
連載更新! コロナ禍2年を過ぎてますます混迷を増している『コロナ禍の下での文化芸術』
連載更新!
コロナ禍2年を過ぎて、ますます混迷を増している
『コロナ禍の下での文化芸術』4章その4
「コロナ第6波、学校感染多発でついに〈みなし感染判断〉という非科学的対応に、それでも各地で舞台公演は続いていた」
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https://note.com/doiyutaka/n/n4eaa8c8af2db#BlAQ2
記事より
《学校感染の実情をみていると、コロナ感染の第6波は、現実には感染者数などの正確な記録は不可能だったと思える。そのぐらい、保健所と医療機関が崩壊状態、逼迫し過ぎていたということなのだろうが、それでも、コロナ感染症の拡大がこれで6回目というのに、2年も経つのに、感染者のデータが不正確にしか記録できないというのでは、今後、もっと強力な変異株が襲ってきたら、もう日本国の医療は完全にお手上げなのではないか?
それなのに、ちょうど第6波の最中、1月〜3月は中高大学の入試シーズン真っ只中だ。昨年の大学入試は、コロナ対応が十分できたとは言えなかったが、それでも、2020年の全国一斉休校の悪影響を考慮するという名目で、大学入試に関して複数日程などの受験生への配慮を行っていた。なのに、今年の受験シーズンは、そういう配慮はほとんどなかった。2021年の受験シーズンよりも、学校感染ははるかに多く、受験生の多くがコロナによる悪影響を受けていたはずなのに、その実態は、自治体も文科省も公表を控えるばかりで、そのために報道にもほとんど出ないまま、つまりは世間一般には、2022年の受験生がどれほどコロナ危機の悪影響を被ったか、全く伝わらないままで過ぎてしまった。》
《2021年末から2020年春にかけて、クラシック音楽界も懸命の演奏活動が継続されていた。その中でも、筆者がどうにもうなずけない話もあった。
指揮者のミッチーこと井上道義氏が、2021年の第九公演をキャンセルしたが、その理由が、ベートーヴェンの交響曲第9番に必要な合唱の人数で演奏できないのはダメだ、というものだった。それはコロナ感染対策で、合唱の人数を減らすということだったのだが、井上氏にとっては、人数を減らした合唱はダメだ、という判断だったという。
このことは、単なる演奏会キャンセルにとどまらない、クラシック音楽の演奏者の持つべきモラル、常識という内心の良心にも関わる問題だ。つまり、芸術のために、健康リスクをどこまで冒していいものか?という価値判断だ。
※井上道義ブログより引用
「井上はこのコンサートの指揮を執ることを断念しました。今日大フィル合唱団の人達に会って誤解のないように説明してきました。実はずっと以前からマスクで合唱をやるというような(特に第九のような喜びに満ちていなければならない作品ならなおさら)まるで弦楽器に弱音器を付けてスフォルツアンドを連打するような愚挙だ。そんなことは例え大金をつまれても私には出来ない!」
上記のように、井上氏は、「ホールは「何かあったら責任が取れない」と言う。責任はもう初めから彼ら一人一人が取っている。子供扱いするのは失礼ではないか。」と、もし合唱団から感染者が出ても団員一人一人が責任を取れる、もう取っている、という趣旨で大人数の合唱を実現させたいようだ。
だが、その認識は、コロナ感染症が空気感染するということを知らない人のもので、失礼ながら井上氏は、コロナ危機に関して考えが甘すぎる。
ご自身は感染しようが問題ないということであっても、合唱団の一人一人の健康、もし感染した場合の、それぞれの家族への感染拡大、というような、空気感染の2類感染症の危険性への認識がない。
その勢いで、大人数の合唱をやって、もしクラスターを起こしていたら、世間の合唱へのイメージは決定的に悪化し、もう当分、合唱曲は演奏できなくなりかねない。》
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『コロナ禍の下での文化芸術』
https://note.com/doiyutaka/m/mbfe79043941d
《ここまで2年間、音楽家や団体は活動制限のかかったままでひたすら、経済面でも音楽面でも忍従を強いられてきた。多くの楽団が、国からの活動援助を受けてもまだ十分ではなく、クラウドファンディングなどでかろうじて資金を補填している。
2022年、またもや活動できなくなったら、その時には、どのくらいの楽団や音楽家が耐えられるだろうか?
今こそ、日本の音楽家や団体の直面する存亡の危機を直視して、なんとか生き延びる手段を探さなければならない。》
演奏会評) 日本センチュリー交響楽団定期 飯森範親&上原彩子 ベートーヴェンとブルックナー
(演奏会評)
日本センチュリー交響楽団263回定期演奏会
飯森範親指揮、ピアノは上原彩子でベートーヴェンの協奏曲5番「皇帝」、ブルックナーの交響曲第1番
飯森範親指揮、日本センチュリー交響楽団の定期。ピアノは上原彩子でベートーヴェンの協奏曲5番「皇帝」を聴いた。
恥ずかしながら上原彩子を初めて聴く。彼女はチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で史上初の日本人優勝、しかも世界初の女性の優勝者だ、ということは知っていたが、実際に聴く機会はこれまでなかったのだ。
上原は強靭な手首で、高音まで強く硬くパワフルに響かせる。こんなにクリアに響くピアノの高音は珍しい。特にベートーヴェンだから、芯の通った硬質な響きが実に似つかわしい。2楽章の詩情あふれる歌心、アタッカで雪崩れ込む3楽章での歓喜の乱舞、これぞベートーヴェンだ。
センチュリー響も、飯森の見事な合わせ方にスムーズに従い、最後まで緊張感の途切れないコンチェルトとなった。飯森が鍛えたセンチュリー響は、「ハイドンマラソン」というハイドンの全交響曲演奏のシリーズで培った、きびきびしたリズム感と安定した和声感で、ベートーヴェンを激しく鳴らす。付点リズムの強調が、ベートーヴェンの生命感を弾けさせる。鋭角的なフレージングなのにオケの響きは決して細くはなく、どっしりと分厚い和音を保っていて、古典作品の理想的な演奏だといえる。
蛇足ながら、チャイコフスキー国際コンクールがなければ、今の上原はなかったのだ。報道によると、このコンクールが戦争の影響で国際団体から締め出されるという。悲しいことだ。このコンクール出身のあまたの名演奏家たちが、このニュースを知った時の心境や如何。
※上原彩子プロフィール
https://www.japanarts.co.jp/artist/ayakouehara/?=print
後半、ブルックナーの交響曲第1番。この曲は、改めて実演で聴いても、やはり1楽章が全曲の中心だと思える。この1楽章が見事な完成度で、第1番にしてあるいはブルックナーの交響曲最高の達成かも、と言いたくなる。
ブルックナーらしさがすでに溢れているこの曲、飯森の振るセンチュリー響は、まるでプログレみたいなモダンな響きを奏でる。シンメトリーとリズムと和声の構築感は、揺るぎない強靭さだ。
飯森はセンチュリー交響楽団をヴァイオリン対抗配置にして、コントラバスをなんと最上段に置いた。この配置が、完璧なシンメトリーの響きを作り出す秘訣だろうか。
第4楽章コーダの最後の一音が消えても、飯森は指揮台上でしばらく動かないままだった。手兵ながら、なんと素晴らしいオケ!という感慨があったのだろうか。会場からも、しばらく拍手を遠慮して静まりかえった数秒間、あの場にいた観客も演奏者も、みんなが一つの思いに溶け込んだような、稀有な時間だった。
※大阪・福島のザ・シンフォニーホールも最近はタワマンの谷間に埋もれている
※センチュリー響の新機軸、会場から最寄り駅までのバス送迎サービスが開始された
※過去の演奏会評
演奏会評)日本センチュリー交響楽団255回定期 飯森範親&三村奈々恵&吉松隆
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12732356261.html
演奏会評) 日本センチュリー交響楽団&飯森範親、新倉瞳(チェロ)のファジル・サイ新曲関西初演!
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12705404146.html
※NHK音楽祭 飯森範親(指揮)松田華音(ピアノ)日本センチュリー響、シチェドリン「ピアノ協奏曲第1番」&「シェヘラザード」
2年前に書いた、政府のコロナ対策への考察を改めて読む
2年前に書いた、政府のコロナ対策への考察を改めて読む
2年前、私は以下のような記事を書き、「新型コロナ対策・日本政府の失敗の研究」をやってみた。その後2年以上経ち、改めて振り返ると、けっこう的を射ている。
ちなみに私は完全文系人間で、ウイルス学など全く知らない人間だ。それでも、テレビやネット上の情報、何冊かの本を通じて、2年前の日本や世界が直面していたコロナ危機のおおよその状況を理解できた。
今、2年過ぎて状況はあの当時よりもっと悪化しているように思える。特に日本では、その後の2年間、自公政権が継続して無為無策を続けたせいで、いまや日本人の我々は、コロナ禍の生活に疲弊しきっている。
声を大にして言いたいのだが、上記のように、私のような完全素人でも2年前の段階で、コロナ対策を方向転換するべきだと理解できていた。
なぜ日本国政府の偉い人たちは、そのことに気づかなかったのか?
あるいは、わかっていて、わざと無為無策を続けたのか?
もしそうなら、過去2年間の日本政府の人間たち、自公政権の幹部や議員たちはもちろん、不作為の罪を犯した中央官庁の役人たちも、都道府県、各自治体の首長や役所の役人たちも、厳しく追及したい。
それというのも、この2年間、特に大阪府在住の私たちは、国と大阪府の維新の会の政策失敗で、本当に多くの人命を失ったのだ。身近な人間、というわけではないが、大阪でコロナ感染で亡くなった多数の人たちは、もし2年前、日本政府や都道府県、各自治体の幹部たちが考えを改めて、コロナ対応の方針転換をしていたら、死なずに済んだかもしれないのだ。
この恐るべき人災で失われた多くの生命に対して、現在、国と自治体と各役所の公職にある幹部たちは、全員、責を負っている。もしも良心があるなら、直ちに全員辞職するべきだ。そうして、政治家も役人も職員も、コロナ対応をもっと有効にうてる人材と交代しなければならない。
そうしないと、少なくとも日本でのコロナ危機はいつまでも終息しない。他国が着々と対策をとり、感染危機を乗り越えていく背中をただ見送るしかない。いつまでもいつまでも「コロナは風邪」だとか「マスクはいらない」とか言いながら、自分の周囲で親しい人たちが感染し重症化しても、じわじわ死んで行くのをなすすべもなくみているしかできない。
そういう2年間を、我々は強いられてきた。もう、いいかげん我慢できない。
以下、2年前の私の考察に、現在の知識から批判を加えてみる。
↓
※2年前の筆者の記事
新型コロナ対策・日本政府の失敗の研究
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12590786037.html
※参考番組
NHKスペシャル 新型コロナウィルス瀬戸際の攻防
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20200414/index.htm
(1)最初からPCR検査を増やすことを放棄した戦略の失敗?
↑
これは全くその通りだった。2年前の段階で、日本政府はPCR検査を大幅拡充し、先進国並みに「いつでも、どこでも、誰でも、無料で」検査できる体制をとるべきだった。
過去記事引用
《日本の場合は
PCR検査できる数が多くなく、最初から多数の検査をあきらめてクラスター対策に決めた、と
その判断をした責任はどこに(誰に)あるのか?》
(2)対策チームのバックアップがないという失敗
↑
これも、その通りだった。政府も各自治体も、2020年当初からずっと同じ対策チームで失敗を繰り返し続けた。少なくとも2020年初夏、1回目の緊急事態宣言解除後に、当初からのその政策効果を検証し、もし方法が間違いだったとわかれば、対策チームを総入れ替えするべきだった。
過去記事引用
《対策チームは2月に発足して以来、働きづめで、果たして正しい判断力が維持できているか?
対策チームが疲弊している時点で、すでに太平洋戦争中の軍部の失敗を踏襲している
対策チームにバックアップがないのであれば、当然、疲労が重なってパフォーマンスが落ち、判断ミスする
現実対応を動かすため必死で働くべき政治家がのんびりして、冷静な判断を保つべき専門家集団が働きすぎで疲弊している》
(3)2月時点でPCR検査数を増やさなかった失敗
↑
これも(1)と同じく、現在では大失敗だったことが証明されている。
(5)3月中旬まで東京五輪をやる前提で海外からの渡航を制限できていなかった失敗
↑
これも、現在では大失敗だったと証明されている。
(6)安倍総理の全国一斉休校とイベント中止要請の失敗
↑
これについては、はたして2020年3月時点で「全国一斉休校」が有効な感染対策だったのか、いまだにきちんと検証されていない。文科省なり厚労省なり、各自治体の対応ぶりを第3者委員会を立ち上げて検証するべきだ。そうでないと、また同じようなパンデミックに襲われた際に、また同じ失敗を繰り返しかねないからだ。
(7)緊急事態宣言とセットで生活補償しなかった失敗
↑
これは、いまだに同じ失敗を続けている。日本政府は何度も緊急事態とマンボウを繰り返しながら、全国民への生活資金配布は2020年の10万円支給ただ1回だけで、その後は頑なにやろうとしない。
そのせいで、コロナ危機の2年間で国民の経済格差はますます拡大し、経済弱者がどんどん増えていっている。コロナ特需で富裕になっていく少数の層と、生活困窮に陥りかねない大多数の層、さらにもともと「アベノミクス」で経済的に痛めつけられていた貧困層が、生きる術をどんどん奪われて追い詰められている。
映画『ドライブ・マイ・カー』は公開断酒会映画だ
映画『ドライブ・マイ・カー』は公開断酒会映画だ
映画『ドライブ・マイ・カー』は公開断酒会だ、と私は言いたい。登場人物たちがいきなり告白を始めて、お互い過去の傷をなめあう謎展開だからだ。
そういうのが心地よい人にはいいが、それで3時間以上というのはつらい。私には、観るのが苦痛な映画だった。
これは、悪い方の日本映画だ。画面上の風景はきわめて美しいのに、台詞も演技もわざとらしいく、リアルさがない。
アカデミー賞で作品賞を取らなかったのは正解だったろう。
そもそもこの映画は、村上春樹の原作である必要がない。村上春樹の作品のエッセンスがない。
しかも、映画として悪い出来栄えだから、原作で名前のでる村上春樹にとっては不名誉でしかない。
映画としての構成でいうと、前半は不要だと感じた。
主役の西島秀俊演じる家福の妻役・霧島れいかの場面は、ほぼいらない。あれは、回想シーンでいい。
長い前半部分が余分だから、本来の主役であるはずの三浦透子演じる「みさき」の存在が、後半まで曖昧なままだ。
「みさき」が描かれないから、ラストに違和感がありすんなり入ってこない。
この映画版「ドライブ・マイ・カー」をみて、原作の村上春樹の短編を読んだ読者として、一番許せないのは、本来、とても魅力的な登場人物である「みさき」を、まるでロボットか奴隷のような扱い方にしたこと。
主役の家福(西島)が彼女を扱う態度が、とにかくいけない。
例えば彼女が、せっかく立ち稽古を見せてもらえたことにお礼を言ったのに、家福はわざと無視したのか、忘れていたのか、そっけない。少なくとも、この時点で、二人の間に、映画のクライマックスに描かれる心のふれあいの、前段階となるはずの感情のやり取りはない。
車中での、準主役の高槻(岡田将生)との際どい会話の際にも、家福は「彼女は大丈夫」と言って、まるで「みさき」がそこにいないかのような態度で扱う。
この場面、きわめてプライベートな会話の立会人としての「みさき」の存在は、一見両者にとって信頼できる人物だからというように見せようとしている。だが、そうではない。あの場面での家福は、「みさき」を問題外の下々扱い、奴隷民だから話を聞かれてもいい、という態度をとっている。
もう一つ、原作の村上春樹の短編が最初に文藝春秋で発表された際に、実名で登場する北海道中頓別町の町会議員からクレームをつけられた一件、もう多くの人は忘れただろうか。
映画の中でその地名は、クレームを受けて作者と出版社が架空の町名に変更したものに近い、「上十二滝村」として登場する。
このことで、実在の北海道中頓別町は、せっかくのアカデミー賞受賞映画に町名が登場できる千載一遇のチャンスを失った。
さて、映画版では、家福は「みさき」に「故郷を見せる気があるか?」と尋ねるのだが、このセリフもまたひどい。「みさき」の故郷である「上十二滝村」が、ひどい土地柄だという先入観を抱いているのだ。
もう一つ、解せないのは、準主役だったはずの高槻が、あろうことか殺人事件を起こしていきなり逮捕され、そのまま映画から消えることだ。
それなら高槻は何のために出てきた? 逮捕されてそれっきり、というのは、観客には何のことかさっぱりわからない。
配役の中で、国際演劇祭のコーディネーターであるコン・ユンス役のジン・デヨンが一番存在感があった。
この役柄として描かれる私生活でも、興業側の人間としても地に足がついていて、リアルに演じられている。
ただ、映画の脚本が全くリアリティに欠けるので、彼の懸命の演技も生きてこない。この脚本で展開が最も荒唐無稽である点、主要キャストが起こした殺人事件の影響で演劇公演が中止にならない、という謎展開だ。
これは、公演中止にならないはずはない。
また、最後の韓国シーンも疑問だ。なぜ「みさき」は家福の愛車であるサーブを一人運転して、韓国で暮らしているのか?
周囲も「みさき」もマスクをして、コロナ危機の時期であることを示唆してるが、その意図は?
せっかくのラストシーンも、「みさき」の描き方が中途半端なままだったため、観るものに響いてこない。未消化のままで終わってしまう。
この映画の前半は回想シーンで圧縮して、「みさき」の人生をきちんと描きこむ必要があったのだ。
最後に、原作の村上春樹「ドライブ・マイ・カー」は、非常にうまく書かれた短編だ。ぜひ読んでほしい。
※参考
ドライブ・マイ・カー
※参考記事
「ドライブ・マイ・カー」に出演した俳優ジン・デヨン、「アカデミー賞」オスカー像を持って笑顔(韓国芸能)
https://www.wowkorea.jp/news/enter/2022/0328/10341430.html
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4d1bd6c9ee9e66a01eb6476a3ea1d52e0795199
※土居豊による村上春樹「ドライブ・マイ・カー」タバコクレーム問題の解読
『いま、村上春樹を読むこと』
土居 豊(著)
発行:関西学院大学出版会
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784862831743
来年で没後15年、小川国夫を読む
来年で没後15年、小川国夫を読む
※筆者所蔵の小川国夫全集
4月8日、作家・小川国夫が亡くなって14年目。
来年で没後15年になるこの作家は、筆者の師匠だ。
それを抜きにしても、没後10年をすぎて小川国夫はどんどん忘れられていくように思えてならない。それが残念だ。
一つには、没後10年以上になるのに、小川国夫の全集が完成しないままだというのが、研究も復刊もほぼ全くといっていいほど進まない原因だ。
系統的に一人の文学者・小説家を研究しようというからには、定本となるべき全集が必要なのだが、小川国夫の場合、複雑な事情で全集が完成しなかったし、途中まで出た全集も版元の倒産で今では入手困難だ。
この小川国夫全集の未完について、筆者は小川本人から聞いているので、もうそろそろ事情を少し書いておこうと思う。というのも、小川国夫全集の版元の経営者だった人も、すでに故人となったからだ。
知る人ぞ知る文芸出版社の小沢書店が倒産して久しいが、小川国夫は生前、自分の全集をこの小沢書店から出していた。経営者の故・長谷川郁夫が小川に心酔しており、著作を多数、同社から出したという関係によるものだ。
だが、全盛期の小川国夫は、文芸関係の大手出版社の複数から著作を出しており、作品撰集は複数回、大手から出している。
だから、いよいよ全集を出そうという話は、実のところ、複数の大手から申し出があったのだという。だが、小川本人から筆者が聞いたところでは、小沢書店の経営者の意気込みを見込んで、あえて弱小の小沢から全集を出すことにしたのだという。
この関係性は、ちょうど、かつて夏目漱石が新興の岩波を見込んで自作の版元に選んだ例に、似ているといえば似ている。
だが、残念なことに、岩波と違って小沢書店は倒産してしまい、必然的に、小川国夫全集は版元を失って絶版となった。
本来なら、こういう場合、どこか他の出版社が版権を引き受けて、全集を復刊させるのだろう。
だが、小沢書店の場合、そうはならなかった。その辺りの事情は聞いていないが、筆者自身は、小川国夫本人から、小沢書店倒産後に全集を購入している。古書店にも当時はかなり出ていたようだが、現在はどうなのだろうか。
ともあれ、正規の販売ルートを失ったまま、著者の小川国夫は亡くなり、全集の元の版元経営者の長谷川も先年、亡くなってしまった。
故人についてどうこう言っても詮無いことだが、長谷川は小川国夫没後、未刊行だった原稿の刊行時に解説を数冊分書いており、本当は小川国夫全集を完成させたいという思いもあったのではないかと想像する。
けれど、出版界の様々な事情がそれを阻んだのだろう。
結果的には、絶版のままの小川国夫全集は入手困難なままだ。没後数年間に順次刊行された没後の原稿の数々も、決定稿とはいえず、事実上、小川国夫の晩年の大量の著作は、不安定なままで放置されている。
またそれが多数の上に、小川国夫の全著作中、注目すべき力作が複数、含まれるので、研究者にとっても読者にとっても、実にやっかいなことになっているのだ。
小沢書店版全集の収録は最終の14巻が1995年で終わっており、小川国夫唯一の大手新聞連載小説だった代表作の一つ『悲しみの港』も収録されていない。それ以後に小川は活発に作品を刊行しており、長編小説の代表作の数々は、小沢版全集以後に刊行されているのだ。
こうなると、小川国夫の研究者は、小沢版全集以後の大作の数々を、初版当時の単行本(一部は文庫本にもなっているが)に準拠するしかない。
このように、小川国夫ほどの昭和の大作家が、その全集を未完成のままに放置されている現状は、実にもったいないし、厄介なのだ。
ちなみに、小川国夫の文学史上の扱いは、20世紀後半には相当に大きなものとなっていた。戦後文学史の中でいうと、雑誌「近代文学」の本多秋五の推薦によりデビューしたという位置づけだった。長らく無名の時代が続いたのち、島尾敏雄が朝日新聞で激奨したのをきっかけに有名作家の一人となった。
壮年期は大きな文学賞と無縁のまま、熱烈な愛読者層に支えられた一種カルトな作家として評価は高かった。その晩年、数々の文学賞を受賞したのと、大阪芸術大学に迎えられたことで読者は着実に増えていった。亡くなる直前まで未完作品を抱えており、没後、残された作品群が数冊刊行されている。
これほどの大きな存在の作家が、出版サイドの事情でその全集を未完のままに放置されているのは、戦後文学史の研究にとっても大きな痛手であり、もちろん愛読者にとっても残念な現状だ。
没後10年には、主要文芸誌がどれも没後特集を組まなかったという、実に冷たい仕打ちを受けている。小川国夫を評価しないのは文芸誌編集長たちの勝手だが、愛読者はずっと読み続けており、全集が完成していないままでも作品研究は続けられている。
主要文芸誌の版元も、編集長たちも、没後10年の特集をやらなかった不見識を、いずれ後世の文学研究者から指弾されることになるだろう。
そこで、憚りながら提案したいのだが、没後20年を見据えて、小川国夫全集の完結を目指してほしい。どこの版元でも構わないが、できれば大手版元が小沢書店の絶版の版権を譲渡できるよう動いてほしい。
繰り返すが、本来なら、小川国夫全集は、小沢書店ではなく、大手出版社のいずれかから出るはずだったのだ。倒産した小沢書店経営者も、小川全集が未完のままである有り様を、泉下で嘆いているに違いない。
ちなみに、筆者は没後10年の文章を毎日新聞に寄稿した。他の媒体の編集の方々もご依頼いただければ、筆者はいつでも小川国夫について書く。小川国夫についての講演や文学講座も、いつでもやらせていただく。
※没後10年の記事
小川国夫の命日に寄せて 小川国夫没後10年・エッセイ「小川国夫のいた風景」
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12366773822.html
※(報告)「小川国夫没後10年記念」読書会in生駒ビルヂング
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12369875460.html
※筆者の小川国夫に関するブログなど
1)
小川国夫の肉声がよみがえる!~小川恵「銀色の月~小川国夫との日々」評
http://ameblo.jp/takashihara/entry-11305621118.html
2)
作家・小川国夫の命日(4月8日)によせて
http://ameblo.jp/takashihara/entry-11507605937.html
3)
最後の文士・小川国夫の命日
2011/04/08
http://takashi-hara.at.webry.info/theme/d1db4ac37d.html
作家・小川国夫、2008年4月8日没、享年80没
最後の文士、故・小川国夫は、私にとって小説の恩師であり、人生の師匠です。小川さんに「晩年の友人の一人」と呼んでいただいたことは、生涯の誇りです。
※参考
大阪・シネヌーヴォでの小川国夫原作映画『デルタ』上映&トークイベント報告。私がトークイベントの司会進行をさせていただきました。
http://takashi-hara.at.webry.info/201012/article_10.html
※はびきの市民大学で小川国夫文学を紹介する講座をやりました
http://ameblo.jp/takashihara/entry-12287121169.html
※2005年、筆者のデビュー小説刊行記念パーティにて、小川国夫と