家事代行サービスを全国に展開する無謀な計画
いよいよ、仕事も順調に入ってきたので、この仕事を全国に広げる準備を始めました。
フランチャイズシステムを使って、家事サービス業をやりたいという、女性(主に主婦)に「起業のチャンス」と言うことで企画をしました。昭和60年3月2日に正式にミニメイド・サービス 株式会社として資本金3000万円で設立しました。
会社設立までの間に、フランチャイズシステムを研究しました。そして、実験もしました。私の妻にフランチャイズの店長をテスト的にさせてみました。そうしたら、夢中で仕事を始めて東京の郊外でしたが、府中市とか調布市周辺に顧客を持つことができ、フランチャイズ実験店は成功しました。
第一号のフランチャイズ店は、関西エリアの芦屋と言う所からでした。前田さんという三歳のお嬢さんを持つお母さんでした。私の考えていたことをビジネスにした人がいたんですね。是非、私にこの仕事をさせてくださいととても熱心でした。現在の頑張っていて、25周年を迎えました。
そして、全国展開が始まりました。九州福岡や宇都宮、名古屋、福島という都市や、首都圏でも希望者が多く出てきました。私は、毎週のように出張に出て説明会会場で、家事代行サービス の将来性について熱く語り、そして、多くの賛同者を得て、順調に店舗を増やしていきました。
そして、この仕事の先駆者として証拠を作ろうと考え、1986年(昭和61年8月)に株式会社評言社と言う所から、「女性だから成功できるミニメイドサービス 」というタイトルの本を出しました。35歳の時でした。
この時期は、私にとってすごく忙しく充実した時期でした。
フランチャイズシステムを使って、家事サービス業をやりたいという、女性(主に主婦)に「起業のチャンス」と言うことで企画をしました。昭和60年3月2日に正式にミニメイド・サービス 株式会社として資本金3000万円で設立しました。
会社設立までの間に、フランチャイズシステムを研究しました。そして、実験もしました。私の妻にフランチャイズの店長をテスト的にさせてみました。そうしたら、夢中で仕事を始めて東京の郊外でしたが、府中市とか調布市周辺に顧客を持つことができ、フランチャイズ実験店は成功しました。
第一号のフランチャイズ店は、関西エリアの芦屋と言う所からでした。前田さんという三歳のお嬢さんを持つお母さんでした。私の考えていたことをビジネスにした人がいたんですね。是非、私にこの仕事をさせてくださいととても熱心でした。現在の頑張っていて、25周年を迎えました。
そして、全国展開が始まりました。九州福岡や宇都宮、名古屋、福島という都市や、首都圏でも希望者が多く出てきました。私は、毎週のように出張に出て説明会会場で、家事代行サービス の将来性について熱く語り、そして、多くの賛同者を得て、順調に店舗を増やしていきました。
そして、この仕事の先駆者として証拠を作ろうと考え、1986年(昭和61年8月)に株式会社評言社と言う所から、「女性だから成功できるミニメイドサービス 」というタイトルの本を出しました。35歳の時でした。
この時期は、私にとってすごく忙しく充実した時期でした。
家事代行サービスは、日本では不向きな商売では?
アメリカから持ち込んできた家事代行サービス
が、いよいよスタートしました。1983年4月15日です。この日は、東京ディズニーランドがオープンした日です。
スタッフも採用し研修も終わり、いつでも仕事があれば出ていける体制でした。
最初の料金は、三人でチームを組み1時間9000円という価格で売り出しました。
チラシを毎日のように配りました。中には、チラシを見て「貴方達消防署の人なの」と言われキョトンとしていましたら、家事サービ ス なんでしょ。家事と言えば、火事の方の消防署を連想されたようなんですね(=⌒▽⌒=)
しかし、仕事の注文はまったくありませんでした。
時々、変な電話が男性からかかってきて、三人もいらないよ。体が持たないから(ノ゚ο゚)ノという変な電話です。
半年間経過し、ダメかなと思っていた時に、プレスリリースと言うやり方を教えてもらいました。
家事代行サービス は、新しい仕事だからマスコミに売り込むといいよと言うアドバイスで、文章を作成しマスコミ各社に送りましたら、なんと「家庭画報」が取材をするということで、弊社に来ました。

ここに出たことで、問い合わせが増えて、仕事が埋まりました。そして、次から次へとマスコミに取り上げられ、NHKにも紹介されました。マスコミの力はすごく、どんどん仕事が増えていきました。
そして、1984年5月(昭和59年)には、荻窪にも開店しました。
諦めないでよかったと思った瞬間です。ミニメイドサービス が世に出る前に消えるところでした。
スタッフも採用し研修も終わり、いつでも仕事があれば出ていける体制でした。
最初の料金は、三人でチームを組み1時間9000円という価格で売り出しました。
チラシを毎日のように配りました。中には、チラシを見て「貴方達消防署の人なの」と言われキョトンとしていましたら、家事サービ ス なんでしょ。家事と言えば、火事の方の消防署を連想されたようなんですね(=⌒▽⌒=)
しかし、仕事の注文はまったくありませんでした。
時々、変な電話が男性からかかってきて、三人もいらないよ。体が持たないから(ノ゚ο゚)ノという変な電話です。
半年間経過し、ダメかなと思っていた時に、プレスリリースと言うやり方を教えてもらいました。
家事代行サービス は、新しい仕事だからマスコミに売り込むといいよと言うアドバイスで、文章を作成しマスコミ各社に送りましたら、なんと「家庭画報」が取材をするということで、弊社に来ました。

ここに出たことで、問い合わせが増えて、仕事が埋まりました。そして、次から次へとマスコミに取り上げられ、NHKにも紹介されました。マスコミの力はすごく、どんどん仕事が増えていきました。
そして、1984年5月(昭和59年)には、荻窪にも開店しました。
諦めないでよかったと思った瞬間です。ミニメイドサービス が世に出る前に消えるところでした。
日本で初めての家事代行業を設立したのは私です。
1982年(昭和57年5月)に日経ビジネスと言う雑誌を見ていたら、アメリカでメイドサービスが大流行と言う記事が出ていました。これは面白いと思い、
今のようにインターネットですぐに調べられる時代ではありませんでしたので、雑誌社に問い合わせましたが、詳しいことは分からないとのこと。諦めないで調
べていって、ジョージア州にあるメイド会社が分かりました。早速資料の請求をしましたが、送られてきませんでした。
ジョージア州へ会いに行ったレオーネ・アッカリー社長
私は、その時32歳でした。若さもあり、その年の8月1日はメイド会社を訪問していました。
そこで、私が強く印象に残ったのは、働いているスタッフが明るくて、楽しそうに、元気に働いている姿でした。
日本でもこのように元気な女性を集めることができたら、きっと成功すると思い、アメリカの会社とは契約をしないで帰国しました。
米国で楽しそうに働くスタッフの写真
そして、1983年4月15日に東京都世田谷区尾山台と言う所に、ミニメイドサービス 尾山台店をスタートさせました。
これが、日本初の家事代行 業のスタートです。

ジョージア州へ会いに行ったレオーネ・アッカリー社長
私は、その時32歳でした。若さもあり、その年の8月1日はメイド会社を訪問していました。
そこで、私が強く印象に残ったのは、働いているスタッフが明るくて、楽しそうに、元気に働いている姿でした。
日本でもこのように元気な女性を集めることができたら、きっと成功すると思い、アメリカの会社とは契約をしないで帰国しました。
米国で楽しそうに働くスタッフの写真
そして、1983年4月15日に東京都世田谷区尾山台と言う所に、ミニメイドサービス 尾山台店をスタートさせました。
これが、日本初の家事代行 業のスタートです。