晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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前回、近世浦江の田園風景を記述するのに、
(C)「安政三甲午年四月十一日
   南中島悪水落水道幷ニ続井路間数相改帳」
(「幕末期野田曾根﨑大樋図」)の
数値を読みました。

近世浦江には、小川が流れていたのでした。
なお補足しますと、浦江村では、
川幅4~5間、約7~10mほどと云いますのは、
下流に位置する、野田村領の川幅
6~7間(約11~13m)と比べれば、
細い流れであったことがわかります。

「幕末期野田曾根﨑大樋図」に記述されている
名辞のうち、
地形および地名に関連する言葉を
上流から追ってみることにします。

まず曾根﨑村から大仁村にかけてです。
最上流の55番樋の上には
「曾根﨑村石橋」の表記があります。
「石橋」の表記は、この川ではこれだけです。
大仁村と浦江村の境界に位置する40番樋には
「浦江村大仁村細井路」の表記があります。
この川から枝分かれする細い井路があったのです。

浦江村領には
35番と34番の間に「字登口橋在」の表記があります。
「登り口」「登口」は、
「宝永四年亥四月摂州西成郡浦江村樋数扣」(1707年)
「浦江村自普請樋」(正徳元(1711)年12月)
「寛政年間浦江村地図」にも見えます。
*「大阪実測図」を読図しますと、
幕末期図の川の北に「字南登り口」が見え、
その北には「字南里中」
さらに北、線路沿いに「字北登り口」が見えます。
 *「大阪実測図」:内務省1888年
「里中」に集落が存在したと考えれば、
「字南登り口」は北方の「里中」に至る
北高南低の地形の南に位置する
緩傾斜の登り口であったと推定されます。

写真図 「登口」と推定する現在地
    撮影日:2018年3月27日

西から東方、福島・梅田方面を見る。
写真左(北)が「字南登り口」

浦江村領には「字登口橋」の他
30番の上に「字南口高橋」が見えます。
ここにも橋が架かっていました。
「南口」は「A:宝永四年亥四月摂州西成郡浦江村樋数扣」、
「D:寛政年間浦江村地図」にも見えますが、
D図の「南口」は、「登り口」から「里中」に至る間に見え、
これではないと考えます。
30番は、35番と34番の間にある「登口橋」より
下流に架かる橋で、この先「浦江村領用水留門樋」に繋がります。

この先、野田村領字大樋に至るまでの
海老江村領23番と22番の間にはには「大フケ橋」と
29番と28番の間には幅14間(約25m)の「淵」が見えます。

野田村領に入って
15番と14番の間にはには「茶園橋」が見え、
この箇所にも幅14間(約25m)の「淵」が見えます。
さらに橋は
11番と10番の間に「大開橋」
6番と5番の間に「中ノ手橋」が見えます。

浦江を過ぎ、海老江、野田に至りますと、
「淵」が見え、
地形が複雑になります。
「大開橋」より下流の川幅は広くなります。

以上、浦江村領を中心に
用水路であった川をめぐる地形を軸に
田園風景を覗きました。
浦江村は、下流の村と比べれば
穏やかというか、地形に変化の乏しい
村であったと推測します。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


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近世浦江の風景を想像しました。
近世絵地図を読む限り、
「古田蓑島」が表記される
長閑な水辺の農村「水郷」であったことでしょう。

絵地図の世界から離れて
別の切り口で分析することにしました。

資料としては
『鷺洲町史』1925年刊から
次の四点を引きました。
  (A):宝永四年亥四月摂州西成郡浦江村樋数扣
 (B):浦江村自普請樋
 (C):安政三甲午年四月十一日
   南中島悪水落水道幷ニ続井路間数相改帳
 (D):寛政年間浦江村地図

まず (C)の図面のうち
(は)の「野田村領立会悪水落大樋ヨリ
曾根﨑村領梅田石橋迄」を中心に挙げます。
先に断っておきますが、
「安政三甲午年」というのは、おかしくて
安政3年なら「丙申年」で1846年で、
幕末期に描かれた地図とします。
以下「幕末期野田曾根﨑大樋図」と表記します。

この図面に描かれた水路は、
『鷺洲町史』に用いる「聖天川」です。
最上流は「曾根﨑村領梅田石橋」で
最下流は「野田村領字大樋」です。
この間、最上流の「五拾五番」から「壹番」までの55ヶ所に
樋が設けられています。
*「樋」とは、水位を調節するため
水の出入り口に設けた戸です。
 *「樋」:『日本国語大辞典』第二版、第11巻、
      2001年、小学館

曾根﨑村から大仁村を経て、
浦江村を通過して、
海老江村、野田村の大樋に至ります。
最終的には(に)の水路、
野田新家を経て、安治川に架かる芦分橋の石垣に達します。

ここで浦江村に焦点を絞ります。
「幕末期野田曾根﨑大樋図」に表記された
55ヶ所の樋のうち、
浦江村に設けられた樋は、40番から29番までの12ヶ所です。
その間の間数は、285間=513mですので、
約50mおきに樋が設置されていたことになります。

川幅は、
最大で29番の幅7間=12.6mで
最小は33番の3間1尺=5.7mです。
29番樋には、
「浦江村領用水留門樋ヨリ右樋前ニテ幅八間」と表示され、
浦江村の最下流の用水留め施設であったのでしょう。
おおよそ、4~5間の川幅で、
7~10mほどの用水路が
北から南へ、35番付近で東から西南方向へ
湾曲して流れていたものと推測します。

このようなことを述べるボクは、
(C)の「幕末期野田曾根﨑大樋図」の傍らに
(D)の「寛政年間浦江村地図」を据えて
読図しています。

出版許可を手続きとっていませんので
図面の公開はできません。
25日の浦江に架かっていた橋の調査時には
1929年「鷺洲衛生組合管内地図」とともに
持参します。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


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今週の月曜日、2018年10月15日に
大阪区民カレッジ北校で
水辺の妖怪を講義しました。


お盆のプレイベントで
子どもさん相手に話したのを
シニアクティブの皆さま方に
PowerPointを駆使して夢中に話しました。
今回も林 晴夫さんにレポートを
お願いしました。

◆林 晴夫さんからのレポート
 「ガタロ」、私、北区の棟割長屋に生まれ育ちましたが、
 幼い頃に町内の古老の昔語りを思い出しました、何とも懐かしい。
 今時の若者⁉には、「ガタロ」も
 「鵺」も「貉」…も全く、聞いたことも、
 勿論、見たことも無い知らない不可思議な名詞?でしょうが、
 初老の私には、何とも懐かしい........。
 水辺に住い潜む異形の生き物、魑魅魍魎。
 河童が甲板?
 河童島が船大工町?
 田野節が古人のウィットを
 情感たっぷりに説き聞かせます。
 浪速の水辺に関わるあれこれの言い伝えや謂われ。
 現職のころバンコクに5年ほど駐在したことがありますが、
 敬虔な仏教国タイの寺院は必ず水辺に建っていました。
 その謂われは、確か?!。
 またまた田野先生に引きずり込まれました。
 理解力と想像力の欠如した私の頭は、
 今日もラビリンス? パラレルワールド?に。

本町の曲がりで悪さをするというガタロは、
入水を誘う妖怪でした。
それを祟りと感じた町の人たちは
地蔵を建立して
死霊を鎮めました。

都で夜な夜な帝に取り憑き
悩ませ続けたヌエは射落とされ
淀川の水辺に漂着しました。
祟りを畏れた村人は
塚を築き祀り込めました。
それが、今では天保山で
大阪港の守護神として
港の繁栄を見守っています。

堂島の西端の「河童島」と称されたのは
「合羽島」で
甲板・デッキを拵える舟大工の町でした。
これを林さんは、「古人のウィット」と
見抜かれました。

当日は一切、口にしませんでしたが、
「河童島」の話は
幕末のジャーナリスト暁鐘成による
編集脚色の妙です。
先輩である浜松歌国による
「合羽島」の諸説を
都合良く切り取って
全国各地に流布する
河童譚に仕立て上げたのでした。
『摂津名所図会大成』の世界の
読み方の一つは
トリックを見抜くことです。

あの堂島に「淵」を設えて、
「河童あまたすみて、
時々小児を引こみ害せしより」なんぞ
機知に富んだ戯れです。
「異界を覗く」といった
大層なことは、ともかく
非日常世界に
トリップしてネタばれを
次々、披露したまでです。

林さんはじめ聴講なさった方々には
束の間の想像の世界に
お付き合いいただき感謝します。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


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《忘れかけている福島区の「浦江」(3)  
 2018-03-11 14:44:05》に
ボクの子どもの頃、昭和30年代には、
大淀区(現北区の一部)に「浦江北」という
町名はありましたが、
「福島区側は福島区鷺洲で、
 当時「南浦江」とは称してませんでした」と
記しました。


「浦江」と云えば国鉄東海道本線のガードの向こう、
浦江八坂神社の方でした。

しかし、耳の底に「南浦江」が残っていて、
ひょっとしたら、
この地に長く生きた
父母から聞かされたのかもしれません。

今回、『鷺洲史覚え書き』をまとめるに当たり
別の目で「南浦江」を探しました。
「南浦江」が見つかりました。

この際、当時の鷺洲町の
4つの大字が7つの区割と成った規定の
第1条全文を載せることにします。
大正2(1913)年1月区の区割等に関する規定です。
以下は『鷺洲町史』初版1925年、鷺洲町史編纂委員会
「第三編 第三期 大正町治大観」からの引用です。

◆区の区割及区長及代理者任期に関する規定
 第一條 町村制第六十八條に依り、
 町村庶務便宜の為め区を区画する事左の如し。
 第一区 南浦江区   浦江官線鉄道より南部及西部一円
  第二区 北浦江区   浦江前記外の地
  第三区 海老江東北区 海老江野田道より八坂神社鳥居前を
            里道に沿ひ北へ1551番地先に至り、
            北西へ里道を283番地先を
            運河に達する線東部一円の地
 第四区 海老江西南区 海老江同上の西部一円及海老江新家
 第五区 大仁区 大仁一円
 第六区 塚本区 塚本一円
 第七区 海老江新家区 海老江の内新家一円

慥かに「南浦江」は
大阪駅を出て東海道本線が
淀川鉄橋(当時なら「新淀川」)を
神戸に向けて大きく北西にカーブする際の
左側の地区です。
現在の福島区鷺洲です。

この大正2(1913)年の区割りの規定では
最大の大字・海老江が3分割されます。

まずは「南浦江」が見つかってホッとしました。
「福島区鷺洲」を
以後、「大正2(1913)年区の区割の際の南浦江」で通せます。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


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前回に記しましたブログ編集作業を踏まえて
大阪市福島区鷺洲の歴史資料をまとめる
作業を開始しました。
タイトルは『浪花やそしま鷺洲物語』では、
あまりにふざけていますので、
『鷺洲史覚え書き』あたりにしようかなぁと
真摯に考えています。

構成は以下のとおりです。
 1 水郷のおもかげ
 2 八十島の伝承
 3 歌枕の世界
 4 杜若のなごり
 
まず、進捗状況と課題を記します。
《1 水郷のおもかげ》については、
現在の鷺洲である南浦江に水利施設の痕跡は
一部の橋柱の他にはほとんど見つけることができません。
これから「鷺洲衛生組合管内地図」を手がかりに
井路川やそこに架かる橋を拾い上げねばなりません。
今のままでは隣村・海老江に準えるばかりになりそうです。
はたして海老江の記録を糸口に南浦江鷺洲の
かつての水郷の景観を偲ぶことができるのでしょうか?

《2 八十島の伝承》は、
地域のウジガミである神社の田蓑島伝承を
巨視的観点から鳥瞰するつもりですが、
実体が模糊として掴めない感じです。
近世古地図表記の解読を基に
次章《3 歌枕の世界》に展開します。

《3 歌枕の世界》は、まず
歌枕の定義から始めて地名との違いを述べます。
「田蓑の島」は、如何に

貴族が文芸的に用いた歌語の性格を有する
概念であるかを
古辞書、近世地誌などの文献資料を博捜して記述します。
こうなれば、
地理・歴史を下敷きに文学に関わる問題です。
現在、ブログアップ記事の編集中です。

《4 杜若のなごり》は、
カキツバタを表徴とする
浦江の世界を表現します。
今日に伝わる寺院、料亭の伝承から
如何に、その残影を読み取るかです。
資料は料亭創業伝説にまで及びます。

はたして『鷺洲史覚え書き』は、
如何なる分類の記録になるやら?
「鷺洲史」を謳っているので、
「歴史」なのでしょうか?
今のところ、正体不明ですが、
今後の地域史編纂のための記録としたいものです。
指針が定まるまで、しばらくは
試行錯誤を繰り返すことになるでしょう。
以上で以て執筆作業第1回とします。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

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