食品「誤表示」が口火となって、
「食品偽装」の火の粉があちらこちらにふりかかって半鐘が鳴り止みません。
「車海老」ではなく「ブラックタイガー」で、
「芝海老」ではなく「パナメイ海老」だったということが始まりでした。
しかし、これは私のみるところ「偽装」ではありません。
むろん「誤表示」でもありません。
「見立て」です。
不当な利益を得ている、ということでは偽装なのですが、
こうした背景にあるのは、日本人が「産地名」を食べているという事実です。
「活芝海老のチリソース 2800円」
「マレーシア産パナメイエビ(冷凍)のチリソース 980円」
もし、同じ料理で同じ皿を前にして、こう言われたらどちらを美味しいと思うか。
絶対に前者です。
これは「詐欺」なのでしょうか。
実のところ、欺いているのは自分自身というところがあります。
その言葉を見るだけで、実際に美味しさは変わるのです。
しかも、値段も前者がもし2800円ではなく、980円だったら、
「安くてお得」などとは思わないのです。
高いことが大事なのです。
「見立て」の大事なところは、その物がもつ価値を別の名前によって補うことです。
たとえば、寿司屋に「築地」とか「江戸前」とか書いてありますが、
本当に東京湾でとれた魚を食べさせる寿司屋などごくわずかです。
食べ物だけではありません、桜だって、私たちに一番馴染み深くなっているのは、
「ソメイヨシノ」ですが、これも桜の名所の「吉野」を借りてきているのです。
まるで違う花に、「吉野」を見立てているのです。
戸越銀座をごらんなさい、どこが銀座です。
日本中に「なになに銀座」というところがあります。
ヴェルサイユ大塚などというマンションがあっても問題ではない。
渋谷のラブホテルの名前を見れば、カリフォルニアとヴェネツィアが隣り合っていても一向に不思議はない。
全部「見立て」です。
食品の場合には、産地だけに限らず、それが名物の地名の場合があるからややこしい。
さきほどの「江戸前」もそうです。
富士宮やきそば、讃岐うどん、それらがどこで作られようと、
その名前を冠しており、元のものに近ければだいたいいいのです。
ナポリタンやトルコライスやカリフォルニアロールのように、
もはや現地に行っても存在しないものまであります。
ウィーンの寿司屋やイタリアのスーパーの寿司を見ると、
「Edo」とか「Kyoto」とかありますが、
これだって同じようなものです。
そういえば、一度「ミラノ風ナポリタン」というメニューを見ましたが、
ここまでくるともはや一種のユートピア状態、独創的です。
日本のビールだってドイツ人からみれば多くがビールではありませんし、
ラーメンは中国にはありません。
でもビールはドイツをイメージさせ、ラーメンは中華料理に入ります。
そのイメージを飲み、イメージを食べているのです。
ケーキが自家製でなかった、というのもありましたが、
自家製の方が美味しい保証がどこにありますか。
手ごねハンバーグと書いてあって機械で作っていたところで、
美味しければいいのです。
ことほどさように、私たちは地名や由来を愛する。
正確に言えば、地名から浮ぶイメージを愛するのです。
食べ物も同様です。
名称が、内容よりも大事なのです。
名前を買っているのです。
あるいは経歴、履歴、由来、そういったものの方を、内容よりも大事にします。
それはよきにつけ悪しきにつけ日本の伝統です。
そうやって生きてきた私たちが、食べ物だけで味を区別するなどということはまずできません。
大抵の人は、高級な食材を食べているのだという充実感を味わうためにお金を払っているのです。
その土地のイメージを食べるために金を払い、
そのレストランで食べた、そのホテルで食べたという身分を買うのです。
だから、美味しかったかまずかったかが、怒りの原因ではありません。
それを食べた自分の身分、履歴に傷がついたことに怒っているのです。
「リッ○カールトンで食事した」というのは、食べ物の話をしているのではなく、
「自分はリッ○カールトンで支払う能力のある社会的身分を持っているのだ」ということを語りたいのです。
このとき、この有名なホテルが、また名門の旅館が、老舗の料亭がという、
「名」と「史」が問題であって、これが近所の普通の蕎麦屋とかだったら何の問題にもされない。
なぜなら、そういったホテルや料亭で食べる行為は、
産地と同様に、食べ物ではなく「名門」を食べているためです。
それは記号のやりとりです。
この記号の交換は、食べ物に留まりません。
「偽装」を生んだ背景には、その名前を欲しがる人間とくに日本人の心理があります。
私としては高くてもまずいものはごめんですが、そういうのはどちらかというと少数です。
美味しいか美味しそうか、だけで判断するのは非常に難しいことです。
だからといって食品の産地を変えたりすることは違法行為でしょう。
しかし、私たちは多くの場合、何かのイメージを食べているのであって、
イメージを持たない、ものそのものを食べようとしたら、
今の食べ物屋の大抵では食事などできないでしょうし、
コンビニで何かを買うことなどできますまい。
それにしたって、芝海老かパナメイ海老かで怒る人が、
コーヒーのミルクにあの小さい化学薬品を入れて何とも思わず、
(あれ「コーヒーフレッシュ」と言うんですよ、ちっとも新鮮じゃないでしょう)
市販のマヨネーズをマヨネーズと思えることが、
私には不思議でならないのです。
日本は記号の国なのだとあらためて思う次第です。
「食品偽装」の火の粉があちらこちらにふりかかって半鐘が鳴り止みません。
「車海老」ではなく「ブラックタイガー」で、
「芝海老」ではなく「パナメイ海老」だったということが始まりでした。
しかし、これは私のみるところ「偽装」ではありません。
むろん「誤表示」でもありません。
「見立て」です。
不当な利益を得ている、ということでは偽装なのですが、
こうした背景にあるのは、日本人が「産地名」を食べているという事実です。
「活芝海老のチリソース 2800円」
「マレーシア産パナメイエビ(冷凍)のチリソース 980円」
もし、同じ料理で同じ皿を前にして、こう言われたらどちらを美味しいと思うか。
絶対に前者です。
これは「詐欺」なのでしょうか。
実のところ、欺いているのは自分自身というところがあります。
その言葉を見るだけで、実際に美味しさは変わるのです。
しかも、値段も前者がもし2800円ではなく、980円だったら、
「安くてお得」などとは思わないのです。
高いことが大事なのです。
「見立て」の大事なところは、その物がもつ価値を別の名前によって補うことです。
たとえば、寿司屋に「築地」とか「江戸前」とか書いてありますが、
本当に東京湾でとれた魚を食べさせる寿司屋などごくわずかです。
食べ物だけではありません、桜だって、私たちに一番馴染み深くなっているのは、
「ソメイヨシノ」ですが、これも桜の名所の「吉野」を借りてきているのです。
まるで違う花に、「吉野」を見立てているのです。
戸越銀座をごらんなさい、どこが銀座です。
日本中に「なになに銀座」というところがあります。
ヴェルサイユ大塚などというマンションがあっても問題ではない。
渋谷のラブホテルの名前を見れば、カリフォルニアとヴェネツィアが隣り合っていても一向に不思議はない。
全部「見立て」です。
食品の場合には、産地だけに限らず、それが名物の地名の場合があるからややこしい。
さきほどの「江戸前」もそうです。
富士宮やきそば、讃岐うどん、それらがどこで作られようと、
その名前を冠しており、元のものに近ければだいたいいいのです。
ナポリタンやトルコライスやカリフォルニアロールのように、
もはや現地に行っても存在しないものまであります。
ウィーンの寿司屋やイタリアのスーパーの寿司を見ると、
「Edo」とか「Kyoto」とかありますが、
これだって同じようなものです。
そういえば、一度「ミラノ風ナポリタン」というメニューを見ましたが、
ここまでくるともはや一種のユートピア状態、独創的です。
日本のビールだってドイツ人からみれば多くがビールではありませんし、
ラーメンは中国にはありません。
でもビールはドイツをイメージさせ、ラーメンは中華料理に入ります。
そのイメージを飲み、イメージを食べているのです。
ケーキが自家製でなかった、というのもありましたが、
自家製の方が美味しい保証がどこにありますか。
手ごねハンバーグと書いてあって機械で作っていたところで、
美味しければいいのです。
ことほどさように、私たちは地名や由来を愛する。
正確に言えば、地名から浮ぶイメージを愛するのです。
食べ物も同様です。
名称が、内容よりも大事なのです。
名前を買っているのです。
あるいは経歴、履歴、由来、そういったものの方を、内容よりも大事にします。
それはよきにつけ悪しきにつけ日本の伝統です。
そうやって生きてきた私たちが、食べ物だけで味を区別するなどということはまずできません。
大抵の人は、高級な食材を食べているのだという充実感を味わうためにお金を払っているのです。
その土地のイメージを食べるために金を払い、
そのレストランで食べた、そのホテルで食べたという身分を買うのです。
だから、美味しかったかまずかったかが、怒りの原因ではありません。
それを食べた自分の身分、履歴に傷がついたことに怒っているのです。
「リッ○カールトンで食事した」というのは、食べ物の話をしているのではなく、
「自分はリッ○カールトンで支払う能力のある社会的身分を持っているのだ」ということを語りたいのです。
このとき、この有名なホテルが、また名門の旅館が、老舗の料亭がという、
「名」と「史」が問題であって、これが近所の普通の蕎麦屋とかだったら何の問題にもされない。
なぜなら、そういったホテルや料亭で食べる行為は、
産地と同様に、食べ物ではなく「名門」を食べているためです。
それは記号のやりとりです。
この記号の交換は、食べ物に留まりません。
「偽装」を生んだ背景には、その名前を欲しがる人間とくに日本人の心理があります。
私としては高くてもまずいものはごめんですが、そういうのはどちらかというと少数です。
美味しいか美味しそうか、だけで判断するのは非常に難しいことです。
だからといって食品の産地を変えたりすることは違法行為でしょう。
しかし、私たちは多くの場合、何かのイメージを食べているのであって、
イメージを持たない、ものそのものを食べようとしたら、
今の食べ物屋の大抵では食事などできないでしょうし、
コンビニで何かを買うことなどできますまい。
それにしたって、芝海老かパナメイ海老かで怒る人が、
コーヒーのミルクにあの小さい化学薬品を入れて何とも思わず、
(あれ「コーヒーフレッシュ」と言うんですよ、ちっとも新鮮じゃないでしょう)
市販のマヨネーズをマヨネーズと思えることが、
私には不思議でならないのです。
日本は記号の国なのだとあらためて思う次第です。