晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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今週の「暮らしの古典」29は「言霊」です。
日本語には縁起を担いで、使用を躊躇う「忌み言葉」があります。
婚礼のスピーチなどで「切る」「去る」など憚られます。
*『日本語の歴史』の「奈良時代」の項に次の記述があります。
 *山口仲美『日本語の歴史』2006年、岩波新書
◆話し言葉のコミュニケーションが中心の社会では、
 現代人の想像力をはるかに超えて、
 言葉そのものが霊力を持っています。
 いわゆる「言霊信仰」です。
 私たち現代人だって、「四」という番号の部屋は
 「死」を連想し、不吉だと思ったり、
 子供に名前をつけるときに姓名判断に凝ったりするのも、
 言葉になにがしかの力を認めているからですね。

今回 、「言霊」(ことだま)として殊更、言葉に霊力があると
信じた時代の記事を探ってみました。
まず*『広辞苑』の「言霊」を繰りました。
  *『広辞苑』:『広辞苑 第七版』 (C)2018 株式会社岩波書店
◆言葉に宿っている不思議な霊威。
 古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。

次に「言葉」と「事象」に着目して、「言葉」の「言」を繰りました。
◆こと【言】(事と同源)

なんと「言」と「事」が「同源」とあります。
今回は*「折口語彙1935年」を引用します。
 *「折口語彙1935年」:「伝承文芸論」『折口信夫全集21』1996年、中央公論社
            初出『語法と朗読法』1935年7月「伝承文芸に就て」
◆日本の国は昔から言霊のさきはふ国と申して居ます。(中略)
 常に使つて居る意味は、語の中に一種の魂
 -語のすぴりつと、言語精霊といふもの-が
 潜んで居て、その語を唱へると其精霊が働き出す、かう考へて居たのです。

さすがに折口は濃いですね。
言霊を「言語精霊」と説いています。
その折口も*「折口語彙1938年」には、
次のように言葉の時代設定を試みています。
 *「折口語彙1938年」:「国語と民俗学」『折口信夫全集12』1996年、中央公論社
            初出『愛知教育』第609~611号、1938年9~11月
◆この幸ふと言ふと言ふやうな事を言ひ出した時代は、
 日本の国でもさう古い時代とは思はれません。
 それに似た信仰は、古くからあつたに違ひないのですけれども、
 言霊の幸ふと言ふ言葉は、言葉の形から見れば新しい形です。
 少くとも、万葉集などゝ言ふ書物に書かれてゐる歌が、
 世間で歌はれて居た時代です。
 だから少くとも、奈良朝を溯る事
 そんなに古い時代に起つた言葉だとは思はれません。

*『万葉集』には他に「言霊」が詠み込まれた歌が2首あり、
そのうちの1首が次に挙げる⑫3254の歌です。
   *『万葉集』:『萬葉集四』新潮日本古典集成55、巻13、1982年
〽磯城島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ

遣唐使が無事に大和への帰還するのを祈る歌です。
この歌の頭注に次の記述があります。
◆言挙げそのものを相手に向かって言い放ったもの。
 ◇言霊の 助くる国ぞ 言葉に宿る霊力が振るい立ち、
 言葉の内容を、そのとおりに実現させてくれる国だ、の意。

「言挙げ」があって言霊の力が発動するものです。
文献上の『万葉集』より早い時期とされる「言挙」は、
*『古事記』の景行記にある倭建命の「言挙」であります。
言霊信仰にあって言挙は、危険を伴う行為であったようです。
  *『古事記』:『古事記 上代歌謡』1973年、日本古典文学全集、小学館、
        中巻「景行記」
倭建命は伊吹山の神を退治に出掛け、
山中で牛のような大きさの白い猪に遭遇します。
写真図   イラスト倭建命
        
◆爾に*言挙為て詔りたまはく、*(原文:爾為二言挙一而詔)
 「是の白猪に化れるは、其の神の使者にあらむ。
 今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」とのりたまひて、騰り坐しき。
 是に大氷雨を零らして、倭建命を打ち或はしき
 [此の白猪に化れるは、其の神の使者に非ずて、
 其の神の正身に当りしを、
 *言挙したまへるに因りて*(原文:因二言挙一)
 惑はさえたまへるなり]。

「今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」という
倭建命の言挙げは、間違ってました。
白い猪に化身していた正体は、伊吹山の神自身であったのを、
使者だと高を括って、その場で退治するのを怠ったのです。
氷雨を降らし倭建命を惑わしたのは、
山の神による示現「祟り」でした。
そのまま倭建命は病を得て鈴鹿の能煩野に至り、
故郷の大和を偲ぶ歌を歌い、歌い終わるや薨去しました。

事の発端は伊吹山中での不用意な言挙げにありました。
言霊信仰にあっては、軽率な言挙げは致命的な禍を招くとされます。
誤った言葉が凶事をもたらせたのです。
口は禍の門です。
言挙げには教訓が込められています。
そのいっぽう、言霊信仰にあっては、
愛でたい言葉が幸いを招くのもあるようです。
いずれ「寿詞(よごと)」を探ることをします。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

第2回福っくらトークは「物売りの声」をトークします。
トークといって討論するわけやありません。
和やかに情報交換します。

写真図1 第2回ポスター

            福っくらトーク代表玉尾照雄会友作成

時は、2023年6月3日(土)14:00~15:30です。
場所は、妙壽寺会館(福島区鷺洲2丁目15-10)です。

ポスターに今回の謳い文句を玉尾代表が分かりやすく書かれています。
◆第2回は「物売り」のお話です。
 昔は、食べ物屋家庭用品を家の前まで売りに来てくれました。
 商品の名前を大きな声で連呼しながら売り歩く人や、
 独特の音色で人を引き付ける物売りもありました。
 そんな昔あった「物売り」の話を楽しくトークしましょう。

皆さまの耳の底に残っている「物売りの声」は何でしょう?
何となく哀調帯びた節回しの化粧水売りのおばちゃん。
朝早くから「アッサリガイ・シジミー(浅蜊貝、蜆)」と
流し歩いてたのは、伝法(此花区)の漁師さんとか?
今回も玄人が裸足で逃げ出しそうな、
地元・鷺洲出身の素人落語の師匠はんも参加します。
ボクは、今回も前触れに話題提供をします。
写真図2 PowerPoint版表紙

提供する話題は「物売りの口上」です。
「口上」は「こうじょう」ですね。
芝居の役者の口上やおまへんが、
街中を練ってあるいてたチンドン屋の口上が懐かしゅうおます。
これを切口に、ボクは聞いたこともない
昔の口上の世界をちょいとばかり探ってみました。
写真図3 物売りの口上コンテンツ
 
 1 「トザイ・トーザイ」の口上
 2 福飴の口上
 3 啖呵売
 4 鼠取り薬の口上
 5 昭和初期の街頭の呼び声
 6 遊郭を流したおでん屋の唄

《福飴の口上》は、大阪神農商業協同組合員の方からの聞書によります。
《3 啖呵売》は、同組合員から「タンカバイ」と聞きました。
『広辞苑 第七版』 (C)2018 株式会社岩波書店には
たんか‐うり【啖呵売】の項目に
「大声で口上を述べ立てて物品を売ること」とあります。
出典は林芳男「夜店風景」『上方』第80号1937年8月にある
「バナナの叩き売り」です。
《4 鼠取り薬の口上》の出典は、
喜多川守貞著『近世風俗志』(一)宇佐美英機校訂、
岩波書店、1996年、巻6生業下です。
《5 昭和初期の街頭の呼び声》の出典は、
川崎巨泉「街頭の呼び声」『上方』9号1931年9月です。
《6 遊郭を流したおでん屋の唄》の出典は、
人魚洞「街頭の呼声(追補)」『上方』12号1931年12月です。

この《「物売りの口上」むすび》は、以下のとおりです。
◆見事に常陸の国生まれの「新玉」さんは、
 別嬪さんで熱々のおでんに仕上がりました。
 遊郭を流し歩いた「しん玉おでん」の口上は、
 行商人による口承文芸といえそうです。
 話題提供は以上です。

はたして、うまく談話「みんなで物売りの経験談を話し合う」への
呼び水になるやら?
当日は、竿竹屋、金魚売り、焼き芋、豆腐屋、ロバのパンなどなどの
物売りの声が聞けそうです。

 《福っくらトーク》は
「ふっくらとーく」と読んでください。
「福っくら」の「福」は
福島区の「福」と
ふっくら和やかに、
古今東西「暮らし」をテーマに
談話して交流を深める場です。
参加者・話題提供者は、福島区在住者に限りません。
今後、「暮らし」の話題提供者は広く募ります。
第2回福っくらトーク「物売りの声」
参加費無料、参加手続き不要。
20名程度で和やかにお話しします。
お早めに会場にお越しください。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

今週の「暮らしの古典」28は「牛の藪入り」です。
今回、取り上げる「牛の藪入り」は、梅田堤を舞台として
例年旧暦五月五日端午の節句に行われた年中行事でした。

現在は、綱敷天神御旅社(大阪市北区茶屋町)の
神牛(撫で牛)のお花飾りに、その名残がみられます。
写真図1 玉姫社祭時の神牛のお花飾り 2023年5月5日
             綱敷天神御旅社神職撮影、同社提供


「牛ノ藪入」は*柳田語彙1914年に見えます。
 *柳田語彙:「山島民譚集(一)」1914年7月

                    『甲寅叢書』第3冊
柳田が引用した浜松歌国『摂陽落穂集』文化5(1808)年序を挙げます。
浜松歌国は、大坂の人で江戸後期の随筆家・歌舞伎作者であります。
◆例年五月五日、梅田堤へ近在の飼牛に新しき鞍を置、
 肩にいろいろの花を結び付て、引来る事その数を知らず、
 朝の五ツ時比より一時ばかり此辺の野に放ち、
 やがて牛の心のまゝに駆けさせるを牛の薮入と呼ぶ、
 農人ちまきを数多持来りて見物の人々へまきちらす、
 是を得てかへれば、小児のほうそうかろしと云ならして
 衆人我人と拾ふも又一興なるべし

「(牛の)肩にいろいろの花を結び付て」が
玉姫社祭時の「神牛」に継承されています。
この行事につきましては、
「梅田牛駆け粽」考-都市生活者から見た農村行事」と題し、
『日本民俗学』211号1997年8月に発表しました。
「牛の藪入り」とは、狂言作者である浜松歌国が
牛を奉公人に仮託しての名称で
農民たちは「牛駆け」と称していました。

この梅田牛の藪入りは、
「農民による村落共同体の五穀豊穣を祈る儀礼」を
都市生活者が「見る祭り」でありました。
この行事は、二重構造を呈しています。
それは農民にとっての農耕儀礼であると同時に
都市生活者という観客のいる祭礼でもあります。
この農耕儀礼は、演者としての農民がいて、
観客としての町人がこれに加わるといった「祭礼」でもありました。

このような民俗事象は、一次的な民俗事象自体を対象化し、
時に滑稽なものとし、観客に見せる民俗であります。
再び民俗化した民俗であります。
『鷺洲町史』1925年には「大仁(北区)・浦江(北区・福島区)など
大阪近在の村々」の農民が飼牛を連れて来たとあります。
同じく『鷺洲町史』には、次の記述があります。
◆之を要するに当年にありては三村(*大仁村・浦江村・海老江村)共に
 寥々たる農村にして(中略)暮色蒼然たるに至れば、
 牧童牛背に跨り、田間帰路に就く等
 真に一幅図中の光景たらずんばあらざりしなり

このように梅田周辺は、
牛を農耕に使役する農村地帯でありました。
また同町史には
「曾根崎あたりの茶屋衆、この牛を招きて延喜を祝ひ、
数々の纏頭どもを牛飼に与へなどする」とあります。
「纏頭」とは歌舞伎役者などに褒美として与える衣服です。
茶屋衆は、粽を縁起物としていただいた返礼にと
ご祝儀を農民に授けているのです。

この行事の舞台となった「梅田道」(「梅田堤」)は、
「梅田ステンショ」と渾名された鉄道駅が建設される以前、
都市と連接する周縁(urban edge)に位置していました。
安政2(1855)年刊行『浪華の賑ひ』によりますと、
浄祐寺(大阪市北区堂島3)より一丁ばかり北を「梅田堤」といい、
梅田の三昧「墓」に至る道條とあります。

この道筋の先の旧梅田貨物駅の西部は都市公園として整備され、
「みどり」と「イノベーション」の融合拠点に生まれ変わります。
今春2023年3月18日には大阪駅(うめきたエリア)
地下ホームが開業しました。
写真図2 大阪駅(うめきたエリア)地下ホーム改札口
     2023年5月12日撮影


今回、綱敷天神社御旅社の神牛さんのお花飾りを契機として
変貌著しい大都会にあっての「場所の記憶」を確認してみました。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

今週の「暮らしの古典」27は「口上」です。
最近、モノを購入するのに、
大型量販店、コンビニエンスストア、さらに通信販売によるようになり、
街頭を行く行商人など、すっかり見かけなくなりました。
今回、行商人の口上について考えました。
ボクの子どもの頃、昭和30年代(1955~1964年)の記憶をもとに
今から30年程前に*「外来者覚書」1991年を書きました。
  *「外来者覚書」:『都市文化研究』第9号
その一節に次の記述があります。
◆ガマの油売りは「一枚が二枚、二枚が四枚・・・・」の口上が
 あったかも知れぬが、
 これはあまりに有名で実際に耳にしたかどうかも怪しい。
 チンドン屋は「トザイ・トーザイ・・・・」の口上から切り出し、
 太鼓の音が入る。
ボクの聞いた「トザイ・トーザイ」は、近くの市場の「特価日」に
繰り出されるチンドン屋の口上の出出しの章句でした。
例のように柳田語彙に当たりました。
*「柳田1927年」に、「雄弁」について述べる件に
「口上」に言及しています。
 *「柳田1927年」:1927年1月『新政』4巻1号
◆諸君の所謂弁論に比べて見ると、
 口上は著しく叙情的のものだった。
 又詩や文章で言ふ所の、様式格調法則といふものゝ拘束が甚だしくて、
 到底自由に自由人の意見感情を吐露するに足らぬものであつた。

柳田は、口上を叙情的なものとしつつ、
形式張ったものとして評価は否定的です。
ボクは、実家近くの露店商の人への聞書の際、
もっと気さくな口上を聞きました。
『水都大阪の民俗誌』2007年に次の記述があります。
◆福島区の露天商は、1月10日の十日戎の時、
 堀川戎(堀川神社:北区西天満)において
 タカマチ・高市を打ち、福飴などを売る。
 その時の口上は、
 「福の本家はこちらです。
 オタヤン(お多福)こけても(転げても)鼻打たん。
 切っても割っても顔が出る。
 エベッサンの福飴どうですか。
 験(ゲン)のモン、験のモン」といった調子である。
写真図 堀川戎の十日戎:撮影 2018年1月10日

大声で口上を述べ立てて物品を売るのを
「啖呵売」(タンカバイ)といいます。
啖呵売で有名なのはバナナの叩き売りです。
*「夜店風景」1937年に次の記述があります。
 *「夜店風景」:林芳男「夜店風景」『上方』第80号1937年8月
◆(上略)その隣りではバナヽ屋さんが一盃気《ママ》嫌で
 「サァ、寄つて来い寄つて来い、どうやこんなバナヽは、
 台湾の本場物や、見るだけでも見て置け・・・・
 エヽバナヽやろどうぢや(中略)
 是れは初めから一本一本とれてるけれど、
 そのかはりに負けといたる、
 清水の舞台から飛んだと思ふて、五銭!と負けたろ、
 どうや五銭位持つてるやろ!・・・・・」

「清水の舞台から飛んだと思ふて、五銭!と負けたろ、
どうや五銭位持つてるやろ!」とは喧嘩腰で、
この商いの顛末は暴力沙汰と相成りました。
叙情的な口上や如何?
大正時代、大阪の遊郭を流して歩いていた
〈*新玉おでんや〉の口上は、
店主の老爺がコンニャク玉の、
屋台に出るまでの経緯を遊女の人生に擬えて語ります。        
*新玉おでんや:人魚洞「街頭の呼声(追補)」
 『上方』第12号、1931年12月
 原文右注の漢字を採り、*は私的な宛字です。
◆こおーれ、こおーれ、新玉おでんさん、
 おまえの出所は、何処じやいな、
 私の出所は是より東、常陸の国は、水戸さんの領分、
 中山*育ち国の中山*出る*時は、
 藁のべゝ(着物)*着て縄の帯して鳥も*通はぬ遠江灘を、
 *小舟に*乗せられ艱難苦労をいたしまして、
 落付先は、大阪江戸堀三丁目、播磨屋のテントサンのおうちで、
 いろいろお世話になりまして、

呼びかけに応える「新玉おでんさん」の「おでん」は、
*『近世風俗志』の「上燗おでん」に見える「菎蒻の田楽」です。
 *『近世風俗志』:喜多川守貞著『近世風俗志』(一)宇佐美英機校訂、
         岩波書店、1996年、巻之六(生業下)
物語の主人公「新玉」とは何者?
「新」は、「新造さん(新しく出た遊女)」で
「玉」は「コンニャク玉」のことです。
新造の遊女の身の上に仮託して、
田楽の菎蒻が屋台に供されるまでを語っているのです。
さぁさぁ新造さんの出番です。
◆別嬪さんのおでんさんにならうとて、
 朝から晩まで*湯に行つて*湯ーから*上つて、
 化粧してやつして櫛さして、
 堂嶋エラまち*(色町?)、竹屋の*向かいの、
 *甘ーいおむし(お味噌*お蒸し)のべゝを*着て、
 柚に生姜、胡麻に唐辛子、青海苔山椒をチヨイトかけて、
 うまいことな、おでんあつあつ。

見事に常陸の国生まれの「新玉」さんは、
熱々のおでんに仕上がりました。
「しん玉おでん」は、
*『摂陽奇観』の文化5(1808)年に見えます。
 *『摂陽奇観』:『摂陽奇観 巻之44』
       (『浪速叢書 第5』1928年、浪速叢書刊行会)
◆毎夜堀江ニしん玉おでん
 柚ニ生姜をちよと掛たといふて売歩田楽屋流行

遊郭を流し歩いた「しん玉おでん」の口上は、
行商人による口承文芸といえそうです。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

今春の花粉症はきつかった。
嚔「クシャミ」が出るは、
鼻はグスグスはと、
堪ったもんではありませんでした。
SNS情報によりますと、
花粉症はともかくも、
「クシャミ3回○○3錠」というCMが
ボクの子ども時代、1955年(昭和30年)からあったようです。

今回、とりあげる「クサメ」は「クシャミ」を
直音で表記したものです。
今回も柳田國男から始めます。
*「日本の民俗学」1928年に「くさめ」が挙げられています。
  *「日本の民俗学」:『定本柳田國男集』第25巻、1964年、筑摩書房
          初出『青年と学問』1928年、日本青年館
◆国民の中の旧分子、英語でいふフオク、
 漢学者等のいふ田夫野人はまだ大多数であつて、
 時あつては我々新人自身の、胸の中にさへ住んで居る。
 現に自分なども其一例で、
 今でも敷居の上に乗らず、便所に入つて唾を吐かず、
 竃の肩に包丁を置かず、
 殊にくさめを二つすると
 誰かゞ陰口をきいてるなどと、
 考へて見る場合は甚だ多い。
 即ち日本には今尚豊富なるフオクロアの資料が現存するのである。

「くさめを二つすると誰かゞ陰口をきいてる」を挙げたのは、
昭和初期ですが、柳田は戦後にも
*「クシャミのこと(孫たちへの話)」1949年に
クシャミを論じています。
*「クシャミのこと」:『定本柳田國男集』第20巻、1962年、筑摩書房
          初出『心』1巻5号、1949年11月
その一節に沖縄の民俗に触れるくだりがあります。
◆沖縄でも、首里のよい家庭で、クシャミをしたときには、
 クスクエーと言ふならはし*(習わし)があつた。
 これを、魔物のなせるわざと言つて、
 子どもなどのまだ自分ではさう言えへない者が、
 クシャミをしたときには、おとながかはつて、
 このとなへごとをすることになつてゐた。

クシャミをしたとき「クスクエー」という習わしなんぞ、
ヤマト「本土」の唱え言にもありそうです。
島村恭則『みんなの民俗学』2020年の一節を思い起こしました。
写真図 島村恭則『みんなの民俗学』2020年

◆民俗学では、沖縄は学問上の聖地のようなところである。
 個性的な文化が濃厚に存在し、
 多くの民俗学者がこの地を舞台に
 すぐれた研究を生み出してきた。

「多くの民俗学者」とあるのは、
 柳田・折口たち先駆者を指します。
 柳田「クシャミのこと」1949年は、この沖縄首里の事例を挙げた上で
「諸国のクサメ判断のことば」を列挙します。
◆ずつとまへに、高田十郎さんといふ奈良の学者が、
 諸国のクサメ判断のことばを集めてみたことがあるが、
 丹波天田郡の上夜久野では、
 一ほめられ二笑はれ四風引く(以下2例省略)

噂で誹られていたりして、
いずれも風邪引きに結着する唱え言を挙げています。
最後に東京の事例を挙げています。
◆東京ではまた、
 一ほめられ二そしられ三ほれられ四風ひく
 と言ふのがふつうであつた。

柳田は「三ほれられ」に注目して、以下のように論じます。
◆さういふ中でも、ほれられは、ことに、根拠がうすいやうだが、
 偶然にも、それは万葉の歌の心と合致する。

「クサメ判断のことば」で、
一番、幸せなのが「惚れられ」なのです。
早速、*『万葉集』の「くさめ」に当たる
「鼻ひ(る)」に当たりました。
*『万葉集』:『萬葉集 三』
 (日本古典文学全集4、小学館、1973年
巻11 2408の歌は次のとおりです。
〽眉根掻き 鼻ひ紐解け 待つらむか
 いつかも見むと 思へる我を

この歌の頭注には、
「眉がかゆかったり、くしゃみが出たり、
 下紐が解けたりするのは、
 いずれも恋人に逢える前兆と考られていた」とあります。

今ならクシャミするなんぞ、
花粉症や黄砂のせいにするところですが、
古代人はクシャミをした拍子に、自分の魂が飛び出し、
愛しい人の許に先に駆け寄っているとでも思っていたのかも?
愛する二人にとって幸せな解釈がなされているのです。
今回は「クシャミ3回」のCMから始めて、
古代人の霊魂観にまで回遊してしまいました。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登