神奈川県立音楽堂でヘンデルのオペラ《シッラ》を観てきました。
ファビオ・ビオンディ率いるエウローパ・ガランテの公演、
歌手はカウンターテナーこそいないものの、充実した布陣です。
音楽堂は、ピットがなく少々(かなり)手狭ながら、バロックオペラにはちょうどよい規模、
1954年に前川國男が設計した名建築、ロビーのモダンなたたずまいは、70年近くたっても古びません。
それに対してホールの中は、時代のついた木材がぬくもりのある空間を作ります。
さて、演奏はビオンディらしい切れ味のよい演奏。
問題は演出でした。
歌舞伎メイクに外連味のある派手な衣装、いちおう良いところを言っておくと、
白塗りで隈取をするおかげで、女性という感じがなくなります。
また、どの役かすぐわかる。
《シッラ》は神以外はすべてソプラノかカウンターテナーで歌われます。
つまり、男性たちもすべてカウンターテナーが歌うのが、17世紀から18世紀のイタリア・オペラの趣味です。
今回はすべて女性が歌ったので、衣装とメイクのおかげで、女性的な雰囲気は感じませんでした。
しかし、なんといっても演出がひどい。
演出と書きましたが、あの舞台について演出という言葉を使うこともはばかられるものです。
私はここで「演出」を、「人物の関係やドラマを明示するために、個々の登場人物の立ち位置、動作、表情を定めていくこと」という意味で用います。
《シッラ》の舞台は、ただでさえ狭い舞台に段をしつらえ、そのほとんどをパーテーションで閉じ、
人物が動ける空間をあえて狭めるという、謎の戦略がとられました。
鳥居を意識した朱色の柱がいくつか立ち並び、列柱か何かのイメージを重ねているのでしょうか、
それが生かされることもなく、ただ第1幕で雷が落ちてしめ縄を張った布がばらりとほどけて、
めらめらと燃える火の映像を映して落ちる、そのくらいのことでした。
県立音楽堂の舞台が狭くて困ったといいますが、あの空間の動ける部分をさらに半分以下にして、
狭いも何もないものだと思います。
しかも、階段を使うかと言えば、冒頭と第2幕のシッラの登場と神の登場くらいしか用いず、
あとは、人物はただ下手から出て真ん中で歌い、また下手から出ていく、ときどき上手から出入りすることもある、
それだけです。
空間を活かすという発想が皆無でした。
いや、ときどき、登場人物は一段二段と階段を上がることもあります。
しかし、その移動に歌詞に沿った意味や、人物間の関係性を物語るような意味は、
少なくとも私には見出せませんでした。
この窓枠上の朱色の柱には、スクリーンが降りる仕掛けが施され、
第2幕では富士山(たぶん吉田博の版画の一部)が背景とスクリーンに映し出されていましたが、
なぜ第2幕で富士山を映す意味があったのか、私にはわかりません。
日本一、ということを言いたいのかな。
シッラはローマ人だけどな、あ、ヴェスヴィオ山とかそういうこと?
なぞの忍者による虐殺も失笑ものでした。
忍んでないしな。
第3幕では鳥居状の枠が重なって牢獄が表現されていましたが、
それが唯一演出めいたところでしょうか。
とはいえ、別段目新しいことでも何でもない。
この舞台を絶賛した人の中には、おしまいの大団円で、デウス・エクス・マキナのかわりに、
舞台上部の穴(あれは何という名前?)からシルク・ド・ソレイユのダンサーが布のロープを身体に巻き付けるだけで
アクロバットをして、非常に華やかで美しいエンディングを表現していた、
これぞ現代によみがえるバロック・オペラのスペクタクルだ、と言いたいかもしれません。
そりゃアクロバットのダンサーは素敵でした、
彼女たちは狭い穴からするすると降り、回転しながら上から落ちる金の紙吹雪を撒き散らすという細かい仕事もしていました。
でも、それと物語と何の関係があるのでしょう。
たとえば、彼女たちが出てくるのは、シッラが改心したそのときに天使のごとく出てきた方が、
よかったのではないか。
歌手たちは出てきてただ突っ立っているだけで、
おそらくろくに所作の指示も受けていないのでしょう。
よくある歌手的な手ぶりで、それはまったく意味と結びついていません。
歌手を責めているのではありません、そこではこういう感情で歌うから、
手の位置は、指の開き方は、などと指示するのが演出家の仕事です。
立っているだけで跪くこともなく(跪くという身振りは、17世紀以来の伝統的な身振りです)、
愛し合う二人が、終始微妙な距離を保ち(愛し合っていないのか?)
振り向くタイミングもちぐはぐで、物語性も何もありません。
‟演出家”の彌勒忠史は、歌舞伎にインスパイアされてこの舞台を作ったといいます。
立師に市川新十郎まで入れています。
それで歌手たちのその演技です。
歌舞伎の型も何もあったものではない。
たしかにアンサンブルの助演のほうは、歌舞伎らしい型もありました。
だが、あれを「歌舞伎にインスパイア」などというのは、歌舞伎に対する冒涜です。
歌舞伎役者がどれほど型を身につけることに汗を流し、下稽古を積んでいるのか、
その歴史と伝統の責任を彼は1ミリでも考えているのか。
せいぜい江戸のエンターテイメントは今のエンターテイメントだというくらいの認識でしょう。
あれを歌舞伎役者が見て、歌舞伎を使ってくれてありがとうなどと言うと思っているのでしょうか。
また、バロック・オペラは大衆をも楽しませるエンターテイメントなんだから、
そんなやかましく言うことはないという人もいるかもしれません。
みんな楽しかったんだからそれでいいじゃないか、と。
もっとひどいと、バロック時代は所詮それくらいの演出でいいのだ、
当時も歌謡ショーみたいなものだったのだから、という認識です。
それは、ヘンデルに対する、またバロック・オペラに対する冒涜です。
たしかに、当時の批評やカリカチュアなどを見ると、舞台前面に立ってくさい芝居をする、
そんなものが散見されます。
しかし、それが理想だったというのでしょうか。
今は21世紀です。
専業の演出家が生まれて100年以上たちました。
ヘンデルの音楽がもつドラマを、今の私たちにとって意味ある形にして提示するのが演出というものではないでしょうか。
もし、あれを演出というのなら、それは演出という仕事に対する冒涜です。
過去の舞台、18世紀の世界を再現したい、というのであれば、ここくらいまでやれ、というリンクを張っておきます。
17世紀の照明、身振りを可能なかぎり再現して上演する例。(DVDも出ています)
モリエール/リュリ《町人貴族》(2004)
現代の技術を駆使しつつ、バロック・バレエのスペクタクルを身体的に表現する例
《夜のバレエ》(2017)
名演出家ストレーレルによるゴルドーニの舞台化。
ここではコンメディア・デッラルテの仮設舞台を再現し、可能な限り当時の即興喜劇の身振りを行っている。
ここまでやるのが、演出だと私は考えています。
少なくとも私が「よい舞台」とする基準はこれらにあります。
他の人がここに基準を置いていない、というのは個人の自由です。
だからあの《シッラ》は自分には良い舞台であった、というのも個人の自由です。
せっかく気分もよかったのに、なんでこんなことを言うのか、と言われたらそれは申し訳ない。
ですが、私はおいしくできる素材(《シッラ》というオペラ)をへたくそに調理されたことがたまらない。
歌舞伎に、ヘンデルに、演出に微塵も敬意を払っているようにみえない「演出」を私は認めることはできません。
このつい数週間前に見た《浜辺のアインシュタイン》とは雲泥の差です。
ですから、私はここに基準を示したうえで、あの舞台がいかに私にはひどい「演出」であったのかを表明するのもまた、個人の自由であり、そして、部分的ではあってもそれは説明できたと思うのです。
ここまで書いてきて、ふと気づきました。
今回の舞台が「セミ・ステージ形式での上演」と書いてあれば、
私はたぶん何も文句を言わなかったのだということに。