せっかくの休日なので、(せっかくの休日なのに?)新国立劇場で上演中の新作オペラ《紫苑物語》を観てきました。

原作は石川淳、台本は佐々木幹郎、作曲は西村朗です。

 

石川淳、その名を知ったのは多分、武満徹と小澤征爾が対談した『音楽』という本だったと思います。

そこでは彼の短編小説『鷹』をオペラにしたいと言っていたような。

その数年後、私は初めて手に取った石川淳の『狂風記』にたまげて、

そのまま石川淳の圧倒的なレトリックの渦に呑まれ、読み漁り、いや、読み狂いました。

 

オペラに関わるようになって、私がオペラに一番向いていると思っていた作品の一つが『紫苑物語』です。

それが本当にオペラ化されたのですから、観ないわけにはいかない。

そして、観た結果をこれから書こうと思います。

 

先に断っておくと、私は原作の世界を崩したことに対して文句を言うファナティックな原作主義者ではなく、

その舞台に適ったアダプテーションならどれだけ変えても構わないと思います。

 

しかし、今日見たオペラ《紫苑物語》は、物語として中途半端な台本でした。

私は原作を再三読んでいますし、石川淳のほとんどの小説を読んでいます。

研究者の片割れとして、また台本作家の片割れとして、石川淳の文学的主題にもある程度近寄っていると思います。

 

はっきり申し上げて、今日のオペラは、原作を読んでいないと、登場人物がなんなのか、よく分からない。

そして原作を読んでいても、役割が違うのでよく分からない。

なぜかというと、劇作云々以前に、当たり前のことをしていないからです。

 

それは、登場人物の名前を印象に残るように出せていない、ということです。

父親さえ、息子のことを「守(かみ)」と言って、名前の「宗頼」と言わない。

「藤内」も名前は後の方になってやっと出てきたのではないかしらん。

しかも、陰陽師になっていて、なんで父親と結託しているのか、分からない。

人物の関係もほとんど明示されません。

まず名乗ることは大切で、その身分や役柄を説明する言葉がないと観客は「これは誰だろう」、

という余計な頭を使わないといけません。

 

その割にいらない設定や説明が多すぎる。

それはオペラや演劇といった舞台言語は、紙の上の言語と異なり、

「身体性」を要求するということが理解されていないからです。

 

演出や音楽が、言葉の多くを代弁してくれます。

「欲望」などと言わずとも、音楽で欲望は表現できますし、それを理解できないほど客も馬鹿じゃない。

 

 

 

次に劇作的にも問題が山積みでした。

最初が「うつろ姫」との婚礼で始まるのですが、

物語の設定を語るべき序盤で、この婚礼に15分を費やす意味はなんだったのか、よく分からない。

この姫が国の実権を握っているのか、それともただの男狂いなのか、

後になっても回収されないままでした。

(いや、制作者側的には回収したつもりなのかもしれませんが。)

 

うつろ姫に多くの時間を割いた割に、狐の化身、千草の時間が短く、分量的にバランスが悪い。

こうした時間配分も、オペラでは結構大事なことです。

つまり、「うつろ姫」VS「千草」という対立構図があるはずですが、それが時間的に対立となっていない。

制作者としては、そういう二項対立はこのオペラでは問題ではない、というかもしれません。

しかし、二項対立のないオペラはまず成功しません。

 

ここには、女のバトルがあるべきで、

「妖怪まがいの人間の女」と「人間まがいの妖怪の女」という対句的な対立がこの二人には成り立ちます。

これを使わない手はないのです。

だって、その男を滅ぼしにきた狐の妖女が、かえって男に愛を注ぐことになるなんて、最高にイケてる設定でしょ!

その対立は、第2幕の四重唱はそれなりに活きてはいましたが、

それまでにそういう「フリ」を見せていないから今ひとつ対立が見えない。

 

この台本の最も大きな欠点は、原作に散りばめられた二項対立をほとんど使えていないことにあります。

まず、大きな構造として、原作の「宗頼VS平太」という対立があります。

弓の技術を手に入れて無敵となったかに思えた宗頼は、里と国をしきる山際に住む仏師(?)の平太に出会い、

そこに自分の分身を見つけます。

「生きたものを殺す」弓の道に対する、「木石を生かす」仏師の道、その仏を魔の手を借りて射抜く、

それは原作では「ただひたと射る」とあるのみです。

私としてはこの二項対立をどうオペラ化するのか、という楽しみをもって臨んだのですが、

うやむやになっていました。

 

第1幕に平太を出さなかったのが失敗の要因です。

第1幕で平太を「ライバル」として出しておけば、観客はそのライバルとの戦いを待つことができます。

そうすると、台本上の片付けられない物語の線は、けっこうどうでもよくて、

ライバルとの決戦にお客さんの目は向かって行くのです。

それを作らないために、いったいこの宗頼は何をそううろうろしているのか分からない。

 

宗頼と平太という、この大きな二項対立は、ある種、形而上的な一致を持ちます。

それは、ポイエーシスの先にある虚無です。

弓で射ること、歌を詠むこと、仏を彫ること、これらはいずれも技術によって何かをする、という営みです。

その究極の目的は、「何もない」と言わざるを得ないところにあります。

そして、仏を射抜いた宗頼は、岩場もろとも崩れて落ちる、二つの無目的がぶつかったところに、

巨大な虚無の穴が開く。

逆に言えば、その虚無の穴を開けるために宗頼は弓を射てきたのであり、

その虚無の穴を開けさせるために平太は仏を彫ってきたのではないか、という転倒した論理にまで射程を伸ばせるのが石川淳の文学です。

 

このオペラにはそれがない。

「藤内」による形而下的な国盗合戦がその中心的な原動力となっているがために、

非常にオペラの構造が小さくなっています。

だから、最後がもう何が何だか分からず、無理やりクライマックスに持ち込んだ、という感じになってしまっています。

それは、なんだか分からないけどすごかった、という感想はもらえるかもしれませんが、

エンターテインメントとして不成功です。

 

 

『紫苑物語』は、本来、石川淳の『八幡縁起』や『修羅』と同じく、神話的な構造をもつ作品です。

はっきりいって、『紫苑物語』は映画やアニメにしたら、ちょっとチープになりそうな作品です。

だからこそ、それはオペラでこそできたはずのものでした。

 

オペラは情痴のもつれであるわけではなく、その情痴の果てに巨大な形而上的カタルシスを作り出せる芸術です。

古臭いエンターテインメントとしての二項対立を駆使したその先に、「作り物」としての巨大な虚無の花が咲く、

そういうオペラであったらよかったのに、と思います。

 

ただ、台本作家の佐々木幹郎氏の労をねぎらい、一言添えるとすれば、

物語に関わらない部分、とくに合唱の詩は大変に美しいものでした。

 

「とうとうたらり」、という『翁』からの引用、

また狐の「くわい」という『釣狐』で用いられる鳴き声、そういうところに言葉への執着を感じ、

「芸能」への近接を垣間見させました。

 

 

まあ、厳しいことを書きましたが、

有り体に言ってしまえば、私が台本を書きたかった、ということです(爆)

だって、こんなに面白い原作があってですよ、こんなに眠くなるなんて!!!!

 

というわけで最初だけ作ってみました。もちろん、推敲の余地はありますが、まあ誰が作曲するわけでもないので、手遊びに。

https://ameblo.jp/tarambouf/entry-12442314725.html