの姿は何だったのか。
最後になるおまえとの別れにどんな贈物が好
いだろうかと思いながら、この稿を打ってい
る。おまえはおまえが生きた歳月のすべてを
持ってゆくのだろう。おまえにとっての世界
はおまえの死によってすべて奪われた。残さ
れるものは何もない。
ただおまえに別れを告げるおれたちだけがお
まえの悲しい靴を凝視めなければならないの
だ。ジョイスの靴。ベケットの靴。パウンド
の靴。それは玄関に並べられるおれたちそれ
ぞれの悲しい靴でもあるだろう。おれたちが
歩き、走り、躓く靴は玄関に脱ぎ捨てられて、
やがては意識の霧のなかから消えてゆく命運
なのだ。
2017/03/05
2020/07/04