晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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朝、拙宅を出ました。

朝から雲一つないカンカン照りです。

嗚呼、今年も海老江の八坂さんの

ダンジリのカンカンという鉦の音を聞かなんだ。

新建家を抜けた角のお屋敷の空き地では蝉がシャンシャンと鳴いています。

そう「初蝉」の原稿は、もしかしてボクの勘違いで、とうに鳴いていたのかも?

モヤモヤした気分を晴らそうと

ごそごそと机に向かい「日々寸感」を書くことにします。

「カンカン照り」の「カンカン」は鉦の音のような音でもなく、

様子でもなさそうなので辞書に当ります。

①    金属質の堅い物が連続して打ち当たる澄んだ音。

②    太陽や火などの熱が強烈であるさま。

③人が激しているさま。

②の「太陽や火などの熱が強烈であるさま」に異論はありません。

③のカンカンに怒るのも烈火の如く、熱くなる様です。

辞書には(声)とあります。

これ擬声語?

市岡で新米教師だった頃、「喧々諤々(けんけんがくがく)」が教科内で話題になり、

それは誤用だと『新字源』の先生から教わりました。

「侃々諤々(かんかんがくがく)」と「喧喧囂囂(けんけんごうごう)」が

混同した誤用なのです。

「侃々諤々」は「剛直ではばかることなく直言するさま」で「侃」は

「つよい。正しく強い」とあります。

日差しが強くて雨が降らない空模様を「干天」「旱天」といいます。

この「旱」は「侃」と日本語では「カン」と同じように発音しますが、

六朝および唐宋の中国語に存在した4種の声調は上声、「旱」部で

これも一致します。

カンカンの旱(ひでり)の中、カンカン帽を被るのも一理あるのかも知れませんね。

このところ、「熱射病」と云わずに「熱中症」と云います。

今年の夏は未だ

ダンジリのカンカンと、せわしなく搔き鳴らされる鉦のを聞いての

暑気払いを済ませておりません。

海老江の八坂さんは外しましたが、

浦江の八坂さん、野田のエベッサン、福島の天神さんと

大阪の暑苦しいは夏本番を迎えています。

心穏やかではおられません。

 

摂州浦江の破屋の気まぐれ住人 田夫野人

大阪に生まれ育った民俗学者・折口信夫の

大正9(1920)年発表の「妣(はは)が国」の

キーワードの一つに「ふるさと」が挙げられることに気づきました。

「ふるさと」となれば、

高野辰之作詞の小学唱歌(大正3(1914)年発表)を思い起こします。

「うさぎおいしかのやま」のウサギは、何だったのでしょう。

まさか「美味しい」食料やあるまい。

【ウサギ文化史と養兎の世界@探検コム】参照。

https://tanken.com/rabbit.html

毛皮として利用されたのかも?

いずれにせよ。

戦後の都会生れの私にとってウサギは、

小学校時代の「飼育園芸部」に

少しの間、入っていた頃、ヤギなどとともに

糞の掃除を手伝わされたことぐらいしか思い出せません。

「愛玩動物以前」のウサギを知ったのは物心がついてからのことです。

そんな私に、ウサギの毛皮が兵隊さんの防寒に用いられていたという情報が

どこやらを検索するうちに飛び込んできました。

その情報源を見失いました。

本なら複写しているでしょうに。

抑々「小学唱歌」という歌唱は、今や大正や敗戦前の昭和を懐かしむだけでは

済まない、戦後とは異なる時代の暮らしの文脈で捉えれば

この時代に蔓延しつつある怪しげな歴史観を対象化できる恰好の材料と思えます。

情報収集が容易くなったこの時代、

今日とは異なる暮らしに生きた先人の世界を

好奇心を持って探訪したくなる日々です。

 

摂州浦江の破屋の気まぐれ住人 田夫野人

連載標題を「日々寸感」に替えました。

気まぐれに日々の些事を書き連ねることにします。

朝8時、拙宅を出ようとしたところ、大粒の雨。

慌てて芯のシャンとしたビニール傘を出す始末。

途中、四ツ辻の登校安全に奉仕されている方に、

今日の原稿に、この俄雨を書こうかなと持ち掛けたところ、

「ゲリラ豪雨」に話題が移り「最近は何処も道路が舗装されたから…」。

これでは、あまりに風情に乏しい。

雨の語彙の豊かな、このお国柄のこと。

「夕立ち」?朝だから朝立ち、これはちょっと意味が違う。

「驟雨」?「驟」は馬偏だから馬が速く走るからとか?

色っぽい絵柄の錦絵を思い出しました。

初代長谷川貞信「浪花百景 北新地樋之橋白雨」です。

朝だけれど「白雨」。

俄雨の真只中、雨であたりが真っ白。

蛇の目傘は風のせいか窄めて駆け出す商売人。

画讃を載せます。句読点改行は私的です。

  此里ハ蜆川に添て

     東西七八丁が間、両側裏町青楼建つらねて

    壱丁目二丁目三町めと分ち、

    南は大川堂嶋に隣り、北は曽根崎北野の佳景を望む。

    殊に二丁目は妓娼品格賤しからず、

    諸侯の御蔵屋敷の貴客冨客遊宴して、

    四時の繁昌他のさとに勝るといふべし。

傘を窄めて急ぐのは男ばかりではありません。

貌こそ傘の内で見えねども、

裾を摘まみながら急ぐのは品格賤しからぬ妓娼かな?

白雨のなせる寸景です。

505号室窓外には、蝉時雨が待機していたように降り始めました。

 

摂州浦江破屋の気まぐれ住人 田夫野人

このところ、「ファースト」という言葉が目につきます。

東京都で「都民ファースト」が唱えられ始めたのは2016年の都知事選で

翌年に結党されたようです。

当時「ファースト」は政権にある保守政党と区別する団体かなぁぐらいに感じていました。

「ファースト」はもともと「アメリカ・ファースト」といった政策があったようです。

トランプ政権において声高に喧伝されるようになって初めて

「ファースト」の名のもと除外される人々がいることに気づき出しました。

それが選挙が近づいてきたせいか、「日本人ファースト」連動して「現役優先」が

SNS、マスコミを通じて流されるようになって、

他人事では済まなくなってきました。

 

この社会に暮らす人々の中での「分断」が煽られているように感じます。

隣の部屋からは「夫婦喧嘩」が聞こえてきます。

それは英語での罵り合いゆえ、ボクにはさっぱりわかりませんが

ご主人とは顔を合わせれば和やかに会話します。

近くのコンビニに早朝、夜間、買い物に出かけますと、

彫りの深い顔立ちで小麦色の肌をした女性店員が、日本語で応対してくれています。

訊ねてみますとスリランカから来たとのこと。

真向いにはチキンカレーの店があって、スパイスの香りが食欲をそそります。

都会は歴史的にも、さまざまな人々が雑居する場所でした。

 

今から30年ほど前、拙著『大阪のお地蔵さん』1994年を出しました。

関西国際空港開港のひと月前に書いたです。

《第三章》は「〖平成版」大阪地蔵十一カ所巡り」です。

ラインナップを挙げます。

「雑居都市大阪」の一端を読み取っていただければと思います。

①【アジア人に霊験あらたか船場の油掛地蔵:中央区南船場・油掛地蔵尊】

②【冥土の門のお地蔵さん:北区豊崎・道引地蔵尊】

③【夜泣き地蔵と笑い地蔵:淀川区東三国・大願寺笑い地蔵尊】

④【井路端の酒浴び地蔵:旭区千林・朝日地蔵尊】

⑤【鶴橋のチョゴリ地蔵さん:東成区東小橋・子安親善地蔵尊】

⑥【朱雀大路脇の北向地蔵さん:天王寺区細工谷・北向地蔵尊】

⑦【弘法井戸のお地蔵さん:天王寺区堀越町・清水地蔵尊】

⑧【環濠都市のお地蔵さん:平野区平野東・田畑口地蔵尊】

⑨【六道の辻のお地蔵さん:住吉区東粉浜・閻魔地蔵尊】

⑩【ウチナーンチュのお地蔵さん:大正区千島・風切り地蔵尊】 

⑪【「煙の都」のお地蔵さん:西淀川区百島・延命地蔵尊】

高齢者だけでなく、ビジネス街で働く人々。「在日」の一世・二世・三世。

ウチナクチを話すお婆ちゃん…。

さまざまなルーツ、「過去」を背負った人々が、何やかやと言いながら

お地蔵さんを世話する「都会」でした。

 

摂州浦江破屋の持主 田夫野人

前回の《暮らしの古典134話 なのりそ》の結びは、

「折口の「祖の字=母」言説を1924年9月以前に遡って考察しようと思います。

背景に「妣(はは)の国」への想いが控えているようです」でした。

今回のタイトルは「於母影」です。

「妣」ではありませんが、ちゃんと漢字の「はは」が入っております。

訓みは「おもかげ」であります。

森鷗外の訳詩集のタイトルです。

 

「於母影」の「於母」を「おも」と訓じるのは、歴とした「万葉語」です。

万葉集での「おも」の表意表記には「母」「乳母」があります。

如何にも「母を想う」といった思わせぶりなタイトルですが、

「おもかげ」の用例にも、母を想い慕って、

如何にも母の顔立ちが思い浮かびそうです。

光る源氏の物語での藤壺女御は、あらぬことか、

義子たる光る君と不義の契りを結びます。

光る君からすれば、亡き母の面影を慕っての恋でした。

はたして光る君にとって何人目の女性だったのでしょう。

 

本題の*折口「妣の国」1920年論文の何処に「おもかげ」が見えるやら?

*折口「妣の国」1920年:「妣が国へ・常世へ―異郷意識の起伏」

『折口信夫全集2』1995年、中央公論社、

初出1920年5月、『国学院雑誌』第26巻第5号

「妣が国へ・常世へ―異郷意識の起伏(その一)」

折口「妣の国」1920年は『全集2』に12頁に及ぶ論文で

その梗概を記すだけの力量が無いゆえに

*リンジー・モリソン2022年論文の記事を引用します。

 *リンジー・モリソン2022年論文:リンジー・モリソン2022年3月 

「「妣の国」解釈の再考

―古代日本人の「魂のふる郷」を捉え直す」

『アジア文化研究』48号

モリソン2022年論文ではスサノオ、イナヒの「妣の国」恋慕を

「本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語」とした上で次のとおり記述しています。

◆ここで折口は10年前の記憶を掘り起こして、

 三重県の大王崎から海を眺めて妙な郷愁に浸った経験を回想している。

 その時、波路の遙か向こう側に古代日本人が恋い慕った「妣が国」

 (本稿では「妣の国」と表記する)、

 すなわち日本人の「魂のふる郷」があると悟ったという。

 それは遠い先祖の「間歇遺伝」、

 いわば隔世遺伝を通して伝承された想念だと述べるほど、

 折口はこの経験に強く心を打たれたようである。

 この「妣の国」とはいったい何か。

 『古事記』にはわずか3例しかない語であるが、

 その言葉および観念が持つ情緒力は実に多大である。

 

写真図 三重県の大王崎のイラスト

このようにアジア文化研究者をして惹き付けた、

折口「妣の国」1920年の冒頭は以下のとおりです。

◆われ/\の祖たちが、まだ、青雲のふる郷を夢みて居た昔から、此話ははじまる。

 而も、とんぼう髷を頂に据ゑた祖父・曾祖父の代まで、萌えては朽ち、

 絶えては蘖ひこばえして、思へば、長い年月を、民族の心の波の畦りに連れて、

 起伏して来た感情ではある。

 

先祖代々、潰えては芽生えを繰り返す、

「民族の心の波の畦りに連れて、起伏して来た感情」とは

いったい何なのでしょう。

神の意を表す「しめすへん」の「祖」には「オヤ」、

「祖父・曾祖父の代」の「祖父・曾祖父」には「ヂヾ」「ヒヂヾ」のルビが振られています。

世代を数えるのに、この国では男親・父親の漢字を宛てています。

折口「妣の国」1920年に女偏の漢字を見つけるのに私は躍起になりました。

◆すさのをのみことが、青山を枯山カラヤマなす迄慕ひ歎き、

 いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、

 われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。

 いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、

 世々の語部の解釈で、誠は、

 かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。

 

漸く見つけた女偏の漢字は「妣が国」の「妣」でルビは「ハヽ」でした。

『全集本』にして冒頭から数えて40行目でした。

スサノオ、イナヒの記事中の「「妣ハヽが国」は、

「われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷」でした。

「母」を求めて続きを読みました。

◆而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣があると思ふ。

 第一の想像は、母権時代の俤を見せて居るものと見る。

 即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ/\移つて行くに連れて、

 愈強くなつて来た懐郷心とするのである。

 

「母権時代」の「母」は44行目、「母の家」の「母」は45行目です。

「母権時代」は「母権時代の俤」にある語です。

「俤」には「おもかげ」のルビがあり、

その「おもかげ」はタイトルの「於母影」を宛てることもできます。

漢字「俤」は国字のようです。

母の影を慕って、

折口は「母権時代の俤」をスサノオ神話を読み取ったのでしょうか?

次回は、『古事記』原文に照らしながら、

折口「妣の国」1920年の世界に踏み込んでみようと考えています。

折口「祖の字=母」言説を確かめたいがためです。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登