小川国夫の命日に寄せて 小川国夫没後10年・エッセイ「小川国夫のいた風景」 | 作家・土居豊の批評 その他の文章

小川国夫の命日に寄せて 小川国夫没後10年・エッセイ「小川国夫のいた風景」

小川国夫の命日に寄せて

小川国夫没後10年・エッセイ「小川国夫のいた風景」

 

※2005年12月 小川国夫お誕生会席上にて

 

 

 

2008年4月8日、小川国夫が亡くなってから10年。

没後しばらくは、様々に再評価の動きがあったが、近年、すっかり忘れ去られつつあるようにみえる。

それでも、その文学は年月を経て減じるようなものではない。小川文学は、時が流れるごとに輝きを放つものだと信じている。

おそらく、没後10年を機会に、小川文学の読み直しの動きがあるだろう。それはそれとして、これまで発表された小川文学研究、読解の試みの中で、一つ、すっぽりと抜け落ちている視点がある。

それは、晩年の小川国夫が大阪との関わりの中で受けた影響と、作風の変化だ。

そこでまず、小川国夫の晩年の十数年、大阪で培われた文学の芳醇な成果について語りたい。

ちなみに、筆者は小川の晩年の10年、ご縁あって私淑させていただいた。その見聞を元に書いていく。

 

【小川国夫と大阪芸大について】

※引用

大阪芸大「河南文藝・文学篇」創刊 編集長の小川国夫氏に聞く(神戸新聞2003年8月18日)

《大阪芸術大がこのほど、ジャンルを超えた総合文藝雑誌「(河南文藝・文学篇」を創刊した。従来の学内誌「河南文学」を発展させ、学内外の書き手の小説や詩、評論、エッセーを幅広く掲載。(中略)同大客員教授で、編集長を務める作家の小川国夫氏に、編集方針などを聞いた。

問)「一九九一年創刊の学内誌「河南文学」が前身。そこから受け継いだ点、また変革した点は?」

小川)「『河南文学』では、われわれ教員も学生も肩書を取り払い、書き手として同じ土俵で勝負した。その精神は変わらない。今回、そこへ外部の書き手を導き入れた。ベテランも“兄貴分”もいる。彼らはそれぞれ後進に書き方を示すだろう。互いに文学論を戦わせ、共に伸びゆくような環境を作りたい」

問)「創刊号では小川編集長も自ら文学論を展開、描写の重要さを説いているが」

小川)「小説は頭でこしらえちゃいけない。見て、聞いて、書くのだ。新聞記者と違い、作家はそれを想像力の中でやる。ある話の芽をつかんだら、それをしっかり肉体に持っておく。すると登場人物が見え、その声が聞こえてくる。あとは写し取ればいい。感覚が豊かで、(冴(さ))えていれば小説は書ける。(後段略)」

(中略)

問)「今後予定している企画などは?」

小川)「執筆陣では町田康や花村萬月ら、イキのいい若手に声を掛けている。純粋で、時に辛らつな学生らの批評は、外部の作家にとっても刺激になろう。(中略)若い才能を埋もれさせることなく見いだし、ねんごろに育てたい」》

 

上記に引用した記事にあるように、小川国夫と大阪の関わりは意外に深く、長い。

もちろん、小川国夫は東京でも地元・静岡でも、多くのファンに囲まれていた。けれど、もし大阪でたくさんの学生たちに慕われることがなかったなら、晩年の豊穣な小説とエッセイの作品群は生まれなかったかもしれない。

大阪での小川は、講義の後、必ず大学の先生方と学生たちを引き連れて、天王寺の場末の飲み屋で腰を据えた。話すことは、たいていは下ネタか恋愛話、あるいは時事ネタが多かった。文学の話は、相手が大学の学生であれば、意識的にするようだったが、親しい人相手なら、やはり下ネタを楽しむのだった。

小川文学が大阪の大学での仕事を通じて、どのように変化してきたか、そこのところを詳細に研究した例は、寡聞にして知らない。だが少なくとも、若い学生達と毎月のように飲む習慣ができて以来、小川の中に、10代から20代の青年達へ届く言葉、という関心が表れてきたのは間違いない。

1990年4月、大阪芸術大学文芸学科教授に就任した翌年から、雑誌「群像」に連載を始めた『マグレブ、誘惑として』には、大阪の天王寺の描写が直接的に出てくる。主人公の老小説家が、天王寺駅の浮浪者をみて想像を羽ばたかせる様子は、作者自身が20代に戻ったような若々しい連想だ。

 

※引用 

小川国夫『マグレブ 誘惑として』(講談社)

《半田彌八の葬儀があって間もなく、私は大阪へ出かけて一週間滞在した。その地のある私立大学で近代文学の連続講義をするためだった。私の宿所はJRの天王寺駅のはずれにあって、大学に通うべく近鉄線に乗ろうとすると、JRの駅の建物を横断しなければならなかった。

(中略)

比較的閑静だからだろう、私の選んだ途には浮浪者たちがたむろしていた。あるいは、そこを人があまり通行しないのは、それとなく浮浪者に気をつかっているからかもしれない。

(中略)

しかし私の眼の前にいる天王寺の浮浪者は、どんな慰めを持っているのだろうか。逆説ではあるけれど、これといった慰めがないことが慰めなのだろう。…慰め、そんなものはないよ、と彼らはこともなげに言いそうだ。大阪の無機的で非情な巨大な顔(顔かたちのない顔)は案外宗教の代替物であり得るかもしれない。虚無は宗教に匹敵できるのかもしれない。…などと思い続けて行くと、浮浪者に対する予期もしなかった種類の共感が湧きあがってきた。》

 

 

また、大阪の大学に教えに行きながら、小川国夫の代表作の一つである小説『悲しみの港』を、朝日新聞夕刊で連載し始めている。これは、小川の最初にして最後の新聞連載小説で、毎日の連載をこなすのに大変な苦労をしたということだ。それも毎月大阪に講義に通いながらの連載は、もともと筆の早い方でない小川には相当な負担だったに違いない。

それでも、この小説の若々しい恋愛描写や青春の心境の回想には、身近に若い大学生を連れて飲み歩く日々が、少なからず影響を与えていると考えて間違いではないだろう。

なぜなら、この小説の内容と出だしの部分は、小川の若き日のエッセイ『一房の葡萄』にある、東京暮らしから帰郷した時の心境をほぼなぞっているからだ。青春の頃の心境を、長編に書き直すというのは、よくある話だが、その背後に、自身の若い頃と重なって、現に目の前にある大学生達の姿が全くなかったとは考えにくい。

 

※引用

小川国夫『悲しみの港』(朝日新聞社)

《私は今更ながら、元の場所へ帰ってきてしまった自分を意識したのです。すごすごと引き揚げてきた、ということなら、すでにその通りと認めていましたが、この時、私を脅かしたのは、田舎の余りに無事な生活だったのです。》

 

小川国夫 随筆集「一房の葡萄』(角川文庫)

《藤枝に十五年ぶりで帰って来ると、やはり、郷里は新鮮な感じで私の眼に触れた。自然も家々も人々もそうだった。たとえば、私と小学校が一緒だった人は、町の中堅どころになって貫禄をつけていたが、私には十五年の時の流れがピンとこなくて、昔の記憶が直接に現在に重なってしまうようなところがあった。》

 

 

小川が大阪で大学講義通いを続けているこの年月、1994年に『悲しみの港』で伊藤整文学賞受賞、95年『マグレブ、誘惑として』刊行、99年『ハシッシ・ギャング』で読売文学賞受賞、と、晩年の文学的成果を矢継ぎ早に達成している。

60代後半から70代にして、この文筆活動の活力と充実ぶりは、大阪での大学生達との付き合いを抜きにしては考えにくい。

特に、短編集『ハシッシ・ギャング』収録の短編の数々は、まるで小川が自身の青春を改めて回想する気分にとらわれたかのようだ。1995年から97年にかけて文芸誌各誌に掲載したこれら諸作は、若き日の小川の学生時代から題材がとられている。96年の表題作「ハシッシ・ギャング」も、若い娘を慕って追いかける青年の物語として読むと、奔放な青春の気分に浸ることができる。

この連作にみられる青春への傾斜は、前作の短編集『黙っているお袋』の諸作と対比すると、明らかに小川の気分が明るい方向へ変化していることの表れだ。これだけでも十分驚くべき成果だと言えるが、さらに最晩年の代表作となる『弱い神』の連作を、「群像」「新潮」「文學界」の3誌に連載し始めるのだ。

『弱い神』の連作短編は、いまだにまとまった批評が出てこないが、この作品群は、もちろん信仰をテーマとしているものの、小説に内在する手触りは、若い男女の恋愛模様や性欲の生々しさだ。作中にも引用されるドストエフスキーを意識しているのは間違いないが、信仰と悪、性と正義の板挟みに苦しむ青年の内面を描いて、実に巧みだ。そこに絡む妹の愛情と肉欲は、これがもし小川の生前に完成されていたら、ドストエフスキー的な文学の深みを達成していたに違いない、と思わせる。

この連載が、大阪での大学講義の合間に書かれていたというのだから、晩年の小川の創作力の力強さに圧倒される思いだ。

その後も、2003年に大阪芸術大学を退職してから、改めて大阪芸術大学文芸学科の文芸誌「河南文藝 文学篇」創刊、編集人に就任している。もともと小川は、91年以来、大阪芸術大学文芸学科発行の文芸誌「河南文學」を創刊し、編集に関わってきたのだが、その学内誌を発展させて、文芸誌として再出発させることに尽力している。このことは、小川の義理がたさとも言えるが、実は大阪の大学と縁が切れるのが嫌だったとも思える。そう考えなければ不可解なほど、小川はこの大学発行の文芸誌に入れ込んでいた。

 

※参考

《『大阪芸術大学 河南文藝 文学篇』

編集人 小川国夫

2003年8月1日発行

表紙イラスト 山藤章二

(小川国夫自身が参加している章)

1)小説の方法 小川国夫

2)実作講座・小説篇 小川国夫 眉村卓 葉山郁生

3)河南文藝・作家インタビュー「純文学・SF・サブカルチャー 幻想の今日の質をもとめて」ゲスト 笙野頼子 小川国夫

(「編集者の展望 小川国夫」より引用)

文学は心して、ねんごろに育てなければなりません。まず文学者が、自分の中の文学を、困難を越えて豊かにすべきですが、まわりの激励や理解も必要です。そしてそれ以上に、だれかが力をつくすべきことは、良い作品の発見ではないでしょうか。無視され埋もれそうになっていた名作はいくらでもあります。》

 

 

このように、大阪での大学講義という体験が、晩年の小川の創作意欲、文学活動への意欲を高めたのは間違いないだろう。

小川の晩年の文学的成果だが、10年前の小川没後すぐの時期には、多くの追悼文や追悼特集があった。上記の「河南文藝」でももちろん、追悼号があった。その後も、遺作となった連作短編『弱い神』や、エッセイ、さらにデビュー以前の習作短編がまとめられて刊行されたりもした。

けれど、没後10年になるというのに、それら晩年の諸作について批評や論考は大して書かれていない現状だ。

そこで、この稿の最後に、晩年の小川文学を考察する手始めを少し書いておきたい。テーマは、小川文学と疑似家族、である。

小川の小説群を読むと、彼の文学を支え続けた家族の存在を意識せざるを得ない。特に弟と母の存在感は非常に大きい。

ここに、小川文学を考える一つの手がかりがある。なぜなら、小川文学が本来的にキリスト教信仰に属していたならば、家族よりも信仰を求めて家を離れる方向に行くはずだからだ。小川が信仰による作品を書いていたとすれば、その作品の底流には、信仰集団に帰属する精神性が見えるのではないか?

遺作となった『弱い神』連作では、作中の「神の子」を支えるのは、教団ではなく実の家族であり、特に実の妹である点は見逃せない。とはいえ、『弱い神』は残念ながら、遺作となった短編連作を、小川の死後、他者によって編集されたものだ。その構成が、本当に小川自身の望んだものだったかどうか、納得のいく完成形だったかは、疑問が残ると言わざるを得ない。

もちろん、実生活で小川とその文学を支え続けたのが実の家族だったことも無視できない。けれど、小川文学の作品中で、その小説世界を構築するのは、意外に実の家族関係ではなく、そこから出はずれたところにある、一種の疑似家族の関係性であることが多い。だから、小川文学は、例えば志賀直哉や島崎藤村のような家族文学ではない。小川の小説中で躍動する家族関係は、現実のそれを振り捨てる方向に動く。

その傾向は、『マグレブ、誘惑として』、『悲しみの港』以降の諸作に明らかである。ここでは、その傾向を加速したきっかけが、小川にとって異境だった大阪の地に、定期的に通う体験と、それがもたらした小川サークル、一種の疑似家族的なまでに濃い人間関係のつながりだった、と言う仮説を述べておきたい。

小川文学の最終段階を語るとき、大阪での生活を無視することはできないはずなのである。

 

 

 

※参考〜晩年の小川国夫と大阪の関わり

 

平成2年4月 大阪芸術大学文芸学科教授に就任

平成3年 小説『マグレブ、誘惑として』を「群像」に連載開始

同年 河南文學(大阪芸術大学文芸学科発行の文芸誌)創刊、編集に関わる

同年11月 代表作の一つである小説『悲しみの港』連載開始 朝日新聞夕刊

平成4年4月 小川国夫全集刊行開始

平成5年12月 壮年期の代表作『悲しみの港』刊行(朝日新聞社)

平成6年5月 「悲しみの港」で伊藤整文学賞受賞

平成7年1月 「マグレブ、誘惑として」刊行

同年4月 NHK人間大学テキスト「イエス・キリスト その生と死と覚悟」

教育テレビ放映(全12回)

同年11月 小川国夫全集完結

平成11年2月 『ハシッシ・ギャング』で読売文学賞受賞

同年 最晩年の代表作『弱い神』連作を連載開始 (群像、新潮、文學界)

平成12年3月 日本藝術院賞受賞(黒井千次、日野啓三、川村二郎らと同時)

平成15年3月 大阪芸術大学を退職

同年 大阪芸術大学文芸学科の文芸誌『河南文藝 文学篇』創刊、編集人に就任

平成17年 日本藝術院会員に選ばれる

平成18年 旭日中綬章

平成20年4月8日 永眠

 

 

 

※以下のように、「小川国夫没後10年記念読書会in生駒ビルヂング」を開催します。

 

https://www.facebook.com/events/1579955745459151/

 

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12358332629.html

 

【詳細】

「小川国夫没後10年記念」読書会in生駒ビルヂング

課題本:

講談社文芸文庫『あじさしの洲・骨王 小川国夫自選短篇集』

より

短編「ハシッシ・ギャング」

小川 国夫 (著)

 

日時:2018年4月19日(木)19時〜

開催場所:生駒ビルヂング 地下図書室にて

(1Fバールで一声かけてお入りください)

大阪市中央区平野町2丁目2番12号(アクセスは下記)

参加費:500円

終了後、希望者で新年会を兼ねて懇親会を予定します!飲食は各自実費

 

生駒ビルヂングHP

http://www.ikoma.ne.jp/

(大阪船場の近代建築の傑作で「生きた建築ミュージアム」にも選定される)

 

 

 

※参考

筆者と小川国夫の関わりなど

土居豊は大阪芸術大学文芸学科の出身ですが、小川国夫とは入れ違いでした。しかし、後年、偶然に小川国夫の芸大での講義を聴講する機会を得、それ以来、「自称弟子」として小川国夫の最晩年の10年、追っかけを続けました。やがて、小川国夫の推挙を得た小説デビュー作『トリオ・ソナタ』刊行記念会では、スピーチで作品を絶賛されました。

 

※2005年3月 土居豊『トリオ・ソナタ』刊行記念パーティーの席にて

 

 

※同、左奥の席、左から3番目が小川国夫

 

 

小川国夫没後も、「小川国夫原作映画『デルタ』関西上映記念イベント(2010年12月21日 シネヌーヴォにて)」にトーク出演など、小川文学の伝道を続けています。

 

※2010年、大阪・シネヌーヴォでの小川国夫原作映画『デルタ』上映&トークイベントで土居豊がトークイベントの司会進行を担当。

当日のリポート記事→

http://takashi-hara.at.webry.info/201012/article_10.html

 

 

※はびきの市民大学で小川国夫文学を紹介する講座をやりました

http://ameblo.jp/takashihara/entry-12287121169.html

 

 

※作家・小川国夫の命日。没後10年にむけて本を準備中

http://ameblo.jp/takashihara/entry-12263790555.html

 

 

※小川国夫に絶賛された土居豊『トリオ・ソナタ』