晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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今回から暫く、「田夫野人」の名に負う「野」について
『広辞苑 第七版』2018年、岩波書店を糸口に探索してみたいと思います。
先ずは語末に「野」が付く語彙から地形を探ろうと思います。
今回のタイトルは「原野」です。
はたして何処に「原野」が見つかるやら?
「原野」を求めて『広辞苑 第七版』の辞林を彷徨い歩くことになりそうです。

先ず、「野」全般を見ることにします。
◆の【野】
①  自然の広い平地。
 多く、山すその傾斜地。のら。万葉集(3)「春日―に登りて」…
「自然の広い平地」とありますので、
「平野」なら広いので「原野」が見つかるかも?
ひら‐の【平野・枚野】に当りましたら
「「ひら(平)」⑤に同じ」とありました。
◆ひら【平】(中略)
 ⑤山中にある相当広い緩斜面。
  天狗平(てんぐひら)の類。へら。ひらなか。…
広い緩斜面の《平野・平》の地に「原野」は見つかりません。
《の【野】》の「山すその傾斜地」に戻りました。
決して「あとは野となれ山となれ」ではありませんが、
「野」と「山」とは「野山」とも云って近しい語です。
集めたデータから「山」を検索しましたところ、
《おお‐の【大野】》に「山」がありました。
◆おお‐の【大野】 オホ‥
 山すそなどの、大きな野。広野。…
此処に「広野」はあっても「原野」はありません。
地名の「大野」にあたりました。
◆おおの【大野】 オホ‥
 福井県東部、九頭竜川上流、大野盆地を中心とする市。…
川の上流だから山が迫った所に囲まれた「盆地」の斜面に
「原野」が見当たらないでしょうか?
「盆地」に当りました。
◆ぼん‐ち【盆地】
 周囲を山地に囲まれる平地。
 成因により褶曲盆地・断層盆地・侵食盆地の3種に分かれ、
 湖が形成されていれば湖盆、
 堆積物で埋められていれば堆積盆地という。 

上流に山が迫る「扇状地」なら原生林があって其処に「原野」が…?
◆せんじょう‐ち【扇状地】 ‥ジヤウ‥
 川が山地から平地へ流れる所にできる、
 下流に向かって扇状に拡がる地形。
 流れの勢いが急に緩やかになって
 砂礫を堆積した結果、形成される。沖積扇状地。…
再び「野」に戻り地名に当り「やまあい」を探りました。
◆かすが‐の【春日野】
 奈良市の春日山西麓の野。…
春日原生林にも「原野」なる言葉は見つかりません。
奈良の春日山が駄目なら京都の嵐山や如何?
◆あだし‐の【徒野・仇野・化野】
 ①京都市右京区嵯峨(さが)、小倉山の麓の野。…
とうとう嵯峨野までやってきました。
此処なら昔、遠足で引率した場所です。
◆さがの【嵯峨野】
 山城国の歌枕。今の京都市右京区嵯峨付近の台地。
 平安時代前期から皇族・貴族の別荘が置かれ、
 秋の風情を詠み込む。…
ちょっと待て、「嵯峨野」の嵯峨は?
◆さ‐が【嵯峨】
 ①  高低があってふぞろいのさま。
 ②  山の高くけわしいさま。
「嵯峨」を形容詞の語幹とみて漢字を宛てれば【嶮し・険し】です。
◆形シク
 ①けわしい。嶮岨(けんそ)である。仁徳紀「はしたての―・しき山も」…
此処まで来てしまえば、引返して「大野」ならぬ「小野」や如何?

◆お‐の【小野】 ヲ‥
 (オは接頭辞)野。野原。…
どうやら「野原」に戻れました。
喜び勇んで「野原」に当りました。
◆の‐はら【野原】
 (ノバラとも)草などが生えている広い平地。原野。…
タイトルの「原野」が、やっと見つかりました。
「草などが生えている」所であって、鬱蒼たる樹々が聳える所ではなさそうです。
落ち着いて「原野」(はらの)を確認しました。
◆はら‐の【原野】
 野原。げんや。
「げんや」に振られました。
◆げん‐や【原野】
 自然のままの野原。
 雑草・低木の生えている荒地。…
「荒地」これなら大都会にもありそうです。
  
梅雨時分に東野利明会友に誘導していただき探検した
城東区の鴫野東に「荒地」はありました。
  ↓アクセス
 https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12967113622.html
《神木 暮らしの古典179話:2026-05-24 06:14:16》
大きく湾曲した自然堤防を歩きました。
堤防沿いの片隅に草叢が見えます。
写真図1 城東区鴫野東の自然堤防 東向きに撮影

大都会の中での小さな「原野」かな?
その先には銀杏の「神木」が手付かずの空地にありました。
「お願い」の掲示に「神木」とあり、
傍らの祠にはお神酒が供えられています。
写真図2 城東区鴫野東の神木 北向きに撮影

案外、都会でも事情があっての小さな「原野」があるものです。
東野会友「此の銀杏の木は空襲の時、水を吹いた」と聞いています。
「自然のままの野原」、或いは「自然」を態と残した「野」があり、
「野神」が神木として、そっと祀られているのでした。
抑々、原野は「荒地」であって、
荒廃した地にあって神が「あれます」のかも?
次回は「野」の植生を辞林に探ります。

大阪民俗学研究会代表 田野 登

 

今朝2026年9月22日(火)の朝は、晴れています。
先週まで続いた秋雨から抜け出したものの、

晴れ間がなかったのが,

やっと爽やかな朝を迎えています。
一昨日は

朝5時過ぎからマンションでのデータ「仕込み作業」を終えて
自宅で7時のNHKニュースを見ながらAIさんと対話をしました。
マイブログのメインのタイトルは≪晴耕雨読≫なのに

《観天望気》と取り違えた情報をめぐってのことです。
あながち《観天望気》をAIさんの間違いだとは言えません。
2012年秋に始めた頃は、確かに《観天望気》でした。
「田夫野人」らしく《晴耕雨読》に換えたのでした。
能々,考えてみますと

何れも天気予報士のブログと思われそうです。
気象は穏やかな日和ばかりではありません。
神の出現を「ミアレ」と云い、漢字を宛てれば「御生れ」です。
「御生れ」の「アレ」と「荒れ」が混同していないかと
一昨日は、朝早く起きて『広辞苑』を検索していたのです。
昔、お地蔵さんなど神仏を調査して尊像との邂逅の前後に
何ぞ凶事があったのを聞き書きしています。
水害時に流れ着いたり、戦災跡地の土中から拾い出したり、
あるいは子供の事故が発生したのでお地蔵さんを祀り始めたと
聞く事が屡々ありました。
大正区三軒家東の、

その名が「吞海寺」安置の浪除観音尊像縁起には
寛文10年8月23日の「大海嘯」の後、浜辺に光明輝き、
「尊像ましますを見出し」安置したとあります。
写真図 「吞海菴」の浪除観音の貼紙 2026年2月3日

災害・事故の「言い伝え」を信じ込んで

語っているのもあるかも知れません。
その話には尊像との邂逅の前後に尊像が荒れなさり、

時には暴れなさったりして、
祭祀を督促されたと受け止めたのかも知りません。
霊験譚のストーリーには、
示現なる「神意」の読み取りが軸に展開します。
時に何らかの宗教者による「託宣」という神仏諸霊と
交信する人物の仲介があったりします。
「たたり」の本義は

神仏諸霊が「たつ=あらわれる」であるにも関わらず、
早くから「祟り」の表記により神仏諸霊が災禍を為し、
それを宥めるために祀り込めるといった御霊信仰が被さって
「荒れ模様」を鎮めると信じ込んでいたりもするようです。
この信じ込みの心意こそ「たたり」伝承にとって重要として、

ひとまず筆を休めます。
浦江の長屋に育ち加持祈祷を受けた名に負う

「田夫野人」之を識す

今回のタイトルは「念仏踊り」です。
私たちの民族は盂蘭盆会の前後に踊ります。
今や海外にも波及しているとか?
檀那寺である曹洞宗妙寿寺の先代住職から
此の時季の花火、踊りの意味について教わりました。
今回は「祟り」でない「たたり」の方の意味を考えます。
何処に「念仏踊り」が出て来ることやら?

前回「次回は、柳田・折口の「たたり」記事を挙げ、
此処に挙げた祭祀の展開を照らしてみることにします」で結びました。
「祭祀の展開」とは《凶事→託宣→出現→安置→利生》でした。
柳田・折口の「たたり」記事を概観し時系列に並べてみました。
(1)    託宣の意のタタリから示現の意のミアレへ:①~⑧柳田191306~191511
(2)「たたり」は「たつ」の「あり」と複合した語で「神意が現れる」の意
  :⑨~⑲折口191808~1924?
(3)タタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人があらたかな神に
  :⑳柳田192611
(4)壱岐の「たっちょう」をめぐる地元研究家の説:㉑~㉓折口192909~193004
(5)壱岐「オタッショ」の解釈から「タタリ」の語源は「神の示現」へ
  :㉔~㉜柳田194004~194604
此処には、「託宣」「示現」なる言葉が見えますが、
今回、採取した1913年6月の柳田記事から始まり、
折口記事1918年8月~推定1924年、1929年9月~1930年4月を挟んで、
1940年4月~1946年4月の柳田記事までに「念仏踊り」が見えるやら?

柳田・折口の「たたり」記事の結論は、
《(5)壱岐「オタッショ」の解釈から「タタリ」の語源は「神の示現」へ》の
㉕~㉗の一繋がり柳田国男「霊出現の地」『定本柳田國男集』第15巻、1963年、筑摩書房 
(初出『民間伝承』1940年4月、第5巻7号)に見出しました。
㉕無論是ぐらゐの資料だけでは断定は出来ぬが、
敢て意見を述べるとタッショのショはやはり処であり、
タチは現はれることでは無からうか。
㉖今日の「立つ」といふ動詞には、もうさういふ意味までは含んでは居ないが、
面影に立つといひ、夢枕に立つといひ、雷をカンダチ、朔日を月立ち、
その他龍をタツと訓じ、水中の怪物をタツクチナハ(佐賀地方)といふ類の、
例を挙げるならばまだいくらも有る。
㉗死者の月忌をタチ日といふなども、今では供養をする日と解せられて居るだらうが、
本来は霊髣髴として来り享けることを謂つたのかと思はれる。
神霊が立てば必ず祭をする故に、祭をする処と変化したとても不思議は無い。

話題が壱岐島の聖地である「タッショ」から「立つ」を導き出し、
祭祀の場所にまで駆け進んでいます。
柳田の此の「タッショ」の解釈には折口の関与が認められます。
前段の㉔には、次の記事が見えます。
㉔壱岐島の七タッチョに就ては、折口氏も「民俗学」(2-2)で詳しく見聞を録し、
又山口君も方言集の中に掲げて居られる。(以下略)
「折口氏」の「民俗学」(2-2)の記事は
折口《壱岐の「たっちょう」をめぐる地元研究家の説》の㉑~㉓を含む記事を指します。
此処での*折口記事は以下の記事です。
*折口記事:「壱岐民間伝承採訪記」『折口信夫全集18』1997年、中央公論社、
初出1929年9月~1930年4月『民俗学』第1巻3~6号、第2巻2~4号
折口は㉑で壱州史の権威は「たっちょう」は「塔頭」で、
祖先の中の図抜けた人を神に祀ったものか、
遙拝所と言う様な意味あいを挙げています。
㉒では考古家の獣医の考えでは、「おたっちょう」は御館所(オタチシヨ)を挙げています。
折口の見解は以下のとおりです。
㉓…全体の立論の形から言ふと、老人聊か力負けの観がある。
塔頭説はさすがと思はせるが、意義分化の径路に、若干の疑ひがある。
易よりも難を嗜む学者かたぎからの弱点であらう。…

此の1929年9月~1930年4月の折口「たっちょう」記事には、
10年後の柳田「霊出現の地」1940年4月の「タッショ」解釈に見える
柳田論文タイトルの「霊出現の地」とまで踏みこんではいません。
肝心な点を捉え損ねているのです。
翻って㉖の「立つ」といふ動詞の用例、面影に立つ、夢枕に立つ、雷をカンダチ、
朔日を月立ち、龍をタツ、水中の怪物をタツクチナハも何処かで見た記事です。
其れは⑯⑰*折口1924?でした。
 *折口1924?:折口信夫全集4』1995年、中央公論社、
初出1924年頃「草稿「ほ」・「うら」から「ほがひ」へ」
⑯「月たつ」などと言ふのも、月の朔日が来ると言ふよりは、
月末に隠れた月が現れると言ふのが元である。
「向かひの山に月たゝり見ゆ」などを見ても、知れるであらう。
月神の出現を示すのである。
⑰其*(「たつ」)が段々内的になつて来て、神意の現れる事を示す語になる。
更にそこに、意義が固定すると、
「けしきーたつ」「おもかげーたつ」など言ふ信仰抜きながら
幽界を思はせる様な内容を持つた、捉へ難きものゝ出現の意になる。
たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。
「祟りて(タヽ――)言ふ」は「立有而(タヽリテ)言ふ」と言ふ事になる。…

柳田1940年4月の㉖の「面影に立つ」「朔日を月立ち」は
折口1924年⑯「月たつ」⑰「おもかげーたつ」に15年程も後れる言説です。
此処まで言及しながらタイトルの「念仏踊り」が未だ見えません。
再び、柳田1940「霊出現の地」の「タッチョ」を引きます。

㉔…館所又は塔頭だらうとの説もあるさうだが、
注意しなければならぬことは、
爰に盆と正月との念仏供養があり、
又は祭礼の日に狂言手踊の奉納があつた。
さうして村共同の拝所であつて、或家には専属して居ないのである。…

霊出現の地での「盆と正月との念仏供養」を挙げています。
「狂言手踊の奉納」とあり、「念仏踊り」が拝所で奉納されているのです。

今回の柳田・折口の「たたり」記事の埒外に置きましたが、
*折口1952年記事に「念仏踊り」は見えます。
 *折口1952年記事:『折口信夫全集20』1996年、中央公論社、
初出1952年10月「民族史観における他界観念」
『古典の新研究』第1輯、角川書店
◆御霊の類裔の激増する時機が到来した。戦争である。(中略)
 戦死人の妄執を表現するのが、主として念仏踊りであつて、
 亡霊自ら動作するものと信じた。
 それと共に之を傍観的に脇から拝みもし、又眺めもしたー芸能的にーのである。
 戦場跡で行ふものは、字義通りの念仏踊りらしく感じるが、
 近代地方辺鄙のものは、大抵盂蘭盆会に、列を組んで村に現れる。

戦死人の妄執を表現するのが念仏踊りで、
近代地方辺鄙のものは盂蘭盆会に現れるとあります。
此処にタイトルの「念仏踊り」が見えました。

写真図 「踊り念仏」『空也堂踊念仏図会』

此の「民族史観における他界観念」引用「念仏踊り」の前節「荒ぶるみ霊」には、
次の記述が見えます。
◆祇園は仏者の伝統による陰陽道によつて性格は変へられたが、
本来から言へば、一つの大きな常世神である。
同時に又、他界よりして、猛威を振つて、人間界を煩す邪神を逐ふ意味において、
すさのを尊は、農村にとつて偉大な訪れ神であつた。

「常世神」、「訪れ神」が挙げられ、
折口民俗学の幽遠なる苑に無遠慮に足を踏み入れるのを躊躇います。
今回は此の領域を「禁足地」とし、何時かの課題とします。

大
阪民俗学研究民会代表 田野 登

今回からイベント絡みの記事を「イベント」として

挙げることにしました。
昨日2026年9月14日(月)
中央区民ホールで、弥次喜多ばなしをしてきました。
近鉄「日本橋」で大阪メトロに乗り換え

「堺筋本町」で降りました。
地上に上がりますと、堺筋が南北に走っています。
写真図1 堺筋と中央大通の交叉点

弥次喜多の宿は「堺筋」を南に「日本橋」を渡って、
更に南に行って「長町」の旅籠屋でした。
東西(右上から左下)に走る中央大通の

高架下には船場センタービル。
昭和の時代の繊維街、丼池筋の現代版かな?
東進しますと会場の中央区民ホールです。

演題《弥次喜多「浪花の旅」の都市民俗》の始まり始まりです。
写真図2 表紙

弥次さん喜多さんは何処を眺めているのでしょう。
「道頓堀の人群集」とか…。
侍こそいないけれども、この
芝居町界隈には色んな人たちで溢れかえっておりました。
写真図3 コンテンツ

初めに『道中膝栗毛』浪花の旅」の旅程を

タップリ話しますと予告しました。
謎の街中を映し出し休憩に入りました。
後半は、この町は、

旅籠屋のあった「長町」の現在とタネ明かしから始めます。
写真図4 《3 装いの不思議 長町》

「装い」は履物の雪駄(せった)の話から起こしました。
上方製の雪駄の優位が、

やがて江戸製に取って代わられる時代相を
喜多川守貞『近世風俗志』の記録を辿って話しました。
写真図5 高津社の絵馬堂

ここの反応は良かった!
聴講生の皆さんは、先に見学に出かけられた場所らしい。
《4 不思議な食い物 谷町通り》では、
《忘れかけている味 日々寸感56話》に取り上げました。
   ↓アクセス
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12978599596.html
「ハツノミノキリウリヤア」の「はつ」は
「曽根崎心中」の「天満屋お初」の身売りに掛けて、
鮪(まぐろ)を指すとは?
小さな響き(どよめき)が起きました。
あれやこれやの末、

「むすび」には時間ぎりぎりの12:00直前に到達。
写真図6 《7 むすび》

民俗学って何なのでしょう。
《今回の区民カレッジの講義が、
 記憶の底に忘れかけている?
 忘れてしまった?
 「大阪の習俗」を

呼び覚ます機会を提供できたらなぁと思います》で
鳧(けり)をつけました。
今年の聴講生の方々の乗り具合や如何?
ディレクターの方から礼を言われて会場を発って、
船場から中之島方向に向かいました。

行先は中之島図書館。
堺筋を北に西に、
信号待ちが面倒臭いゆえ、ジグザグ行けば
薬草の香りで気づいたのが道修町(どしょうまち)。
この街歩けばレトロなビルがあるやと思いつつ通過。
今橋2丁目を西に。
土佐堀通に差しかかったところで
空模様が怪しくなり「大阪あそ歩」の
キャップを取り出し、西に行き、
知らぬ間に着いたのは、船場も北の浜、
北浜まで出ていました。
栴檀木橋の南詰の先に
堂々と佇むのは大阪市役所。
写真図7 栴檀木橋の南詰

栴檀木橋の正面には、大阪市中央公会堂。
写真図8 大阪市中央公会堂

今回は、南西から遮るモノなく威容が見えます。
何やら大正7年、1918年竣工とか?
此処まで来れば、
大阪府立中之島図書館は、すぐ西隣。
今回は、真正面の大阪市役所1階入り口からショット。
写真図9 大阪府立中之島図書館

何やら、此方は1904年竣工とありますので、
明治37年、日露戦争の時代に建てられた
「ギリシャ以来の伝統にのっとっている」とかで、
住友家から贈られた建築物です。
この日の昼食は、大阪市役所食堂で、
ハムカツ、味噌汁、京漬物白菜漬に、中ご飯。
締めて590円也。
腹八分目にして懸案の柳田・折口の「たたり」をめぐる
情報の経緯を、向かいの図書館の3階で資料収集しました。
久々に船場から中之島の街を歩いた、ひと時でした。

大阪民俗学研究会代表 田野 登

 

明日2026年9月14日《弥次喜多「浪花の旅」の都市民俗》を
パワーポイント100コマを100分ほどで話します。
原本は拙著『水都大阪の民俗誌』2007年、和泉書院に

掲載した文章で1994~1995年の『大阪春秋』に発表した原稿をリライトしたものです。
「都市民俗」という言葉もさることながら、
懐かしい気持ち半分、ときどき横やりを入れながら、
ともかく、弥次喜多の浪花での失態をとおして
「東西」の風俗の違いを衣食住と生業を

軸に話すことになります。
今日にあって如何ほどまで「東西」の違いがあるのでしょうか?
江戸っ子は「ほっこり」を「焼き芋」と思っていたようですが、
当地では「蒸し芋」であって、
「熱々」の芋でなく「ぬくぬく」の芋であったりもします。
尤も、牧村史陽編『大阪ことば事典』講談社学術文庫、1984年の「ホッコリ」は
もはや「焼芋の異称」となっております。
当地での鰊の昆布まき「にしんのこんまき」の鰊なんぞ、
彼の地では食する人は稀で、猫の餌であったりします。
此の地の湊は、北前船のターミナル港でもあり、
産地の蝦夷地とは江戸よりも地理的に近くでありました。
19世紀初めの文化6(1809)年の序文が添えられている

弥次喜多「浪花の旅」にあって、
両人が口にした鮓は「筥鮓」であって、

もはや珍しがっていました。
当時、すでに彼の地では、握鮓が出回っていたからです。
江戸の食い物が上方・浪花を席巻し始める直前の話です。
聴講生の方々は、

今やボクと同年輩の「団塊の世代」が多数です。
ボクは高度経済成長を控えた昭和30年代、小学生でした。
親、爺婆から聞いて忘れかけている此の地の文化を
呼び覚ますことが出来ればとの思いを込めて話します。
以下、講義から脱線しての余談でありますが、
鰻飯を此の地では、この間まで「まむし」と言っていました。
ご飯にタレをタップリかけた鰻を切り分けたものを混ぜる、
「まぶす」「まむす」料理であります。
鰻丼「うなどん」など言っていたかな?
今や、9月ともなれば、

デパートをはじめコンビニエンスストアでも、
「おせち」料理の予約受付を始めています。
写真図 コンビニエンスストアの「おせち」



ボクの子どもの頃は、年末になれば、何処の家でもカドで
正月に食する料理をカンテキ「七輪」に

火を熾して「いこして」、
「煮しめ」を拵えていたものです。
「煮しめ」はハレの食であると同時に
炊きしめられた食物は、

店屋の正月休みの備蓄の料理でもありました。
今や、めでたい時の「お節」に席巻されて
庶民の年越しが忘れかけられているようです。
浦江の破屋での正月を偲ぶ名ばかりの田夫野人これを識す