晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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前回
「次回は《農神「のうがみ」「のうじん」》を地名総覧から検証し、
「野神」の祭神を遡及する予定です」と予告しました。
はたして「祭神」にまで行けるやら?
前回、高知県の「野神」について少し触れましたが、
今回は船路の紀行文で有名な「土佐」で大阪からは遠そうで近い所に
貴重な資料を見つけましたので、其処に没頭することになります。
タイトルは「五月五日」です。

前回の175話では、此の日の行事について挿絵にも載せました。
明日、迎える「こどもの日」以前の行事で、それは陰暦での事です。
まず、*『地名総覧』の「農神」から結着を付けましょう。
 *『地名総覧』:『角川日本地名大辞典 別巻Ⅱ 日本地名総覧』1990年
「のう」の付く項目のうち「農神」の「農」は、「農人町」。
それに大阪の東横堀に架る「農人橋」(のうにんばし)といった
農民による開拓に因む地名が多数載せられます。
大阪の農人橋は『摂津名所図会大成』に
「農人橋はいにしへ川西船場の地に田圃多くして、
上町より農人かよひて耕作をなす。
往来のため掛し橋ゆえ斯はなづくとぞ」とあります。
(『角川日本地名大辞典 27大阪府』1983年)

写真図 手前(南)農人橋上からの前方(北)本町曲りの眺め

    左(西)船場、右(東)上町 2021年10月18日撮影

    
    
懸案の*「農神」は、兵庫県赤穂市に見えるだけでした。
見出し語は「のうがみちょう」でなく*「のうじんちょう」でした。
 *「農神」:『角川日本地名大辞典 28兵庫県』1988年
◆のうじんちょう 農神町〈赤穂市〉
 [近代]昭和53~現在の赤穂市の地名。もとは赤穂市上仮屋・加里屋の各一部。
地名は明治後期まで地区内に農神社があったことに由来する。

「農神社」が由来とのこと、「のうじん―しゃ」なのか「のう-じんじゃ」とも読め、
ルビがありませんので分かりません。
「のうじん」探しにカウンターの*『歴史地名辞典』にも当たりました。
*『歴史地名辞典』:『兵庫県の地名』日本歴史地名大系第29巻Ⅱ、1999年、平凡社
「赤穂城下」「上仮屋町」の項に現行行政地名に農神町[ルビ:のうじんちょう]の
記載はあるものの近世~近代にかけての記事に
「農神信仰」はおろか「農神社」すら見えません。
*歴史学者による記事を頼りにしました。
 *歴史学者:『和歌森太郎著作集』第9巻、1981年、弘文堂、「日本民俗学概説」
◆農神、ノウガミといふ言葉は東北にひろく行はれてゐるが、
 関西ではノガミといはれるものがある。

東北のノウガミは関西ではノガミと云うのに戻ってきました。
一文飛ばして引用します。
◆ノウガミはこのノガミのノが伸びたにすぎぬもので、
 常民において農業の神といふやうな端的な概念が
 本来成立してゐたとは思はれない。…

「農神」とは重箱訓みで、
抽象的で暮らしに息づいた言葉とは到底、思えません。
『日本国語大辞典』と同じ小学館出版の
『日本方言大辞典』1989年に当りました。
◆のーがみ の年取(としと)り 
 ①1月16日。青森県三戸郡083 
 ②12月16日。《のかみさまのおとしこし》[―御年越]青森県上北郡082
◆のーがみさま の御祭(おまつ)り陰暦 6月15日、
 この日は畑に出ることを忌む。岩手県気仙郡100

「のーがみさま[農神様]」の項に
「田野、牛馬など農事に関する事柄をつかさどる神。
農業の神」を載せています。
それであっても「方言」とした
「野神」の用字は見当たりません。
久々に民間信仰の権威である学者の*著述に出くわしました。
 著述:櫻井徳太郎『民間信仰の研究 下』「第二節 ノツゴ神と野神」
(『櫻井徳太郎著作集 第四巻』1990年、吉川弘文館
◆香川県、徳島県下に分布するノツゴ神を検討するときに、
 われわれに大きな衝動を与えるのが
 『南路志』に記載されてあるノツゴ神と野神とである。
 野神とか野宮が、
 ノツゴとどういう関係にあるのか。
 その点に少しく触れてみたいと思う。

「大きな衝動」を与えられたとされる『南路志』に
ノツゴ神と「野神とか野宮」とあります。
此処では「野神」と「野宮」が併記されています。
読み進みますとタイトルの「五月五日」が冒頭に見えます。
◆五月五日に牛の健康を祈るために野神へ参るという信仰は、
 すでに『南路志』の記載するところであり、
 四国地方のノツゴ祭りにおいても、つぶさに実見してきたところである。

「五月五日」は端午の節句です。

「『南路志』の記載するところ」とある*『南路志』の記事に
「五月五日に牛の健康を祈るために野神へ参るという…」に対応する記事を探しました。
*『南路志』:『南路志上巻』闔国之部第9之3「安芸郡下」「宝永風土記」
      「馬ノ上村」高知県文教協会、1959年、国立国会図書館所蔵
◆野神三ヶ所有 此所極森迄何之云伝なし
 三月三日五月五日九月九日牛馬所持仕者節句祝ひ持参仕候。

『南路志』には「牛」だけではなく「牛馬」、
「五月五日」だけではなく三節句「三月三日五月五日九月九日」が
他にも何カ所か記述され、
櫻井徳太郎と同じ記事は『南路志』には見当たりませんでした。

ともあれ『南路志』には「野神」および関連語彙には、
畿内における野神信仰を説く貴重で豊かな近世の文献です。
暫く焦らず、取り上げ、
やがて懸案の浦江の「野々宮社」に辿り着こうと考えています。
「南国土佐」の近世には、
拙著『水都大阪の民俗誌』2007年、和泉書院において
取り上げた世界との糊代がありそうです。
次回は『南路志』の書誌紹介から始めます。

究会代表 田野 登

 

明日は5月1日、メーデーです。
二十歳の頃、町工場で働いていました。
社外倉庫に出かける際、
トラックの助手席からメーデーの集会に出かける人たちを
他所目に見ていました。
この国では、この時季の晴れ間を「日本晴れ」と称し、
絶好の行楽の季節であります。
いっぽうで「春に三日の晴れ間なし」という言葉があります。
まさに今年の春は、そのとおりです。
雨の語彙の多い、この国では、

今朝4月30日の雨は何なのでしょう。
「穀雨」という言葉が浮かびます。
「穀雨」は二十四節気の一つで陰暦なら三月後半に当り、
陽暦なら4月20日頃となるようです。
もっとも二十四節気は漢字文化圏での話で、

黄河流域が基準の暦です。
穀物にとっての「恵みの雨」を意味するもので、
温帯モンスーン気候ならではの暦感覚です。
「豊葦原の瑞穂の国」と歌われた、

この国の言葉での雨の語彙は豊かです。

写真図 豊葦原の瑞穂の国


王朝貴族は、長雨を「ながめ」と掛けて「眺め」。
ひたすら、ぼんやりと物思いに耽り、
雨で遠のく彼氏を待つ倦怠感に苛まれる姫君の思いです。
さぞ無為な時間を過ごしていたことでしょう。
民俗調査をしていて、年間の生業曆は必須の項目です。
「春夏秋冬」に収まり切れない季節があります。
それは、季節的に少し先の「梅雨時」です。
瓦屋、建設業の人たちにとっては、雨は禁物です。
長雨は休業日です。
尻無川右岸に集住する淡路島出身の瓦屋さんには何故か
苗字が「あまつつみ」方々がおられます。
漢字を宛てれば「雨堤」です。
「あまつつみ」も「雨慎み」となれば、
折口民俗学では女性たちが田植え仕事に際し
神に仕える身となります。
物忌の時であり、身を慎んで房事を差し控える時季とされます。
「天つ罪」を侵してはならない時なのであります。
王朝貴族の惜春の「ながめせしまに」の歌に託された思いも、
このような空閨感から生じた情緒のように思えます。
今回の日々寸感は、長雨を厭う思いから
この温帯モンスーンに生きる民族のDNA探索に

心を馳せていました。
 

浦江村の「田夫野人」を号する輩が之を記す。
 

前回は
「次回は諸国の「野宮」ならぬ「野神」に関心を寄せることになります」と予告しました。
今回のタイトルは「のがみ」です。
「野神」ならぬ「のがみ」で、両者は、とうぜん重なります。
いきなり『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店「のがみ」を引きます。
◆の‐がみ【野神】
(奈良・滋賀県で)水路の傍や池の脇など、水辺にまつられる農作の神。

引用の『広辞苑』にありますように「野神」は水辺に祀られることが多いようです。
 ◆上品寺村 現行行政地名:橿原市上品寺町/米川と飛鳥川の中間に立地。(中略)
  当村ではシャカシャカ祭が6月5日(昔は旧5月5日)に行われる。
  村童が麦藁で蛇を作り村内を練歩き、
  南北二つの古池に投じたのち野神塚の木に巻付け、神酒と粽を供える。

「野神」は塚に祀られ、その「野神」を祀る村の立地は川と川の中間にあり、
祭礼のヤマ場は麦藁で作った蛇を「南北二つの古池」に投げ込むことにあります。
その後、懇ろに神をもてなすというもので、水辺における祭祀であります。
次の事例も「奈良県」から引きます。
◆野神村 現行行政地名:奈良市西大寺野神町1―2丁目付近/西大寺の西に所在。(中略)
 慶応3年(1867)の和州添下郡西大寺村野神村明細帳(天理図書館文書)によると
 反別7町8反6畝17歩、
 用水は上之池・新池・下之池・居茂治加池(いもじかー)や
 外大門川・向川に求め、家数は西大寺村と合わせて26(うち借宅2)、牛9.

「野神」を冠する村の用水は

池、川に求め牛を飼っている大阪にも見られた水辺の農村です。
写真図1 「梅田道牛の藪入」芳豊画『上方』第5号、1931年5月号
     大坂梅田近辺の農村からの牛を野道に遊ばせる端午の節句の行事があった。
     付近は池沼の多い低湿地であり農民は牛を耕作に使役していました。



長閑な村にも野神を冠する神社の由緒を紐解けば、
悲劇的な出来事が祭礼の際、「再現」されたりもします。
『滋賀県の地名』日本歴史地名大系第25巻、1991年、平凡社を引きます。
◆今堅田村 現行行政地名:大津市今堅田1-3丁目/本堅田村の北、琵琶湖岸に立地する。
 (中略)天保郷帳では再び幕府領で、湖辺を開いた今堅田新田2石余が記される。
 伊豆神田神社・野神神社、曹洞宗の海蔵寺などがある。
 野神神社の祭神は新田義貞に愛された勾当内侍とされる。
 義貞が越前に逃げる際、内侍は今堅田に身を隠し再会を約束したが、
 戦死の知らせを聞いて琴ヶ浜に身を投じたという。

野神神社の祭神は、武将に寵愛されながら武将の戦死を聞き、
入水をした女官でありました。引用を続けます。
◆住人は内侍を弔い石積みの塚を築き、
 野神講を組織し、本堅田の泉福寺(現真宗大谷派)を菩提寺にした。
 現在も勾当内侍の墓という塚がある。

里人により「野神講」が組織され、

今なお祭礼が「野神祭」として営まれているというのです。
◆内侍の御霊を鎮めるために10月9日に行われる祭礼が野神祭で、
 内侍を葬った人々の子孫という野神講の講員のみで行われる。
 祭礼は内侍の葬送を再現する形をとり、
 内侍塚の泥塗り、当屋での直会、松明行列などが続く。
 行列は塚を清めるなどの行事の後、伊豆神田神社に参拝する。
 なおこの過程で当屋が参道横の田に竹の御幣を突き刺し、
 深く刺さるほど豊作が約束されるといい、田の神祭の性格をもつ。

この「野神祭」なる祭礼は悲劇の女官の鎮魂の意味を持ちつつも、
豊凶を占う「田の神祭の性格をもつ」とも紹介されています。
この事例からは、女官の墓を塚として祭祀する野神信仰を見ることができます。

 

「野」という語を冠する民俗語彙を探りましたところ、ある傾向が読み取られます。
以下の語彙は『綜合日本民俗語彙』第3巻、1955年、民俗学研究所、平凡社から
抽出したものです。
 【ノノシュ:野の衆。棺をかき墓穴を掘る人】
 【ノノヒト:野の人。火葬場の管理人】
 【ノバ:埋葬地を野場と称した】
 【ノバカ:山に設ける埋葬地。ノボチともいう】
【ノバカマ:野袴。山に行くとき用いる袴の名】。
【ノブシン:野普請。墓穴掘り】
「野袴」以外は「葬制」に分類される語彙です。
「野神」は民俗語彙に挙げられていませんが、次の事例は古墓が野神となる事例です。

『高知県の地名』日本歴史地名大系第40巻、1983年、平凡社「香美郡」から引きます。
◆野神古墓 現行行政地名:夜須町西山 野神
 夜須川の西岸、西山集落に近い標高40メートルの山丘にあった古墓群で、
 五輪塔が幾つかあったが、現在は山丘が削られて見るかげもない。
 西山古墓ともいう。鎌倉時代の火葬墓が出土したことが知られるが、
 火葬墓は地表上には五輪塔などの標識はなく、
 地表面下に15センチ大の河原石が径1メートルの円丘状に積まれ、
 中心部に蔵骨器が1個発見された。(中略)
 夜須庄に関係ある武人の墓であった可能性もある。
 蔵骨器内部からは火葬人骨も発見されている。

古墓ですので祭神を問うことは出来ませんが、
山丘にあった古墓群には地域の有力者の霊を祭祀していた痕跡とみるのは妥当でしょう。
次に挙げる「野神神社」の祭神は「大歳神」であります。
いったい何を祈願しているのでしょう。
『京都府の地名』日本歴史地名大系第26巻、1981年、平凡社「久世郡」から引きます。
◆若宮八幡宮 現行行政地名:久御山町大字佐古
 佐古のほぼ中央にある。祭神は応神天皇・神功皇后・比哶大神。旧村社。(中略)
 なお西隣に鎮座する野神神社(祭神大歳神)は
 当地における若宮八幡宮鎮座以前の祖霊祭祀場と解され、のち生産守護としての農神に、
 また水害の地であるために生じやすい疫病を封じこめる神社へと発展したとされる。

野神神社(祭神大歳神)の場所は以前の「祖霊祭祀場」と解釈され、
それが「生産守護としての農神」となり、
さらに「疫病を封じこめる神社」へと発展したと考えられています。
写真図2 小高い山丘に鳥居が見える農村風景

此処では「農神」に注目します。
「農神」は「野神」とは異なるのでしょうか?
『日本国語大辞典』第2版第10巻、小学館2001年「のがみ」の記述は以下のとおりです。
◆のがみ[農神]〖名〗 方言⇒のうがみ(農神)
「野神」は見えず、漸くタイトルの「のがみ」を取り上げることになります。
◆のうがみ[農神]〖名〗「のうじん」(農神)に同じ。
方言◇のうがみさま 島根県美濃郡・益田市785
   ◇のかみさま 青森県上北郡082 
   ◇のがみさん 奈良県高市郡683 
   ◇のがみ 奈良県高市郡683 香川県小豆島829 高知県長岡郡869
「のがみ」は全て方言に挙げられています。
冒頭に「野神」を引いた『広辞苑 第七版』2018年、岩波書店の
「のう‐がみ[農神]」を引きました。
◆(東北地方で)農作の神。田に祭る神。

「東北地方で」と断りがあり、これまた「野神」と同じく地域限定されています。
上方言葉では、しばしば語尾の母音を長音として発音します。
牧村史陽編『大阪ことば事典』講談社学術文庫、1984年の
「野」を冠する語彙の見出し項目を列挙します。
◆ノォ[野]、ノォイキ[野行き]、ノォセンギョ[野施行]

仮に「ノォガミ」と発音していても「農神」を意味しているとは限りません。
今日では「野神」を「ノォガミ」と発音していたのを忘れられつつあるようです。
次回は《農神「のうがみ」「のうじん」》を地名総覧から検証し、
「野神」の祭神を遡及する予定です。

究会代表
大阪あそ歩公認ガイド  田野 登

2026年4月19日(日)、「野田ふじ賛花」がお披露目されました。
福島区の花「のだふじ」にとって記念となる日となるでしょう。
ボクは日頃、塞ぎ気味な妻の気散じに、
「のだふじまつり2026」会場の大阪市福島区の下福島公園まで出かけました。
JR新福島駅を降りて、福島西通りから、あみだ池筋を南に歩きました。
福島区のことを知らない妻に、
「あの建物の所が田辺聖子さんの家があったとこやで」とか言いながら
下福島公園に向かいました。
「のだふじ巡り」の幟が立っています。
昨晩、当主の藤三郎さんからメールが届き
「今年の福島区のフジ」の咲き具合を懸念しておられました。
公園一帯を見わたしてみて、成程
「あれだけ新聞記事に大きく載ったのに…」と感じました。
昭和48(1973)年2月大阪市による再現「野田ふじと藤邸の庭」は、
今や福島区の名所の一つです。

写真図1 再現下福島公園

「…将軍足利義詮や太閤秀吉などが野田の旧家藤邸へ来遊しました」と刻まれ、
来客をしてロマンの世界に誘う文言が刻まれていますが、
今や主役となった三好長慶の名が
此の昭和48(1973)年2月が銘文には見えません。
そんななか「のだふじの会」はじめブースが立ち並び、
のだふじの苗木、関連グッズ、お土産など盛んに販売されています。

写真図2 購入したお土産「野田藤笑来美餅」

「三好長慶NHK大河ドラマへ」キャンペーンが展開されています。
この日は特設ステージに福島区歴史研究会から幟を立てることになりました。

写真図3 福島区歴史研究会持参の幟を手にするご両人

左は森畑通夫幹事長、右は当主でもある藤三郎副会長。
福島区コミュニティサロン「福っくらトーク」での約束が果たされました。
ステージでは「野田ふじ賛花」が初披露されました。

写真図4 配布された歌詞と楽譜

てっきり野田ふじ「賛歌」とばかり思っていたのが「賛花」でした、
灰汁の強い演歌風のメロディに乗せて
「財布の中で みんなに愛され」の5000円札の野田ふじも歌われるやで、
この曲が今後、福島区のご当地ソングになるのでしょう。
ステージは福島区マスコットキャラクター「フッピー」も登場し大盛り上がり。
私たち二人はイベントの賑わいを余所に会場を発つことにしました。
それでも気になるのがフジの花。
行きしなは気にもかけなかった藤棚に目をやりますと、たしかに咲いています。

写真図5 公園内の藤棚



正面(北)の建物は昔の厚生年金病院、現在の大阪病院です。
野田の藤に病院は、よく似合うのかな?

写真図6 公園北東出入口近くの藤棚

車椅子の高齢者の方を見かけたりもします。
病気療養中の方の癒し効果があるのでしょう。
けっして整備の行き届いているとは云えない場所にも
フジの房が垂れていて、可憐にも花を咲かせています。
二人は実家のある鷺洲に向けて歩くことにしました。

毎年、コンスタントに花を咲かせる妙寿寺のフジを妻に見せたくなったからです。
まず了徳院「聖天さん」の山門を潜りました。
昨晩の藤さんからの情報は的中していました。
やっぱり咲いていませんでした。
花が咲いていない藤棚を諦めていたところ、
江成公園をスタートした
「のだふじウォッチングめぐり」一行と出くわしました。
花が咲いていないからなのでしょう、リーダーは
「ここでは休憩にします」とアナウンスしていました。
私たち二人は本堂にお賽銭を投げ入れてから、
ふと池の方から稲荷堂あたりに目を見やりました。
桃色や紅色の花が見事に咲いているのでした。
これを見逃してはなるまい。
弁天池の片隅のツツジの花に焦点を合わせました。

写真図7 弁天池の片隅のツツジの花

朱色に塗られた燈籠の右下に立つ石柱には
たしか「浦江名所かきつばた…」と書かれていたと記憶します。
今や「浦江杜若」は語りぐさとなる中、
旺盛な躑躅の花盛りが目を惹きます。
「やはり聖天さんは何時来ても発見がある」なんぞの思いに浸っていたところで
妻にワンショット。これは非公開です。
山門を出て妙寿寺に向かいます。

黒く塗られた塀越しに藤棚を見やる限り、
昨春、「のだふじウォッチングめぐり」一行皆をして、
一斉にシャッターを押さしめた勢いがみられません。
檀信徒の一人であるボクは合祀墓のある墓地の扉を開けて入りました。
そこで一礼をしてワンショット。

写真図8 妙寿寺の藤棚

もう萎れていました。
お寺の奥様に今年の藤をお訊ねしましたところ、
十日程まえが盛りであったとのこと。
潔く散るソメイヨシノもあれば、
聖天さんの枝垂れ桜も、そうでしたが
花は時季を過ぎて、みすぼらしく
残花ともなるものもあるようです。
合祀墓の予約を済ませて実家に向かいました。

実家では隣の姐ちゃんは妻の話すことに
ちゃんと向かい合って相手をしてくださった。
その時の妻は生き生きとしていました。

今回は、お披露目「野田ふじ賛花」の日に感じたことを
とりとめもなく書き綴りました。

 

追記
モーリー・ロバートソンさんのオフレコでの会話から思い付きました。
「花は盛りのみを見るものかは?」



究会代表
福島区歴史研究会会員 田野 登

前回、五畿内以外の諸国の野宮(ノノミヤ)信仰を追いますと予告しました。

今回のタイトルは「水の神」です。

何処の野宮に「水の神」が出るやら?

 

前回、冒頭に京師「山城国」における野宮信仰を取り上げ、

「はたして全国各地の「野宮」の全てが

「斎宮・斎院になるために一年間こもる宮殿」と解釈されるでしょうか?」と

投げかけました。

手始めに摂津国の野宮を挙げ、浦江の野宮に「斎宮祓除之地」、

島下郡の野宮に「難波三所」の言説を見出しました。

これらの言説は宮中における祭祀に関係するものであります。

今回は畿内である摂津国を除く諸国の野宮を取り上げます。

まず三河の野宮を*『愛知県の地名』に見出しました。

 *『愛知県の地名』:『愛知県の地名』日本歴史地名大系第23巻、1981年、平凡社

「西尾市」の項から引きます。

◆野々宮村 現在:西尾市野々宮町/市の南に位置し、矢作川の右岸にある。

 北は斎藤村、東は横手村、南は平口村、西は市子村に接する。

 三河国内神名帳に「従四位下 斎宮明神 坐幡豆郡」とあるのはこの地で、

 清和天皇の貞観元年(859)の大嘗祭に悠紀斎田が置かれ、

 本社はその斎宮・斎宮明神といったと伝えられ、

 野宮神社(ののみやー)はこの斎宮明神であるとされる(福地村誌)。

 

この記事は「斎宮祓除之地」ではないものの、天皇即位儀礼の一環としての

大嘗祭における「斎田」の地とされ、

それを「斎宮・斎宮明神」の由来と伝承しております。

同じ三河の野宮につき*『地名大辞典23』は「野々宮」の項には

次の記述があります。

 *『地名大辞典23』:『角川日本地名大辞典 23愛知県』1989年

◆ののみや 野々宮〈西尾市〉/矢作古川右岸に位置し、氾濫原の沖積低地。

 地名の由来は、清和天皇大嘗祭悠紀斎田の地に社殿を造り、斎宮明神と称したが、

 俗に野宮と呼び、のち野々宮となったという(福地村誌)。

 野宮社には清和天皇悠紀斎田跡の碑がある。

 

こちらの方は「斎田跡」の顕彰碑の存在まで挙げています。

三河の野宮は、宮中祭祀との関係を謳うものであります。

 

次に*『鳥取県の地名』から因幡国の野宮記事を挙げます。

 *『鳥取県の地名』:『鳥取県の地名』日本歴史地名大系第32巻、1992年、平凡社

「上野村」の項から引きます。

◆上野村(かみのー)現在:船岡町上野/

 八上郡下村の東、八東川南岸の河岸段丘上に立地する。(中略)野々宮神社がある。

 山城国小倉山(現京都市右京区)の野々宮大明神を勧請したと伝え、

 かつては野々宮大明神と称した。

 

「山城国小倉山の野々宮大明神を勧請」とあり、京師との結びつきが認められますが、

宮中祭祀との関係は間接的なものであります。

此処までは京師との関係が伝承されている事例であります。

 

次に周防の野宮を*『歴史地名大系36』から取り上げます。+

 *『山口県の地名』:『山口県の地名』日本歴史地名大系第36巻、1980年、平凡社、

「玖珂郡」の「野谷村」記事を引きます。

◆野谷村 現在:錦町大字野谷(上略)氏神は広瀬村市頭の八幡宮で、

 村内には字吉野に猿田彦命を祀る野々宮があった。この社は社伝に

 「往昔伊勢国度会郡野々宮より吉野氏何某霊験者に因て勧請、

 社辺を野々峠と改」といわれ(注進案)、村名の由来とも関係あるとされる。

 

周防の野宮に「伊勢国度会郡野々宮」があり、

遠くにあって、伊勢神宮外宮と関係する霊媒者による勧請が記されています。

村名「野谷」が此の「野々宮」との関係を云々するに至っては、

宮中祭祀とは愈々、迂遠な関係となります。-

 

信濃の野宮や如何?

*『長野県の地名』「南安曇郡」の「野々宮神社」を引きます。

 *『長野県の地名』:『長野県の地名』日本歴史地名大系第20巻、1979年、平凡社

◆野々宮神社 現在:梓川村大字倭 北大妻

 北大妻集落の西北部に位置し東向き。旧郷社。

 祭神倭姫命・誉田別命・伊弉冉尊。

 初見は天文年代(1532―55)で「二木家記」に「野々宮」とある。

写真図1 「梓川村」とある上高地・河童橋・梓川

 

此処までのところ、京師・宮中祭祀、伊勢との関係は窺えません。

(中略)を挟んで引用を続けます。

◆祭の中にかつて7月5日の夜祭に旧上野組21ヵ村の参加のもとに

 蚕穀豊穣祈願のため引目鳴弦の神事を行い、

 旱魃の時には温堰(ぬるせき)掛りの村々が野々宮に集まって雨乞いをし、

 梓川に洪水の出た時は神社を温堰の取入口の荒井に移しこれを祀ることを例としている。

 こうした神事から山にこもる水の神を祀ったことが想像される。

 

漸くタイトルの「水の神」が「野々宮」に出ました。

「蚕穀豊穣」といった生業の祈願のほか、「旱魃の時」の「雨乞い」、

「洪水の出た時」の「温堰の取入口」における神事が挙げられています。

 

この洪水の伝承は、土佐の野宮においても見られます。

*『大日本地名辞書』「土佐(高知)香美郡 野宮」を引きます。

◆野宮(ノノミヤ)深淵社と称す、

 三代実録、貞観12年、土佐国大谷神受位と云ふも此神たり、

 今佐古村大字大谷存す。(中略)

 〇土佐式社考云、此社今在野市(ノイチ)、里人呼為十禅師、

  旧祠嘗在深淵村、地広樹老、尤可凝信、

  寛永中、前国宰墾闢鏡野、灌漑之利、被数千町、於是河水失古道、数流合併為一、

  一旦洪水壊攘、社地為所壊決、巨木恠厳、今尚在河底、

  見在十社、四十年前里民徙造之云。

 

野宮深淵社にあっては寛永年中の灌漑工事によって河水が整えられたものの、

一旦、洪水による決壊となれば「河底」となる危険が挙げられています。

写真図2 河川氾濫イメージ図

 

土佐の野宮深淵社に対応する記事は

*『高知県の地名』「香美郡」の「野々宮神社」に見えます。

 *『高知県の地名』:『高知県の地名』日本歴史地名大系第40巻、1979年、平凡社

◆野々宮神社 現在地:野々市町西野 東上野

 西野の北部、通称東上野に鎮座。

 八幡宮と野神(のがみ)社が合祭され、野宮(ののみや)とも野宮八幡ともいう。

「野神(のがみ)社」に注目します。

 

「合祭」とあり「野宮」と「野神」が一体となっている事例です。

「野神」は『広辞苑 第七版』2018年、岩波書店には

「水路の傍や池の脇など、水辺にまつられる農作の神」とあります。

まさに「水の神」でもあります。

宮中祭祀伝承を負わない「野宮」に

今まで見えなかった「野神」が漸く見え出してきました。

摂津国における「野宮」が京師における天皇即位儀礼に伴う

斎宮による祓除が語られる一方で、信濃、土佐の「野宮」では、

「水の神」祭祀が見え、天皇即位儀礼に絡む言説は見られません。

次回は、諸国の「野宮」ならぬ「野神」に関心を寄せることになります。

 

究会代表 田野 登