晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

「阪俗研便り」希望者受付
大阪民俗学研究会では、講演、マチ歩き情報満載の「阪俗研便り」配信の登録を受け付けています。
ご希望の方は、氏名、電話番号をお書き添えの上、tano@folklore-osaka.org
まで、直接メールいただきますようお願いします。毎週無料でメール配信します。 田野 登

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今年の夕陽を見る会
2018年12月30日(日)で中津川・野田川跡を歩きます。
15日(土)に下見をしました。

河川敷・河道跡の今は市街地住宅・公園になっています。
写真図1 大開団地西の緑地

河川敷・河道跡の戦後は、
「無所有」の状態でした。
河川敷・河道はいったい、誰の土地なのでしょう。
今回は、河川をめぐる場所の意味を考えます。

出発は野田阪神です。
サポーターは地形分析に詳しい今村一善先生です。
阪神淀川駅に向けて海老江・大開の境界を歩き、
原地形である池沼の跡を
近世の怪異伝説、古地図、明治末の写真を
重ね合わせて探ります。

淀川河川公園は淀川左岸線道路2期事業のため
閉園中でした。
写真図2 淀川河川公園

この夏までスポーツ施設があった河川敷は
今や枯草が蕭々としています。

淀川駅からは旧中津川左岸沿いの高低差や曲線を
古地図に照らして
河川敷・河道を見極めながら注意深く歩きます。
《写真図1》の公園では
戦後のバラック住宅の存在を
航空写真で確認します。
阪神高速道路を西に行けば
かつての「鼠島消毒隔離所」のあった場所です。
川中島に隔離私設が設けられたのが「近代」です。

大開延命地蔵堂では、
昭和26(1951)年、鼠島の水門で渦に浚われた少年を偲びます。
写真図3 大開延命地蔵堂

 

野田新家は、大坂冬の陣の要衝の地ですが、
「往古海辺」でした。
今も野田恵美須の御旅所があり、
水運を統轄した渡辺氏の墓も見えます。

ここからは、かつての「新家浜」を
想像しながら道なりの曲線を歩きます。
戦後も残っていた会社引き込み貨物線の跡を
一善先生は嗅ぎ付けました。
写真図4 フェンスの曲線

フェンスの曲線は線路のカーブとのこと。
JR野田駅接続高架まで辿ります。

ここから疎開道路を北に新家公園に戻り、
六道の辻を真っ直ぐ東に向かいます。
写真図5 六道の辻

六道の辻から野田、玉川、福島に伸びる道は
往古図にある「野田川」と推測する道路です。

 

JR野田駅のガードを過ぎると
ほっこり和む野田の町です。
写真図6 野田の町並み

やがて前方左手、北方には野田恵美須神社が、
その先を行けば下福島ですが、
今回は、恵美須神社から野田城跡顕彰碑の建つ
大阪メトロ「玉川駅」に向かいます。

「阿波座駅」で乗り換え、「大阪港駅」まで
西の海にまっしぐら。
日の入り時刻は16時56分です。
各自の思いのままに
海に沈む夕陽を眺めながら
この一年の厄を祓います。

歳末恒例の「夕陽を見る会」は阪俗研の行事で
今のところ15名程の参加表明があります。
興味のある方は、下記のアドレスに
アクセス下さい。
時程等を記したチラシをメールでお送りします。
  ↓ブログトップのメルアドをクリック
 tano@folklore-osaka.org  

 大究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


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『大阪春秋』第172号は
「没後40年 漫才の父・秋田實とその時代」特集です。
写真図1 『大阪春秋』第172号表紙

きっかけは編集主幹が昨秋のある講演会で
関西大学准教授の浦和男さんと出会ったことらしい。
よくぞ、彼の多岐にわたる貴重な秋田實調査研究を
披瀝していただけたものです。

今号では「時代背景を探る」をはじめ
秋田の東大時代の創作「嘘」、
藤澤桓夫らとの同人誌『花冠』の巻頭小説など
入手困難な資料の翻刻・解説も彼の研究余滴です。
「秋田實 年譜」は、明治37年に生まれて
昭和52年に死去した秋田を軸に、上方演芸史のみならず
近代の思潮を探る手がかりを提供します。

「スペシャル対談 お父さんはお人好し
 ~秋田實、長沖一の「笑い」藤田富美恵 × 長沖 渉」は、
なんとお父さん同志が親友でありながら
「初対面」?という間柄のご両人が
まさに「お父さんはお忙し」の実生活を
ユーモラスに語りあっています。

お笑い研究となれば《特別寄稿》の
日本笑い学会元会長・井上宏関西大学名誉教授の
「秋田 實 ~「対話型笑い」の偉大なチャレンジャー」では、
「『ユーモア辞典』の完成を目指した秋田實」に
「「笑わせる」言葉の研究と普及に貢献した人」として
再評価しています。

《再考秋田實とその笑い》では
増田周子「秋田實と藤澤桓夫、長沖一、武田麟太郎 
―今宮中学、大高、東大時代を中心に―」には、
秋田の時事解説を藤澤がぼろくそにこきおろし
発奮した秋田が時事解説を対話式にして、
合間に冗談や諷刺を放り込んだのがヒットして、
それがのちのしゃべくり漫才様式となったなど、
漫才作者・秋田實の「誕生」秘話など
読者を惹きつけます。
日高水穂「秋田實漫才を読む ―二つの「早慶戦」―」は
横山エンタツ版と秋田版をテキストに
秋田がネタの鮮度を保つためした「手直し」を読み解いています。

《時代背景を探る》では
橋爪節也「大大阪へのサウダージと秋田實を巡る断想」に
「大阪人が幼少時から涵養してきた
古典芸能の知識や感性」を嗅ぎ付けています。
藏中しのぶ「秋田實と宝塚新芸座 
 ―国民劇に漫才を!―」は、
宝塚歌劇団創設者の小林一三の目論見と
秋田との関わりをとおして、
秋田の「対話形式」を重んじる漫才が
「モダン寄席風なバラエティ」を思いついた
小林一三とミスマッチであったことを
時代背景を踏まえて論究しています。

《わたしと秋田實》では
織田正吉「秋田實は何を書いたのか」は、
大大阪の時代の寄席小屋での漫才《ママ》が
「屈託なく笑える漫才」でなかったようです。
エンタツ・アチャコの自作自演の「早慶戦」を経て
戦後になってNHKラジオが求めた「健全な笑い」こそ、
秋田の理念と一致した漫才であったことを
「漫才作家の登場」に記しています。
演芸作家による「笑い」の歴史が遺憾なく記述されています。

『大阪春秋』は、

テレビのなかった時代、家族みんなで聞いた

ラジオドラマ「お父さんはお人好し」の台本を書いた
「長沖一」の特集も予定しています。

最後に阪俗研会友による記事2点を挙げます。
湯川敏男さんの「浪花百景の暗号化された板元名「石和」」では、
「うらえ杜若」の色紙型に「イシワ」が読み解かれていたりもします。
フリーライター・木村貴由子さんの
「弁天埠頭ものがたり~女神がみつめた50年③
埠頭に流れるジャズ、消えゆく汽笛」は、
終焉を迎える間際の埠頭の輝きを綴っています。

『大阪春秋』第172号は
お近くの本屋さんでお取り寄せくださいませ。
写真図2 『大阪春秋』第172号チラシ


 
究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


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もうずいぶん日が経ちました。
浦江塾で「鷺洲小学校校歌の世界」を
話したのは12月1日のことです。

鷺洲上一の町会長されている
玉尾照雄さんからのレポートを軸に綴った
《浦江塾「鷺洲小学校校歌の世界」を巡って(前篇)
 2018-12-04 18:13:11》の後篇です。
  ↓ここをクリック
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12423637037.html

玉尾レポートの後半を載せます。
◆・・・・新淀川が開削されて、
 工場が建ち始め人々が住み始めてからの風景でしょうから
 校歌は大正になってから作られたのではないでしょうか。
 以前、校歌の作曲者、作詞者を調べたけれども
 わからなかったと聞いています。
 鷺洲地域では最近マンション建設が非常に多く、
 新しい人たちがどんどん住み始めています。
 その人たちにも地域の歴史を
 正しく受け継いでいかないといけないと思っています。

以下、田野による書き込み。
新しい人たちを迎え入れるにあたり、
歴史を受け継ぐ責務を
ひしひしと感じておられる旨、
その気概がボクにも伝わってきます。

このレポートでは
「校歌は大正になってから作られたのでは」と
推測されておられます。
この推測をめぐって時間を要しました。
鷺洲小学校記念誌には、今も
校歌制定の記事は見当たっていません。

ただ、*創立80周年記念誌発行当時の
澤田稔校長先生による興味深い記述を見つけました。
  *創立80周年記念誌:『さぎす』1978年

校区の歴史を綴る「4.明治・大正時代」の
 [工場のおこり] に
校歌一番の歌詞を引き、次のとおり記述されています。
◆明治後年より大正・昭和の戦前までの
 鷺洲町発展のようすは、
 校歌に端的に表され、
 東洋のマンチェスター、
 大阪の重要な一角を占めていたことが明らかである。

「明治後年より大正・昭和の戦前まで」と
表現されているとなれば、
下限は「昭和の戦前」までとなります。
校長先生の記事の続きは
「5.昭和時代」となります。
 [戦前・戦中] の小見出しから始まります。

◆地の利を占め、商工業の勃興により戦前の鷺洲は、
 年を追うごとに人口も増加し、
 工場の煙突からはき出される煙が空をおおい、
 聖天通のにぎわいも一段と増し、
 北の心斎橋筋といわれるくらい
 活気のある商工業の中心地へと変容をとげた。

「戦前の鷺洲」を叙すために
「工場の煙突からはき出される煙が
 空をおおい・・・・」を引いておられます。
この記述は、
校歌一番の「煙は高く 空をおおいて」からの
連想であることは間違いありません。
校歌制定を解く鍵は「煙」です。

写真図 鷺洲小学校玄関の校歌歌詞

「煙」を歌詞に含む、
大阪市立の小学校の校歌を、
先週末、大阪市立中央図書館の
開架にある記念誌すべてを検索しました。

鷺洲小学校の校歌制定の時代が
ほのかに見え始めました。
次回から、「大阪市立小学校校歌の「煙」」を
立ち上げることにします。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


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「鷺洲町衛生組合管内地図」昭和4(1929)年の
「浦江」を読図しますと、
大大阪時代の南浦江(鷺洲)が市街地化している
ありさまが読み取られます。

南浦江には、聖天川、井路川が流れ、
20もの橋が表記されています。

田畑は一向に見えません。
 

かつて、水に囲まれた村里には、
昭和4(1929)年当時、たくさんの工場が建ち
そこに働く人たちの住居が建ち並んでいた
その時代の景観を施設の面から見ることにします。

南浦江の中央には、
東から浦江本通が貫通しています。
その北が「浦江上」、その南が「浦江中」、
さらに南が「浦江南」を
冠する丁目です。

寺院は2ヶ寺表記されています。
浦江本通1丁目に「浦江歓喜天」、
浦江上1丁目には「妙壽寺」が見えます。
神社は南浦江には無くて
北浦江の浦江北1丁目の
「浦江八阪神社」があります。

学校は、2校表記されています。
浦江上2丁目に「鷺洲第一小学校」、
それと「福島商業学校」が見えます。

郵便局は、浦江本通1丁目に「南浦江局」が見えます。

消防出張所も浦江本通1丁目に見えます。

市場は3軒表記されています。
浦江本通1丁目に「私設栄市場」と
「浦江歓喜天」の東側井路に「私設市場」
浦江本通2丁目に「私設浦江市場」が見えます。

8軒の銭湯が表記されています。
浦江上1丁目に「栄湯」と無名の温泉マーク一箇所、
浦江上2丁目に「大平湯」と無名の温泉マーク一箇所、
浦江本通2丁目には「鷺洲湯」、「淀川ゆ」、
浦江中2丁目には「日の出ゆ」、
浦江南1丁目には「戎湯」、
浦江南2丁目には「登茂栄湯」が見えます。

娯楽施設は3軒表記されています。
浦江上1丁目に「(判読不能)倶楽部」(「聖天倶楽部」か?)
浦江本通1丁目に「シネマアサヒ」、
浦江南1丁目に「共楽館」が見えます。

集合住宅が3軒表記されています。
浦江上2丁目には「大日本紡績浦江南住宅」、
浦江上3丁目には「大日本紡績会社福島工場浦江北住宅」
浦江本通1丁目には「中央郵便局吏員寄宿舎」

邸宅は1軒表記されています。
浦江南1丁目に「尼崎邸」が見えます。

ここに挙げられなかったのは
「浦江中1丁目」です。
橋が8本架かっていて、
工場は「友松メリヤス靴下部」の
表記があるだけで、
聖天川沿いに長屋が見えるだけです。
ボクの実家は、そこに位置します。

銭湯があって、
活動写真館など娯楽施設もある。
「大大阪」を迎えて
工場に働く人たちが大勢住む
その大都市周縁の活気に満ちた町に、
20年後、ボクは生まれました。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


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前回に引き続き、『鷺洲町史』1925年
「第三編 第三期 大正土木」より、
架け換えられた橋を取り上げます。

 

第二川上橋の架け換えは
大正11(1922)年5月)に「腐朽の為め」行われました。
第二川上橋は、「字南中開」と「字西三ヶ坪」の間に
流れていた聖天川に架かっていた橋です。

写真図 「鷺洲町衛生組合管内地図」1929年

地図では「浦江中貳丁目」と「浦江南貳丁目」に

架かる橋で×印が付いています。
現在の鷺洲3-9、鷺洲3-10と
鷺洲1-10、1-11の道路に架かっていた橋で、
都市機構鷺洲第2団地9号棟の南西端を南に
渡る道路上に位置します。
「腐朽」とありますので木橋であったのでしょう。

あと無名の2橋が架け換えられています。
そのうちのひとつは、
大正11(1922)年7月、大徳メリヤス会社工場側
洫川に架設されていた橋で、
これまた「橋梁腐朽」とありますので、
風雪に晒され木橋が往来に耐えきれなくなったのでしょう。

 

昭和4(1929)年「衛生組合地図」では「浦江上貳丁目」に
「大徳メリヤス工場」が見えますが、
すでに井路は見えません。
「大阪番地入地図:海老江」西部逓信局/編、大正7(1918)年
(大阪市立中央図書館所蔵)に照らしてみましたところ、
「字北八反田」の「(浦江)332」と「349」の間に水路が見えます。
この水路に架かっていた橋なのでしょう。

所は、現在、鷺洲小学校の北西、

鷺洲5-10を南北に流れていた井路に
東西に架かっていたと推測します。

残りのひとつの無名橋は、
鷺洲第一小学校の南東に架かっていた橋です。
◆(大正)13年1月現町役場前木橋は、
 10数年前の架設にして
 最早修繕をなす能はざる迄に腐朽したるを以て、
 不用に帰せし海老江の東出口橋々材を以て
 之が架換を行ひ、
 本町の古名を取り永久に記念すべく
 鷺嶋橋と名づくるに至れり

《記念すべき古名を名乗る橋
2018-12-01 13:58:06》をご覧下さい。
  ↓ここをクリック
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12422857144.html

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

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