世の中ではコロナウィルス狂騒曲とでも言いたくなるような有様ですね。

 

豪華客船の下船拒否、あれを見ていたとき、

私はただただカミュの『ペスト』を思い出していました。

古典的名作というのは、時代を超えて人間の本質的な愚かさをきちんと写しているのだな、

と変な感心をします。

 

最初は、一匹のネズミの死骸だった。

そこから『ペスト』は始まります。

メディアによって人々は恐怖を煽り立てられ、

巻き込まれて街に閉じ込められた医師リウーが、様々な人と対話しながら

ペストに立ち向かおうとする、という物語です。

神の罰ではないか、という言葉に対し、それを打ち消す、

そこに実存主義文学と呼ばれるカミュの面目躍如があります。

 

この小説で描かれる理不尽な状況は、神を含め、他者に責任を求める人たちが下した判断の集積です。

それは無思考の人たちの判断の集積と言い換えることもできます。

 

この『ペスト』というのは、第二次世界大戦のナチス・ドイツに対するヨーロッパの寓話だったのですが、ここに至って、文字通り「伝染病」としてその寓意は新たな意味を担い始めたようです。

カミュの『ペスト』の売り上げは伸びているそうですが、文学性の高いものほど、

決定的な、言い換えれば大衆的な「解決」は書かれていません。

したがって、読んだところで、パニック状態を自分たちになぞらえるのがせいぜいなのではないでしょうか。

もちろん、それでも意味がないわけではありませんが、カミュの『ペスト』を契機として、

みずから思索を重ねていく、という人はどれくらいいるのでしょうか。

 

休校、公演の中止、マスクに始まり、挙句にトイレットペーパーの買い占め。

まあそもそも、そういうことをする人たちがカミュを読むとも思えませんが。

 

人が集まるところには注意が必要だ、というのなら、電車やバスといった公共交通機関を止め、

戒厳令を布き、家からほぼ出ないようにする、という以外にはないでしょう。

もちろん、子供の免疫能力や使用可能な薬の幅を考えれば、学校の休校はいたしかたないのかもしれません。

この判断は最良の判断ではないにしても、最悪の判断でもない、というところでしょうか。

 

ところが、この対処療法的な強行手段は、明らかに政府の支持率安定を目指している、という意図が透けてみえます。

子供を守るのだ、と言えば、聞こえはいいし、支持も取り付けやすい。

なによりも、経済活動に大きな影響が出ない。

これによって潰れるのは中小企業であって、政府の税収には大きな影響は出ないでしょうから。

 

カミュの『ペスト』でいう「当局」のようです。

逆に言えば、日本の大勢はその程度だということでもあります。

政府の言うことを信じるか、信じないかの二択しかなく、その二択も「信じる」という無思考のものです。

(信じるも信じないもあなた次第、という番組がありました。

考えればわかることを、信じるという言葉でカムフラージュする、

そういうことが好まれる時代だという一つの例証でしょう。)

 

「正しいことを教えて欲しい」、と多くの人が言います。

私などは「てめえで調べて考えやがれ」と言いたくなります。

人は、自分の思考と行動に責任をもたなければなりません。

 

「人間は考える葦である」という言葉がありますが、

考えなければ風になびく葦と同じだと読み替えることもできます。

 

ふだん、一つ一つの物事に自律的に考える訓練を怠るとどうなるのか、

よい見本になっていると思います。

 

東日本大震災のときもそうでした。

東京では、スーパーやコンビニからは一切のものが消えました。

あれの出来の悪い再現です。

 

マスクを必要とするのは、まず医療機関、とくに免疫力の落ちるような治療を行わなければならない患者のいる病院でしょう。

 

「限られたもの」をどうすることが最善であるのか、という問いを突きつけられた時、

「自分の安心」という心情を満足させることに、人々の関心があるため、

医療機関ではマスクが不足し、それによって死者が出るかもしれない、

その可能性の方が高いのではないかと思います。

 

いや、そもそもマスクくらいでウィルスが防げるはずがない。

ウィルスは小さいのです、とても。

静電気や水蒸気によってウィルスが吸着されることはあっても、

マスクは咳をしたときの飛沫を一定程度抑えられるという以上のものではないでしょう。

マスクをしたら安心、というのは一つの信仰にすぎません。

 

「信じる=安心」、「信じられない=不安」という二択しか持たない人が世の中に多いのは、

今も昔も変わらないことです。

そして、今も昔も変わらないから、今を生きる私たちはどのような選択をするべきか、歴史から学ぶのです。

歴史を学ぶ意味、というのはそうした二択以外の選択肢を身につける、ということでもあります。

 

患者数と死者数の割合を比べるなら、新型コロナウィルスの致死率は、他のウィルス性の病気とたいして変わらないでしょう。

誤嚥性も含めて肺炎で亡くなる人の数は、2016年には約11万9千人です。

日本人は肺炎の死亡率が高く、死亡者全体の9.4%を占めると言います。

 

だから、日本人は肺炎になりやすく、今回の新型コロナウィルスもかかりやすく、死にやすいのだ、

という論理は、今のところ論理として成立していませんし、たぶん成立しないでしょう。

致死率の高くなっているのは、医療や保険制度が立ち遅れ、貧富の差の大きい地域です。

 

人間はいつ何が原因で死を迎えるかわかりません。

交通事故で死ぬ可能性だって十分にあります。

私からしたら、ウィルスで死ぬよりも、あおり運転で死ぬ方がよほど理不尽です。

 

これほど大騒ぎする理由の大半は、「未知」であることに対する恐怖です。

しかし、「未知」よりも恐ろしいのは「無知」です。

 

恐怖の根源は「無知」であることにあります。

そして昔から日本は「無知」であることを恥としてきませんでした。

これは、「お上」の命令に諾々と従う封建制の名残ではないかと思います。

 

もう一つ、こうした大流行というのは、自然界におけるごくごく自然な現象だということを忘れてはいないでしょうか。

人口密度が増え、移動数が増えれば、病気は蔓延するのが当然です。

「医療」のない「自然」では、それによって個体数が減って流行しない程度の密度になるのです。

人間は、それを良しとしないから、なんとかして治療しようとします。

 

自然界では、場合によっては全滅、つまり絶滅に至ることもあります。

しかし、その場合にも代わりの生物種が現れるだけで、生物種のバランスの悪い場所では、

そうした交代が何度も起こりながら、長い時間をかけて再び生物の多様な状態へと向かっていくのです。

 

人類は生物バランスからして不自然な状況を作り出しており、その結果、さまざまな病気に苛まれるようになったわけですから、人類が生き延びようとする以上、そうしたリスクを含んで文明の維持に努めるよりありません。

 

これは少し話が大きすぎると言われることでしょう。

今、彼らが必要としているのは、「今、どうしたらいいのか」ということでしょうから。

 

しかし、視点を大きく持つこと、長い時間の変化、文明の消長という観点まで広げると、

これはよくあることの一つなのだという冷静さを取り戻す一助になるのではないかと思います。

 

それでは、今、どうしたらいいのか。

普段通り、手洗いと洗顔、うがいをしっかりすればよろしいでしょう。

風邪を引いたら、病院に行けばいい。

あとは、健康的な生活を送り、免疫力を高め、よく笑う生活を行えばよろしい。

(うーん、ふだん私がしないことばかりだ。でも私はこの通り生きている。)

 

少なくとも、自分がそうすることで、

本当に危険な状況にある人が助かるかもしれない、

そう考えることも一つの心情的な救いです。

 

健康とは何か、それはウィルスに身体が冒されているというよりも、

心の問題であるように私には思われます。

心の問題とは、「信じて安心する」ということではなく、

どれだけ自分が広い視点に立ってものを考えるか、ということです。

 

多視点から考える訓練をどれほど積むかということです。

結局、こういう現象が起きているのには理由があります。

自分からしか物事を見ることができない、もっといえば、物事を見ようともしない人たちが多いと、こういうことが起きるのです。

だから、「今」にこうした現象の原因があるのではなく、ある程度の時間をかけて、こうした国民性が醸成されてきたのです。

 

そうした国民性が生まれた原因は、政府にあるのではなく、国民一人一人の選択です。

それが実存主義です。

彼らは(この3人称複数形が驕りだというのなら私たちは)、経験に学び、賢くなるという選択を取らなかったのです。

 

それだけのことです。

それだけのことが、必要な人に必要なものがいかず、風評やその場を取り繕うための犠牲者を出しているのであり、その現象を作り出す本人たちは、他者に責任をなすりつけて平然としていられるのです。

間接的な殺人を私たちは行ってきたのであり、行いつつあるのです。

そこに「理不尽」と「不条理」がある、カミュの『ペスト』は、そこまで射程を伸ばしています。

 

まあ、とはいえ、今、この社会状況を見て、私の言葉はすべて手遅れのように思われるのですが。

東日本大震災からまもなく9年、多少なりとも日本人が経験に学ぶ時間はあったのではないかと思います。