晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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2026年4月25日(土)は

大阪あそ歩「海老江・鷺洲コース」の実施日です。

4月12日(日)に福島区歴史研究会メンバーと4人で下見に「探検」してきました。

待ち合わせ場所は、「のだふじ発祥の地」福島区の名所の一つ

野田阪神前藤棚の下です。

写真図1 野田阪神前の南からの眺め

     

正面高架は阪神本線「野田駅」、阪神高速道路の橋脚に「福島区の花」。

集合場所の藤棚は橋脚の背後に見えます。

集合場所は本番どおり、時間は本番より30分遅れの13:30でした。

なぜ本番は4月25日なのでしょうか?

野田阪神前、了徳院聖天さんの藤の花満開を狙ってのことです。

本番どおり、待ち合わせの時間潰し用のクイズを配布。

何の役にも立たないクイズは以下の10問です。

答は、本番のガイドの説明中に話します。

 

海老江・鷺洲「マチ歩き」クイズ

○には仮名、□には漢字、△には数字を入れて完成してください。

1 福島区の花は何でしょう。

    野田「○○」

2 石畳路地の石は、西暦何年に敷かれた石でしょうか?

    19△5年

3 海老江出身の冒険家は、誰でしょう。

      □江□□

4 海老江の饗の神事で供えられる、出世魚は何でしょう。

    イ○

5 海老江八坂神社の松瀬青々の句は、何でしょう?

   □の花のはじめや北に雪の山

6 海老江交叉点の角にあった、「日本昔ばなし」で有名なお線香の工場は何でしょう?

     □□堂

7 福島ガーデンズタワーの場所は、イチロー選手のグラブを作っていました。

  メ-カーは?

   「世界の○○○」

8 鷺洲小学校の校歌に歌われる難波八十島は?

   た○のしま

9 浦江聖天にある芭蕉句碑の初句は?これも花の名です。

   か○○○た語るも旅のひとつかな

10 福島聖天通の愛称は?

   売れても□い商店街

 

問題の形式は大阪府立某高校での授業体験を基に考えました。

如何でしょうか?

今回の福島区歴史研究会メンバーには易しすぎて、あまり受けませんでした。

本番さながらラミネート保存した古写真、地図、文献を駆使して説明をしつつ、

福島区歴史研究会メンバーの目での「探検」に出かけました。

探究心旺盛なメンバーによる探検は案の定、長時間にわたりました。

その時の模様をナッシー会友からレポートしていただきました。

メールによる原稿は長文につき前後を割愛して掲載します。

◆…久しぶりに歩道橋の上にも。疎開道路がよくわかり、

 海老江中の歩道橋は「昭和44年2月完工」とありました。

 あれから歩道橋はめっきり少なくなりましたが、

 児童数が増え、車も多い鷺洲地区に、

 今も貴重な歩道橋が大活躍していることに気付かせて頂きました。

 鷺洲上公園は初めて立ち寄りました。

 公園内に舗装道路のミニコースがあり、

 子供達が自転車に乗ったり元気に遊んでいる中で、

 私たちが思い思いの石に座り田野さんから説明を受けていると、

 可愛い女の子が来て

 「みんなで何してるの?探検してるの?」とインタビュー。

 「探検してますよ」と答えつつ、

 田野さんの下見は確かにそんな感じかな?と子供の視点に感心したり、

 言われて楽しくなったり。探検は暗くなるまで続きました。…

 

以下、田野による記述に戻ります。

今回のボクの発見は、海老江中交差点の歩道橋の完工が

「昭和44(1969)年2月」であることです。

ボクは「時には歩道橋には設置の時が書かれていたりします」と言いながら

澪としていたのをナッシーさんは、

態々、歩道橋まで戻り信号を渡って写真を撮ってきてくださいました。

写真図2 海老江中歩道橋

     

左(南)方向は野田阪神、右(北)方向は淀川大橋です。

ナッシーさんからの写メールはこれです。

写真図3 海老江中歩道橋「昭和44年2月完工」

今思えば昭和44(1969)年は前の万博の前年、野田阪神に地下鉄が開通した年です。

前の万博は大阪の街に地下鉄網が張り巡らせることになりました。

今から57年前のことです。

ボク的には市岡高校を卒業して1年後、燻っていた時代のことです。

東進して平成13年大阪市建立の「大和田街道・梅田街道」の顕彰碑を前に

福島区歴史研究会顧問の末廣訂さん作成の「海老江地図」に照らし、

問題点を指摘しました。

本番でも問題点を指摘します。

「海老江地図」には水路「井路川」と街道が描かれています。

一行は海老江の中心部の八阪神社、南桂寺を経て、

「水郷・海老江」を探検しました。

大阪あそ歩のマップに描かれていない朝日地蔵堂などなど本番でもガイドします。

此処まで来ますと前方に鷺洲に建った20階建マンションが見え始めます。

 

海老江東交差点を渡り東進しますと鷺洲です。

前方の建物の屋上にロケットが見えます。

その建物の真下に立ちますと「ロケットマンション」とありました。

ナッシー報告にありました鷺洲の歩道橋に登りロケットを確かめました。

写真図4 鷺洲歩道橋から西の眺め

疎開道路(大阪市道九条梅田線)の右(北)側に今や件の地上20階建マンションが建ち、

その手前(東)の「ロケットマンション」のロケットが

コンビニエンスストアの看板の後方(西)に、健気に立っています。

はたして、このロケットは誰が立てたのでしょうか?

本番では探検結果を話します。

鷺洲はモノづくりの街でもあります。

前方にゴールのJR福島駅のランドマークとなるホテル阪神が見え隠れしだします。

鷺洲交差点の聖天通を東進し、了徳院聖天の山門にさしかかったところでワンショット。

写真図5 了徳院聖天の山門の枝垂れ桜

願っても無い光景に一同溜め息。

一行の探検はゴールを過ぎて、浦江八阪神社を目指しました。

大阪あそ歩「海老江・鷺洲コース」の詳細、お申し込みは

 ↓アクセス

https://www.osaka-asobo.jp/course960.html

 

究会代表

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

前回172話≪野施餓鬼≫は

「次回は、「野々宮」を地形面から洗い直します」と予告しました。

今回は、「地形面」に限らず、摂津国はもとより全国的に

「野々宮」(以下、引用箇所以外は「野宮」)を

「野宮信仰」といった観点から見わたしたいと考えております。

タイトルは「野々宮」ならぬ「野々村」です。

 

「野々村」という名辞は何?

地名?人名?

村の名前?野々村さんという人の名字?

大阪あそ歩で大阪市港区をガイドしていて

区役所の町名掲示地図の前で立ち止まり、町名を見つめます。

「田中」「池島」「市岡」「福崎」「石田」…

田、島、岡、崎が付くから地名?

「八幡屋」なら屋号と分かります。

「田中」「池島」「市岡」「福崎」「石田」「八幡屋」は

町人請負新田の開墾者の名前から来た町名でした。

本題の「野々村」は何処に出るやら?

 

今回「野宮信仰」と大上段に振りかざしましたが、

起点を『広辞苑 第七版』©2018 株式会社岩波書店の

「ののみや 野の宮」により確認をすることにします。

◆皇女もしくは女王が斎宮または斎院になる時、

   潔斎のために一年間こもる宮殿。黒木の鳥居を設け、柴垣をめぐらす。

   斎宮のは嵯峨に、斎院のは紫野にあった。

 

はたして全国各地の「野宮」の全てが

「斎宮・斎院になるために一年間こもる宮殿」と解釈されるでしょうか?

手始めに京師の「野宮」から見てみましょう。

*『京都市の地名』「右京区」から引きます。

 *『京都市の地名』:『京都市の地名』日本歴史地名大系第27巻、1979年、平凡社

◆野々宮神社 現在地:右京区嵯峨野野々宮町/天竜寺の北、

   小倉山麓の二尊院に通ずる道の竹林中にあり、伊勢斎宮の野宮の旧地。(中略)

   野宮は、斎王に卜定された未婚の内親王が斎宮(伊勢)・斎院(賀茂)に移る前に、

   一年間潔斎のためにこもる所で、「延喜式」(斎宮)に(中略)と記される。

   すなわち斎王が決まるごとに宮城外の浄野を卜定しており、

   一定した場所はないが、斎宮の野宮は嵯峨野、

   斎院の場合は有栖川(現北区)であることが多い。

 

「一定した場所はない」、なるほど一回ごとに更地でないと「浄野」でありません。

小倉山の「野宮」では「宮城外の浄野」を卜定するとあります。

「宮城」の対義語は、清浄な「野」です。

賀茂の野宮につきましては、*『大日本地名辞書』「紫野斎院址」を引きます。

 *『大日本地名辞書』:吉田東伍『増補 大日本地名辞書 第二巻』増補版第七版、

1981年冨山房

◆野宮(ノノミヤ)とも云ふ、雲林院の南に在るか、不詳。

  [名勝志]賀茂斎王の本院にて興廃の始末詳ならず。

    三代実録云、賀茂斎内親王、臨鴨水修禊、是日便入紫野斎院。

 

斎王自ら「臨鴨水修禊」とあり、鴨川における水によるミソギが記されています。

この段に至って諸国の野宮記事に目を転じます。

 

手始めに摂津国の「浦江の野宮」を*『大阪府全志』から引きます。

 *『大阪府全志』:井上正雄、大正11(1922)年『大阪府全志』巻3

(『大阪府全志』1985年復刻版、清文堂出版)「浦江」

◆素戔嗚尊神社は字東里中にあり、素戔嗚尊を祀れり。由緒は詳ならず。

   明治5年村社に列し、同42年12月12日字西里中の無格社八幡神社(応神天皇)・

   字江川の同野々宮社(飯豊受皇大神)・字宮の前の同斎宮社(飯豊皇女神《ママ》)を合祀し、

   同42年6月神饌幣帛料供進社に指定せられ、

   同45年7月25日字東殿の無格社和邇社(和邇臣)を合祀せり。

   合祀せられたる野々宮神社の旧地は拾五坪、斎宮社の旧地は拾六坪にして、

   摂津志に「野宮神殿 古昔斎宮祓除之地、倶在在《ママ》浦江村」と記せるもの是なり。

]  左記津守経国の歌も、斎宮祓除の所なりとしての詠ならんか。

 

浦江の野宮を「古昔斎宮祓除之地」と比定しています。

それは並河誠所編纂『五畿内志』享保20(1735)年*から21年発行の

『摂津志』の記述に基づくものです。

島下郡の野宮について*『大阪府全志』「大字野々宮」を引きます。

 *『大阪府全志』:井上正雄、大正11(1922)年『大阪府全志』巻3

(『大阪府全志』1985年復刻版、清文堂出版)

◆本地は古来島下郡に属し、島村の属邑たりしが分れて野々村と称す。

   摂津志村里の条に「島属邑一」と記せるは、本地を指せるものにして、

   其の分村せしは同志の出し享保以後ならん。村名は野々宮の名に因めるなるべし。

   東方に字落合といへる所あり、是れなん古の水江の里ならんといふ。(中略)

 

タイトルの「野々村」が出てきました。

「野々村さん」でなくて「野々」、単に「野」が広がっている村かもしれません。

写真図1 「野々村」ならねど「野の村」

 

島下郡の野宮についての『大阪府全志』の記事にも『摂津志』が影響しています。

それは「享保以後」の「野々村」分村の経緯にも「野々宮の名」に因むとなれば、

修史作業のはずが、地名の創出を生んだことになります。

『大阪府全志』の「大字野々宮」の記事引用を其のまま続けます。

◆天神社は字西垣内にあり、菅原道真を祀れり。由緒は詳ならず。

   旧志に野々宮と見ゆるは当社にして、難波三所野々宮の一なりといふ。

 

写真図2 「野々宮」ならねど「野の宮」

此の記事には「難波三所」なる場所を示す語が見えます。

京師から「野宮」記述を追ってきたものですから、

此の語が難波における「古昔斎宮祓除之地」として即座に読み取られます。

名前を明らかにしないで「天神社」を『摂津志』に見えるのを此の神社に宛がえ、

「難波三所野々宮の一なりといふ」と記しています。

はたして「難波三所」の場所が『摂津志』以前から

里人が此処を「難波三所」と云っていたのでしょうか?

そうとなれば「浦江の野宮」記事の「斎宮祓除の所」までも怪しくなってきます。

次回は諸国の野宮信仰を追います。

 

究会代表

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

前回171話≪野神≫は

「近世浦江村の「野ノ宮塚」の地が「斎宮入洛時の祓の地」ならぬ

「田野の神を祀る地」に至る道筋が見え始めました。

次回は「野」を固めて「山」に移ろうかな?」で終りました。

今回のタイトルは「野施餓鬼」です。

「野ノ宮」「野神」ときて「野施餓鬼」と来ました。

「餓鬼に施す」の「餓鬼」とは誰でしょう。

「野」で腹を空かしているのは何方様?

まず前々回の《野ノ宮》の資料を一点、補います。

『摂津名所図会』巻6「川辺郡」に「野宮牛頭天皇」記事が見つかり、

「野」を固めることにします。

◆伊丹天王町にあり。古豊桜崎宮と称す。

 後世猪名野の中なれば、俗称して野宮(のゝみや)といふ。

 

「猪名野の中」ゆえ「野宮(のゝみや)」とあって

浦江同様、「斎宮入洛時の祓の地」伝承は見られません。

俗称「野宮」は、今日「猪名野神社(有岡城きしの砦)」と称します。

この野宮の地形について*『調査報告書』に次の記述があります。

 *『調査報告書』:『兵庫県伊丹市有岡城跡調査報告書ⅩⅩⅨ

‐惣構に関する報告 北域篇』

(伊丹市埋蔵文化財調査報告書第52集)2025年3月、伊丹市

報告書は絵図の描写に注目しております。

◆「寛文九年*(1669)伊丹郷町絵図」では、加茂井に沿って描かれている。

 土手・木々が神社に描かれており土塁跡を思わせる。

 

写真図 春の土手イメージ:本文「古豊桜崎宮」

検出物を精査し猪名野神社の北西側は伊丹台地の上加茂面が広がっているとしたうえで、

最終章に次の記述があります。

◆猪名野神社(有岡城きしの砦)北端からは段丘崖/東側でなく、神社西側を走り下りる。

 野宮は西側が急な段丘崖の北端に位置することになります。

 

野宮は猪名川が形成した段丘上の土手に生えた木々に囲まれた場所であったと考えます。

土手となれば、尻無川右岸の「汐止め天神」を思い起こします。

拙著『水都大阪の民俗誌』2007年、和泉書院、

≪14 港区・大正区の波除伝承の仏像≫から引きます。

◆大正区三軒家東六丁目の八阪神社の下の社に「汐止め天神」が祀られているのである。

 以下に同社の禰宜からの聞書の記録を記す。それには、

 「祭神は、素戔鳴尊、応神天皇、仁徳天皇、菅原道真公である。

 外に船魂様も祀っている。

 当社に祀る菅原道真公は、当地・恩加島の開拓者である岡島嘉平次が勧請したもので、

 菅公幼少の砌に縁のある河内国道明寺の系統の信仰であり、

 開拓当初、水害に悩まされたところから、当社の天神さんを

 『汐止め天神』、『引き潮天神』ともいう。

 上の八坂神社(*大正区三軒家東二丁目)には末社に『汐止め天神』が祀られている。

 しかし、『止め』、『引き』、『除け』を地元の人は厭がって口にしない。

 昔、木津川の土手には狐狸の巣がたくさんあって、

 そこから鉄砲水がよく出たとも聞く」という。…

 

「木津川の土手には狐狸の巣がたくさんあって」とあります。

土手は狐狸の巣となる場所でもあります。

此処で「狐」を求めて、再び*『民俗語彙』の「ノ」に戻ります。

 *『民俗語彙』:『綜合日本民俗語彙』第3巻、1955年、民俗学研究所、平凡社

「ノセギョウ」の項に「狐」が見えます。

◆ノセギョウ 信仰 野施行。

 兵庫県・大阪府・奈良県などで行われた、狐の寒施行の別名。…

 神戸市付近では、寒中、市内外の稲荷社を、

 ノラセンギョ・ノラセンギョと呼ばわりながら巡拝する風があった。

 

「ノラセンギョ・ノラセンギョと呼ばわりながら」とある「ノラ」は

「サトワ」の対義語です。

「ノラ」は人の住む人里に隣接する場所で狐狸などの野獣と遭遇する空間であります。

「施行」という限り、施しをします。

『民俗語彙』の「ノセガキ」という語を取り上げます。

◆ノセガキ 信仰 和歌山県西牟婁郡串本町で、

 稲荷を信仰する家が、寒中になると、

 野山へ小豆飯と油揚げを供えて祈禱し、年の吉凶を占うというのは、

 他所の寒施行と同じであるが、野施餓鬼といっている。

 

今回のタイトル「野施餓鬼」が漸く出ました。

野施餓鬼は、

飢えに苦しむ狐に小豆飯と油揚げを施すといった人獣の境界において、

「悪さをしないで」と宥和を図るといった思いに基く年中行事なのであります。

時に祠があり、塚が築かれている場所での行事であります。

*柳田の「民俗学上に於ける塚の価値」を引きます。

 *柳田:柳田国男「民俗学上に於ける塚の価値」

『定本柳田国男集』第12巻、1963年、筑摩書房、

初出:大正7(1918)年7月『中外』2巻8号

◆自分等の推測では、平野の中に起つた村で神を祀る場合、

 山村で神を祀ると同じ様に、特に高く土を盛つたものと見る。

 山の名と塚の名と共通して居るのは、飯盛山ばかりではない。

 茶臼山、茶臼嶽が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。

 かめ塚とかかめ山ともまた非常に数が多い。

 一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。

 野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚と云ふ風に、

 神様がある所には、同名の塚のある例が沢山ある。

 

「野神と野塚」は既に考えてみました。

次回は、「野々宮」を地形面から洗い直します。

 

究会代表

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

2026年4月8日(水)、大阪あそ歩「市岡安治川コース」をガイドします。

昨日3月28日、下見に歩きました。

その際、撮った写真を軸に「市岡安治川コースの下見報告」としてまとめてみました。

まず集合場所はJR弁天町駅「中央南改札口」。

出た真正面に、コンビニエンスストアが見える所です。

北進し、波除公園に向かいます。

人工の山に登り「花見」をしましょう。

北にはJR安治川鉄橋が見えます。

今からすれば、こんなに高くなくてもよかったのに、何故こんなのでしょう?

JRの高架を抜けても波除公園です。

北西の入口近くに「市岡新田会所跡」碑があります。

写真図1 「市岡新田会所跡」碑

碑文は次のとおりでした。(漢数字は算用数字に書換、句読点は適当)

◆元禄年間、市岡与左衛門によって開墾され、

 寛延2年(1749)以後、辰巳屋によって増墾された

 大阪沿岸最大のものである。「昭和46年4月 大阪市建立

顕彰碑は屡々、公園に建立されます。

なぜ公園の北西にあるのでしょう。

会所は古写真によりますと、

安治川を背にし、前は広々とした田圃が広がっていました。

碑の立つ場所は、戦後の盛土工事後の地面に策定されたものです。

公園を出た所で80歳を疾くに過ぎたお婆ちゃんから声を掛けられ暫し立ち話。

若い時分、看護婦をしていて此花区の病院への行き帰りに、

安治川を渡し船で渡っていたとのこと、「なるほど」古地図で確かめられました。

「お元気で」と手を振って、西進。

前の万博の年、1970年に設置された安治川水門が

取り壊されていないか気になって立ち寄りました。

無事を確認し、「オーク弁天ふれあい埠頭通り」に出ました。

弁天埠頭に定期便が無くなった今日、案の定、人気がありません。

すぐ右折しますと「波除山跡」碑のある弁天東公園です。

春休みなので子どもたちがボール遊びの最中、元気な声が弾けています。

「波除山跡」の往時や如何?

写真図2 「波除山跡」碑

碑文を載せます。

◆波除山は貞享元年(1684)河村瑞賢が

 安治川を開いた時搬出された土砂が丘となり、

 のち松が植えられ、瑞賢山或いは波除山の名で親しまれた

 「昭和59年3月 大阪市建立

公園西側の「波除山跡」碑(左上)の立つ場所は何故か6段高くなっています。

碑文中の「丘」を表現しているのでしょう。

公園内には「旧町名継承日千代見町1~があります。

◆(上略)当町にかつて波除山(瑞賢山)があり遠望できたことから、

 千代に(永遠に)望見できるようにと願って付けたものと思われる。

 /平成6年1月 港区役所」     

因みに『摂陽年鑑』貞享2(1685)年記事に

「浪除山波除山と号ク高サ八間二尺…」とありますので14.76mの山でした。

弁天東公園から弁天埠頭に向かいました。

写真図3 弁天埠頭ビルの現在の全容

1965(昭和40)年7月、安治川内港竣工し弁天埠頭が完成し、

1995年2月にはすべての船の発着が終了したようです。

現在、残っているのは中央棟だけで、今回、現況を知りたくて

2階の「バー半分ネコ」を訪ねました。

初め喫茶と思っていたもので、コーヒーを注文しました。

マスターは気さくな方で、ジョンコルトレーンを聴きたくなってきて

何年ぶりか、マイルドな響きを聴かせてもらいながら、

その間、弁天埠頭ビルの発着終了後の様子を聴きました。

マスターはボクより8歳若く、2000年から此のビルで営業しているとのこと。

かつての食堂街であったスペースが各々の事業者が入居し詰まっているとのこと。

序にベランダから内港を眺めさせていただきました。

先ほど歩いた安治川水門が右の方に見えたりしました。

艀船一艘だけの静かな春の海でした。

帰りしな入口の扉越の写真を撮らせていただいてマスターと別れました。

写真図4 「バー半分ネコ」の扉越の店内

思わぬ寄り道により界隈の現況を知る手がかりを得たものです。

北進し、サイロと呼ばれる倉庫群の間から対岸の此花区側の

テーマパークUSJに隣接する高層建築群の遠景を撮りました。

写真図5 テーマパークUSJに隣接する高層建築群の遠景

このあと南進し、大阪メトロ中央線の高架を過ぎ、「みなと通」に向かいました。

左手に銀行が見える交差点を右折し「みなと通」に出ました。

心は「磯路桜通り」の其の後にありました。

「みなと通」を渡り港区役所前で「住居表示町名案合図」を前に

かつての新田の名残の人名・屋号に基づく町名、市岡をはじめ

石田・福崎・池島・田中・八幡屋を確かめました。

大阪の港区は「港」の付く町名は、築港・港晴といったのがあるだけで、

臨海部の周囲を「海岸通」が占めていることに気づきます。

大阪の「港区」は「港区政100周年」を謳うものの、

現行・昭和13(1938)年施行の区域の町名を見る限り、「港」というより、

町人請負新田であった場所が近代になって急激に開けた町であることは明らかです。

懸案の「磯路桜通り」の桜が毎年、道路越しに見えたものが今春は見えません。

目印とする尼崎信用金庫の看板を目指しました。

その手前には「桂音会」の看板が立っていました。

「桂音会」の「桂」は「桂町」、「音」は「音羽町」。

いずれも桜通りを挟む両側の旧町名です。

「桂音会」は桜を所有し管理する沿道住民で構成されていた団体です。

その看板の立っていた場所に立ちました。

写真図6 「桂音会」の看板が立っていた場所

手前の黒く見えるのはアスファルトで新たに舗装された場所です。

これが「桂音会」の看板が立っていた場所の現況です。

この黒く見える場所は随所にあります。

大阪市港区HP

《経過と「桜通り」についての経過と今後の方向性について 2025年1月16日》を

@https://www.city.osaka.lg.jp/minato/page/0000600651.html

引きます。

◆*(弁天地域に加えて)磯路地域側におきましても、

この間、「桂音会」の方々と協議を重ね、

弁天地域と同じく危険木の安全対策についての本市宛ての要望を

令和5(2023)年3月に受けまして、

令和5年度から2カ年にわたり本市工事において撤去を進めております

(「桂音会」が移植を予定している若木を除く)。

この記事は「撤去工事の概要」に続きます。

年に4度しか訪れない者が関与できない地域の事情があってのことでしょう。

「市岡安治川コース」下見は、この後、大正末に開園し僅か5年で閉演した遊園地

「市岡パラダイス」の現況を確認しJR弁天町駅まで引き返しました。

このコースの詳細、お申し込みは大阪あそ歩HP

 ↓アクセス

https://www.osaka-asobo.jp/course717.html

 

究会代表

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

今週の《暮らしの古典》171話は「野神」です。

はたして何処に立たれることやら?

前回は浦江の「野宮」は

「摂津志」の「野宮」であって「斎宮祓除之地」なのでしょうか?

次回は「野」の意味と絡めて考えることにします」で結びました。

その「摂津志」の「野宮」は『輿地通志』「摂津之四」に見えます。

写真図1 「野宮」『輿地通志』「摂津之四」国立国会図書館デジタルコレクション

《古蹟》「野宮 神殿」の[半角割注]は以下のとおりです。

◆古昔斎宮祓除之地〇倶有浦江村

 

今から10年ほど前、母校の鷺洲小学校の校歌に歌われる

「田蓑島」について考えたことがあります。

調べてゆくうちに「民の島」が宛てられていることに驚きました。

幾ら「戦後」のご時世とはいえ、それは無いでしょうと思いました。

以下、暫くは次に示すブログ記事を軸に進めます。

《『五畿内志』の「宅美」の訓み(1):2016-12-01 16:08:22》

https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12224672853.html

《書換『五畿内志』の「宅美」の訓み(2) :2016-12-02 09:33:39》

https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12224891717.html

まず「宅美」を如何に訓むかの問題です。

「あさのたくみのかみ」を入力しますと「浅野内匠頭」と変換されます。

「たくみ」に「匠」を当てますと、

工作物・建造物を作る職人を指す官職が元の意味となりそうです。

試みに平安時代中期に作られた辞書*『和名類聚鈔』ならどうでしょう。

 *『和名類聚鈔』:寛文7(1667)年、村上勘兵衛 大阪府立中之島図書館蔵

「摂津国第七十二」の「西成(ルビ:ニシナリノ)郡」に記されています。

◇長源 安良(ルビ:アラ) 伏見(ルビ:フシミ)〈半角割注:布之美〉

 槻本(ルビ:ツキノモト)〈半角割注:都木乃毛止〉 郡家(ルビ:クウケ)

 宅美 讃楊 雄惟 三野(ルビ:ミノ) 津守(ルビ:ツモリ) 駅家 餘部

 

「宅美」とあってもルビが振られていませんが、ただ「美」は伏見〈半角割注:布之美〉を

(ルビ:フシミ)と訓ませているところからすれば「ミ」と訓むのでしょう。

「宅」が分かりません。

「宅美」の表記が見えるのは「古蹟」の項です。

写真図2 「宅美野島」『輿地通志』「摂津之四」国立国会図書館デジタルコレクション

《古蹟》の「宅美野島」の項です。

◇宅美(ルビ:タミ)野ノ島

 〈半角割注:浦江大仁等ノ地即此 義詮卿住吉詣ノ記ニ見(ユ)〉

 

「摂津志」本文「宅美野島」の訓みはルビを踏まえれば「タミノノシマ」でしょう。

「タミノシマ」ではありません。

場所は「浦江大仁等ノ地」とあって

この書の「宅美郷」に含まれます。

この箇所では「宅美」を「タミ」と訓ませています。

「タミノノシマ」は『五畿内志』「文苑」には「田蓑島」が見えます。

写真図3 「田蓑島」『輿地通志』「摂津之四」国立国会図書館デジタルコレクション

◇田蓑島 〈半角割注:新-後-撰-集曰 津-守経-国

  天下、長閑加流倍芝、難波方。田蓑島ニ、御-祓為豆禮馬。〉

 

津守経国の歌は次のように訓まれます。

◇天の下のどけかるべし。難波潟、

田蓑(引用箇所ルビ:たみの)の島に御祓しつれば

 

「宅美」を無理に「タミ」と訓ませた結果、

「田蓑」の訓「たみの」の一部に捻じ込んでいるのです。

「宅美郷」は「内匠郷」であって、職人集団「工匠」の居住地であったと考えられます。

それが『五畿内志』の「田蓑島」では、

斎宮が入洛する際の祓えをする島になっているのです。

『大阪府の地名』1986年、平凡社では、「田蓑島」につきましては

「田蓑神社付近という説と近世の浦江村(現大淀区)付近とする説」とを記述しています。

◆足利義詮の住吉参詣を記した「住吉詣」には「たみのの島にあがりてみれば」とみえる。所在地については現西淀川区佃一丁目の田蓑神社付近という説と

近世の浦江村(現大淀区)付近とする説などがあるが、いずれも確定的ではない。

 

「いずれも確定的ではない」とするところの、もう片方の西淀川区佃に鎮座する

田蓑神社を訪ね、宮司さんから聞き書きをしたことがあります。

調査したのは2017年5月14日で、28箇条に纏めて記録しました。

以下、そのうち本件に関連する条を抄出します。

◆6 地元の郷土史家には、貫之の歌碑などアピールしたい人もいる。

7 田蓑島の場所は、ここがそうだったというのは難しい。

 9 由緒は「八十島祭(やそしまさい)」にまでは、なかなか及ばない。

 14 もともと田蓑島は御祓いをする島で、民家がない場所だ。

15 斎場であった所が、だんだん土砂が堆積して今のようになった。

18 八十島祭と関係のない所が歌枕になっている。

20 御朱印のブームがあるようで、いただかれる方もいる。

21 御朱印は観光記念スタンプのルーツだ。

22 斎宮跡が伊勢で最近になって明らかになったように、

斎場はヒモロギ、忌み竹を立てるだけで跡形は残りにくい。

23 臨時の斎宮に建物は不要である。

24 八十島は、島の形状自体が変わるものである。

以上、神職が話された事柄から9ヶ条を拾い上げましたが、

その意図は、佃の田蓑神社にある事柄は、浦江の野々宮にも当て嵌まる事柄であることを

確認しようとするものです。

特に22条、23条は神職として神事に携わっておられることからの知見であります。

6条、20条、21条など今日の風潮を解く視点が窺われます。

はたして浦江の「野宮」が「斎宮祓除之地」なのでしょうか?

 

「野宮」の前身となるのが「野ノ宮塚」にあることは、

前回、絵地図に表記されている場所が、

遷座以前の「字江川」の「野ノ宮社」の位置と一致することから明らかにしました。

其処は村外れの場所でありました。

「字江川」は浦江の八坂さんの名誉宮司・岸本都さんから

教えられて何度か足を運びましたが、『鷺洲町史』挿入付図の江戸時代の浦江村にある、

浦江村から塚本・成小路村に至る道で、元の阪神北大阪線と交差する辺りです。

 

この段に至って*『民俗語彙』の五十音「ノ」を語頭に冠する語彙を漁ってみました。

 *『民俗語彙』:『綜合日本民俗語彙』第3巻、1955年、民俗学研究所、平凡社

『民俗語彙』の「ノウガミマツリ」の項に次の記述に手掛かりを得ました。

◆ノウガミマツリ 農業 農神祭。(上略)農神と野神とはよく混同される。

音の長短が東北と中央とでは逆になっているからである。

近畿、四国などの野神には、牛馬の願を掛ける信仰が多いが、

或はまた奈良県高市郡では、田野の神とも、その分界は甚だ明らかでない。

たぶん早くからの混同があるのである。

 

漸くタイトルの「野神」が見えましたが、「田野の神」ともされる神です。

その勢いで「ノガミ」に当りました。

◆ノガミ 信仰 ㊀滋賀県・大阪府などで、田に祭る神のこと。

五月節供に牛をつれて参るという所もあり、八月に祭る所もある。

ふつう野神と書くが、農神ではないかと思われるふしもある。

 

近世浦江村の「野ノ宮塚」の地が「斎宮入洛時の祓の地」ならぬ

「田野の神を祀る地」に至る道筋が見え始めました。

次回は「野」を固めて「山」に移ろうかな?

 

究会 田野 登