モチベーターコーチ金子剛「自由なら無敵」ブログ -668ページ目

習慣性

煙草は習慣性がある。 とゆーのは常識だ。



いわゆる「ニコチンが切れて、それが欲しくなる」という常用性の意味で

<習慣性>があると言われるんだろう。


それとは別に、煙草の吸い方にも<習慣性>があると思うのだ。


「句読点」 でも触れたように、何かひとつ終わったら一服して、

というパターンだ。


ニコチンが欲しいわけでもなく、

煙草そのものを欲してるのでもないのだ。


これって、かなりオカシナ行動でしょ?

嗜好品とはいえ、珍しいパターンじゃないだろか。



夏の暑い日、風呂上りにビールを「キューッ」と。

というのとは、ちょっと違うよね。



ちょっと時間が空いたから ・・・ とか

一区切りついたから ・・・ とか

クチ寂しいから ・・・ とか



「うわーっ!煙草が吸いてー!!」というような強い欲求じゃないんだよね。


「とりあえず、一服」 という意味では「とりビー」と共通かも知れないが。



足踏みも大敵

仕事でブログを書いたり、メルマガの記事を書いたりする。

内容も自分の話しやすい分野もあれば、そーでないものもある。


つまり、話題の見つけにくい分野のものも、恥ずかしながらあるわけだ。

それでも穴を空けることはできない。

なんとか喜んで貰えるだろう話をむにゃむにゃと考える。


しかーし ・・・ 思いつかない。


あーでもない、こーでもないと考える。


やーっぱり ・・・ 思いつかない。


そんな時、「煙草吸おう」 って思うんだな、これが。



要は気分転換したいんだな。

だから、「暇は大敵」 のとこで書いたのと同じで、

ゆっくり、深ぁ~く深呼吸をすると、紛れるんだ。



子供の頃は、体育の授業だとか体操の時間に

何度も深呼吸してたと思う。


でも、大人に成ると、自分で意識しないことには

深呼吸するチャンスって、殆ど無いんだよね。




自由の在り方と「信号無視」 その2


それまで当たり前だった信号無視を、やめて直ぐは、

何となく気が急くこともあった。


自分が信号無視をしなくなってみると、

信号を守る人がいかに少ないか、良く分かる。

朝、見通しの良い、車通りの少ない交差点は、特にそうだ。



しばらく続けると、信号の点滅に駆け込みたい衝動もなくなり、

落ち着いて信号を待てるようになった。



  あたふたと右左を確認して渡っていく人。

  車の間を抜けるように渡る自転車。


それを横目に、自分のペースでいることに、

ある種の<優越感>みたいなものを覚えることがある。



優越感・・・なんて言葉にするとイヤラシく聞こえるけどね。

でも、悪くない気分があるんだな、実際に。


自由の在り方と「信号無視」 その1

ほんと、大の大人が、ネットとはいえ、公の場所で言えるようなことじゃない。

信号無視のことだ。

これ、結構やっていた。


車を運転している時は、流石にやらない。

むしろ、歩いている時、自転車に乗ってる時のこと。



車通りがバンバン多いとか、見通しが悪いなら、そんな危険を冒さないと思う。

朝の通勤時、見通しの良い交差点の赤信号。 僕は当たり前に渡ってました。

「だって、あきらかに、車が来ないとわかってるんだもん」という訳です。



でも、今年の初めから信号無視を止めました。


前回の「駆け込み乗車」とちょっと矛盾するように聞こえるかも知れないけど。

行動の主体が僕じゃなく、信号機にあるという意味で。


ただ、僕としては、ホームの電車に「駆け込まない」のと同様に、

歩行者信号の点滅や、黄色信号に「駆け込まない」というのが発端だった。


要は、セコセコと瑣末なことに左右されず、どっしりと構え、自分で選び取るやり方。

そのためのトレーニングなのだ。



つづく



自由な在り方と「駆け込み乗車」


くしくも 僕は「自由が丘」という駅を乗り換え駅として利用している。



東横線という東京と横浜を結ぶ電車から、大井町線に乗り換えるのだ。

この時に、自分が乗るべき電車が既にホームにあれば、ついつい走ってしまうもの。

これは人情でもあり(?)、時間に細かい日本人的でもあり、みんなが駆け出すのに合わせた集団心理でもあるのだろう。



つ・ま・り、あまり考えもせずに走り出しているのだ。


そこに止まっている電車。

発車間近のベルの音。

駆け込む人波。


その電車を見送ったところで、遅刻する訳でもないのに、走ってしまう。

それを「変だな」と思うことも無かった。

当たり前に、そうしてた気がする。



「自由が丘」という場所で、

自由意志でなく、条件反射的に動いているわけだ。

皮肉だな。


主体は僕になく、ホームに止まってる電車やベルの音にあるのだ。



だから、それを止めた。 ・・・極力、止めている。


確かに、走る時もある。

遅刻しそうだとか、約束に間に合わないとか。

でも、その時はちゃんと「走ること」を自覚し、選び取っているのだ。



知らぬ間に自分が操作されている。 なんて気が付くと、気持ちが悪いものだ。

日常の些細なことも、ちゃんと自分で選んでる。 と、思えるのは気分が良い。


小さな「自由」ではあるが、毎日起り得る出来事だけに、「塵も積もれば山」だ。

きっと月単位、年単位でみたら大きな違いになってると思うんだがな~。