晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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《「井路」の用例を遡る:2021-03-27 10:01:19》では、
近世にまでしか遡れませんでした。
場所は大坂近辺に偏っていて、
用水路である「井路」が大阪方言を否定できませんでした。

今回、大阪の地名を遡る際に
重宝している*「崇禅寺文書」に当たりました。
  *「崇禅寺文書」:『大阪市文化財総合調査報告書46
  大阪市内所在の古文書・典籍 崇禅寺文書について』 2003年、
  大阪市教育委員会事務局 生涯学習部文化財保護部
    (以下『崇禅寺文書報告書』)
室町中期の文書に「井路」なる語を見つけ、
井路端風景を探究することにします。

対象とする文書の崇禅寺(東淀川区東中島5丁目)の創建について
『大阪府の地名』(1986年、平凡社)には、
嘉吉の乱を起こした播磨守護赤松満祐により謀殺された
足利義教の菩提追善のため、嘉吉2(1442)年、
首級の埋葬されたこの地に当寺を建立したとあります。

本ブログに挙げます「崇禅寺文書」は、
『崇禅寺文書報告書』に寛正2(1461)年12月作成とある
「崇禅寺寺領目録」であります。
『崇禅寺文書報告書』の該当箇所を引用します。
◆*文安4(1447)年の所領目録が、幕府からの安堵を受けるために、
 寺領を書き上げたものであったのに対し、
 十数年後の*寛正二(1461)年12月に作成された
 [史料⑤]崇禅寺寺領目録は、
 散在する所領単位で耕地一筆ごとの
 字地・反別・四至・石高・耕作人・課役などを
 書き上げた検注帳である。

「井路」の表記が見えるのは「四至」であり、
乳牛牧(ちうしまき)の耕地12件に集中します。
この乳牛牧は『大阪府の地名』からは、
東淀川区南北江口、相川が
平安時代以降、典薬寮に属した
味原牧(乳牛牧)の一部と読みとられます。
写真図 「寛政年間 南北中島郷の図」
    『鷺洲町史』1925年、鷺洲町史編纂委員会
     大阪市立中央図書館所蔵


北中島北端に、「江口」が見えます。

以下に「井路」の表記が見える記事を全て挙げます。
便宜上、㋐字地㋑反別㋒四至㋓石高㋔耕作人㋕種別と
整理しました。
①:㋐甲外島開㋑2段
 ㋒東井路/西堤/南三番弥四郎作/北堤
 ㋓分米6斗㋔島常徳㋕宿田
②:㋐甲外島開㋑50歩
 ㋒東堤/西井路/南井路/北堤
 ㋓分米4舛1合7夕㋔島弥二郎㋕宿田
③:㋐甲外嶋開㋑50歩
 ㋒東三番太郎作/西三番順西作/南井路/北類地三番助五郎作
 ㋓分米4舛1合7夕㋔島弥二郎㋕宿田
④:㋐板加野㋑1段60歩
 ㋒東公田徳源六作/西三宝寺田/南縄手/北公田辻道順作
 ㋓分米5斗6合3夕㋔島助五郎衛門㋕職宿田
⑤:㋐甲外島開㋑小20歩
 ㋒東井路/西池/南/井路/北堤
 ㋓分米1斗1舛6合6夕6才㋔島助五郎衛門㋕宿田
⑥:㋐甲外島開㋑1段60歩
 ㋒東堤/西井路/南池/北堤
 ㋓分米3斗5舛㋔島助五郎衛門㋕宿田
⑦:㋐甲外島開㋑320歩
 ㋒東類地/西井路/南類地/北類地
 ㋓分米3斗6舛6合6夕6才㋔三番円教㋕宿田
⑧:㋐甲外島開㋑1段大
 ㋒東井路/西井路/南了音作/北類地頭
 ㋓分米5斗㋔三番円教㋕宿田
⑨:㋐甲外島開㋑3段
 ㋒東池/西井路/南類地/北堤
 ㋓分米9斗㋔島頭掃部㋕宿田
⑩:㋐大沢㋑半
 ㋒東大道/西井路/南辻二郎三郎屋敷/北八幡堀
 ㋓分麦3斗㋔宮前雲次郎㋕脇畠
⑪:㋐甲外島開㋑2段
 ㋒東池/西池/南井路/北類地*同作(頭左近五郎助作)
 ㋓分麦6斗㋔島頭掃部㋕宿直畠
⑫:㋐字山城開㋑50歩
 ㋒東堤/西井路/南類地彦四郎作/北堤
 ㋓分米4舛㋔五郎大郎㋕/

次回、㋐字地、㋒四至に着目して地勢を探ります。

究会代表
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

ようやく「川」です。
鯰江村(現城東区)「寝屋川」の項を引きます。
◆(上略)[古図]に
 明暦2(*1656)年酉年徳庵井路出来、
 其後宝永7寅(*1710)年(傍注「元申」*1704)、
 古大和川川違に付切尻に相成り、夫より
 右徳庵井路を寝屋川と申し候とあり(以下略)

古大和川の流路変更によって、
「井路」が「川」と称されるようになったというのです。

古市村(城東区)[水利]の「高瀬川」の記述は次のとおりです。
◆大字今市宅地方面の用悪水井路にして兼ねて舟の交通に便す。

この「川」も、他の井路にみえる記述で始まります。
以下の記述を追います。
◆起点は大字今市字高腹なる高腹樋にして
 鯰江町大字今福字北丁榎並の樋に排水す。
 主要なる通過地点は今福字高瀬及前脇前なり。
 長さ5町2間幅2間あり。
 古書に見ゆる高瀬の里及び高瀬川は
 此辺にまで及びたるや。

「古市村[伝説]」には、「高瀬川」ならぬ
「高瀬井路」が出て来る話が載っています。
便宜上①と②に分けました。
①朝日地蔵尊 普通「森小路の地蔵さん」と称せり。(中略)
 此の地蔵尊元現在の所に安置されりあしが
 前記浅田藤右衛門庄屋の威力を以つて
 「今市の領分にありながら森小路の人々に祭らるゝは面白からず」とて
 今市なる小宮の地に移せり。(中略)
 然るに地蔵尊は独りでに今市高瀬井路に転げゆき、
 川を南に元の場所に流れ帰りしとの説あり。
 この故にや「森小路の地蔵さんは勝手に逃げなさる」とか、
 「外はきらひで今の場所が好きだ」とか伝説せらる。
②この地蔵尊は霊験顕著にて、
 今福(東成郡鯰江町)の肥屋のさし子が舟押の邪まになるとて、
 楫で地蔵尊の頭をなぐりしに間もなく死せりとぞ。
 又地蔵の顔面の欠けたるも此の時ならんかと言ひ伝へ居れり。

この話なら、ボクは30年近く前、聞いたたことがあり、
拙著『大阪のお地蔵さん』1994年、渓水社
④【井路端の酒浴び地蔵:旭区千林・朝日地蔵尊】に載せました。
話者による話だけを抽出し便宜上①②と分けました。
話者は地蔵堂の近所に住む当時80歳過ぎのお婆ちゃんです。
①「お堂の前が川だった頃のことやが、
 今福の肥屋が
 舟を送るのに邪魔やいうて、
 櫂棒で地蔵さんの頭をたたいた。
 すると頭が欠けてしまいましてん。
 たたいた人はその晩、死んだらしい。
 ま、これも言い伝えだっせ。」
②「昔、今市の堤防の所に祀られておましたんやが、
 川からここをめがけて流れて来られましたんや。
 何度か返しにいったが、
 戻って来られたらしい。これも言い伝えだっしゃろ。」

[伝説]①、地蔵が井路に転げ流れ行った話は、拙著②に、
[伝説]②肥屋の櫂棒で叩いた話は、拙著①に対応します。
拙著②の箇所は、聞書調査での問わず語りで聞き得た情報で、
まさか、30年後、井路端の文献調査において再録するなど
ゆめゆめ思わなかったことです。
拙著「井路端の酒浴び地蔵」の記事は、
結び近くに次のように書き綴っています。
◆現在こそ、家が建て混んで、市街地になっているが、
 たかだか70年程の昔は、
 ここもまた農村だったのである。
 そうとなれば、やはり川とはいっても
 井路であったのではないか。
 京街道に沿って集落も見られたであろうが、
 その裏はどこも田圃や畑であったのだ。

これまた、他郷をめぐり、故郷の原風景を見る
いつもの「我田引水」といえます。
いずれ井路端の水被り地の伝承を挙げます。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

前回、「井路」を言い換えている語を
『東成郡誌』に求め、
「用水」、「溝」を挙げ、さらに
「代の溝」のルビが「ダイのカハ」とあるところから、
「溝」から「川」へと関連する語彙を探ろうとしました。

ひとまず、「溝」の字義を正すことにします。
国立国会図書館デジタルコレクションの
『倭名類聚抄 20巻』巻1「河海類第十」を引きます。
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544216?tocOpened=1
◆溝 釈名云田間之水曰溝古候反縦横相交称也【半角割注:和名三曾】 
この記事を大阪市立中央図書館所蔵
『倭名類聚抄1巻』源順撰/渋川清右衛門/寛文7,8(1667)と
校合しました。
国立国会図書館本「溝」には「コウ」、
「縦横」に「シウワウ」のルビが振られています。
要は、溝は、田間の水が縦横(じゅうおう)に相交わるところで
和名は三曾「みぞ」ということです。

まさに『東成郡誌』にも多く見える
「溝」は「井路」の一般的な呼称です。

昭和30年に発行された*『北区誌』には、
「井路」という語が見えず、
「枝川」という語がみえます。
    *『北区誌』:『北区誌』1955年、
        北区役所「第8章 保健と上下水道」
◆下水道
 もと市内では多雨の時には雨水は
 他の一般自家用水とともに溝渠から道路にあふれて
 一面の泥海と化し、
 汚濁した水は縦横に貫流する枝川に放出されて
 異臭を放ち、伝染病発生の源ともなっていた。

「縦横に貫流する枝川」とは、
かつての農村時代の「溝」であって、
「井路」です。
この記事の8行先には
「溝の側筋」という道路の記述があります。
◆寺町筋と天満宮裏門筋の中間を
 東西に走る溝の側筋は、
 もと溝(開渠)に沿うて道路があったので、
 その名が起きたが、
 開渠が下水道工事によって埋立てられた今もなお
 溝の側の名が残されている。

「溝の側の名」を取り上げることからしますと、
昭和30年当時、北区の市街地では、
疾うに「溝」は
古語とも目されていたのでしょう。

阪俗研の桑村和男会友は、
情報共有ネット「井路端仲間」に
「大阪春秋第73号(平成5年12月)で、
柳田洋一郎氏が、大阪キタの水路跡を歩かれた記事が
載っていました」(受信:2021/03/18 (木) 18:26)と
配信しています。
桑村情報は
第73号「特集・キタ」の柳田洋一郎「キタの水路跡を歩く」を
この情報以降、2021/03/25 (木) 18:16に至るまで
5回に亘って紹介しています。

桑村情報に応えてボクは
2021/03/20 (土) 18:38「井路端仲間」に配信しました。
◆柳田洋一郎記事桑村会友引用の
「水路跡の裏道の特徴は
 微妙な傾斜が感じられることかもしれない。
 この水路は、曽根崎川に架かっていた 
 曽根崎橋と桜橋の中間から北東へ伸びた水路の分流で、
 曽根崎川と接するあたりに樋の橋というものがあったらしい」とある
「樋の橋」は、
 初代長谷川貞信「北新地樋之橋白雨」に描写されています。
 画像は南向きで、正面家並みの裏は曾根崎川、その先は堂島蔵屋敷。
 手前に樋があって井路が南北に流れています。

写真図 初代長谷川貞信「北新地樋之橋白雨」
    大阪市立中央図書館所蔵アーカイブ


ここに描かれた井路も溝です。
次回は、「井路」の関連語として
「川」を取り上げます。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

2021年4月10日(土)に大阪あそ歩の
海老江・鷺洲コース
「井路川往来いま何処~マチ以前のムラを求めて~」を
ガイドします。

鷺洲出身のボクは、
八阪中学、市岡高校の8年先輩で、
福島区歴史研究会会長の末廣訂さん(1941年生)に
3月30日、戴いた地図・写真等をチェックに、
下見をご一緒していただきました。
末廣先輩は、今や海老江の「語り部」です。

本番の集合場所は野田阪神藤棚の下です。
写真図1 野田阪神駅前北向き撮影

前方(北方)に阪神本社ビルが見えます。
藤棚は写真の背後です。
本番なら藤の花満開?ちょっと早いかな?
野田阪神では、末廣先輩たちが2004年に建碑した
「松下幸之助創業の地」の場所を
「鷺洲衛生組合管内地図」1929年の
「松下電器製作所」の表記を確かめました。

「海老江の芦屋」「海老江の堀江」と謳われた
石畳道をそーろっと抜けたところで、
末廣先輩からいただいた
「石畳保存自治会結成趣意書」1971年の記事を確認。
はたして現存の敷石の石は何時の時代?

国道2号線を渡る手前の交叉点で、
ある「海洋冒険家」と海老江とのつながりを多少、聴けました。
東して、地元では甚だ、評判のよくない
「大和田街道梅田街道」顕彰碑まで行きました。
写真図2 「大和田街道梅田街道」顕彰碑(海老江4)

「平成13年 大阪市」と刻まれ、「明治40年当時」とある
地図が掲げられています。
明治の末に「街道」?
今回、地元の或有力者が
建碑に関わっていたことを知りました。

お宮さんから、「羽間文庫」を尻目に
市右衛門邸の現在、重右衛門邸を抜けて、
大正末期に中津川入樋のあった場所で、
末廣先輩からいただいた写真と照らしました。
井路が東西に流れ、その先では
南北の井路と丁字に繫がっています。
手前に入樋があって、田舟が一艘写っています。
左岸(南岸)のお屋敷には大きなクスノキが植わっています。
井路川が縦横に流れる「水郷」の景観を湛えています。
2025万国博を控え、阪神高速道路淀川左岸線の工事が進む
現今や如何?
写真図3 入樋のあった場所の現今、南西向き(海老江4)

俳人・松瀬青々寓居の家、酒屋、虫籠窓の家、
青々揮毫の扁額のかかる朝日地蔵堂、注連の張られている大楠などなど
末廣先輩と歩いて、
水郷海老江の知られざる情報を得ました。
かつての海老江の集落、浦江との境界の西は、
かつて深田「字大フケ」と称された低湿地です。
淀川改修の際、川床となった海老江、浦江などの
削り取られた土地の土砂で整地され、その後、製薬工場となり
2016年6月に解体された「大日本製薬」跡地に出来た
洒落たショッピングモールを感慨深く眺めました。
写真図4 「大日本製薬」跡地の現在(海老江1)交叉点南東角(正面左)

農地を削り川を改修し、削った土砂で
低湿地を整地し、製薬工場を建てる。
この海老江・浦江の近代を語る建造物は5年前に跡形も無く消えました。


末廣先輩とは、ここで別れ、ボクは鷺洲の実家に立ち寄ってから、
「滑稽浪花名所」の浦江聖天(福島聖天)に参りました。
山門を潜ると案の定、桜が満開でした。
写真図5 浦江聖天(鷺洲2)

あそ歩「海老江・鷺洲コース
「井路川往来いま何処~マチ以前のムラを求めて~」」の
詳細および、お申し込みは
 ↓ここをクリック
https://www.osaka-asobo.jp/course960.html
当日はガイドマップに書かれていない「真相」をガイドします。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

前々回の《『東成郡誌』に見える井路(2)》では、
「次回は、「井路」の関連語を
『東成郡誌』に探ることにします」と
予告しながら、前回は「井路」の用例を遡ってしまいました。
「井路」なる語を大阪方言とする説を否定できませんでした。

捲土重来を期し、再考して
名称のある「井路」を多く載せる『東成郡誌』にあって、
「井路」の言い換えが行われている事例を挙げることにします。

第11編「榎並町[水路]」(現城東区、都島区)に
次の記述があります。
◆右の用水の主要なるものは、
 野江井路・内代井路・関目井路・九ヶ井路なり。
 淀川野江樋管に発し、鯰江川に入る。
 本町域内15條の井路となりて
 灌漑せるものなれば用水の灌漑遺憾なく行はる。

「15條の井路」は「用水の灌漑」を行うとして、
水利施設としての「用水」が挙げられています。
但し、水利施設の「用水」は、この他で名称があるのは
神路村(現東成区)の「泥棒戸堰用水」「築留用水」に見えるだけです。
引用文「用水の灌漑」とある「用水」は、もちろん「水」です。

次に挙げる第14編「清水村[水利]」(現旭区)の井路は
「溝」とも称されています。
◆石田溝(一名土夫(ルビ:とら)(虎)井路)
 大字上ノ辻の南方蛙又(ルビ:がいるまた)
 【半角割注:大字貝脇の小字なり】に於て
 立井路より分岐し、大字馬場字柳原・石田・土夫・長竹等を経、
 馬場字長竹に於て長竹井路に入る。延長8町52間、幅1間。

この事例は名称のある「溝」を
一名として名称のある「井路」として挙げるものです。
その井路名は、途中に経る小字「土夫」によるものですが、
他の名称ある「井路」と記述内容に相違は認められません。

「溝」は、「井路」同様、[水利][水系]項目に多出します。
事例に挙げた清水村では9件中3件が「溝」である他、
鯰江村(城東区)では12件中6件が「溝」です。
2件だけ挙げます。
先ずは「五ヶ庄溝」を挙げます。
◆村の東方榎本村大字下辻界より来り
 字五ヶ庄樋門に至る。
 長さ10町7間幅6間7分。
 悪水を瀉下し、鯰江川に入る。水深く船の交通便なり。

この「溝」は悪水吐けですが、
「八ヶ庄溝」は如何でしょう。
◆村の東方榎本村大字下辻界より来り、
 古堤街道今福蒲生境界近より
 鯰江川及寝屋川に入る
 長さ10町1間、幅5間。
 之れより今は稍狭くなれり。
 田の養水を便ず。

「養水」は稲を養うための「用水」です。
「溝」は、機能面からすれば「井路」と違いはありません。

「溝」は、明治29(1896)年以前「住吉郡」であった
南百済村(現住吉区)、住吉村(住吉区)にも見られる点、
「井路」より広範囲で、かつ古く一般的な語であると考えます。

もう一点、南百済村に記載される「代の溝」を挙げます。
注目すべきルビが振られています。
◆東方平野郷町界より来り、
 村の東端を北流し、
 北百済村大字今在家との界に至る。
 長さ7町37間幅2間。用悪水路。

何の変哲も無い幅2間の用悪水路たる「溝」ですが、
「代の溝」のルビが「ダイのカハ」と振られています。
用悪水路たる「溝」を「かわ」と称しているのです。

ボクの生まれ育った福島区鷺洲・元の南浦江の
かつてのドブ川が、『鷺洲町史』1925年、鷺洲町史編纂委員会には
「聖天川」と記されている訳が仄かに見え始めました。

写真図 「滑稽浪花名所 浦江聖天」

     大阪市立図書館所蔵

 


次回、井路を川と称する事例から始めましょう。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登