晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

「阪俗研便り」希望者受付
大阪民俗学研究会では、講演、マチ歩き情報満載の「阪俗研便り」配信の登録を受け付けています。
ご希望の方は、氏名、電話番号をお書き添えの上、tano@folklore-osaka.org
まで、直接メールいただきますようお願いします。毎週無料でメール配信します。 田野 登


テーマ:

いよいよ本シリーズ
《「阪神電車唱歌」梅田・佃間の歌詞の考察》も
淀川を渡り終盤にさしかかります。

写真図1 淀川駅北方の阪神本線淀川鉄橋
     撮影:2018年12月15日


再び、三度「阪神電車唱歌」の
三番の歌詞を挙げます。
写真図2 「阪神電車唱歌」2~3頁

     大阪市立中央図書館所蔵
           この写真は、撮影および翻刻等許可を得て掲載します。


◆浦江の菜種野田の藤
 新淀川の月の秋
 稗島、大和田、神崎の
 西の川岸には佃あり

前回の「淀川」に続いて傍点のある駅名は、
「稗島」「大和田」「佃」です。

いずれも、今日の阪神本線の
駅名にはみえません。
*「大阪市内詳細図」1914(大正3)年には
「ひゑじま」が淀川右岸汀近くに、
「おほわだ」は神崎川左岸に、
「つくだ」は蒲島の北、
神崎川と左門殿川に挟まれた島にみえます。
歌詞の「神崎の西の川岸」の「佃」です。
  *「大阪市内詳細図」:日文研所蔵地図
   http://ndb1.nichibun.ac.jp/tois/chizu/santoshi_1189.html
この地図には未だ、阪神電車創業当時の
停留所名が反映されています。

明治42(1909)年発行「阪神電車唱歌」の
[電車停留所名及附近名所]には、
[淀川]から[出屋敷]まで附近名所の記事はありません。
「稗島」「大和田」「佃」に名所は
見出せなかったのでしょうか?

阪神電車宣伝歌謡と照らします。
以下の歌詞は
『輸送奉仕の五十年』1955年、阪神電気鉄道(株)を引用します。
「阪神電車 四季の眺め」には
艶っぽい歌詞が見えます。
前回の「春の遊び」の続きを引きます。
◆・・・・堤防に咲いたげんげ草
 アレ採りたいと乙女子の 
 目にもつくだの窓の内
 「ウゴキマース」で行過ぎた

「アレ採りたいと乙女子」とある
「乙女子」を稗島を「姫島」の転訛とみるならば
「姫」の意を受けての歌詞となります。
「つくだ」は目に「付く」との掛詞です。
電車会社は車窓の眺めを華やいだ
端唄らしい歌詞を折り込み売り込んでいます。
こういった洒落は
「阪神電車唱歌」にはみえません。

いっぽう「阪神名所地理歌」は如何でしょうか?
「藤のなどころ野田の里」の続きを載せます。
◆・・・・流れつきせぬ淀川を
 渡れば稗島、大和田や
 佃の里はさびたれど
 こゝもむかしは船泊り

佃は*地名辞典には、次の記述がみえます。
 *地名辞典:『角川日本地名大辞典 27大阪府』1978年
◆・・・・慶長年間
 徳川家康が摂津多田神社へ参詣の際、
 当村と大和田の漁師はその船で
 神崎川の渡しなどを行った功により
 江戸城への魚献上を
 勧めることになった。

今日にも伝わる有名な話です。
「阪神名所地理歌」にある
「こゝもむかしは船泊り」の謂でしょう。
この言説にも「阪神電車唱歌」は
心を留めずに通過します。

本シリーズは、
「阪神電車唱歌」歌詞を軸に、会社の宣伝歌謡を絡ませて
阪神沿線「梅田・佃間」の
都市化以前の評判を考察しました。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


テーマ:

阪神電車本線の駅は
今も昔も「野田」の次は「淀川」です。
写真図 阪神本線「淀川駅」
    撮影:2018年12月15日


「淀川」を素通りしてはなりません。
ちゃんと、明治42(1909)年発行、「阪神電車唱歌」の
三番にも「淀川」は載っています。


◆浦江の菜種野田の藤
 新淀川の月の秋/
 稗島、大和田、神崎の
 西の川岸には佃あり

「新淀川の月の秋」とあります。
歌詞には「新淀川」を謳い
「淀川」に傍点が打たれてあります。
駅名は創業時から「淀川」やったのでしょう。

 

*地名辞典「淀川」には次の記述があります。
  *地名辞典:『角川日本地名大辞典 27大阪府』1978年
◆・・・・*明治31(1898)から*同43(1910)年にかけて、
 上流から河口にわたる諸改修が実施された。

これによりますと、「阪神電車唱歌」作詞当時の明治42(1909)年は
竣工前後の淀川であった訳で、
さらにまた、地名辞典には、
下流部の旧中津川の流路を利用した
放水路で現在の河川行政上の淀川に
「新淀川」とも記しています。
ボク自身、長らく「新淀川」と称していた
記憶があります。
駅名は「淀川」でも「新淀川」左岸、
堤近くの場所に駅はあります。

その「淀川」は、明治の末の
*観光ガイドの「四季遊覧所」にも載っています。
  *観光ガイド:加藤紫芳著1908(明治41)年
  『大阪案内』矢島嘉平次発行、矢島誠進堂出版 165~166頁
◆菜の花:北野 桜の宮
     浦江 玉造稲荷社 淀川新堤

「淀川新堤」は「阪神電車唱歌」に謳う如く
「月の秋」の風情もさることながら、
北野、浦江に連なる菜の花が土手一面に
咲き乱れていたのでしょう。

電車会社宣伝歌謡は如何でしょうか?
*「阪神電車 四季の眺め」には
ちゃんと「淀川」は歌い込まれています。
  *「阪神電車 四季の眺め」:
    『輸送奉仕の五十年』1955年、阪神電気鉄道(株)
 
◆春 の遊びの電気車は 
 野田のながめや淀川の

 堤防(ルビ:つつみ)に咲いた
 げんげ草 

「げんげ草」は「蓮華草」の別称です。
*『広辞苑』の「蓮華草」には次の記述があります。
 *『広辞苑』:新村出編2008年『広辞苑第6版』岩波書店
◆マメ科の二年草。中国原産。
 春、紅紫色の蝶形花を花茎の先端に輪状に付ける。(中略)
 明治末期から北海道を除いて全国の田で春を彩ったが、
 その後減少。
 レンゲ。ゲンゲ。漢名、紫雲英。春

「鉄道唱歌」作詞者は「阪神電車唱歌」におきましても
「新淀川」の新堤の
新しい景観を見逃さなかった。

会社宣伝歌謡「阪神名所地理唱歌」にも
「淀川」は、束の間、歌い込まれています。
次回は、いよいよ「佃」にさしかかります。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


テーマ:

阪神本線「福島」から「野田」「淀川」まで
一挙に今日の福島区域北部を東西に
駆け抜けることにします。

はたして車窓の景観や如何?
「阪神電車唱歌」では
次のように謳っています。
写真図  「阪神電車唱歌」2~3頁

◆三、浦江の菜種野田の藤
 新淀川の月の秋

駅名に無い「浦江」を歌い込んでいます。
福島を過ぎ、車窓右手に浦江の菜の花畑を見ます。
浦江の菜の花は、
「阪神電車唱歌」が出版された
明治42(*1909)年の1年前の
明治41(1909)年*『大阪新繁昌記』の「浦江聖天」の項に
次の記事が見えます。
  *『大阪新繁昌記』:加藤紫芳著、明治41(1909)年
          『大阪新繁昌記』矢島誠進堂出版
◆*此寺(「浦江聖天」)と後合せなる妙壽寺には
 毘沙門天を祀り本堂の後に蓮池あり、藤棚あり。
 近来また菖蒲をも植ゑて池の周囲に茶店列り
 菜の花咲出る頃より蓮花の枯るゝ頃まで
 こゝに来りて遊ぶ者絶えず。(以下略)

浦江の妙壽寺について、
蓮池、藤棚、菖蒲に加えて
「菜の花咲出る頃より」とあり、
明治末まで妙壽寺に限らず、
浦江一帯が菜の花の名所であったことがわかります。

「浦江の菜種野田の藤」の「野田の藤」は
云うまでもありません。
同書『大阪新繁昌記』に次の記事が見えます。
◆野田の藤:
 上福島の西野田村春日神社の境内にあり。
 旧記を按ずるに昔は春日神社など云へるものなく
 寺院楼閣建ち列りて花の頃は更なり。
 平時と雖も参詣人群集し頗る繁昌を極め
 文禄年中豊臣秀吉も来りて花を観たる事ある由なるが、
 其後次第に寂れて昔の繁昌は其跡を収め
 今の春日神社は後世の鎮座なりと云ふ。
 されど藤蔓は境内に蔓延して紫白の花点々垂下し
 松に纏ひ杉に攀ぢ枝葉繁りて昼尚闇し。
 近き頃まで藤の傍に小堂あり藤堂と云ふ。
 こゝに恵心僧都作の阿弥陀を安置し
 念仏行者の留る処たりしが
 夫さへ今は見えぬやうなり。

「今の春日神社は後世の鎮座なり」とは、
多少、気掛かりな記事ですが、
「藤蔓は境内に蔓延して
 紫白の花点々垂下し
 松に纏ひ杉に攀ぢ枝葉繁りて昼尚闇し」とは、
まさに壮観です。

[電車停留所名及附近名所]の[野田]には、
「浦江聖天 二丁」「野田の藤 六丁」と記されています。
「浦江聖天」は、「野田の藤」ほどではないにしても、
以下の明治期の*大阪名所案内記の全てに載っています。
  *大阪名所案内記:
 ①伴源平編輯、明治15(1882)年『大阪名所独案内』下、吉岡平助発行
 ②馬場文英編輯、明治16(1883)年『三府名所独案内図会』大阪之部、江南有美堂発売
 ③上田文斎著、明治23(1890)年増補再版『日本名所図絵』、
  初版明治21(1882)年、嵩山堂発売
 ④岡本竹二郎著、明治25(1892)年出版『名勝漫遊大阪新繁昌記』、
  盛文館(吉岡平助)発売
 ⑤加藤紫芳著、明治41(1909)年『大阪新繁昌記』矢島誠進堂出版

ここでは、前出で「阪神電車唱歌」直前の『大阪新繁昌記』を引きます。
◆浦江聖天
 五百羅漢を距る四丁許り北西なる鷺州村字浦江にありて
 寺号を了徳院と云ふ。
 境内の掃除行届きて常に清潔なり。

存外、『大阪新繁昌記』の「浦江聖天」は素っ気ない感じがします。
「阪神電車唱歌」作詞者は、
 明治41(1909)年『大阪新繁昌記』を始め
 大阪名所案内記を踏まえての作詞であったと推測します。
では一体、阪神電車会社の宣伝歌謡や如何?

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


テーマ:

『阪神電車唱歌』は、
「鉄道唱歌」でお馴染みの大和田建樹作詞、
明治42(*1909)年4月5日発行の冊子です。
写真図1 『阪神電車唱歌』表紙
     大阪市立中央図書館所蔵
           この写真は、撮影および翻刻等許可を得て掲載します。


今回、ようやく阪神本線「福島」です。
写真図2 『阪神電車唱歌』2~3頁 
     大阪市立中央図書館所蔵
           この写真は、撮影および翻刻等許可を得て掲載します。

二番の歌詞は次のとおりです。
「賑ふ旅客の出入橋
 過ぎて波風福島は
 義経平家を討たんとて
 船揃せし港の地」です。

「福島」の「ふく」は

波風「吹く」を掛けた掛詞です。
「義経平家を討たんとて
 船揃せし港の地」とは、
近くの名所「義経逆櫓(さかろ)の松」を
詠み込んだものです。

「附近名所」には、
「逆櫓松 二丁」「福島天神 三丁」
「大日寺 十三丁」「五百羅漢 一丁」を
挙げています。
「五百羅漢 一丁」はさるものの
「大日寺」は、当時、福島付近にあったことは、
確認できません。
「附近名所」編集者は、かなり当時の名所案内本などを
かき集めて作成しているもののと推察します。


阪神電車*記念誌所載の「阪神電車 四季の眺め」に
「福島」はありません。
会社として乗客の気を惹く自然や風景を
見出せなかったのでしょうか?
  *記念誌:『輸送奉仕の五十年』1955年、阪神電気鉄道(株)
 
同誌の「阪神名所地理唱歌」は、「出入橋」に続いて
以下の記述があります。
「名もなつかしき福島や
  藤のなどころ野田の里。」です。

阪神の会社作成の「地理唱歌」の「福島」は、
「名もなつかしき」で済ませています。
記念誌に「期待はずれの地理唱歌」の小見出しを
掲げていますように、

存外、観光資源たるべき
名勝に対し、会社側は無頓着です。

「阪神電車唱歌」を再見しますと、
歌詞に歌う「義経逆櫓の松」は、
『平家物語』の渡辺・福島での船揃えに材を取り、
元文4(1739)年道頓堀・竹本座初演近世の
人形浄瑠璃『ひらかな盛衰記』で
有名になった「名松」です。
まさに「阪神電車唱歌」歌詞にある
「港の地」だったのです。

この地の地理に疎いはずの
「鉄道唱歌」作詞者になる
「阪神電車唱歌」歌詞が却って
会社宣伝歌謡よりに秀でて
観光スポットに焦点を合わせているのです。
改めて一連の「鉄道唱歌」の
宣伝的効果の先見性に気づかせられます。

「阪神電車唱歌」
「次は野田。野田」です。
如何なる切り口でしょうか?

究会代表
『大阪春秋』編集委員

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登


テーマ:

本シリーズも、いよいよ
阪神本線も福島駅にさしかかります。

写真図  『阪神電車唱歌』歌詞二番
    大阪市立中央図書館所蔵
    撮影および翻刻等許可済み

歌詞は、以下のとおりです。
◆二、賑ふ旅客の出入橋
   過ぎて波風福島は
   義経平家を討たんとて

      船揃せし港の地

「梅田の次は、福島?」おっとっと、
その前に「出入橋」です。
前々回《「阪神電車唱歌」梅田・佃間の歌詞の考察(1)》では、
*記念誌に掲載された
「大阪毎日」の明治38(1905)年4月11日付
「阪神電気鉄道開業/明12日より」の
新聞広告記事を取り上げました。

 

「神戸行きは!!!
 出入橋待合所を12分毎に発車」とあります。
    *記念誌:『輸送奉仕の五十年』1955年、阪神電気鉄道(株)

懸案の「唱歌」には「賑ふ旅客の出入橋」と謳ってます。
脚注の「電車停留所名及附近の名所」には
「出入橋」とだけ記されていて名所は記されていません。

「四季の眺め」は如何でしょうか?
残念ながら「出入橋」は見当たりません。
出入橋なら、ほんの東に「編み笠茶屋」なんぞの
遊所もありましたが、
健全を売りにする宣伝歌謡としては、
差し控えたのでしょうか?

「阪神名所地理唱歌」では、出入橋は謳われています。
◆摂津の国の両都会 大阪神戸ひとすぢに

 結びつらねしまがね路は 阪神電車と名にし負ふ。
 そも浪華津の繁栄を こゝに集むる出入橋

「浪華津の繁栄を こゝに集むる出入橋」と。
そもそも出入橋は、
*「大阪之圖」明治12(1879)年、藤井光栄堂には、
「ステンション」から堂島を突き抜ける堀川の堂島に
さしかかる直前(北方)で東西に架かる橋に
「デイリバシ」と見える。
   *「大阪之圖」:日文研所蔵地図「大阪之圖1879」
                   http://ndb1.nichibun.ac.jp/tois/chizu/santoshi_1199.html
この北から南に流れる堀川は、
「天保新改攝州大阪全圖 1837」(天保8年版)、
「大阪圖 1872」(明治5年刊)には見えません。
この堀川は往時の水運の集積する堂島、中之島と
近代の陸運の拠点「梅田ステンショ」を繋ぐために

開削された水路なのです。
この水路を跨ぐのが出入橋です。
「阪神名所地理唱歌」に「浪華津の繁栄」を謳う謂です。

この度の阪神電車開通によって
貨物ならぬ旅客を摂津の西の都会たる神戸方面への
輸送に賑わう停留場として
「阪神電車唱歌」作詞者は歌い込んでいます。

ようやく「福島」です。
宣伝文句の考察も
いよいよヤマ場が迫ってきました。

究会代表

『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス