澪標への想い 暮らしの古典47話 | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今週の「暮らしの古典」は47話「澪標への想い」です。
先日2023年10月1日、大阪府立市岡高校20期の同窓会が開かれ、
最後に校歌を皆で高らかに歌いました。その一節に
「流れて止まぬ澱江の 浪路の末の澪標 努力の潮我が領と」とあり、
「澪標(みおつくし)」が歌い込まれています。

「澪標(みおつくし)」は、大阪市の市章でもあります。
3年前の秋、大阪市の存続が危ぶまれた時、ボクはブログに
《大阪市章「澪標」のメッセージ》を11回連載しました。
今回、先輩が「みおつくし」に託した想いを考えました。
写真図1 甚兵衛渡船場(大正区泉尾側)
    大阪市建設局西部方面管理事務所により運航
    渡船「きよかぜ」の右舷に市章「澪標」:撮影:2020年10月3日


その時、取り上げなかった柳田語彙の「澪標」をも
今回、俎上に載せました。
*大阪市HP「市名 市章 市歌 市の花 市政」2014年2月27日
閲覧日:2023年10月4日の「市章」の記事は以下のとおりです。
https://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000010271.html
◆みおつくし(澪標)というのは、古歌にもよまれているように、
 昔、難波江の浅瀬に立てられていた水路の標識です。(中略)
 大阪の繁栄は昔から水運と出船入船に負うところが多く、
 人々に親しまれ、港にもゆかりの深いみおつくしが、
 明治27年4月、大阪市の市章となりました。

写真図2 明治34(1901)年頃天保山に立つ澪標
    『澪標』大阪府立市岡中学校創立30周年記念誌
     1931年10月大阪府立市岡高校同窓会室所蔵


市章「澪標」は「難波江の浅瀬に立てられていた水路の標識」とあります。
いっぽう、柳田國男は、「みをつくし」を
「みを」と「つくし」の複合語として考えていました。
1909年*「島々の物語」では
不知火湾の「澪(みを)」を「溝川のやうな狭い澪」と記述しています。
  *「島々の物語」:『定本柳田國男集』第1巻、1963年、筑摩書房、
         初出1909年5月『太陽』15巻6号
「つくし」は1912年*「地名雑考」に、
邑楽の境の「シメツクシ(注連標)」、細く高い二坐の岩山の「男ツクシ」「女ツクシ」、
二小峯の「大ツクシ」、「小ツクシ」を挙げて
「・・・・ツクシはもと標木の義であつたものが、
転じて広く境の徴を意味するに至つたらしい」と記述しています。
 *「地名雑考」:『定本柳田國男集』第20巻、1962年、筑摩書房、
        初出1912年8月『歴史地理』20巻2号
柳田の「澪標」語源説や如何?万葉集に溯ります。

先ず『広辞苑 第七版』 (C)2018 株式会社岩波書店の
「澪標」を繰りました。
「「水脈(みお)の串」の意」とあり、
柳田のごとき「みを」と「つくし」の複合語ではありません。
「みを」と「くし」の間の助辞「つ」で繫がった語です。
*新潮日本古典集成の『万葉集』巻第13ー3229を挙げます。
 *新潮日本古典集成:『萬葉集四』新潮日本古典集成(第55回)1982年
〽斎串立て 御瓶据ゑ奉る 祝部が うずの玉かげ 見ればともしも

「斎串」に注目します。
ルビは「いぐし」、口語訳では「玉串」。
頭注は「「串」は木の枝や竹などで、
神を招ぎ下す(ルビ:おぎおろす)もの」とあります。
「みをつくし」の「くし」は水脈に挿す木に間違いありません。
「水脈」について同書巻第14-3429を挙げます。
〽遠江 引佐細江の 水脈つくし 我を頼めて あさましものを
「水脈つくし」の頭注は、以下のとおりです。
◆ここは、深くて航行安全区域であることを示す標識ミヲツクシを、
 深い心があり、ついて来ても大丈夫だと思わせる
 次の句の比喩に用いたもの。

澪標の立つ場所が、浅くては、
女性の愛情が浅はかで、薄情では歌になりません。
挙げ句のはてにがっかりさせられているのですから、
「いっそ、愛情深げに思わせてくれなかったらよかったのに」でしょ。
以下《加筆 大阪市章「澪標」のメッセージ(2):2020-10-24 17:09:09》を
引用します。
  ↓ここにアクセス
 https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12633607484.html
◆澪標の立つ場所は、浅瀬にあって、
 水脈すじ、深くて航行安全水域なのです。
 ところが、澪標が「身を尽くし」の掛詞でありますので、
 「安全」であろうはずはありません。
 平安時代の勅撰集である後撰集の元良親王の歌は、
 百人一首にも採られて有名です。
 *『歌枕歌ことば辞典』の「みをつくし[澪標]」を引きます。
  *『歌枕歌ことば辞典』:片桐洋一1983年、角川書店
   〽わびぬれば今はた同じ難波なる 身をつくしてもあはむとぞ思ふ
 この「身をつくしても」を脚注では、「身をほろぼしても」と訳しています。
 「身をつくしても」の恋はアバンチュールです。・・・・

貴紳の恋歌が市章になるとは如何?
*牧英正「大阪市章「澪標」の制定」の理由書の一節を挙げます。
 *牧英正、1992年3月「大阪市章「澪標」の制定」
  『大阪市公文書館研究紀要』第4号
◆「理由書1894年」を続けます。(中略)
 其外楳花、芦荻、波状ノ類、是惟タ一時ノコトニシテ、
 我大阪ノ商業府タルニ益スル所ナケレハ以テ我市ヲ表スルニ足ラス、
 その他、梅の花、芦や荻、波状の類は
 一時のもので儚く消えゆくものとして
 大阪市の表徴として相応しくないとします。
 そこで「澪標」が挙げられます。・・・・

その「澪標」においても、
前述のとおり「身をほろぼしても」とは、色恋沙汰です。
ここで目を替えて「大阪市章「澪標」の制定」の「理由書1894年」を
前掲の現行大阪市HP「市章」と照らしながら再考します。
◆澪標ハ古来特ニ我大阪湾頭ニ立テ、航路ノ深浅ヲ示教シ、
 以テ船舶ヲ安全ナラシメ、終ニ我市ノ繁栄ヲ援テ、
 今日ニ及セルモノ其因アルヤ大ナリ、・・・・

澪標の「立つ」場所に注目します。
「理由書1894年」の「我大阪湾頭」は
現行の大阪市HP「難波江の浅瀬」が対応します。
「航路ノ深浅ヲ示教シ、以テ船舶ヲ安全ナラシメ」は、
「水路の標識」に対応します。
「深浅ヲ示教シ」の「示教」が抜け落ち、
それに伴って「船舶ヲ安全ナラシメ」も
ひっくるめて「水路の標識」に帰しています。
「澪標」は、市章決定の時点にあっては単なる水路標識ではなく、
正しい道を指し示す、規範たり得たのでした。

澪標は多くの校歌に規範として歌い継がれました。
「世紀の潮あたらしく/洗う英知の みおつくし」
  (大阪市立御幸森小学校:2021年閉校)
「示す津守のみおつくし/若人集いたゆみなく」
  (大阪市立梅南中学校)
「世紀の潮 あたらしく/洗う 英知の みおつくし」
  (大阪市立市岡商業高等学校:2014年閉校)
「みおつくし 愛とまことの 光かがやく」
  (大阪府立旭高等学校)
「流れて止まぬ澱江の 浪路の末の澪標
 努力の潮我が領と」(大阪府立市岡高等学校)
「澪標(みおつくし)世界の商都の 入船出船
 水先みちびく 経済実践 前途(みち)はるか」
  (大阪経済大学)

写真図3 写真 一柳安次郎「校歌に就て」を掲載する
   『澪標』創立30周年記念号目次
   青海波に「澪標」が見え隠れしています。


一方で「みをつくし」は、
「愛」をシンボライズする歌語でもありました。
大阪市HP「みおつくしの鐘」には、鐘の銘文が載っています。
https://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000023621.html
閲覧日:2023年10月9日
◆鳴りひびけ みおつくしの鐘よ/
 夜の街々に あまく やさしく/ ”子らよ帰れ”と
 子を思う母の心をひとつに/つくりあげた 愛のこの鐘

ところが、洒落た洋鐘では、澪標といった海中に立つ棒杭とは、
似ても似つかぬモノであります。
そこには、駄洒落、言葉遊びでは済まされない、
ともすれば恋歌に用いられた古典語「みをつくし」の、
戦後昭和の母親たちの念いがこめられています。
敗戦後の混乱した社会にあって、
母の心は、如何にして青少年を犯罪から守るかに注がれました。
午後10時にサイレンでも鳴らしてはとの案も浮上しましたが、
「空襲時の不快な印象があってよくない」として、
「美しい平和な鐘の音」に決まりました。
それが、ひょんなことで、「みおつくしの鐘」の名が浮上したようです。
*『建設の記録』の「実現への足どり」に次の記事があります。
 *『建設の記録』:『みおつくしの鐘 建設の記録』1956年、
          大阪市婦人団体協議会
◆「みおつくしの鐘」の名称は、
 それまで「愛の鐘」と仮称していたものだが、
 たまたまこの記事を取材するため古家(孝人)毎日新聞記者が
 (大阪市婦人団体協議会)須藤(隆子)会長を訪問した際、
 その談話の中から生れたもので、
 別項のように「みおつくし」の名こそ、
 大阪を象徴し、青少年を導く母親たちの、
 身を尽くしての運動にふさわしいものとして、
 *(昭和30(1955)年)1月の理事会で正式名称として定められた。

仮称「愛の鐘」が「みおつくしの鐘」となったのは、
新聞記者と建設当事者であった女性代表者との
「談話の中から生れたもの」だったのです。
かくして、古典語「みをつくし」に基づく「愛」の鐘が
先人の想いを託して、
今夜も市役所屋上から大阪の街に鳴り響くのです。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登