雑誌「レコード芸術」が休刊になるというニュースに驚きながら、

複雑な気持ちでいます。

 

「レコード芸術」というレトロスペクティヴな雑誌名、

そして、過去の名盤特集といった毎度おなじみの編集に、

雑誌としての老いを感じないわけにはいきません。

 

すでにCDですら買う人が減り、配信やYouTubeで済むという時代の趨勢からすると、

その役割を終えた、といえばいえなくもない。

 

しかし、私自身が中高生のころは、「レコード芸術」と「音楽の友」が、

クラシック音楽の情報を知るほとんど唯一といっていい場所でした。

 

それでは、今それに代わるメディアがあるのかというと、

ないのではないかと思います。

 

雑誌という媒体から断片的に積み重ねて、知識を構築していく、

という行為は、「個々のアーカイヴ」という営みだったと私は考えています。

 

私の頭の中には、「レコード芸術」のCDやレコードの記述を底本にして、

控えめに見ても5千枚分くらいのレコード、CDのデータが入っています。

(レーベル、型番等も含めて)

それはカタログ化しているわけでもなく、ただ私の頭の中にあって、

私は今もラジオ番組で原稿を書きながら、重宝しています。

 

 

情報がいつでも手に入るという状態は、ありがたいのは確かです。

だからといって、それを誰もが使えるかといえば、実はそうではなく、

自分の好みが自動的に目の前にあらわれるシステムのなかにいるだけでしょう。

 

最近では、Twitterでつぶやけば、詳しいだれかが答えてくれるようですが、

それは、小さな探し物を得たというだけで、

頭の中にマッピングを行うような知識のひろげ方とは対極にあるといえます。

 

 

それは人間としての思考の強度を失った状態ではないかと思うのです。

雑誌が休刊する、というとき、「時代の趨勢」というあきらめと、思い出とノスタルジーに浸るばかりで、

もっと根幹的な危機が、文化に起きつつあるということを、ほとんどだれも自覚していないのではないか。

 

「配信」は、音情報としては劣化した状態です。

それをワイヤレス・イヤホンで聴く、それはさらに音を劣化させていく、

そういうものしか聴かないでいて、耳はよくなるのだろうか。

 

オーディオ装置によって音質が劇的に変わること、

またレコードの初期盤の音の良さといったものが分からなくなると、

古い演奏はただ古い演奏になり、資料的な価値以上のものでなくなることでしょう。

 

耳に聞こえるものがすべてになり、それが劣化した音であるとき、

どうしてあえて昔の演奏を聞こう、などという発想になるだろうか。

 

そうなれば、そもそも古い演奏を聴くという発想すらなくなっていく。

音楽は生きもののようなもので、今目の前で演奏されるものが第一にあります。

とはいえ、同時に、20世紀の音楽文化において、「録音」はやはり文化の一翼を担っています。

 

膨大な録音があり、演奏解釈の積み重ねがあり、録音技術の歴史があります。

それらがただ「保存されている」というのは、文化的だとはいえません。

頭の中に「私的図書館」をもつ人が一定数いる状態、それは文化の豊かさを意味します。

 

雑誌は商品ですから、購読者数が減ればいずれ休刊になるのはいたしかたのないことです。

しかし、その背景にある「個のアーカイヴが失われた未来」を自覚しない、というのは、

非常に危険なことです。

 

それは、外苑の樹を1000本切るのと同じような愚挙であり、

歴史の連続性と共時性を否定する行為です。

 

「レコード芸術」の休刊に対する、私の複雑な感情とは、

自分の中高時代に読みふけった雑誌がなくなるという、ノスタルジーではなく、

知の営みが急速に失われている、その一つのあらわれとして私の眼には映っているのだ、

という危機感だといえそうです。

 

私はどうするべきなのか。

大学で教える身として、真剣に考えなければならない問題です。