晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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大阪あそ歩の2018年秋が始まりました。
ボクは今週3コースをガイドします。
10月6日(土)は海老江・鷺洲コースです。


本番、2週間前の2018年9月22日(土)に下見してきました。
同行は今春、お客さんだった澤田耕作さんです。
早速、澤田さんからレポートをいただきました。
◆・・・・今回は書物「南桂寺と海老江」と「松瀬青々先生」を読み

臨みました。
 海老江界隈も先日の台風の影響で
 屋根にブルーシートを被せた古い家が多数見られ、
 また南桂寺のイチョウの木も上部が裂け

痛々しい姿となっていました。
 路地を昔は
 ここは井路川、村道、橋が架かっていたところと

思いながら歩きました。
 海老江郵便局の横のレトロな味わいのあった山本ビルも、
 いつの間にか10階ぐらいのマンションになり、
 八坂神社横北側の長屋もマンションになり、
 樹齢200年以上の楠と蔵のあった家は

駐車場になり、
 そして路地の至る所にモダンな家が建ち並び、
 趣のあった海老江が少しづつ失われつつあるなーと

思うと同時に
 新しい海老江が造られつつあるなーと思いながら
 町歩きを楽しみました。
 長柄運河跡の鷺洲第二橋を渡って、
 淀川の堤防に立つと海老江・梅田方面、新淀川、
 西方には六甲山の山並みが一望、
 私の目には水郷の村海老江村が今日も見えました。

 

以下、田野による書き込み。
まるで一緒に歩いているような気がしませんか?
他郷で育った澤田さんの目は確かです。
「水郷の村海老江村」が見えるんです。
集合は阪神本線野田駅改札口です。
写真図1 阪神本線野田駅

「野田」と名の付く駅は他に2駅ありますが、
JR東西線海老江駅からもアクセスしています。

 

9月4日上陸の台風21号の片付けも終わり
綺麗な街並みにもどっています。
石畳路地もいつもの静けさです。
お変わりござらんことは、何よりです。
交差点を渡って、
正確に反映していないと
地元での評判の悪い「大和田梅田街道」案内。
ふと手前を見やりますと
「レトロな味わいのあった山本ビル」が
背の高いマンションになっています。
写真図2 山本ビル跡地のマンション

慥かに交通至便の地・海老江には
今見ておかないと見られなくなる光景を
散見します。

変わらぬはずの旧家の倒れた塀の間から
立派な家屋敷が垣間見えたりして、
ドキッとします。
台風21号のせいだけではなさそうです。

 

かつての阪神北大阪線の交差点までの
海老江の街は、
昔の井路川を偲ばせる道路網が張りめぐらされています。
朝日地蔵尊堂付近からは、
浦江(鷺洲)のミズノの工場跡地の
高層のマンションが見えます。
写真図3 朝日地蔵尊堂付近

大和田梅田街道に沿って
マルピー大日本製薬工場跡「福島区海老江遺跡」を右に
福島、梅田に向けて東に歩きます。
鷺洲小学校の前の歩道橋で
今歩いた場所をワンショット。
写真図4 鷺洲小学校の前の歩道橋

写真右手(北)シオノギの研究所跡地の
高層マンションが、
外観はすっかり出来上がっています。

この後、鷺洲の交差点を渡り
浦江の聖天さんに立ち寄り
解散場所のJR大阪環状線福島駅まで。

 

海老江に寄寓した松瀬青々の句を
不図、思い出しました。
「草の春 田は年々に 家となる」  
100年後の今、
家は年々、マンションとなる御時世です。
大阪あそ歩の海老江・鷺洲コースの申込みは
  ↓ここをクリック
https://www.osaka-asobo.jp/course227.html

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 


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昨日2018年9月22日(土)、
大阪あそ歩の海老江・鷺洲コースの下見に
今春、お客さんだった澤田耕作さんと歩きました。
今回の「浪花ふくしま奇観」のワンショットは、
福島区海老江遺跡(以下「海老江遺跡」)です。

 

写真図1 海老江遺跡の現在

「海老江遺跡」ちゅうのは、何処?
北から南の阪神野田駅に向けてのショットです。
阪神本社のある阪神星光ビルが見えます。

 

この「海老江遺跡」という言葉を知ったのは、
今春のあそ歩の際、澤田さんからいただいた*記事コピーです。
  *記事コピー:大庭重信、2017年4月
 「淀川河口域の耕地開発-福島区海老江遺跡の調査から-」
 『葦火』185号大阪文化財研究所

何のことはありません。マルピー大日本製薬工場跡地です。

 

写真図2 大日本製薬記念館
     撮影:平成27(2015)年2月

この建物は平成28(2016)年解体されました。

その場所は、*『鷺洲町史』附録地図によれば、
大字海老江「大フケ」です。
 *『鷺洲町史』:鷺洲町史編纂委員会、1925年『鷺洲町史』

 

写真図3 『鷺洲町史』附録地図

海老江の東端、浦江に接する場所です。
*『広辞苑』によれば「フケ」とは
「泥深いところ。湿地。沼地。ふけだ」深田です。
   *『広辞苑』:新村出編2008年『広辞苑第6版』岩波書店

 

海老江の八坂神社の本殿裏に「大冨計橋」親柱が
保存されています。
写真図3 「大冨計橋」親柱

「大冨計」とは「大フケ」に吉字を宛てたものです。
大冨計橋は
現在の福島区海老江1丁目から
松本病院(同海老江2丁目1-36)に架かっていたと推測します。

 

その深田「大フケ」の辺りの埋蔵物調査が今回、行われたのです。

この付近は古代海辺でした。
『葦火』185号記事の冒頭は以下の記述がみえます。
◆梅田に隣接し、
 商業ビルや住宅が立ち並ぶ大阪市福島区域は、
 古代には八十島と呼ばれたように
 淀川河口域の三角州に広がる低平な場所でした。

 

中世以来の歌枕「田蓑の島」を近世文人は
海老江に隣接する浦江を比定しました。
海老江、浦江という地名が語りますように、
かつては人も住まない
河口域に位置する干潟でした。

 

『葦火』185号記事は陸地化した年代を
推定しています。
◆干潟層から出土した
 木片の放射性炭素年代(14C年代)を測定したところ、
 紀元後3~4世紀の値が得られ、
 弥生時代の終わりから古墳時代の初めには
 陸化が始まっていた可能性が高くなりました。

 

その干潟が開発されるようになるのは
なんと1000年後のようです。
『葦火』185号記事の続きを記します。
◆その後、淀川が運んだ砂が堆積しつつ陸化が進みますが、
 しばらくの間は湿地の環境が続いていました。
 当地で本格的な開発が始まったのは、
 15~16世紀になってからです。

 

中世の後半には
大がかりな耕地開発がおこなわれた模様です。
『葦火』185号記事には栽培された果菜が
記されています。
◆広畝の畠の畝の片側に有機質な地層が
 規則的に分布することに気づき、
 この部分の土を水洗すると、
 スイカ・カボチャ・メロン(瓜)といった
 種子がたくさん含まれていたのです。

 

元禄期に撰せられた*『摂陽群談』の《第十六 名物土産の部》に
次の記事があります。
  *『摂陽群談』:蘆田伊人、編集校訂、1957年『摂陽群談』
  (大日本地誌大系38)雄山閣
◇海老江冬瓜(ルビ:カモウリ):
 同郡海老江村より出る。口味宜く勝て大なり。

 

『葦火』185号記事と重ね合わせますと、
瓜といった換金作物が生る畠であったようです。
大字「フケ」深田は惨めな農地どころか

まさに「冨を計らう」畠だったのです。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 


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伊藤廣之『河川漁撈の環境民俗学―淀川のフィールドから―』
(2018年和泉書院)は
2016年9月に佛教大学に提出された
博士学位請求論文
 『淀川における河川漁撈の環境民俗学的研究』に
加筆・修正を加えられたものです。

 

 

写真図 表紙
     著者提供

今回は《第二部 淀川における河川漁撈の研究》から
ライフヒストリーの記述から読み取られる
民俗知識に焦点を当てて紹介します。

 

《第四章 淀川淡水域における川漁師の河川漁撈》は、
1923(大正12)年に
現在の守口市八雲北町に生まれたMさんは、
淀川上流の淡水域を漁場とする川漁師です。
Mさんは、増水時には堤防とヨシ原のあいだに簀を設置して
上ってくる魚をとることを「上りをかける」と呼び、
他の川漁師を近寄らせないようにしていました。
その場所は「ウチのゲブツ(米櫃)」として
彼の家では大事にしていました。
また、Mさんが父親から聞かされた
「ジャコのことはジャコに訊け」からは
「魚との対話」という関係性が重要であることを
著者は指摘しています。
Mさんのことばからは、
他の人間と魚との間に生きる

川漁師の世界がかいま見えます。

 

《第五章 淀川淡水域と汽水域における川漁師の河川漁撈》では、
1916(大正5)年に現在の大阪市東淀川区菅原の
川漁師の家に生まれたAさんを取り上げています。
Aさんは淀川の水質汚濁のため、
1960(昭和35)年ころ漁場を可動堰下流に漁場を移し、
ウナギ漁に特化した漁撈活動をおこなってきました。
そのAさんにとっては、
カミとシモは漁撈域の区分であるとともに、
川漁師としてのライフヒストリーを区分するものでもありました。
ところが、1990(平成2)年頃には、
移転してきた、漁場もウナギの漁獲量が減少していました。
その要因としてAさんは、
ヨシ原だったところが河川敷になったりしての
河川環境の変化が関連していると考えています。
川漁師が如何に河川環境に翻弄されながらも
生き続けているしたたかさをボクは感じました。

 

《第六章 淀川河口域における河川漁撈と川漁師》では、
大阪市西淀川区福町を拠点する
川漁師Tさん(1922年生まれ)を取り上げています。
新淀川の細流で、本流とつながる水路を
地元では「イリ」と称し、
漁船の繋留地として利用される以外にも、
漁場としても重要な役割を果たしていました。
著者は淀川河口域と魚との関係を次のように述べています。
◆・・・・河口域は稚魚が生まれ、
 一定の大きさに育つまで留まるところであり、
 10センチ前後の小さなカレイも見かけるという。
 しかし、ある程度の大きさに育った稚魚は、
 瀬戸内海へと移動していく。
 Tさんはそうした状況をさして、「淀川はちょうど
 (魚の)保育所や幼稚園のようなところだ」という。・・・・
ほのぼのとした人間味あふれる言葉やとボクは感じます。

 

最後に《第三部 淀川における漁撈技術と川漁師の世界観》から
ボクの心に響いた「関係性」についての言及だけを挙げます。
自然と人間の関係性についてですが、
並立した対等な関係のなかでとらえようとする
自然観が潜んでいるとのこと。
また「人間と人間の関係性」については、
オモテでは互いに占有慣行を尊重しながら、
ウラでは他の川漁師の秘密の漁場を盗むという
相反する二つの関係性が、
表裏一体となった状態で存在しているとのこと。

本書は
著者が1990年頃、緻密に行っていた
フィールドワークを糧に、
環境民俗学の観点からまとめあげられた
尽力の賜物であります。
「人の生」を正面から見据えた
民俗研究としての成果をボクは讃えます。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 


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一昨日2018年9月16日午後、
お地蔵さんを訪ねて石切を歩きました。
同行されたのは
豊中市内のお地蔵さんを調査なさっている
久木治男さんです。

早速、レポートをいただきました。

 

◆9月16日、田野先生が東大阪市石切の
 お地蔵さんを調査なさるのに同行させていただきました。
 新石切駅から石切神社の参道に沿って、
 藤地蔵、爪切地蔵を訪問、由緒来歴を確認するとともに、
 近くで地蔵のお世話をされている方から
 地蔵盆の様子等をヒアリングしました。
 参道沿いにあるたくさんの祠の
 お地蔵さんの前でご挨拶。
 途中、石切詣をされる方々の信心の深さを実感しました。
 私の豊中のお地蔵さん調査の助言もいただき、
 とても有意義な一日でした。

 

以下、田野による書き込み。
東大阪のお地蔵さんとなれば、
東高野街道沿いの石切藤地蔵尊、
辻子(ずし)谷石仏群の口の爪切地蔵尊。

午前中、図書館で*『東大阪市の石造物3』に
当たりました。
 *『東大阪市の石造物3』:『東大阪市の石造物3-わが街再発見-』
             1999年3月、東大阪市教育委員会

「藤地蔵」の項に言い伝えが載っています。

 

◇言い伝えによると
 「昔、街道を行き交う馬子によって
  その首が打ち落とされ、
  馬子はたちまち高熱に悩まされ苦しんだ」という話から
 熱冷まし特にご利益があることで知られています。

お堂に上がり込み、尊像に合掌。
しばし堂内を観察などしている間にも
ひっきりなしに、参拝の方々が見えられます。

 

写真図1 藤地蔵尊での参拝人との会話
     写真撮影は久木治男さん

この日は、地蔵堂前の石造の
「石切藤地蔵尊伝説と由来」など写真撮影をし、
ご近所に藤地蔵さんをお世話なさっておられる方を
訪ねて立ち話をし、
後日、長老からの聞き取りをお願いして
石切参道に向かいました。

 

石切劔箭神社は今も変わらず、
参詣人が絶えません。
参道には、たくさんのお地蔵さんが
祠に祀られています。
そんな中で、ボクが「ここにもお地蔵さんが・・・・」と
駆け寄ったのは、
なんと「ピンピンコロリふくろうさん」でした。
どなたが建てられたのでしょう?

 

写真図2 「ピンピンコロリふくろうさん」の貼り紙
     写真撮影は久木治男さん

「石切参道商店街振興組合」の貼り紙です。
「森の長老」に健康で長生きする祈願をするなんぞ、
さすが商売上手な参道商店街の
高齢の参拝者向けの仕掛けです。
一度、振興組合のK氏に訊ねてみたくもなります。

 

近鉄奈良線のガードを潜れば上石切。
懸案の爪切地蔵尊が安置されている
祠が見えてきました。

 

写真図3 爪切地蔵尊祠

 

  

突き当たり正面は「四光地蔵尊」で
「爪切地蔵尊」はその背面でした。

 

 

掲示板に「・・・・弘法大師が
 一夜に爪で刻んだという伝説がある」とありました。
生駒山麓下の東高野街道から
山上近くの興法寺まで信仰の道が
蜿々、繋がるのが石切の魅力のようです。
今日午後、藤地蔵尊の聞書調査に出かけます。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 


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伊藤廣之『河川漁撈の環境民俗学―淀川のフィールドから―』
2018年和泉書院は
2016年9月に佛教大学に提出された
博士学位請求論文
 『淀川における河川漁撈の環境民俗学的研究』に
加筆・修正を加えられたものです。
写真図 表紙
     著者提供

 

今回は《第一部 課題と方法》を紹介します。
本書は、「人の生」に着目しながらの河川漁撈研究として、
環境民俗学的観点から試みられています。


「環境民俗学」が提示された背景を
《第二章 環境民俗学の視点と研究方法》に
次の記述があります。
◆環境問題の深刻化を背景に、
 人文・社会科学の分野において
 自然や環境に関する研究がさかんとなるなかで、
 1980年代後半以降、民俗学においても
 自然や環境に関する研究がはじめられるようになった。

 

提唱したのは鳥越皓之とし、その著として
『試みとしての環境民俗学―琵琶湖のフィールドから―』
 (雄山閣出版、1994年)を挙げています。

 

同章には、鳥越の環境民俗学は
「人びとの生活の立場」とのかかわりから
自然と人間の関係性を
社会的にとらえようとするものとも記され、
この考え方が
本書に著された研究のバックボーンになっています。

 

河川漁撈研究を進めるにあたり、著者は、
一般に漁撈という活動は
魚の習性にあわせて、さまざまな漁具・漁法を駆使し、
目的とする魚を捕獲する行為であるとしながらも、
漁撈という活動の多彩な側面を挙げています。

そこで著者が案出したのが
「漁撈をめぐる三つの関係性」です。

 

以下、同章から引用します。
◆それは漁撈活動の主体としての漁師を中心に据えながら、
 ①は漁師の魚介類との関係性、
 ②は漁師と漁場の関係性、
 ③は漁師と他の漁師の関係性といえる。
 このなかで①の関係性と②の関係性は
 「自然と人間のかかわり」、
 ③の関係性は
 「環境を介した人間と人間の関係性」に対応するものである。
 こうした関係性を、
 本研究では「漁撈をめぐる三つの関係性」と呼び、
 環境民俗学の視点に立った漁撈研究の
 分析枠組みとして定めることにしたい。

 

そこで取り入れた方法がライフヒストリーだったのです。
◆・・・・取り上げる河川漁撈が多くの場合、
 個人単位の漁撈活動であり、
 その漁撈活動の移り変わりを見ていくうえでも、
 この方法がもっとも有効であると考えたからである。
 また漁撈の主体である川漁師の視点から生業活動をとらえ、
 川漁師の生活の総体を把握するうえでも、
 ライフヒストリーが力を発揮すると考えたからである。

 

たしかにライフヒストリーの聞書は、
話者の取り違えや錯誤などを
入念にチェックすることが必要ですが、
一人の「生」を軸に時系列に並べることにより、
一人の「生」を取り巻く世界が明らかになります。

 

《第二部 淀川における河川漁撈の研究》は、
本書の醍醐味である
淀川へのフィールドワークに基づく
川漁師のライフヒストリーの記述
です。
次回にまわします。


究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

 

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