晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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「冨竹塚」という墓が、料亭「冨竹」の西隣の妙壽寺に
平成26(2014)年夏までありました。
その「冨竹塚」は、突如、墓仕舞いされました。
写真図 妙壽寺と東隣の冨竹跡に建ったファミール福島

平成19(2007)年、惜しまれながら暖簾を外した
料亭「冨竹」は、蓮料理の老舗として、
浦江では、了徳院「聖天さん」と並ぶ名所でありました。
以下、「冨竹塚」の顛末を端緒に、
料亭「冨竹」に秘められた事情を探ることにします。
*「冨竹塚」なる墓碑には次の刻字がありました。
   *「冨竹塚」なる墓碑:拙著『水都大阪の民俗誌』和泉書院、2007年
◆「濁江に花を咲かせし夢さめて/蓮の臺ぞともに嬉しき
  今までは桜の花と楽しみて/ひと夜の風に散るぞ悲しき
 「天保十年十二月廿三日生/明治四十一年四月十日亡/
   行年六十九歳 富/ 弘化二年正月十六日生/明治三十三年六月十一日亡/
   行年五十八歳竹/「明治三十六年六月十一日
  /勲八等 北村栄助建之」

料亭「冨竹」の創業者と伝わる富造「冨」は、
その妻「竹」と一蓮托生の身なのです。
双方の辞世の歌と思しき二首の歌を添えて葬られています。
「冨竹塚」の刻字によれば、
北村栄助が明治36(1903)年に建立したと読めます。

この「冨竹塚」を今回、改めて調査してみて幾つかの疑問が生じました。
墓仕舞いが行われた平成26(2014)年夏直後、
同年10月18日の本ブログの
《浦江の料亭「冨竹」周辺のこと(1):2014-10-18 10:02:21》の
冒頭は次のとおりです。
◆今回、必要が生じ、福島区鷺洲にありました
 料亭「冨竹」のことを調べることになりました。

先月、遷化された妙壽寺第八代住職・栖川隆道和尚を通じて
蓮料理「冨竹」五代目・北村真一氏から依頼された調査でした。
その際、北村家所蔵の古文書「寺改め一札」明和三丙戌(1766)年八月三日付が
添えられていました。
以下、2014年11月11日付の「冨竹記録」中の
北村真一氏「この辺りの事/大阪浦江近辺」を引用します。
冒頭には次の記述があります。
◆播磨国飾磨郡赤穂在住の下級武士(五十石取)と思われる
 北村本家の先祖、飯田六兵衛が明和三年頃(1766年)
 この浦江の地に移って来てから約250年が経つ。
 当時の転居には幕府(地方役人)の許可が必要であったようで、
 許可が下りると、当時の戸籍を管理していたお寺から
 転居先のお寺に転寺状を持参しなければならなかったようである。
 どのような事情でこの浦江に移って来たのか分からない。
 しかし、北村本家には転居願いの古文書が残っている。

北村真一氏「大阪浦江近辺」を読み進みますと、
料亭「冨竹」の環境について触れます。
◆大阪の北西部に位置する浦江の村は、
 もともと江戸時代から繁華街であった北新地の地続き的な場所にあり、
 出入橋、浄正橋、そして浦江と歓楽街の延長的な所であった。
 芝居小屋も多く、各地に小料理屋等が散在していたようである。
 街外れにあって自然が残されていたようで、
 かきつばた、あやめ、蓮の花など四季折々の野花が墨客を楽しませていた。
 
戦前の界隈の賑わいを「芝居小屋の聖天劇場が建てられたりして、
最盛期には一大歓楽街の様相を呈していた」とも記述しています。
それも昭和20年3月、浦江一帯は、
アメリカ軍の焼夷弾空襲により灰燼に帰してしまいます。
三代目・北村太一は料亭「富竹」の建物、什器備品全てが焼滅し
「苦汁の日々」を過ごします。
やがて料理屋としての「富竹」も体裁を整えだし、本格的に客間や厨房を増設し、
蓮の料理専門店として立ち上げます。
◆その名声は次第に定着し、各界の名士が訪れるようになっていった。
 生活の安定に伴って北村本家としてのお墓「富竹塚」を建て、
 代々の拠り所となし、お仏壇も輪島塗の立派なものを備え、
 次第に北村本家としての礎を固めていった。

この真一氏「大阪浦江近辺」には、創業者と伝わる富造夫婦の記事がない上、
二代目と目される北村栄助が明治36(1903)年に建立したとされる
「冨竹塚」も見えません。

この「大阪浦江近辺」掉尾近くには次の記述があります。
◆平成26*(2014)年7月、五代目の私、
 全ての北村本家の歴史と事情を知った私が
 北村本家のすべてを片付けてこの世を去るのが
 最期の義務だと考えるに至ったからである。

北村真一氏は既に鬼籍に入られています。
なぜ北村本家の歴史にお馴染みの冨さん、竹さん夫婦が
記述されていないのでしょうか?

大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

今回も市川秀之『近代天皇制と遙拝所』

(2022年5月20日、思文閣出版)の世界を紹介します。
写真図 市川秀之『近代天皇制と遙拝所』

            (2022年5月20日、思文閣出版)

前回、遙拝の対象にフォーカスすると予告しました。
今回は、私見による深読みを試みます。寛恕ください。

「遙拝」は、読んで字の如く、
『広辞苑 第七版』 (C)2018 株式会社岩波書店には、
「はるかに遠い所からおがむこと」とあります。
本書《第1章 近代の遙拝と遙拝所》に次の記述があります。
◆庶民の遙拝の対象となったのは、
 高山など直接参拝が困難な信仰対象が多かった。

以下、御嶽山の里宮や、富士山麓に点在する浅間神社を挙げ、
高山以外では、沖ノ島の宗像大社。
それに遠隔地の社寺への参拝の遙拝所としては、
伊勢信仰を代表例として挙げています。
これらの遙拝所の場所には、

聖地と仰がれる場所性が認められます。

ところが明治期に至って、遙拝の対象が人物となります。
それは天皇です。
再々、本ブログで「神武天皇祭」として登場してきた

神武天皇です。
遙拝の対象としての神格や如何?
《第1章 近代の遙拝と遙拝所》

「五 明治初期における遙拝儀礼と国民教化」に
次の記述があります。
◆維新後の社会的変動のなかで、
 近代天皇制の神話的始祖である神武天皇の祭祀を
 全国的におこなうことによって国民教化を図る必要が生じ、
 その一手段として神武天皇祭における参拝が
 国民に示されたと考えられるだろう。

神武天皇を「近代天皇制の神話的始祖」として捉えています。
神武天皇は、その当時「陵墓の所在すら明らかでなかった」存在です。
近代天皇制なる制度によって、神話が教学的に取り込まれ、
国民国家のアイデンティティ形成のために
創出されたのが「神武天皇」です。
そういった観念上の天皇に対し、

実在する人間として挙げられるのが明治天皇であります。
著者は実地調査時に、すでにそれを知っていたようです。
《第10章 滋賀県東南部における近代遙拝所》
「三 滋賀県東南部の遙拝所碑」に次の記述があります。
◆1910年代には神武天皇遙拝所に加えて、
明治天皇関係のものが4基、近隣の神社のものが2基みられる。
 これも、いうまでもなく明治天皇の死去・大喪および
 神社合祀などの影響を受けて建立されたものである。

1910年代は、神話的始祖たる神武天皇と
大喪により新たに祀り込められた実在した明治天皇が
遙拝所において並立した時代といえます。
実際は民衆にとっての神武天皇は

強烈な明治天皇のイメージのもとに
想起されたにすぎないものであっても
神武天皇・明治天皇といった個別化した霊位が存在しました。
とはいえ、それらの遙拝所碑は、記念碑としての性格を有するものでした。
《第11章 奈良県下における近代遙拝所》「まとめ」を引用します。
◆遙拝所、遙拝所碑は、そこで執行される儀礼を通じて
 中央と地方という求心的な関係の構築を求めるものであるが、
 奈良県下の地域社会で見られたのは、
 むしろ個人や団体の記念碑としての性格であった。
 しかしながら、それはあくまでも神武天皇や明治天皇といった
 近代天皇制のシンボルを流用する形での記念碑化であった。

この天皇の名を刻む記念碑化した遙拝所碑が、
やがて脱人物化します。

《第10章 滋賀県東南部における近代遙拝所》の
「表4 遙拝所碑の累計と年代」を読みますと、
1930年代から終戦の1945年までの累計28基のうち
神武天皇等6基に対し明治天皇等は0基です。
目に付きますのは、8基ある昭和15(1940)年の

「紀元二千六百年」の文字です。

刻字に「宮城」は4基しか見えませんが、

《第13章 宮城遙拝》
「二 宮城遙拝の定着と制度化」に次の記述があります。
◆(上略)学校における宮城遙拝が制度化されていったのは、
 昭和12年7月の日中戦争勃発にともなって

 政府が国論の統一のために
 打ち出した国民精神総動員運動以降のことである。

遙拝の対象は、場所性「聖地性」を取り戻して「宮城」となり、
やがて終戦により近代天皇制は終焉を迎えます。

本書が解き明かした遙拝所碑などは、
今日でも市街地の神社にも見られます。
歴史民俗としての遙拝儀礼を物語る
貴重な近代遺跡であることに気づかせられます。
『近代天皇制と遙拝所』は燻し銀のような渋い好著であります。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

今回も市川秀之『近代天皇制と遙拝所』

(2022年5月20日、思文閣出版)の世界を紹介します。
写真図 市川秀之『近代天皇制と遙拝所』

            (2022年5月20日、思文閣出版)

前回、本書『近代天皇制と遙拝所』の核となるのは、
《第10章 滋賀県東南部における近代遙拝所》
《第11章 奈良県下における近代遙拝所》といった
現地調査に基づく記述として、
前後に仮説の提出と検証を据えた
「渋くて、民俗研究の可能性を拡げる好著」を確認しました。

今回は、著者の研究履歴を踏まえて

「民俗研究の可能性」を探ることにします。

《あとがき》冒頭に次の記述があります。
◆私は専門分野として歴史民俗学を標榜としているが、
 これまで主として対象としてきた時代は近世であり(以下略)

このように自負する著者の片鱗を見せるのは、
13章から成る本書の半ばの《第6章 神宮教会と遙拝所》
「一 明治初期の伊勢神宮」の冒頭の記述です。
◆明治初期は伊勢神宮にとっても大きな変化の時代であった。(中略)
 伊勢信仰は庶民に広く普及していたが、
 それは天皇制と直接結びついたものではなく、
 むしろ農耕神である豊受大神を祀る外宮に多くの参拝者があった。
 また近世には数度のおかげ参り・おかげ踊りの流行があったが、
 これも民衆の間での伊勢信仰の広がりを示すものであろう。

近世の伊勢信仰は「天皇制と直接結びついたものではなく、むしろ
農耕神である豊受大神を祀る外宮に多くの参拝者があった」とのこと。
この記述に著者が「近代」を論じる際の優位性を感じ取ります。

《第1章 近代の遙拝と遙拝所》「五 明治初期における遙拝儀礼と国民教化」に
明治6年の祝祭日の制定を取り上げます。
◆このような明治6年の祝祭日の制定は、
 祝祭日を民俗的なものから天皇制に関連する行事へと変更させるものであった。
 このうち神武天皇祭*(4月3日)・神嘗祭*(9月17日)・
 春秋の皇霊祭*(春分の日・秋分の日)などにつては、
 国民に対しても遙拝の執行が布告された。
 
本文にある「民俗的なもの」とは、
人日(1月7日)・上巳(3月3日)・端午(5月5日)
・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)の五節を指します。
明治国家が祝祭日を民俗的なものから
天皇制に関連する行事へと変更したとあります。
さらに同章結びの節「七 遙拝・遙拝所に関する先行研究と本書の視点」に
近代以降の「民俗の生成や変容」について次のように言及しています。
◆また筆者は、民俗学、ことに民俗(民衆の生活文化)の意味合いを
 歴史的に考察する歴史民俗学の立場に立つ研究者であるが、
 歴史のなかで民俗の生成や変容に影響を与える要素として、
 近代以降は政治や行政の存在が
 それ以前とは比較にならない大きな存在であったことを想定している。

近代における祝祭日は、農事暦に依るものではなく、
民衆の生活文化としての年中行事にも、
政治や行政の存在が生成や変容に関与しているのでしょう。
以下、引用を続けます。
◆先に暦や祝祭日について触れたが、
 一週間という期間を含め明治6年に始まったこれらの時間の規定が、
 われわれの現在の生活に深く浸透し習俗化していることは、その一例であろう。
 そして行政や政治による規定の多くが近代天皇制に関連したものなのである。
 その意味において、遙拝・遙拝所は民俗と近代天皇制を知るための格好の好材料となる。

実は今回、引用の箇所は、
前回の提出された「全体を包括する仮説」の前提の記述です。
本書を理解するには、
著者の造詣が近世に亘るものであり、
近代天皇制についての視点には、近代以前のことを
見据えていることを確認したく思います。
明治6年の祝祭日に「神武天皇祭*(4月3日)」として
制定された経緯についての記述を《第1章 近代の遙拝と遙拝所》
「四 朝廷における遙拝儀礼の成立」より抜いておきます。
◆幕末の政治的動乱のなかで、それまで陵墓の所在すら明らかでなかった
 神武天皇の祭祀をおこなう必要性が高まり、
 陵墓の修補とともに神武天皇祭が創出され、
 それにともなって宮中での天皇の遙拝も始められたのである。
 この段階では、天皇は遙拝される対象ではなく
 遙拝をおこなう祭祀者であったことが重要であろう。

本書は歴史のダイナミズムを捉えた上で
遙拝なる儀礼を民俗の生成や変容の観点から考察を深め、
近代社会を俯瞰する著作です。
次回は、遙拝の対象にフォーカスします。



究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

著者の市川秀之氏は、
ボクがお地蔵さんを調査している時代からの友人で、
拙著『水都大阪の民俗誌』和泉書院、2007年の
書評をされた研究者です。

先日『近代天皇制と遙拝所』(2022年5月20日発行、思文閣出版)が
拙宅に贈られてきました。
写真図 『近代天皇制と遙拝所』

    (2022年5月20日発行、思文閣出版)

最初手にした時、今どき「遙拝所」を取り上げるなんぞと思いつつ、
読み進むにつれ、歴史民俗学研究を自負なさる著者だけに、
「渋くて、民俗研究の可能性を拡げる好著」と感じ始めました。
本書はA5版265頁全13章から成ります。
構成は以下のとおりです。

  はじめに/第1章 近代の遙拝と遙拝所 
 第2章 開港地の遙拝所/第3章 明治前期の東京府内の遙拝所 
 第4章 遙拝所と公園/第5章 開成山遙拝所 
 第6章 神宮教会と遙拝所/第7章 遙拝所の制度史 
 第8章 明治天皇の大喪と遙拝儀礼/第9章 遙拝をめぐる事件史
 第10章 滋賀県東南部における近代遙拝所
 第11章 奈良県下における近代遙拝所
 第12章 昭和四年伊勢神宮遷宮とカトリック系学校における遙拝問題
 第13章 宮城遙拝/終章 遙拝をめぐる権力関係/あとがき

よくも「遙拝」なる「はるか離れた場所から特定の対象を拝む」儀礼を切口に
地道に「近代天皇制」を論じたものです。

根っからのフィールドワーカーで、そこにある「モノ」から始める著者が
「近代天皇制」なる「国家のイデオロギー装置」という概念を
書き連ねるとは?といったボクの疑念は、
《あとがき》を読んで払拭しました。

ボクは友人から贈られてきた図書は、必ず《あとがき》から読みます。
◆比較的軽い気持ちでまずは滋賀県の自宅近くの遙拝所碑の調査を始めたが、
 次第に調査範囲は広がり、銘文だけではわからないことが多いため
 滋賀県庁文書をはじめとした公文書や新聞などの
 史料調査にも着手することとなった。

以下、《あとがき》を読み進みますと、本書第10章は、
2015年『京都民俗』33号に発表した
「滋賀県東南部における遙拝所碑の建立状況」とあります。
本書の《第10章 滋賀県東南部における近代遙拝所》
《第11章 奈良県下における近代遙拝所》が
論文発表され、その他は書き下ろしたとあります。

実地調査により得た情報を、然るべき知見として位置づけるために
著者は公文書や新聞などの史料調査を博捜して
本書『近代天皇制と遙拝所』を上梓したのです。
論文発表は、本書発行に7年先立ちます。
「比較的軽い気持ちで」自宅近くから始めた実地調査は
丹念な文献調査により裏づけられたのです。
果たしてぶらっと立ち寄っただけなのでしょうか?

上梓された本書の《第1章 近代の遙拝と遙拝所》
「七 遙拝・遙拝所に関する先行研究と本書の視点」には
「全体を包括する仮説」が提出されています。
◆全国の国民が同じ日に同じ場所を遙拝するのであるから、
 拝される対象が国家にとって象徴的なものであれば、
 遙拝という儀礼はそれに参加する国民の統合を促すものとなるだろう。
 その意味で、遙拝は国民国家の統合を導き、
 最終的にはそれを表象する儀礼であり、
 遙拝所はそのための装置であると考えられる。

当初からの目論見か否かはともかくも、上梓された「本書の視点」が
「モノ」でなく、「儀礼」に移行しています。引用文を続けます。
◆ここではアルチュセールの「国家のイデオロギー装置」という概念に依りながら、
 「遙拝・遙拝所は近代天皇制国家のもとで国民の統合を促すための
  国家のイデオロギー装置である」との仮説を提出しておきたい。

《第1章 近代の遙拝と遙拝所》に提出された仮説の評価は、
《終章 遙拝をめぐる権力関係》に下されます。
「近代天皇制」を幕末の政治的動乱のなかでの神武天皇祭の創出の時代を
第一期「明治3年以前:遙拝の準備期」とし六期に時代区分をした上で、
第六期を昭和10~20年遙拝の変質・終末期と位置づけています。
この時期について次の記述があります。
◆この時期において、先の仮説の妥当性もようやく認められることとなる。
 しかしながら、終戦とともにそれを推し進めた政治権力は歴史の表舞台から去り、
 またそれと連動した諸権力の姿も表面的には退いたために、
 遙拝はほとんどおこなわれなくなった。
 神社境内に残る遙拝所碑だけが今もその歴史を伝えている。

実はこの記事が本書の掉尾なのです。
仮説の妥当性を認めたうえで
「神社境内に残る遙拝所碑」なる「モノ」を捉え直しています。

今回は、「モノ」から始めた民俗学者の仮説の検証結果だけを追いました。
次回は、各論に分け入り、本書の世界を探ることにします。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

前回、「中島水道」があった「北中島」に対し、
当方、北区、福島区側は
「南中島」と称していることを挙げました。
本ブログでは《ドブ川跡探訪(1)2021-01-22 07:39:54》に
*「寛政年間南北中島郷の図」を掲げました。
               ↓ここにアクセス
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12651774375.html
写真図1 「寛政年間南北中島郷の図」
     『鷺洲町史』1925年、鷺洲町史編纂委員会
    大阪市立中央図書館所蔵、掲載許可


図の上(北)に大きく北中島、下(南)に懸案の南中島が描かれ、
島の北東から南西へ見える水路が「南中島水道」です。
*『鷺洲町史』「吾が郷土の河川」に
河村瑞賢の畿内河川の治水竣工の翌年、元禄元(1688)年に
制定されたと推定される「国役普請御改帳」に
この川筋を次のように記述しています。
 *『鷺洲町史』:『鷺洲町史』1925年、第二編 第四章 徳川時代
  第八節 吾が郷土の河川
◆一 高千参百六拾参石壹升七合/内 高壹斗九升五合
  川上水、元淀川筋、北長柄と申所より、
  当村迄川路弐里程、川下伝法村へ落合、
  夫より海へ流出申候。

「当村」とは、元文三*(1738)年5月「国役普請御改帳」を
当時の代官に提出した海老江村であります。
この川筋は、凡そ上流の北長柄((現)北区豊崎)から
海老江(福島区海老江)を経て、
伝法(此花区)で海へ落ちるといった水路です。

この南中島の地勢を*『福島区史』に概略しています。
   *『福島区史』:『福島区史』1993年、大阪都市協会編集、
         「四 近世」井形正寿執筆
◆もともと南中島は淀川デルタ地帯で、
 そのなかでも当地は池沼が残る低地であったから、
 常に水害の脅威にさらされていた。
 淀川開削までの旧淀川の本流であった大川が堂島川となり、
 中之島西端で土佐堀川に合流したあと再び二流になって、
 一方は木津川・尻無川となり、
 他方は西へ蛇行屈折して伝法川に流れ大阪湾に注いでいた。
 そのため土砂が堆積して水はけが悪くなり、
 たびたび洪水の被害にあった。

土砂が堆積する水捌けの悪い土地柄は、
*「浦江江村明細」からも読み取られます。
   *「浦江江村明細」:『鷺洲町史』1925年、鷺洲町史編纂委員会
   「浦江村明細:寛政五*(1794)年七月」
◆一、当村の儀は南中島十七ヶ村水下にて地低の村に御座候故、
 洪水の砌悪水野間へ相湛、水損度々仕候

「南中島十七ヶ村水下にて地低の村」とあります。
「地低」なるゆえ、洪水時、度々、水禍に遭っています。
浦江村より、一層下流の海老江村や如何?
写真図2 南中島水道跡道路の浦江村、海老江村境界
    撮影:2022年7月25日

   

道路を挟んで手前左側(南)が浦江村、右側(北)が海老江村。
この阪神本線高架の先、野田(福島区吉野、大開)を
西南に進む「北港通」が南中島水道跡道路です。

*「海老江村明細」に次の記述が見えます。
 *「海老江村明細」:同『鷺洲町史』「海老江村明細(享保九*(1724)年)」
◆当村は里方にて御座候、枝郷一ヶ所御座候。
 当村は外に稼無二御座一耕作一通にて御座候、
 近村々より、大分地窪に御座候て、稲作麦作年々水損仕候。
 依レ之百姓困窮仕候。

「近村々より、大分地窪」とあります。
大日本製薬「マルピー」があった跡地に
イオンスタイル海老江といった大型商業施設が出来ました。
この場所の少し南の小字名は「フケ」です。
『広辞苑 第七版』 (C)2018 株式会社岩波書店「ふけ【深け】」には、
次の記述があります。
◆②泥深いところ。湿地。沼地。深田(ふけだ)。
近世の村明細記事の「地低」「地窪」といった地勢を語る小字名です。

今回は、「南中島」下流の海老江村の地勢に焦点を絞って、
記述しました。
次回は、2018年発行
『新修大阪市史 史料編』第11巻 近世Ⅵ村落1、
《第二節 南中島水道組合》所載の古文書を取り上げ、
《南中島水道の今昔》を探ります。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登