晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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昨日2018年8月21日、妙壽寺住職から
案内ハガキをいただきました。
文面は、以下のとおりです。

 

郷土誌を見直す『浦江塾』のご案内
江戸時代初期から続く伝統神事が大阪海老江に残って
います。頭屋神事です。座衆が時代の変化で減っては
いますが、伝統は守られ宮座行事の本質は変わっては
いません。この行事の座衆を実際に務められ民俗学の
面からも研究されている先生にお話をお聞きします。
 日時 9月1日(土曜日)午後7時より9時迄
 場所 妙壽寺(福島区鷺洲2-15-10)駐車可
 テーマ 「海老江村の宮座・頭屋神事」
       福島区歴史研究会会長
       八坂神社・座衆  末廣 訂先生

 

以下、田野による書き込み。
本ブログ《摂陽落穂集「野里村一時上臈の事」》は
小休止します。
「野里村一時上臈の事」と同じく
神饌を神に供える神事が
都心に近い福島区海老江において伝承されています。
因みに海老江には、未だかつて生け贄伝説はありませいで、
昇竜伝説は、仄聞します。

発表者・末廣 訂氏*「海老江の「宮座(キョウ)神事」」の
「トウヤ」の項に次の記述があります。
   *「海老江の「宮座(キョウ)神事」:『大阪春秋128号』
   新風書房 2007年10月号
               ↓ここをクリック
 http://1st.geocities.jp/frekishiken/m-frekiken-ron-suehiro1.htm

 

◆毎年十二月十五日の夕方、
 宮座神事がおこなわれる頭屋宅に座衆がつどい、
 地元の八坂神社の祭神に酒食を供える神事が営まれます。
 この集まりが宮座で、
 私たちはキョウ(饗)神事ともいっています。
 江戸中期「天明」の記録によると、
 当時の宮座衆は三十八軒で、戦前までは
 三十軒前後の座衆で営まれていました。

 

「頭屋」と書いて「トウヤ」と読みます。
「頭家」とか「当家」あるいは、
白羽の矢が当たった家「当矢」となれば、
これまた伝説めいてきます。

末廣 訂氏による『大阪春秋』記事を追います。

 

◆十五日の当日、頭屋は夜八時頃、
 女人禁制の神事に則り、家から婦女を去らせ、
 神饌の調理を始めます。
 座衆は白衣、白袴に着替え、
 床の間に設けた祭壇の前でお払いを受けた後、
 白蒸し用のカマドに火を入れます。

 

ボクも見学したことがありますが、
座衆の男性たちは、口覆いをして、沈黙の中で
神饌調製が進行します。
この宮座神事は、
昭和47(1972)年に
大阪府の文化財(無形文化財の資料)に指定され、
大阪歴史博物館の映像ソフトに
「海老江八坂神社の御饗神事」があります。

 

昨日、末廣邸でそのDVDを見ました。
20年前に作成された映像です。
末廣氏の解説に
当時、神饌調達に駆けずる座衆が立ち寄る店が
「この店も無くなりました、あの店も・・・・」とのこと。
大きく変貌を遂げる海老江の断面を
見る思いで聴きました。

 

浦江塾当日は、
導入に映像ソフトをご覧に入れ
予備知識を共有した上で、
末廣氏作成のPowerPoint版による
解説をしていただくことにします。

 

かつての水郷「海老江村」が
大きく変貌しつつあります。
宮座の神事も
足もとから変化が迫られています。
如何に「伝統を創造するか」といった観点は
当事者に対して不謹慎を覚えつつボクの関心事です。
ただ言葉を控えて、見守るばかりです。

 

いつもの浦江塾です。
興味と関心のある方の参加をお待ちします。
今回は、民俗学、社会学研究者を歓迎します。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 


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近世大阪の狂言作家でもあった浜松歌国による
随筆集*『摂陽落穂集』は、
 文化5(1808)年に刊行されました。
  *『摂陽落穂集』:『新燕石十種』第八巻、
  1982年、中央公論社
これの巻二に
「野里村一時上臈の事」(以下「テキスト」)が
載せられています。

 

前回、誰が桶を神前に捧げるのかについて、
「夏越桶を奴僕持」の記述への問題を
投げかけました。
テキストの一連の記述は次のとおりです。
◆扨、其日の行粧といへるは、
 先手大松明一本、
 次に夏越桶を奴僕持
 夏越桶の図、巳上五ツ、
 いづれも四ツ手にして飯櫃なりの恰好也、
 祓花、赤白をまじへて、おけの廻りに付る、(下図)

 

「夏越桶」については、*『年中行事大成』に詳しく記されています。
  *『年中行事大成』:
   速見春暁斎、文化3(1806)年刻成
   『諸国図会年中行事大成』:日本庶民生活史料集成』第22巻、祭礼、
   三一書房、1979年発行

◇神供四品。
 一に御供飯土器盛、
 二に鯉魚の三年物を頭を切て紙につゝみ首尾ともに土器に盛、
 三に鮒魚の七八寸許なるを土器にもり、
 四に鯰魚を二つに切、血の付たる儘土器に盛、
 其外鏡餅串柿等あり。

 

神供四品とありますのは、
鯉、鮒、鯰の生魚と鏡餅串柿等で
今日の一夜官女祭においても踏襲されています。
神供の数は、
暁鐘成、安政2(1855)年頃制作『摂津名所図会大成』では
「鯉なまずを二つにきり
 平なる盤に盛其余餅飯種々の供御をとゝのへ
 平盤七に盛て」とあり、
少女の数の七と一致します。

 

テキストを続けます。
◆右夏越桶五、《半角割注:黒きかんばん着たる下男持行》
 ことごとく鯉なまず二ツ切にして入る、
 其跡より少女六人、
 わけ髪、白絹のかづきにて行、
 《半角割注:是を上臈といふ、
 摂津国名所図絵《ママ》に、一時官女と書るは誤りか、
 一時女郎と心得たる人もなをなを誤り也》

 

神供を入れた夏越桶を
持ち行くのは紋付きを着た下男であって、
少女は、
その後を行きます。
ただ、静々と付き従うかのようです。
その少女の衣裳は、
「白絹のかづき」です。
被り物で裲襠(うちかけ)です。
身分の高い女性「上臈」を表現しています。

 

『年中行事大成』は、如何でしょう?
少女の行為に着目します。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 


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近世大阪の狂言作家でもあった浜松歌国による
随筆集*『摂陽落穂集』は、
 文化5(1808)年に刊行されました。
  *『摂陽落穂集』:『新燕石十種』第八巻、
  1982年、中央公論社
これの巻二に
「野里村一時上臈の事」(以下「テキスト」)が
載せられています。

 

問題は、選ばれる少女の数です。
◆・・・・前年十二月廿日、寄合定と称して、
  村中よりつどひ、
  上臈に定る少女六人をゑらみ出し、

暁鐘成、安政2(1855)年頃制作
 *『摂津名所図会大成』巻十「野里一時上臈」では、
七人です。
  *『摂津名所図会大成』:『浪速叢書』第8,1928年
六人なのか?七人なのか?

 

ちなみに今日の一夜官女祭では、
七人です。
次のことを宮司さんから聴いてます。
以下の引用は、
拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院からします。

◇*同日午後3時10分~4時
 :神社にて神饌の神事を行なう。
 ①この神事では、
  川魚と共に官女が神様に近い所に供えられる。
 ②一番官女だけは単独に向かって右の社の前に一人座り、
  他の六人は二人ずついずれも神に向かい合う方向に座る。
 ③一番官女の草履だけは、宮司によってひそかに隠される。
 ④この神事は、住吉四神に捧げられるもので、
  川の神の祟りを防ぐために行うのである。
 *同日:2月20日

 

官女七人のうち、
一番官女の草履だけが隠されるのは、
逃れられないようにするといった
演出が行われています。
今日の一夜官女祭では
一番官女を川の神に
生け贄として献げるのです。

 

はたして、いつの時代から
生け贄献上の神事になったのでしょう。
テキストとする『摂陽落穂集』「野里村一時上臈の事」は
神事に選ばれる少女の数は六人であるのに、
著者・浜松歌国は、すでに「祭神にいけにへを備へる事」と
解釈していました。

『摂陽落穂集』当時の神事では、
少女六人の役割は何だったのでしょう。

 

テキストを続けます。

◆(少女六人をゑらみ出し、)
 翌年正月六日より、神役の人に別火して穢不浄を除き、
 扨、其日の行粧といへるは、
 先手大松明一本、次に*夏越桶を奴僕持/

 

「翌年正月六日より、
 神役の人に別火して穢不浄を除き」は、
文化3(1806)年刻成『諸国図会年中行事大成』に
対応する記述はなく、
降っての暁鐘成『摂津名所図会大成』では、
「翌年正月六日より
 神役頭屋の主人上臈の女子
 別火して穢不浄を除き」が対応します。
一連の件は、
神に奉仕するために
少女が潔斎する行為の記述に異論はありません。
『摂陽落穂集』、『摂津名所図会大成』のいずれの
記述にも生け贄献上を示唆する記述は
見られません。

 

それに続く
「夏越桶を奴僕持」は、問題です。
以下、次号に
『諸国図会年中行事大成』『摂津名所図会大成』と
対照します。
誰が桶を神前に捧げるのでしょうか?

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 


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和泉市はどんなとこ?
『大阪春秋』第171号「特集 和泉市」の魅どころを
ボクなりに紹介します。

 

写真図1 『大阪春秋』第171号「特集 和泉市」表紙

安倍晴明ゆかりの葛葉稲荷です。
まず市長の観光への気合いから始めましょう。
「辻 宏康 和泉市長 × 河田昌之 和泉市久保惣記念美術館長
 歴史・文化豊かなまち和泉 あなたのココロをトリコに!」です。
かつて泉州を代表する織物業「久保惣」のコレクションの
和泉市への寄贈によって出来たのが「和泉市久保惣記念美術館」です。
この対談では美術館を核に
「和泉・久保惣ミュージアム構想」を熱く語っています。

 

たしかに和泉市には
美術館・博物館などの文化施設が目白押しです。
和泉市役所市長公室いずみアピール課による
「いずみの魅力に恋をして こころれきし いずみの魅力」から
入るのも一興。
総説としての、森下徹「「読む」「観る」「訪ねる」 和泉の歴史と文化財」は、
よくできています。
「特集 和泉市」一冊のダイジェストです。

 

「読む」「観る」「訪ねる」から
ボクの興味を基準に、
各カテゴリー2点ずつをピックアップしました。
「読む」なら山下 聡一「「名所」の誕生 ─
 ガイドブックと史実─」です。
いかに名所図会の「名所」が特定の名家との関わりから
掲載されたのかといった、
生臭い話を多くの絵図を駆使して述べています。
森下徹「光明池はいつ造られた?
 ─光明皇后伝説ゆかりの池の歴史をさぐる─」では、
光明池が造られたのは「古代」ではなく
先の戦争中「現代」とのこと。
名前の由来は異類婚姻潭「光明皇后伝説」に基づくもので、
池構築に際して犠牲となった朝鮮人労働者の慰霊碑の記述もあります。

 

「観る」なら
深川 拓実「一皮むけた! 歴史館の常設展示
 モノで綴る和泉の歴史物語」をお薦め。
和泉市いずみの国歴史館は、池上曽根遺跡の展示はすごいらしい。
出土した土器から渡来人の痕跡が示され、
須恵器が当初の朝鮮半島の影響から
時代を追うごとに日本風に変わるのが体験できるとのこと。
あと一点は和泉市立人権文化センター資料室
「叩く太鼓は三里も響く、音に名高き信太山盆踊り」です。
踊りの様子を語った記録など
柳田国男の「浜の月夜」を思い起こさせます。
信太山盆踊りでも踊り・音頭の伝承者の減少などの

不安を抱えています。

 

「訪ねる」では、ここでも、やっぱり池上曽根遺跡がらみで、
千葉太朗「弥生の杜、輝く丘
 ─池上曽根遺跡と和泉黄金塚古墳─」です。
2001年に開園した史跡公園に復元された
「いずみの高殿」「やよいの大井戸」の偉観は

訪ねてみたくなります。 
上田裕人「史跡でつなぐ和泉の歴史」は、
信太山丘陵に点在する古墳を
JR北信太駅から、信太山駅までの「旅」です。
実際に墳丘に登り古墳を実感することができるとのこと。

 

『大阪春秋』和泉市特集の魅どころ紹介は、
駆け足に過ぎ、
見所をたくさん見落としました。

記念講演会があります。
写真図2 記念講演会チラシ

会場は和泉市久保惣記念美術館です。
報告者の一人は、今回、残念ながら
紹介できなかった長𡌛啓子氏です。
緻密な研究成果が聴けるでしょう。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

 

 


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 《大仁八阪神社沿革の鎌倉期記述:2015-06-09 16:47:53》の
読者の方から8月3日にメールをいただき、
添付された画像に、
堂島合羽島の情報を得ました。
そこで「出土品に見える堂島合羽島」を
記すことにしました。

 

堂島合羽島につきましては、
浜松歌国、暁鐘成によれば「河童島」の記述がある
堂島西端の地域です。

「河童」でなく「合羽」やということは、
再三、記しておりますが、
*国語辞典で「合羽」の語義を確認しました。
  *国語辞典:『日本国語大辞典』第3巻、
       2001年第2版第3巻第1刷、小学館

 

 カッパ【合羽】[名](ポルトガルcapa)(「合羽」はあて字))
 1キリシタンの僧侶の法服など、
 長くゆったりとしたガウン状の上衣。(中略)
 5和船で甲板のこと。
 近世の代表的荷船である弁才船では、
 特に船首部二の間の上部に設けた水密(すいみつ)の甲板をいう。
 この下の船倉は主に綱・道具類を入れ、
 また、水主の居住区とする。(以下略)

 

カッパは「合羽」であって、
和船の「甲板」です。
合羽島の場所につきましては、
戯作者・一荷堂半水による
初代長谷川貞信「浪花百景之内/合羽嶋より東を望む」の
*画讃があります。
 *画讃:拙稿2008年10月「失われし水都の情景」
     『大阪春秋』第132号

 

◆合羽嶋ハ堂嶋のすへにして
 大川蜆川の合流のところなり(以下略)

 

いくら読んでも船大工の記述はありません。
*拙稿「芦分紀行」に『大阪編年史』第九巻に基づき、
「延享元(1744)年には、その地に家が建ち、
宝暦3(1753)年に新船町となる」と記しましたように
幕末から明治初頭の情景からは、
船大工町は消えています。
 *拙稿「芦分紀行」:『なにわ福島ものがたり』
  福島区歴史研究会2012年

 

今回、知り得た情報から以下の記述を
読み取りました。
◆船釘と建物基礎に転用された船材
 福島蔵屋敷B地点/徳川期(18世紀後半)
 /大阪文化財研究所保管
 堂島の西部で出土した、
 建物の基礎部分に使われていた板材。
 継ぎ合わせの特徴から、
 もとは船材だったと考えられる。
 釘は船用としては華奢だが、
 扁平でゆるく湾曲しており、
 船材の継ぎ合わせに使われるものである。
 出土した地点は
 西本願寺の船入(蔵屋敷のような施設)であるが、
 旧町名が「船大工町」であり、
 近辺で製造または解体された可能性がある。

 

堂島は大川蜆川の合流点に向けて
細く長く嘴のように先を延ばしています。
船釘と建物基礎に転用された船材が
出土した地点が「西本願寺の船入」とあります。
福島区福島3丁目です。

「合羽島」は、この旧町名「船大工町」と見て
ほぼまちがいないと考えます。

 

浜松歌国、暁鐘成による「河童島」記事が
如何に伝説めいた巷間の説であるかを
民間の語彙、画讃記事、出土品からも
立証されたかと思います。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

 

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