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晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今週の≪暮らしの古典≫は161話≪懸鼓の如くなる≫です。

小正月が過ぎたばかりなのに、お彼岸の中日の話題です。

タイトル「懸鼓」の「鼓」の訓読みは「つづみ」ですネ。

いったい何の譬えでしょう。

 

「大阪の春」シリーズで、今回は2015年3月21日、

四天王寺での「日想観勤行行儀」の模様を取り上げ、

その時、撮影した画像を絵解きすることにします。

この年も檀那寺である浦江妙寿寺の法会の後、

四天王寺に赴きました。

写真図1   四天王寺西門前 20150321

西門前は善男善女で賑わっています。

写真図2 石の鳥居の扁額 20150321

西門の石の鳥居の扁額には

「釈迦如来 転法輪所

 当極楽土 東門中心」と書かれています。

四天王寺の西門は

極楽の東門と伝わります。

写真図3 鳥居前に立つ托鉢僧 20150321

鳥居前には托鉢僧が左手に錫杖、右手に鉢、笠を被って立っています。

看板に「3月21日 彼岸中日

    日想観[じっそうかん

    午後5時20分 参集 極楽門」と大書されています。

四天王寺では「じっそうかん」、一心寺では「にっそうかん」です。

山内を巡拝した後、極楽門に向かいました。

僧侶が行列を成して参拝客の前を通過します。

やがて勤行が始まります。

当日、配布された「四天王寺日想観勤行儀」によりますと

進行は以下のとおりです。

春分・秋分の日 午後5時20分~ 於 極楽門

 先 三礼/次 表白文/次 発願文

    次 誦経     開経偈 般若心経

   次 日想観文 導師之を唱える/次 観経文

   次 念仏/次 念仏回向偈

 

極楽門に参集した参拝客が一斉に「般若心経」を誦経するとは、

何というご縁でしょう。

「袖触れ合うも他生の縁」なのか、互いに同行者です。

「日想観文」を導師が唱えます。

「日想観文」は、「観無量寿経」の「十六観法の第一」であります。

冒頭の「韋提希」については『広辞苑 第七版』2018年、岩波書店に

次の記述があります。

◆(梵語 Vaideh?)古代インド、マガダ国王頻婆娑羅(びんばしゃら)の后。

   子の阿闍世(あじゃせ)太子に幽閉され、釈尊に説法を請うた時、

   釈尊の説いたのが「観無量寿経」であると伝えられる。

 

以下、釈尊の言葉の翻訳となります。

その「日想観文」を掲載します。

改行は私的なもので、随時、区切って註釈を書き込みます。

◆ほとけ 韋提希(いだいけ)に

   告げたまはく

   汝及び衆生、まさに心を専にして

   念を一処に撃け(かけ)

   西方を想ふべし

   いかんが想を作さ(なさ)む

   凡そ想を作すとは

   一切衆生、みな日の没するを見よ

 

『日本佛教語辞典』1988年、岩波書店「日想観」には

「太陽が西に沈むのを見て、

極楽浄土が西にあると観ずること」とあります。

引用を続けます。

◆まさに、想念を起して

   正座して西に向ひ  

   諦か(あきらか)に日を観ずべし

   心をして堅住し 

   想を専らにして

   移らざらしめて

   日没せむと欲して

   かたち懸鼓(げんこ)の如くなるを見よ

 

専心集中して日没を見よとあります。

タイトルの「懸鼓の如くなる」が出ました。

奈良文化財研究所「木簡庫」に次の記述があります。

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK031046000214

「懸鼓」は五経に散見する言葉で、『儀礼』大射では「建鼓」。

   もとは、木に鼓を吊るしたもので、

   のちに日の出もしくは日の入りの太陽の様子を表す表現となった。

 

「懸鼓」は「日輪」の隠喩でありました。

引用を続けます。

◆既に日を見をはりなば

   目(まなこ)を閉じ、

   目を開かむに

   皆明了(みょうりょう)ならしめよ

   是れを日想(にっそう)とし

   名づけて初観という

 

「十六観法」とは、「日」に続く

「水・地・宝樹・宝池など16種の観法」をいうと

『日本佛教語辞典』にあります。

当日、太陽は、石の鳥居の左(南)上から、

右(北)下に沈みました。

鳥居の真中を通過する、その瞬間を

一斉にシャッターが切られましたが、

ボクの画像は生憎、ハレーションを起した画像でした。

写真図4 鳥居の真中を太陽が通過する瞬間 20150321

むしろ雑踏を擦り抜けて、

逢坂の彼方に大らかに沈む「懸鼓」を捉えるのに成功しました。

写真図5 逢坂の彼方に沈む夕陽 20150321

次回は、四天王寺「日想観勤行行儀」創成に至るまでの過程を

「日想」「日想観」という言葉を軸に論究することにします。

 

究会代表 田野 登

 

「大阪の春」の一景に「稲田桃」をと思い立ち、

2006年秋の日本民俗学会での発表の際、お世話になった

村田俊明さんに会いたくて昨日2026年1月9日(金)午後、

「リージョンセンタ― ももの広場」に出向きました。

うまい具合にお目にかかり、「稲田桃再生プロジェクト」の現在を

お教えいただきたい旨申し上げましたところ、

一度、お話を聴かせていただきましょうとのこと。

20年前の標題は、

≪近郷名所をめぐる今日的伝承の展開-『河内名所図会』稲田桃林を軸に-≫でした。

そうとなれば、稲田桃ゆかりの地を行脚したくなりました。

写真図1 『河内名所図会』巻之四 稲田桃林

 

*2014年3月30日の「ももの花祭り」以来の10年ぶりの「稲田」です。

 ↓アクセス

≪2014稲田ももの花祭りに出かけました:2014-03-31 17:48:13≫

リージョンセンタ― ももの広場」は、変わりありません。

写真図2 「ももの広場

バス会社が変わっています。

停留所名が「楠根リージョンセンタ―前」になっています。

調べてみますと、バス会社は「近鉄バス」から「大阪バス」

元の停留所名は「鷺島橋」でした。

運転士不足で2024年9月20日で「近鉄バス」は休止となり、

「大阪バス」は従来とは異なる路線で停留所を引き継いだようです。

ともかく植栽地の第二寝屋川に出たい、この寒空に耐えている稲田桃を見たい、

この思いに駆られて第二寝屋川の堤防を目指しました。

旧年末の弊の腰痛が疼く中、右往左往しながら

やっと第二寝屋川の堤防に辿り着きました。

旧楠根川跡遊歩道入口が見えます。

写真図3 第二寝屋川分岐の旧楠根川跡遊歩道入口

こうなれば、桃の名所「観音禅寺」から外れても

「旧楠根川跡遊歩道」を下る決意をしました。

目を遣りますと「いなだもも」の若い苗木が此処彼処に見えます。

川に架っていた橋梁の傍らにも植わっています。

写真図4 遊歩道に架る橋梁

2014年当時や如何?

植栽の稲田桃の記憶はありません。

程なく楠根小学校前に出ました。

「旧楠根川」の説明プレートが門の傍らに設置されています。

後で読もうと、ともかくワンショット。

それには以下のことが書かれてあるのでした。

◆現在の第二寝屋川は、旧楠根川の歴史にはじまります。(中略)

少なくとも中世より農業用に掘られた人工河川であったと考えられます。(中略)、

稲田付近には桃林が広がっていました。(中略)

昭和に入っても寝屋川水系を水禍から守るため、

大阪府によって進められた第二寝屋川の改修工事が昭和43年に完成し、

現在の幅広い河道となりました。

現在、廃川となった旧楠根川は川筋を生かした緑の散歩道として整備されています。

平成15年3月 東大阪市

たしかに寒い中、犬と散歩をしている人に何人か出会いました。

遠くから子どもの声で「村田牛乳はおいしいで」と聞こえてきて、

稲田桃世話人代表のお名前が聞けて嬉しくなりました。

写真図5 楠根小学校前

夕映えの校庭の彼方に背の高い木立が見えます。

メタセコイアでした。

2014年春には第二寝屋川を遡り、

「ももの花祭り」の会場の楠根小学校まで桃の花を遊覧しながら

メンバーと歩いたものです。

こうなれば第二寝屋川堤防下の冬空の稲田桃を見たくなりました。

ところが腰がなかなか言うことを聞いてくれません。

やっとこさ、堤防下に出て春を待つ稲田桃を見つけました。

写真図6 第二寝屋川右岸堤防

しばらく堤防沿いに冬の夕暮れを歩きました。

「丸屋大橋」とかの橋詰で腰を延ばし、

此処まで来れば稲田の町を突っ切ってJR徳庵まで出よう。

橋の袂から見おろせば、稲田の町の道は錯綜して見えます。

エイヤッと一つの道を選びました。

ほどなく旧楠根川に架っていた「まるやばし」に出ました。

これが本筋かも?

写真図7 「まるやばし」の親柱

ほどなく「稲田本町二丁目19」。

「稲田南会場」の扁額が掛かり、軒下に「子安地蔵尊」の祠がありましました。

提灯には「町内安全」と書かれています。

やがて「稲田八幡宮」を過ぎ直進。

何処で聞いたか忘れましたが、

「この道を道なりに行けば散髪屋さんがあります」と。

ただひたすら、腰の痛みを堪えて「散髪屋さん」を目指しました。

なんと立派な道標が立っています。

住居表示は「稲田本町三丁目8」。

写真図8 道標

ここで3ショット。

「左 京徳庵きしや道 「右 八尾瓢箪(絵文字)町道 「明治三十二年二月中旬建立」と

刻まれていました。

明治32(1899)年当時、四条畷に向かう鉄道は「汽車道」ですよね。

稲田のメインストリーを選んで歩いていたことになります。

此処で左に曲がり、JR徳庵駅を目指しましたが、早く右折すれば良いのに

踏切を越えて商店街に出てしまいました。

放出で乗り換えて、

「おおさか東線」の僅かな乗車時間で腰も言うことを聞いてくれるようになり、

無事にマンションに帰り着きました。

早速、阪俗研「便り」第576号の続きを編集、配信しました。

ひたすら「稲田桃ゆかり」を求めて、

今までと違ったアングルで、

稲田の地を行脚したことになりました。

 

究会代表 田野 登

今週の≪暮らしの古典≫は160話≪北前船の夢≫です。

皆さんの初夢や如何?

うなされて、目覚めれば昔の職業の夢であったとか?

時々、思うことに、この国の人々は、

何度、年を越すのやら?

何度、春を迎えるのやら?

旧暦の上に新暦が被さり、それとは別に

二十四節気といった曆(こよみ)によって日を読むのが、この国の文化です。

新年で年を越したところですが、昔のお年寄りが「年越し」というのは、

たいていの場合、節分の夜でした。

この年越しは、鰯の頭を燻べて匂いを立てたり、

豆を撒いて掛け声を張り上げたりと、静々と越すものではなさそうです。

 

3年前の≪節分の夜の船荷 暮らしの古典13話:2023-02-08 18:42:41≫に、

柳田国男・折口信夫の説を引いて、その「積荷」を

「積むべき「物」は、去年中の悪夢の大掃除で排出された「穢れ」です」と述べました。

今回も船の話をします。

 

拙著『水都大阪の民俗誌』2007年、和泉書院

≪5 近代大阪の都市民俗の展開≫から引きます。

◆川崎人魚洞「大阪市内の神社に関する土俗信仰と縁起物其他」

(『上方』55号・1935年7月号)に、

昭和10(1935)年、市内の神社より授与される

宝船の絵・御守・福財布・箸・小絵馬御守・小判・土鈴についての紹介をしている。

縁起物は、財布・箸といった日常品にまで及ぶ。

 

縁起物の最初に「宝船の絵」が挙げられています。

この「宝船の絵」は、当時「水都」を標榜し舟運の盛んであった大阪では、

多くの寺社にて頒布されていたと考えられます。

1991年に大阪都市文化研究会「都文研」のメンバーと

大正区の呑海寺(大正区三軒家東)の節分を調査した時に

お向かいの下八阪神社から戴いた「笹付宝船」もまた、その一つでありましょう。

それは、節分の夕刻より笹につけて参拝者に頒布されるものでした。

「節分の夜」の夢となれば「初夢」であります。

 

淡路の廻船人で蝦夷地・箱館(函館)に進出し、後に日露交渉の間にも立った

高田屋嘉兵衛兄弟の「初夢」は元日に語られた*「霊験譚」として

浦江聖天(現在「福島聖天」)に伝承されています。

*霊験譚:『大聖歓喜天霊験経和訓図会』安政2(1855)年、春屋繊月斎著、松川半山画

      岡田群鳳堂発兊「北国に冨嶽の夢見て兄弟高運之事」…

以下、≪25 福島聖天の高田屋嘉兵衛霊験譚≫を軸に記述します。

本文には「…一時大坂に来り川口に滞船の砌

北国に当つて芙蓉峯あり登山して旭を拝せし始末を兄弟相同じく三夜続けて

夢見たり」とあります。

「川口に滞船」とあります場所は、

安治川・木津川が合流する西区・北区・福島区の境界域に位置し、

浦江聖天までは徒歩で30分も掛からない所です。

引用本文の直前の箇所には、

「大坂川口に滞船の後纔の寸暇を得て兄弟ともに急ぎ走りて浦江村の天尊へ日参して…」と兄弟が浦江聖天に日参したとする記事があります。

本文「旭を拝せし始末」の注解に以下の記述が見えます。

◆…『翁伝』*(高田敬一著高田権平編集兼発行『高田屋嘉兵衛翁伝』昭和8年)には、

「寛政九巳年正月兄弟六人兵庫表に寄り集ひ、

例により屠蘇酒雑煮餅といふ元日の祝膳の上にて、兄嘉兵衛先づ曰く、

おれは今暁太陽が北海より躍り出でたる初夢を見たり。

太陽は常に東海より出づるものなるに今北海より出づるとは、なんと奇ならずやと。

言いまだ終らざるに弟嘉蔵曰く、

余も亦今朝兄貴と同様北海日の出の奇夢を見たり豈妙ならずやと。

 

「兄貴と同様北海日の出の奇夢を見たり」とは日参の霊験なのでしょう。

『…霊験経和訓図会』引用を続けます。

◆言下に次弟金兵衛亦同じく紅暾の北海より輝き出でしを夢みしよし語り出ければ、

一座忽ち其奇に驚き、是れ何かの吉兆ならんと互に祝杯を交へ、

本年は更に航路を拡張して北海即ち蝦夷が島に乗り出すことゝなせり。

 

ここまでは、廻船人の「初夢」の霊験譚を記しました。

初めに挙げました大正区の下八阪神社が参拝客に頒布する

「宝船絵巻物」の霊験や如何?

「笹付宝船の由来」を全文載せます。

◆「この宝船の絵巻物は節分の夜枕の下にしいて寝ね

吉夢を見た時は今年は吉事があるとして之を秘蔵します之を船をつなぐといいます

凶夢を見た時は河に流します之を流すといひます、

当地は昔、大阪の関門でありまして

北前船入津して土地のうるほひ多大でありましたから

北前船は三軒家の宝船であつた故事を襲ひ

宝永年間(一八世紀初頭)以降、笹につけて授与する伝統となった」とある。

 

調査したのは、今から30年以上も前のことゆえ、現在を確認するため

大正区の下八阪神社のHPに当りました。

  ↓アクセス

https://jinjya100.com/yasakajinja-taishoku-shimo/#rtoc-5

タイトルは「節分の夜に授かる、ちょっと不思議な「宝船」」となっています。

◆この神社の名物といえば、毎年節分の夜に行われる特別な行事。

「宝船」と呼ばれる絵巻物を笹につけて参拝者に授けるという、

ちょっとユニークな風習です。

枕の下にこの宝船を敷いて眠り、吉夢を見たら一年安泰。

凶夢だったら川に流す…という、昔ながらのロマンあるおまじない。

この風習は、江戸時代に栄えた北前船(きたまえぶね)の伝承にちなんでいるのだそう。

当時、大阪港に米を運んできた北前船は、三軒家では「宝船」とも呼ばれ、

たくさんの恵みをもたらしてくれた存在でした。

 

ようやくタイトルにある「北前船」が出ました。

写真図 舩絵馬にみえる「北前船」

    背景に住吉四社、太鼓橋、高燈籠が描かれている。

    木津川を遡る「北前船」である。

近世初頭において、川口の町人請負新田の先端部にはマチバが発生し、

後世、舟運による交易が盛んに行われていました。

木津川右岸の大正区三軒家東に鎮座する下八阪神社において、

節分の夕刻より宝船絵巻物を笹につけて参拝者に授与にも

往時の賑わいを想像させる風習であって、

「北前船」を「宝船」と見立てるのは「水都大阪」に相応しい趣向であり、

木津川の岸べに往時の「北前船の夢」を見るのも一興かな?

 

究会代表 田野 登

早や「なぬか」。

住吉大社「すみよっさん」では白馬「あおうま」の節会。

今年は午年ゆえ、コロナ禍以来お出ましのなかった白雪号が

境内を巡るとやら。

見物にゆきたいところですが、「大阪の春」の絡みで断念。

「なぬか」となれば「七草がゆ」。

子どもの頃の思い出は、さほどありません。

都会にあって「七草」は、揃わないし、見たこともありません。

七草が揃ったのは、ビニールパックにセットされたのを

スーパーマーケットで買い求めた40数年後の結婚をしてからのことです。

写真図 七草がゆ

ところで、毎年正月になれば百人一首を家族で競い合いました。

読み札に七草が詠われてきます。

「君がため 春の野に出でて 若菜つむ」の「若菜」は「七草」と教えられていました。

取り札は「わがころもてに」であって「わかころもては」では

お手付き!

早合点のボクは悔しい思いをしたものでした。

下の句は「我が衣手に 雪はふりつつ」であって

「わが衣手は 露に濡れつつ」ではありませんでした。

写真図 百人一首読札

子どもの頃は、百人一首で遠征したこともあったやら?

勿論、子ども心に、愛しい人の健康を祈って、

若菜を摘みに出たなど知る由もありませんでした。

「七草がゆ」に纏わる話題では、

粥「かゆ」、「雑炊」に「増水」を宛てて

「ぞうすい」と云う話は、

西鶴の「日本永代蔵」にある世知辛い話であります。

水ばかりで加薬が無くて薄い雑炊です。

そないまで始末してカネを貯め込んだ話です。

これなど都市生活者の致富道を説く教訓です。

「にらみ鯛」は、誰も睨むことなく一昨日の夜、

一人むしゃくしゃといただきました。

相方がすっかり日付を弁えないようになり、

年が明けても新年を分節しない世界に居て、

二人とも足を縺れさせながら歩むことになりそうです。

 

浦江での百人一首歌を詠んだ母の声を懐かしむ田夫野人之を記す

久々の「日々寸感」です。

タイトルは「年越し一息」です。

前回は≪そろそろ年賀状作成

 日々寸感35話:2025-11-05 09:31:21≫でした。

出だしは「今朝、マンションの郵便受けを開けました。

 高校の同級生の奥さんからの喪中はがきでした」です。

丸2カ月の間、お休みでした。

年賀状は、昨日も数枚、

出していない方からのを書いて投函しました。

勿論、この間を年賀状に構い続けた訳ではありません。

「そろそろ日々寸感」から始めて一月経っても図案が決まらず、

注文したのは12月中旬を過ぎてのことで、

あたふたと作成したもので

「頌春」の朱の文字が小さかったり、

フォントが気にいらなかったとか失敗作でした。

年々、年を越すのがえらくなり、

昨年12月は折口信夫の4回講義のための

教材作成のデスクワークが体に応えて年の瀬が迫る中、

腰を言わしてコルセットを装着しての年越しです。

阪俗研恒例の12月30日の夕陽を見る会の下見と本番。

写真図 夕陽を見る会本番

「便り」連載「ことのは考」執筆、編集、配信。

この間を縫って、

溢れかえっている文献複写の段ボール詰め処分。

これがまた腰には堪えました。

そんな中、年の市の買い物も注連縄も水回りを止めて玄関だけ、お節料理も一重…。

こうして正月の仕来りが忘れられて行くのを

身に沁みて感じています。

今日、1月4日、三ヶ日が過ぎ、「年越し一息」です。

これから「大阪の春」の話題提供に向けての編集にかかります。

以上が年明け早々の寸感です。

本年も気が向きましたらご購読ください。

 

浦江の田圃も野原も知らない田夫野人これを記す