作家・土居豊の批評 その他の文章
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テレビアニメ『響け!ユーフォニアム3』最終回を残すのみの段階で、一応のまとめ

テレビアニメ『響け!ユーフォニアム3』最終回を残すのみの段階で、一応のまとめ

 

 

 

テレビアニメ『響け!ユーフォニアム3』を視聴して、本作品に隠された悲しい死生観を理解した。あるいは完全な誤解(誤読)かもしれないのだが、本作は滝先生が亡くなった妻の夢をかなえる物語だった、と考えると納得がいく。物語を、滝先生を中心として考えると、本作パート1の最初からパート3の終盤まで首尾一貫している。亡き妻の母校の吹部を全国金賞に導くこと。全てはそこへ向けての3年間だった。

そう考えると、パート3で唐突に現れた「黒江真由」という強力なユーフォニアム奏者の存在も納得がいく。彼女が、北宇治吹部の最強の手駒である高坂麗奈とソリを吹き、全国大会で金賞をとる万全の流れだったといえよう。ところが途中で狂いが生じ、府大会では真由よりも、部長の黄前久美子がオーディションを勝ち取る。しかしそれもうれしい誤算であって、両者が競い合ってますます強力な演奏が結果的に実現する(はず)。

と、ここまでは、原作の締めくくりを読んだ上でまとめてみたのだが、最終回の展開がもし原作通りだったなら、この説は完全に正解として完結することになるのだ。

 

さて、ここまで『ユーフォ3』を視聴して、リアルタイムでX(旧ツィッター)に書いた感想・批評をまとめておこう。最終回を見届けたら、最終的に京アニ作品『響け!ユーフォニアム』を振り返って批評したい。

 

 

『ユーフォ3』リアルタイム・ポスト(ツィート)

 

2024年5月12日 「第7回 なついろフェルマータ」を視聴して。

 

今日の「ユーフォ3」は、非常に好みの分かれる回だっただろう。いや、モヤっているのは私ぐらいか?

キーワードは「滝先生を神格化」と「全国で金賞」、「音楽に関わる仕事」。

これはもう、ゼロ年代後数年までしかリアル感がない言葉かもしれない。

まあ、昭和に気楽に吹奏楽部やってた感覚とは全く違うのだが、それでも、平成世代が今の「ユーフォ3」に感動しているのをどうこういうわけではない。ただ、今、現に中高生だとして、高校生活を「全国で金賞」に全て捧げることは、どのくらい現実味があるのだろう? 全てファンタジー、と捉えて作品を楽しめるなら、それでいいのだが。『けいおん!』のように。

いまの中高生が音大進学を考える場合、「音楽に関わる仕事」につながればいい、とそこまで割り切って考えられるものだろうか? 進学後かかる費用と、そこに至るレッスン代や楽器のあれこれを全部納得して?

全国の中高生の吹奏楽部人数が何人になるのか? 全ての中高生の中で、それなりの比率にはなるだろう。けれど、音大進学できるのはほんの少数であり、またその中からプロの音楽家になるのはまたごく少数だ。それは昭和の頃から変わらないが、昔は「音楽に関わる仕事=音大進学」という認識はなかった。

 

 

6月2日 「第10回 つたえるアルペジオ」を視聴して。

 

これは言っても詮無いことだが『響け!ユーフォニアム3』は、物語がかつてなく重苦しいのに演奏場面がほぼないため、物語自体がいったい何のために語られているのか、視聴者に伝わらなくなっている。

音楽系部活経験者としては、色々問題が起きても、合奏で演奏してる間だけはモヤモヤを忘れられた。「ユーフォ3」の苦悩に満ちたモヤモヤ感も、本来なら合奏で音楽に没入する時間がある程度解消してくれるはずではなかったか。

ところがその音楽場面がほぼないため、視聴者は悩ましい時間だけを味合わされ、視聴後に辛い思いしか残らないことになっている。本当に観ているのが辛い作品になってしまっている。

現状、京アニの限界かもしれないので言っても仕方ないが、それでも『ユーフォ』1、2、劇場版『誓いのフィナーレ』、『リズと青い鳥』の過去作品では、ここぞ!という演奏場面が必ずあった。音楽の素人にも、演奏によって部内のあれこれが昇華されたのが伝わっていたはずだ。劇場版『アンサンブルコンテスト編』にもそれがなく、『ユーフォ3』にもまだないので、視聴者もメンタルを削られるばかりだ。

 

 

6月9日 「第11回 みらいへオーケストラ」を視聴して。

 

最後は久美子の言葉でみんな、納得、か。物語の中の吹部メンバーたちには、それもありだろう。しかし、言葉だけでいいなら、小説でいいんだ、ほんとは。

今回もまた、滝先生批判をせざるを得ない。教師ならせっかく悩みを吐露しに来た生徒に、飴玉(ラムネだが)なんかあげて誤魔化して、悩みを全部吐き出させる機会を潰すなど、愚かすぎる。唯一の機会を逃したせいで、生徒は決定的に間違えてしまうかもしれないのに。

その後の滝先生がどんな練習をしたか描かれてないが、あの気まずい空気の合奏前の様子を滝が何も手を打たず、久美子の言動のままに任せたことは、吹奏楽の指導者・指揮者としても失格では?

もし本番直前に久美子があの演説をしなかったら、気まずいまま本番になったのだ。

滝先生が、教員としての自覚皆無だが指揮者としての仕事には集中している、と仮定しても、指揮者の仕事は演奏者の気持ちを盛り立てて、普段よりいい演奏を引き出すことだ。滝のやり方では、もし久美子の演説がなければ、気持ちがモヤったままで演奏者たちは実力を発揮できない。

結果オーライではあるが、滝先生のコンクール本番前の合奏での、あの歯の浮くようなほめ言葉は、それまでモヤったままだった生徒たちに、ますます不信感を抱かせただろう。あのままの雰囲気で本番前まで練習を続けたとしたら、生徒たちを褒める根拠がないからだ。

本作が音楽アニメであるより先に青春ドラマだとすれば、演奏シーンは最小限で生徒同士の心情描写に特化しても構わない。だがそれにしては中心キャラたちの心情の描き方が浅すぎる。その原因は、視点人物の久美子が一番心情を乱していることにある。他のキャラの心情描写が不足なのだ。物語の主軸を彼女の言動に置いてしまった脚本のミスだ。

ただでさえ過剰な人数を描き分ける群像ストーリーなのだから、視点人物は観察に徹してくれないと、人間関係が一方からしか描けなくなる。今回のいざこざも、久美子目線からしか描かれない。

あえて比較するが、吹奏楽部をモチーフとしたアニメ『ハルチカ』は、今回の『ユーフォ3』に似てほとんど演奏場面がない。その代わり、原作での1話完結の日常ミステリーが、学園生活を背景として毎回見事に描き出される。それに対し、『ユーフォ3』は日常ドラマとしても劣る。

滝先生は演奏者出身の新米指揮者・教員だが、同じく吹奏楽アニメ『ハルチカ』の吹部指導の先生である草壁は、滝と正反対に吹部生徒の日常や心情に細かく気を配っている。アニメ作品としての『ユーフォ3』と『ハルチカ』の差は、大人のキャラがきちんと描き込まれているかどうかにある。

 

本作の違和感の理由に気づいた。1つは北宇治吹部の演奏シーンが少なすぎてコンクール全国レベルなのかどうか実感がないこと。

2つ目、滝先生の実力が描写されないことだ。

指揮者の実力?と思われるかもしれないが実は指揮者の実力を明確にわからせる方法がある。それは北宇治吹部以外の楽団を指揮・指導する場面を挿入すること。こういうのは常套手段で、指揮者が真に優れていれば、常任の楽団以外でもその手腕で良い演奏を引き出すことができる。そうしてこその指揮者なのだ。滝先生は、そのレベルではないように思えてならない。

だから、視聴者は北宇治吹部員が滝先生を信じてついていく気持ちを今一つ納得しにくい。

とすれば吹部各自の演奏力向上を描くしかないのだが、その描写が3期にはない。だからコンクール全国金賞!がただの言葉になってしまう。となると、部員間の不信感だけが納得できてしまう。

というわけで、本作では吹奏楽部の描写が足りなさすぎて、その中の人間関係のあれこれが腑に落ちず、その分だけ、これでもかと描かれるキャラ同士の不信・不仲が強く伝わってしまう。

人間ドラマに特化して描くのはいいが、今回は視点人物が主役自身、ということがマイナスになる。

群像劇の視点人物は、作者の神の視点か、誰か語り手を設定するならなるべく客観視できる立場の人、というのが基本だ。今回の場合、吹奏楽の演奏をほぼカットして人間ドラマに徹するなら、語りの視点を久美子以外にする方がよかった。終盤まで、主要人物たちの心理描写が不足すぎる。

 

ところで、『ユーフォ3』の視聴者はほとんど、滝先生については疑問なしということなのだろうか?だが、部活アニメで、顧問、指導者をどう描くか、は作品テーマに関わる。

部活アニメ・マンガにおける顧問、指導者の重要性は、ほとんど論じられないが、ちょっと考えたらわかる。

野球マンガなら、『ドカベン』の歴代監督の存在感(影の薄さも)。

音楽系マンガなら、『けいおん!』の場合と『ぼざろ』の場合の差。

『黒子のバスケ』なら、各チームの監督たちの個性。

部活フィクションの場合、顧問や指導者が放任か熱血か、無手勝流かなどでメンバーの活躍が全く変わる。

『響け!ユーフォニアム』の滝先生は、予選落ち校の吹奏楽部をいきなり全国に連れて行く実力ある指導者の設定だが、アニメ版では指導者としての説得力が描かれてない。単なる設定になっている。

口うるさい音楽ファン目線であえて言うと、滝先生の指揮は下手だし、演奏者を見てない。練習の進め方もまずい。演奏者が自発的に音楽するよう持っていく指揮ではない。かといって全てを的確にコントロールする指揮法でもない。だから、全国レベルに吹奏楽部を連れて行く指導者にはみえない。

 

 

6月21日

12話の予告映像を観た。やっぱり「ユーフォのソリのオーディション対決」が3期のクライマックスになるのか?しかし、これまでの展開から、どういう結果になってもハッピーエンドにならないように思ってしまうぞ。予告編も、みんな暗い顔、深刻な顔してる。それで本当に全国金取れるのか?

ウルトラC!を思いついた。

久美子と真由の公開オーデのあと、滝先生が、ユーフォ2人とも吹くことに決める、というので全て解決!

久美子と真由のユーフォニアムと、麗奈のトランペット3人のソリで、主役3人の三角関係も演奏で決着、という趣向だ。これで全て解決!

ただ、これでは金賞はとれないだろうなあ。

 

 

6月23日 「第12回 さいごのソリスト」

 

もし次回の最終話で、北宇治吹部が全国金賞を取れなかったという結末なら、それなら納得だ。

オーディションで、耳で聴いて決めた結果だけが正しいというのなら、そもそも学生の吹奏楽コンクールなど意味がないからだ。それは、プロがやることだ。学生の部活の音楽は、正しさより感情のほうが大切なはずなのだから。

もし、北宇治は全国金賞に届かず、のびのびと音楽をやる源ちゃん先生(北宇治吹部・弦バスの月永求の祖父)の高校が金賞、なら、納得の結果だ。

滝先生の「正しい人」が好きという言葉はプロの発想だ。「正しい」=「勝つ」ならそれは競争原理そのものだ。学校の音楽にはふさわしくない。学生の頃は、正しさなど誰にも見えてはいないからだ。

 

ところで、またもや、滝先生を批判しなきゃならない。

なぜなら、滝は公開オーディションなどさせてはならなかったからだ。あくまで滝がソリのメンバーを選び、結果がどうあれ最後の責任は、指導者たる滝が背負わなければならないはずだったからだ。指揮者は最終的に演奏の全責任を負うから、指揮者なのだ。

そもそも初めから、滝は生徒の意思を尊重という建前に隠れて、指導者の自分が最終責任を負うという姿勢を見せない。それは教師としても指揮者としても卑怯だ。

もう一つ、公開オーディションで麗奈にも一票入れさせるのはダメだ。ソリを一緒に吹く共演者が、演奏しながら冷静に聴いて判断できるとは限らないからだ。公開オーディションの投票者から、麗奈は外すべきだった。

滝が久美子に言う「正しい人」と言う言葉は、どうも滝のキャラに合わない。滝は原作の最初の設定で、「ホルンとトロンボーン」をうまく吹ける、とあった。だが、どちらも「正しさ」とはかけ離れた楽器だ。むしろ滝の日頃の神経質な言動は、ダブルリード楽器か打楽器を思わせる。

滝が吹けるという「ホルン」と「トロンボーン」は、金管楽器の中でも特別に融通のきく楽器だ。ホルンは金管でもっとも音域が広く、倍音が豊かで、それゆえ木管楽器ともアンサンブルでよく合わせられる。その反面、正確な音程やアタックが非常に難しい楽器だ。

トロンボーンは、金管で唯一のスライド楽器、その特徴は、音程もアーティキュレーションも、すべて融通無碍にできるということ。他の楽器に合わせることに最も適した楽器だ。その分、正確さ、ということには適さない。滝はこのどちらも性格的に向いていないようにみえる。

最後に、蛇足だが、滝先生は久美子に1年時から妙に愛着がある。こののち、久美子は滝と男女の仲になってもおかしくない、親密感がある。もしそうなれば、久美子と麗奈との友情も、それまでとなるだろう。

 

12話放映後、X(旧ツィッター)界隈では「原作改変」がトレンドだ。

改変された点で唯一よかったのは、久石奏が次のヒロインで確定?といってもいいぐらいに見事なキャラクター造形だったことだ。次の映画?で奏主役のスピンオフ作品を、ぜひお願いしたい。

「原作改変」がトレンドということは、なるほど原作既読勢が多いのか。だから今期はあれほどタイムラインが荒れるのだなあ、と。原作の展開が青春ものとしては王道だと思う。いくら原作者自身が擁護しても、あくまでアマチュアの音楽を描いているのだから、「正しさ」なんか求めてない。

それに、優秀な奏者である秀一やみどりや奏が、音だけでも久美子を選んだのだから、最後にプロ志向の麗奈が「正しい」音を選んでも、それはみんなで作る音楽の姿じゃないと思う。プロ志向の発想で、青春ものの音楽物語を「正しさ」などで決めるのは、興醒めだ。

滝先生が久美子に「正しい人」が好き、などと答えていなければ、久美子は真由の「わざと手を抜く」提案に乗ったかもしれない。それで丸く収まる方が、群像劇としての青春ドラマにはふさわしいといえまいか。この物語はプロ志向の音楽学生のドラマじゃないのだから。「のだめカンタービレ」じゃないのだから。

ともあれ、今期の京アニは、主役の女子たちを泣かせる、涙の描写に全てを賭けた、ということだけは伝わった。

でも、このまま次の最終回で全国金賞を取って「よかったねー」で終わるなら、物語としては浅すぎる、といわざるを得ない。あれだけ彼女らを泣かせたなら、いっそ最後も悔し涙で締めくくるのがいい。

 

最後に、

#ユーフォ3期

#原作改変

など、『響け!ユーフォニアム』関連ワードがXのトレンドなのだが、私はこの現象に、実は既視感がある。

それは、10年以上昔、深夜アニメで、あるエピソードがほとんど同じストーリーなのに細部をちょっと変えただけで、8回も繰り返し放映された、あの事件だ。

今回の『響け!ユーフォ』の「原作改変」騒動は、かつて京アニが『涼宮ハルヒ』2期で物議をかもした「エンドレスエイト」、あれの再来では?

主犯は、Xで話題となっている脚本家の花田氏ではなく、石原監督ではないのだろうか?

「エンドレスエイト」騒動をやらかした原作クラッシャーとして、前科がある石原監督だけに。

とにかく、今回も話題にはなったのだ。

 

 

 

 

※関連の文章紹介

 

土居豊の論考

最新の寄稿

【京アニ事件と『涼宮ハルヒ』 本当に小説・アニメが犯行の引き金なのか?:事件裁判の経過を通じてもう一度、小説・アニメ『涼宮ハルヒ』シリーズと京都アニメーション事件の関係を考える】

 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/6/1/6_53/_pdf/-char/ja

 

 

(1)

『こころの科学とエピステモロジー』Vol. 5,2023

土居豊の論考へのリンク

映像メディア時評「京アニ作品の死生観」論 2 

【音楽アニメの死生観~『けいおん!』『響け!ユーフォニアム』の場合】

 

https://drive.google.com/file/d/1LiQMddCzsAct4Bk_WlSMwxgXbAAkWEDX/view

 

 

(2)

『こころの科学とエピステモロジー』2022年4巻1号

映像メディア時評「京アニ作品の死生観」論その1【ミステリーアニメの死生観〜『涼宮ハルヒ』とP.A.WORKSの『Another』、そして『氷菓』】

 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/4/1/4_103/_pdf/-char/ja

 

 

(3)

電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』3号

土居豊の担当した文章へのリンク

『京アニ事件の深層―京アニ事件総論』

 

https://drive.google.com/file/d/1KAcE6n04c3W726AhAgcMRSUttvPKfVIl/view

 

『京アニ事件の深層―「京アニ作品の死生観」試論』

 

https://drive.google.com/file/d/1bz3WOIykQOJUwpssYShbbdp60Ug-jllz/view

 

 

(4)

映像メディア時評『人文死生学研究会番外編「涼宮ハルヒ」+付記:京都アニメーションお別れの会参列報告』

 

https://drive.google.com/file/d/1nLmDGHfDji2Si6u5kduqCCbbsv8OBXgq/view

 

 

 

※土居豊の京アニ関連の評論本

 

『ハルキとハルヒ 村上春樹と涼宮ハルヒを解読する』(大学教育出版)

https://www.kyoiku.co.jp/00search/book-item.html?pk=875

 

 

『沿線文学の聖地巡礼 川端康成から涼宮ハルヒまで』(関西学院大学出版会)

http://www.kgup.jp/book/b146062.html

 

 

土居豊による「京アニ事件考察」が、オンライン学会誌に掲載!

 

土居豊による「京アニ事件考察」を寄稿した『こころの科学とエピステモロジー』2024年6巻掲載されました。今回は、

【京アニ事件と『涼宮ハルヒ』 本当に小説・アニメが犯行の引き金なのか?:事件裁判の経過を通じてもう一度、小説・アニメ『涼宮ハルヒ』シリーズと京都アニメーション事件の関係を考える】

と題して書きました。

まだ事件の詳細が十分明らかになっておらず、犯人の動機にも疑問が多数あり、今後も考察を続けたいと思っています。というより、考察しなければならない、という義務感に迫られています。

辛い内容ではありますが、お目を通していただけましたら幸いです。

 

2024年5月

 

以下

Vol.6 (2024)は5月15日にJ-Stage公開されました。

『こころの科学とエピステモロジー』Vol. 6,2024

https://www.jstage.jst.go.jp/browse/epstemindsci/list/-char/ja

 

 

土居豊の論考へのリンク

【京アニ事件と『涼宮ハルヒ』 本当に小説・アニメが犯行の引き金なのか?:事件裁判の経過を通じてもう一度、小説・アニメ『涼宮ハルヒ』シリーズと京都アニメーション事件の関係を考える】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/6/1/6_53/_pdf/-char/ja

 

 

※前号まで

(1)

『こころの科学とエピステモロジー』Vol. 5,2023

土居豊の論考へのリンク

映像メディア時評「京アニ作品の死生観」論 2 

【音楽アニメの死生観~『けいおん!』『響け!ユーフォニアム』の場合】

https://drive.google.com/file/d/1LiQMddCzsAct4Bk_WlSMwxgXbAAkWEDX/view

 

(2)

『こころの科学とエピステモロジー』2022年4巻1号

映像メディア時評「京アニ作品の死生観」論その1【ミステリーアニメの死生観〜『涼宮ハルヒ』とP.A.WORKSの『Another』、そして『氷菓』】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/4/1/4_103/_pdf/-char/ja

 

(3)

電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』3号

土居豊の担当した文章へのリンク

『京アニ事件の深層―京アニ事件総論』

https://drive.google.com/file/d/1KAcE6n04c3W726AhAgcMRSUttvPKfVIl/view

 

『京アニ事件の深層―「京アニ作品の死生観」試論』

https://drive.google.com/file/d/1bz3WOIykQOJUwpssYShbbdp60Ug-jllz/view

 

(4)

映像メディア時評『人文死生学研究会番外編「涼宮ハルヒ」+付記:京都アニメーションお別れの会参列報告』

執筆者

土居豊(作家)

渡辺恒夫(東邦大学名誉教授/心理学・現象学)

三浦俊彦(東京大学文学部教授。専門は芸術学・分析哲学)

https://drive.google.com/file/d/1nLmDGHfDji2Si6u5kduqCCbbsv8OBXgq/view

 

 

以上

 

引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

2024年5月

土居豊

大阪府立高校の窮状の具体例をいくつか〜大阪府立の某高校吹奏楽部の演奏会をきっかけに

大阪府立高校の窮状の具体例をいくつか〜大阪府立の某高校吹奏楽部の演奏会をきっかけに

 

大阪府立某高校の吹奏楽部の演奏会を観て、大いに感心した。伝統校の吹奏楽部らしく見事な演奏で、演出もうまく、客席を巻き込んで盛り上がった。

だが一つだけ、もやもやしたことがあった。舞台上からの寄付の呼びかけだ。

公立学校の部活で、一般客に活動資金の寄付呼びかけは、はたしてやっていいのだろうか?

もちろん、寄付を募る理由は、そこの学校の部活予算が少なくて、活動が大変だから、なのはわかるのだが。

これもやはり、大阪府立高校が橋下府知事以来の維新の会府政の結果、予算を減らされて、伝統のある高校の吹奏楽部でも活動を持続するのが大変になったということだろうか?

しかし府立高校(公立学校)の部活が、学校関係者や保護者以外に広く資金の寄付を呼びかけるのは、何か間違っていると思うのだ。そこは私立校とは、違うはずだ。

だが、そうせざるを得ないよう追い詰められているのか?

そもそも、府立高校(公立学校)の中でも歴史の古い学校の部活は、OBOGが多く活動資金も卒業生の寄付などがあるはずだ。しかし、それでも広く一般客に寄付を呼びかけるということから、学校の内情が透けて見える気がする。これは、橋下府知事時代からの維新の会教育改悪が進めた、学校間競争の結末だろう。

府立高校の場合、野球部など大規模な運動部と吹奏楽部や合唱、演劇部など、基本的に資金が不可欠な部活は、私立高校とは最初からスタート地点でハンデがある。

それを無視して、私立と公立を競争させる現在の維新の会の大阪府教育政策は、根本的に間違っている。その悪しき結果を象徴するのが、今回の吹部の寄付集めなのではあるまいか。

 

以下、私が身近に接したこの数年間の府立高校の実情を、写真で紹介する。

 

 

 

 

私の母校の府立高校は、戦前の高等女学校からの歴史があるが、古い校舎は90年代末から順次建て替えられた。施設的にはまだ恵まれている方だろう。

 

 

同じく近隣の府立高校も、戦前の旧制中学からの歴史がある。校舎は立派なものに建て替えられている。

 

 

ついでに、同じ旧学区の、併願校となっている私立高校の校舎は、さすが私立で、このようにきれいで立派だ。

 

 

 

偏差値的には同レベルのこの府立高校、校舎は古く、施設は耐久年限が過ぎている感じだ。非常階段の手すりのサビが気になる。

 

 

教室はいかにも古く、黒板なども、オンライン授業に対応するようには見えない。

 

 

 

特に、プールや、部活の部室は古く、雨漏りがするという。

 

 

 

 

 

これが自治会室(生徒会室)だという。これでは、生徒会の生徒も真夏や真冬は居住性が悪く活動が大変だろう。

 

 

この府立高校は歴史は古いが、校舎はまだ建て替えられておらず不便なままのようだ。維新の会の政策で、府立高校が3年連続定員割れとなると統廃合の対象となるが、この高校も定員割れの高校と統廃合されて、学校名も変わった。だが校舎は古いままだ。

 

 

 

 

 

※参考ブログ

大阪府立高校の吹奏楽部の演奏会がこんなに変わった?それとも変わってない?〜大阪府立池田高校吹奏楽部定期演奏会

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12851214037.html

 

 

2024年大阪府立高校の異常な倍率差、維新の会教育改悪はもう取り返しがつかない大混乱

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12843455985.html

 

 

2023年度高校入試、大阪府立高校倍率は維新の会の教育政策の最悪の結末だ

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12792660974.html

 

2023年の大阪府立高校希望調査と、私立高校希望調査をみて

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12786413545.html

 

大阪府立高校の吹奏楽部の演奏会がこんなに変わった?それとも変わってない?〜池田高校吹奏楽部定演

大阪府立高校の吹奏楽部の演奏会がこんなに変わった?それとも変わってない?〜大阪府立池田高校吹奏楽部定期演奏会

 

 

1980年代に、大阪府立の高校の吹奏楽部で活動した経験と、その後、1990年代に同じく府立高校の吹奏楽部を教員の立場で指導した経験をベースに、久しぶりに聴いた府立高校吹部(という言い方は昔はなかったが)の定演の変わりっぷりに驚いた。

ところが、演奏会の中で挨拶したその吹部の顧問の先生は、「大阪の吹奏楽部定演のよくあるパターン」というのだ。つまり、全体が3部構成で、最初は真面目な古典的な楽曲、真ん中はお遊びありのエンタメステージ、で最後はポップス中心。こういうのが大阪の吹奏楽部のよくやる演奏会構成だという。

だが、一昔前は、違った。3部構成なのは同じだが、最初に吹奏楽オリジナル曲、真ん中にポップス曲、最後にクラシック有名曲のアレンジものなど重厚な長めの曲、という構成が普通だった。

いつ頃から、高校吹奏楽部の演奏会の構成が、ポップスで締めるようになったのだろう。

しかも、これは池田高校独特のやり方なのかもしれないが、演奏会最後の曲で、3年生のメンバーにそれぞれソロをとらせて、卒業演奏みたいな演出をしていた。

これは、とてもセンチメンタルなコンセプトで、まるで卒業ステージ、のような考え方だ。

その最後の曲のあと、お約束のようなアンコールが3曲続いた。客席の半数以上が同校の関係者や、生徒の出身中学の生徒たちだから、毎年このパターンで伝統的なステージを作ってきたのだろう。

この高校のような、歴史の長い伝統校の場合、多かれ少なかれ、こういうセンチメンタルな構成をして演奏会を作ってきたのかもしれない。

 

(豊中市立文化芸術センターが、この日の演奏会は満席となった)

 

 

 

そこで、一昔前を振り返ってみたい。

1980年代の、私たちが経験した吹奏楽部の演奏会では、先に述べたように、3部構成でジャンル別に分け、最後は重厚な有名楽曲で締めくくる、というパターンが多かった。この構成は、実のところ、多くのクラシック・オーケストラの演奏会で踏襲されている構成の変形バージョンだ。たいていのオーケストラ演奏会は、メイン曲というべき大きな楽曲を中心に、前半を協奏曲などで占める。今でもこの構成は大して変わっていない。だから、80年代の私たちの高校吹奏楽部の演奏会は、クラシックの演奏会構成を真似して作ったのだ。

その後、90年代を通じて、クラシック演奏会の方はあまり変わったとはいえないが、高校吹奏楽部の方は、おそらく変化してきたのだろう。

それにしても、今回聴いた池田高校の演奏会では、構成もさることながら、顧問の教師や外部指導者の先生が、生徒たちと非常に和気藹々とステージに参加していた。これは、一昔前にはなかった特徴だ。80年代の教員は、部活の生徒とあんなにはしゃいでみせたりしなかったように思う。

教師と生徒は一線を画していて、部活の演奏会でも、生徒は自主的に活動しているという体裁を強調していたように記憶している。

その分、演奏も、演奏会の組み立ても稚拙だったが、あくまで生徒たちが協力して自力で幼いながらもプライドの高いステージを作っていたように思う。

その意味では、今回の演奏会は、生徒と教員・指導者が仲良く一緒に作るステージ、という印象が強かった。それは、時代の変化というものだろう。

 

最後に、この演奏会の中であいさつしていた3年生の元・部長さんが、ユーフォニアム担当の女生徒で、まるで『響け!ユーフォニアム3』の黄前さんみたいだった。「しんどいことの方が多かったけど」と素直な感想を語ってくれたのも、よかった。演奏会や、バンド活動をリードしていく役割は、毎日が悩みの連続だから、華やかなスポットの当たる生徒指揮者やソリストよりも、部長・副部長といった幹部生徒をもっとみんなほめてあげてほしい。

ちなみに、私自身も、数十年前、高校吹奏楽部で部長だった。やれやれ、しんどかったなあ。

 

 

 

※土居豊の吹奏楽関連記事

『コロナ禍の下での文化芸術』特別編【吹奏楽コンクールの是非 〜 世界的にも特異な日本の吹奏楽文化】

https://note.com/doiyutaka/n/n16667cde9374

 

『コロナ禍の下での文化芸術』4章「吹奏楽や合唱など、学校での音楽活動の可否 〜 吹奏楽部はコロナ感染のリスクがある?」

https://note.com/doiyutaka/n/n647edcb40ffd

 

十数年ぶりに、大阪府吹奏楽コンクール北摂大会を観に行った

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12500401833.html

 

※土居豊の吹奏楽小説

ウィ・ガット・サマータイム!

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メロフォンとフレンチ

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南海なんば駅前のなんば広場が、維新の会によるイベント会場化で市民の分断の象徴に

南海なんば駅前のなんば広場が、維新の会によるイベント会場化で市民の分断の象徴に

 

2024年4月26日、連休手前の朝早く、たまたま通ったら、南海なんば駅前のなんば広場が、こんなことに。

 

 

 

 

 

 

 

連休イベントの準備でしょうけど、なんだこの閉鎖感は?

広場じゃなくて、単なるイベント会場。

特に、丸井側が通りにくい。

 

 

イベント会場優先で、広場になってない。イベントに関係ない人は、排除されてる雰囲気。

これが、維新の会のやり方。市民を分断する。だから、維新に投票してはいけないのだ。

 

ちなみに、なんば広場は、普段は、こういう感じでがらんとしている。時々、イスとテーブルが置かれたりするが、観光客の休憩場所にしかならない。

 

2023年11月

まだこの頃は、歩道を歩く必要がなくなって、観光客が高島屋側から戎橋筋側へ自由に行き来している。

 

 

 

 

少なくとも、車椅子の人には、通行が便利になっていた。

 

2024年1月

なんば広場に、イスとテーブルが配置された。

 

 

 

 

相変わらず、自転車の通行もあって、歩行者にとっては危険である。

 

 

元々、この場所は道路で(今も法的には道路なのだそうだ)、南海なんば駅を出たところでタクシーをひろえるロータリーだった。

2012年のなんば駅前は、こんな感じで、大いに賑わっていた。

 

 

 

 

 

 

今は、広場にされてしまったので、タクシーをひろうのはぐるっと反対側に回らなければならない。

しかも、南海なんば駅周辺の、御堂筋からの交通が、駅前ロータリーを潰したことで完全に行き止まりの失敗道路になってしまっている。

 

 

 

このように、なんば広場の手前で道路が遮断され、事実上、御堂筋と日本橋側から繋がるこの道路は死んでしまっている。

 

 

ちなみに、この広場、賃貸料金は100万単位でかかるという。

まさか、この広場、選挙になったら維新の会がずっと占領するんじゃないだろうな?

 

 

関連記事

なんば広場の例にみる、維新の会の大阪府政・市政の失敗〜 せっかくのミナミの魅力が失われ、広場は自転車事故の危険も

 

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12830578189.html

 

 

 

 

リアタイ視聴の感想〜NHKBS 小澤指揮ベルリン・フィル演奏会 1986年来日

 

 

 

小澤征爾の指揮、ベルリン・フィルの演奏、サントリーホールのオープニング記念演奏会をNHKが収録生放送していた1986年の映像を、NHK-BSで深夜放送していたので、リアタイした。

これは、元々はカラヤンが指揮するはずだった演奏会だが、病気キャンセルで小澤が代役で登場したもの。

 

※【BS】2024年3月18日 午前0:05~ 

小澤征爾 指揮 

ベルリン・フィル演奏会 

1986年来日公演

 

この時のNHK生放送(だったようだが)は、実のところ、試聴した記憶がない。当時、大学2年生で、勉学やアルバイトや音楽活動に多忙だったので、見逃したのだろう。しかし、その後も、再放送などで見た記憶もないし、もちろんディスク化もない。

これは、「N響事件」以来、関係断絶した小澤とNHKがまだこの86年当時、険悪だったということなのだろうか。小澤とNHK(とN響)が関係を修復したのは、1995年の、阪神大震災チャリティでの小澤&N響の共演だったので、それより10年も前のこの段階では、いろいろと複雑だったのだろう。

 

以下、3月17日深夜の再放送をリアタイした感想をまとめる。

 

 

#小澤征爾指揮 

#ベルリン・フィル演奏会 

1986年来日公演

このNHKの放送、ついに小澤征爾のインタビューはなかった。これはNHK側が依頼しなかったのか? 小澤が断ったのか? いずれにせよ、「N響事件」がまだ尾を引いている感じがありありと伝わってくる。

そもそも、ベルリン・フィル演奏会の放送で、指揮者のコメントがない、という事態はあり得ないはずだ。

 

この演奏会は、1986年サントリーホールのオープニングコンサートで、小澤征爾はベルリン・フィルを指揮するはずだったカラヤンの病気キャンセルの代役だった。

演奏開始前、来賓の、当時の浩宮様が着席するのをきちんと映している。

この公演、コンマスは、日本人初のベルリン・フィルコンマスの安永徹だ。

曲目は、シューベルト「未完成」、R.シュトラウス「英雄の生涯」。これは本来、カラヤンが振る曲目そのままだったのだろうか?

もしこの時カラヤンの来日が叶っていたら、まさに彼の晩年の絶頂期における日本での演奏が実現していたはず。その後の最後の来日では、さすがのカラヤンも健康状態の悪化と、演奏の雑さが目立っていた。

 

小澤とシューベルト「未完成」は、相性のいい曲だ。何度も録音しているが、今回の86年ベルリン・フィルは、小澤にしては異例なほどルバートを効かせて、超ロマンティックな演奏となっている。

それにしても、86年当時のベルリン・フィルはやはり音が分厚い!

その後のアバドの音楽監督時代の音とは全然違う。NHKのテレビ用収録だが、非常に奥行きのある音響がとらえられている。低弦の深い響きまではっきり聴こえる。この演奏、小澤としては異例なほど、響きの重心が低い。

こうして改めて聴くと、小澤はベルリン・フィルと相性が良かったように思える。

小澤の「未完成」、他の録音ではこんなに金管を朗々と鳴らさなかった気がする。あるいはカラヤンとベルリン・フィルのやり方を尊重したのだろうか。

それにしても、86年のベルリン・フィルの金管は分厚い響きで、カラヤン時代の絶頂期の音そのものだった。

最後、消え入るように締めくくられる「未完成」の曲終わりで、今の聴衆のような「ブラボー屋」がいなくてよかった!

 

番組は、生中継だったようで、演奏会の休憩時間の幕間に、同じサントリーホールで展示されているベルリン・フィルの歴史を見ながら、楽団員のインタビューを交えて解説している。なんと、会場にはカラヤンの肖像画!も展示されている!

やはり、このNHKの番組作りは、あくまでカラヤンとベルリン・フィル来日、というのがメインテーマだったのだろう。もしや、この放送で小澤のインタビューは、ないのか?

幕間、コンマスの安永徹のインタビューもあった。まだ、就任3年の時期だった!

だがやはり、小澤征爾のインタビューは、ない!

NHK、露骨だなあ。

 

さて、リアタイ後半は、R.シュトラウス「英雄の生涯」。

小澤とベルリン・フィルの「英雄の生涯」は、「未完成」の時とは違って、安全運転だ。長丁場をいかにもたせるか、という感じで進む。

小澤の指揮は、「未完成」でのタクトを持たない振り方とは違い、いつもの長めのタクトを持って、実に細かく振り分けている。まだ50代、若かった当時の小澤の指揮は本当に機能的で、オケのコントロールを隅々までつかんでいる。だがその分、いささか窮屈でもある。

あるいは、小澤はカラヤンの十八番である「英雄の生涯」をベルリンフィルと演奏することに、ものすごいプレッシャーを感じて、あくまで小澤のR.シュトラウスを実現しようと、過剰に細かい振り方になっているのだろうか。

そういえば、この当時、小澤がカラヤンの後継者でベルリンフィルの常任になるかも?と噂されていた頃だったかも?

「英雄の生涯」の「戦闘」のところで、ずっと律儀に右手で拍を刻み続ける小澤の指揮ぶり、なるほどオケは安心して弾けるのだろう。ただ、細部にこだわるあまり、大きなフレーズの流れが分断されているという感じもする。

比較してみると、小澤がボストン交響楽団と録音した「英雄の生涯」は、この当時の小澤&ボストン響らしく、非常に明快で透明度が高い反面、R.シュトラウスというにはちょっと軽すぎ、薄味すぎ、という印象だった。それに比べると、やはり今回はベルリン・フィルの重厚さがプラスに働いていたようだ。

ベルリン・フィル86年当時のホルン・セクションは、これこそドイツ本流のホルンという分厚い響きだ。このような厚みのあるホルン・セクションは、90年代以降、ベルリン・フィルだけでなく他の欧州のオケからも、失われていったように思う。

 

「英雄の生涯」演奏終了後は、直ちに舞台袖にカメラが切り替わる。ステージから戻る指揮者を、ピッタリと追う。小澤は水を一口飲むと、怖い表情のまま、演奏者の誰を答礼させるか周囲に尋ねる。このカメラ撮影は、明らかにカラヤンが指揮する予定だった時のままなのだろう。カラヤンの指揮後の姿を、なんとしてもカメラに映そうという意図を感じる。

すぐに舞台に引き返して、順番に奏者に答礼させたのち、小澤は意外なほどあっさりと、ベルリン・フィルの楽員たちを舞台から引き下がらせた。これは最初からの予定だったのか? それともベルリン・フィルの演奏会はいつもこのぐらい、あっさりと退いていたのだろうか?

舞台袖に引っ込んだ小澤は、いかにも疲労困憊だ。引き上げてきたベルリン・フィル団員たちと言葉をかわしながらも、あまり笑顔はない。思ったような演奏にはならなかったのか? それとも、舞台袖の姿をカメラで追いかけられているのが気に入らないのかも?

はたしてカラヤンが指揮していたら、NHKのこのカメラワークは実現しただろうか? カラヤンは舞台袖の表情など、撮らせてくれただろうか?

ともあれ、86年のサントリーホールのオープニングで、小澤とベルリン・フィルの生演奏を聴けた人は、なんと幸運だったことか。

そういえば、86年にはまだ、客席から花束を指揮者に手渡すことができたのだ、と感心した。思えばのどかな時代だった。しかし、小澤は花束を指揮台に載せたっきり、そのまま置き去りにして舞台袖に引っ込んだ。このことも、いささかそっけないステージマナーに思える。そのぐらい疲労していたのか、あるいは、やはり演奏が今一だったのだろうか。

 

これはぜひ実現してほしいのだが、NHKはベルリン・フィル側と交渉して、今回のサントリーホールオープニング演奏会の、小澤&ベルリン・フィルの映像と音盤を、ブルーレイやCDで発売してほしい。時代の記録として、実に貴重な生収録だったことは間違い無いのだ。

 

 

 

 

※【小澤征爾追悼】

「世界の」小澤と「世界の」村上春樹

https://note.com/doiyutaka/n/nda901739a5dc

 

※小澤征爾のオペラの思い出 ヘネシー・オペラ・シリーズ・ヴェルディ『ファルスタッフ』

https://note.com/doiyutaka/n/nacb8f06204e0

 

ヴェルディ『ファルスタッフ』

指揮:小澤征爾、演出:デイヴィッド・ニース、舞台デザイン:ジャン=ピエール・ポネル

サー・ジョン・ファルスタッフ:ベンジャミン・ラクソン、クイックリー夫人:フィオレンツァ・コソット、ナネッタ:ドーン・アプショー 他

新日本フィルハーモニー交響楽団

1993年5月16日、尼崎・アルカイックホールにて

 

 

※エッセイ「クラシック演奏定点観測〜バブル期の日本クラシック演奏会」

第32回小澤征爾 指揮 ボストン交響楽団 来日公演 1994年〜ベルリオーズ・フェスティバル〜

(期間限定・無料公開中)

https://note.com/doiyutaka/n/n83909833b931

 

小澤&ボストン響来日公演

第22回 小澤征爾 指揮 ボストン交響楽団 来日公演 1989年

https://note.mu/doiyutaka/n/n2cc998df03fa

2024年大阪府立高校の異常な倍率差、維新の会教育改悪はもう取り返しがつかない大混乱

2024年大阪府立高校の異常な倍率差、維新の会教育改悪はもう取り返しがつかない大混乱

 

2024年大阪府立高校受験倍率(全体)

https://www.sankei.com/common/js/lib/pdfjs/web/viewer.html?file=https://www.sankei.com/module/edit/pdf/202401/osaka_syutugan20240306.pdf

 

※2024年大阪府立高校受験倍率

資料1

 

 

旧1、2学区は、文理学科の北野・豊中・茨木が君臨し、その下の普通科高校も異常な高倍率で、成績中堅レベルの生徒の行き先が少なすぎる。

旧2学区時代から人気だった春日丘高校の1.44倍は、相変わらずめちゃくちゃ高いが、旧2学区で中堅だった山田高校が1.24倍というのは、ちょっと異常な高倍率だ。

大阪府立高校トップ10である文理学科以外で、本来なら中堅私大進学を狙えていた中堅クラスの府立高校が軒並み、維新の府立高校統廃合政策で次々に減らされた。そこで、成績中堅層の生徒は、これまた維新の会主導による私立高校授業料無償によって、結果的に私立へ流れる仕組みである。これが、維新の会の政策による一部私立高校への利益誘導を疑わせる理由だ。

 

だが、2024年春の府立高校受験の様相は、これまでよりひどい。さらに今後、私立高校授業料無償の所得制限が撤廃される予定で、これによってますます混乱が増すだろう。大阪府下の高校進学は、完全にカオス状態で、中学校による進路指導はもはや不可能な有様だ。

もし、維新の会の大阪府政が今後も引き続き、定員割れの府立高校を統廃合の対象にし続けるなら、旧1、2学区では渋谷、北摂つばさ、高槻北、阿武野、摂津といったかつての中堅校が軒並み潰されかねない。これからも中ぐらいの成績の生徒の進学先は、ますます選択肢が狭まる一方で、授業料無償に引っ張られて私立へ誘導されるだろう。

 

 

一方で、大阪府立高校の成績上位校も、現状、展望は明るくない。大阪府立高校トップ10の文理学科のうち、豊中高校1.57倍、高津高校1.56倍という異常な高倍率は、いくらなんでもひどすぎる。これはさすがに、高校受験の倍率ではありえない。大学入試と違って、高校受験は基本的にやり直しがきかないので、進学希望者全員の進路を保証することが教育行政に求められるからだ。

成績上位の受験生徒は、もちろん事前に相応レベルの私立を滑り止めにキープしているだろうが、府立トップ10の高倍率加熱が、結果的に大量の成績上位者を確実に私立に流す仕組みとなっているのである。これは、一部私立への露骨な利益誘導だといえる。

 

※2024年大阪府立高校受験倍率

資料2

 

 

もう一つ、維新の教育改悪のとばっちりで定員割れになってしまったのが、平成の頃には花形の学科だった総合学科の各校だ。本来、総合学科は現在の文理学科を先取りしたような、学校裁量で文系理系横断の多種多様な教育ができるのが持ち味だった。ところが、維新の会支配下でいびつな府立高校ランク分けが進行した結果、どんどん定員割れが増えてきて、今やすっかり凋落させられてしまった。柴島高校の総合学科は、唯一の高倍率1.24倍を保っているのだが、大阪市内、特に東淀川区の特殊事情もあって、希望者が集中しているのかもしれない。

 

 

※2024年大阪府立高校受験倍率

資料3

 

さらにひどいのが、大阪のものづくりを支えるはずの工業や商業など職業高校の定員割れだ。あの全国一の吹奏楽部で有名な大阪府立淀川工科高校でさえ、今年は定員割れだ。今宮工科と佐野工科はまだ希望者が多いようだが、今のうちにテコ入れしていかないと、工業系が総崩れになってしまってからでは、職業高校の立て直しは教員の人材的にも難しいのだ。

また最近、維新の会の政策で大阪市立の高校から府立に移管させられた、元の大阪市立の工業系・商業系の高校も見る影もなく定員割れ続出だ。

本来は地元・大阪の経済を先々支えるための人材育成に注力していた職業高校を、こんな無残な状態にした維新の会の教育政策は、完全に間違いだったのが明白である。

 

 

 

 

 

※過去の関係記事

2023年度高校入試、大阪府立高校倍率は維新の会の教育政策の最悪の結末だ

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12792660974.html

 

2023年の大阪府立高校希望調査と、私立高校希望調査をみて

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12786413545.html

 

2022年大阪府立高校入試の倍率、やはり維新の会の教育改悪の結果、子どもたちは苛烈な競争に追い立てられている

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12730121136.html

 

2021年度大阪府公立高校入試の倍率、確定。高倍率と定員割れの格差を作ったのは維新の会の教育政策だ。

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12660782281.html

 

2020年大阪府立高校の入試出願の中間発表と最終発表、今年は変だ

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12580614066.html

 

2020年春の大阪府立高校の難関大学合格結果を考察した。この10年の維新の会による大阪府教育改革はこれでいいのか?

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12589793890.html

 

(まとめ)2019年の大阪府立高校入試と大学入試の結果で、維新の会教育改革失敗が証明された

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12450639923.html

 

大阪府立のハイレベル高校、大学入試の結果は維新の会教育改革の失敗を示している

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12449967911.html

小澤征爾追悼

小澤征爾追悼

(再録記事)

【小沢征爾指揮のウィーン・フィルを聴いて】

2000年11月12日

 

小沢指揮のウィーン・フィルのコンサート、曲目はブラームスの交響曲第4番と第1番。

もちろん満席で、立ち見も大勢いた。期待に身を乗り出す聴衆の前に小沢が登場、割れんばかりの拍手が沸き起こる。小沢は両手を上げてそれを制した。おもむろにこう語りだした。

「昨日、オーストリアで悲しい出来事がありました。アルプスのケーブルの事故で、百何十名もの人が亡くなりました」
これは、オーストリアのキッツシュタインホルン山で起こったケーブルカー事故のことである。同じオーストリア人として、ウィーン・フィルのメンバーは大きな衝撃を受けていたのだろう。小沢は、その事故の犠牲者と遺族に哀悼の意を表して、この夜のコンサートを、バッハの『G線上のアリア』で始めた。大変心のこもった、胸にしみる演奏だった。その後、オーケストラのメンバーが立ち上がり、満場の聴衆もみな立ち上がって、じっと黙祷を捧げたのだった。

これが、小沢の人間性なのである。その場にいた全ての人の心に影響を与える力を持っている、自然とにじみでる人格の魅力である。

その後、コンサートは始まった。もちろん、ブラームスはすばらしかった。特に、第1番では、小沢の指揮にウィーン・フィルは見事に応え、白熱した演奏をくりひろげた。アンコールにJ・シュトラウスⅡの『ウィーン気質』が演奏されて、満席の聴衆はすっかり満足した。

だが、この夜、最後まで心に響いていたのは、最初に哀悼の意をこめて演奏された『G線上のアリア』だった。コンサートのあと、シンフォニーホールを出て公園の木々の間を歩きながら、まだ『アリア』のメロディが鳴っていた。音楽は心で奏でるものなのだと、改めて知った夜だった。

 

 

 

 

※土居豊のエッセイ「クラシック演奏定点観測〜バブル期の日本クラシック演奏会」

第32回 小澤征爾 指揮 ボストン交響楽団 来日公演 1994年〜ベルリオーズ・フェスティバル〜(期間限定・無料公開中)

https://note.com/doiyutaka/n/n83909833b931

 

 

映画「ガンダムSEED フリーダム」初見の感想 (ネタバレします

映画「ガンダムSEED フリーダム」初見の感想

(ネタバレします。まだ鑑賞していない方はご注意ください)

 

ガンダムSEEDとSEED Destinyの両方を観てきた人は、絶対に観るべき映画だ。

これまでガンダムSEEDシリーズを観なかった人も、これを機会に、ダイジェスト版で予習してからぜひ観てほしい。

シリーズ完結編としては、実に秀逸な締めくくりだった。

あまりに情報量が多いため、細かい部分をまだ消化しきれないが、結末も文句なしだし、展開も王道のエンタメ映画。しかも、コミカルな演出があちこちにあって、SEEDテレビシリーズのコミカルな部分をしっかり引き継いでいる。

Destinyの陰鬱な展開に辟易して、観ていなかった人も、SEED無印のテレビシリーズの完結編としてみることができるはずだ。

主要キャラたちの特徴をデフォルメして、初見にもわかりやすい描き分けがされているが、昔からの視聴者には、懐かしさで思わず声が出そうになるだろう。

1本の映画にまとめるには、あまりにエピソード要素が多すぎるため、詰め込みすぎなのは仕方がないが、それでも可能な限り練り上げられたシナリオで、とにかくもDestinyテレビシリーズで残された懸念を、うまく解決していた。

 

 

 

 

 

 

 

以下、ネタバレあり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この物語で、コズミック・イラの物語はめでたし、となるはずなのだが、唯一の懸念は、各カップルに子孫ができるのかどうか、だけだ。

すでにテレビシリーズで、この世界でのコーディネーターに、なかなか子どもが生まれないという少子化の危機感が語られていた。コズミック・イラ世界の人々が、少子化をどう克服するか、もちろんそれはまた別の物語である。

 

 

以下は、SEEDテレビシリーズの視聴者として、本作映画で注目した点を列挙する。

 

 

 

 

 

 

 

以下、映画本編のネタバレあり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、筆者はメイリン推しなのだが、十分満足できる展開だったことが嬉しい。

(一人言:映画の構図として、彼女のお尻が妙に目立つ角度での場面が気になった)

 

 

ラクスが最後にキラと合流した際の、ノーマルスーツ?は、「エヴァ」のプラグスーツや、あるいは「ダーリン・イン・ザ・フランキス」のスーツとコクピットを連想させるデザインだった。

最後のキラとラクスの2人コクピットも、敵方の二人乗りも、「エヴァ」のダブル・エントリープラグを踏まえていることがうかがえる。2人の共同作業で戦うスタイルが、「ガンダム」シリーズにも定着していることに感心した。

 

 

ステラのゴーストが最強だった。ルナマリアは、シンと一緒に寝ていて夜な夜なあれに脅されてないのかな?

 

 

アスランの思考遮断術は妄想全開で、シンはそもそも何も考えてない、この対比は、まるで技の剣と無想の剣。

 

 

アスランの「俺の知ってるラクス」発言に皆がザワザワするのは、もしかして元婚約者だというのを忘れているのか?

 

 

シンが撃墜され帰ってこないかもしれない時、2人の部屋でルナマリアが悲しむベッドの手前のデスクに、シンの妹マユのガラケーがまだ置いてあるのが、泣けた。

 

 

化けて出た?ステラのことを考えてふと、思ったのだが、ムウの記憶が戻った時点で、ネオの頃の記憶は保たれていたのだろうか。つまり、ネオだった頃の、ステラの記憶は今のムウにあるのだろうか。シンとステラのいきさつを、ムウはちゃんとわかっているのだろうか。

 

本作についての考察は、引き続き考えて、文芸批評で書き継ぐつもりだ。

 

 

 

各方面で大変お世話になりありがとうございました。 土居豊の2023年、主な仕事など

各方面で大変お世話になり、ありがとうございました。

2023年の主な仕事

 

※トピックス

和泉市の市民大学で、作家・土居豊の文学講座を開催中!

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12833798758.html

 

講座ラインナップ

 

 

(1)

学会誌掲載

オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』Vol.5

(2023/5/15グーグルサイト公開。同年6/2Jstage公開)

映像メディア時評「京アニ作品の死生観」論2

【音楽アニメの死生観~『けいおん!』『響け!ユーフォニアム』の場合】

土居豊 著

https://drive.google.com/file/d/1LiQMddCzsAct4Bk_WlSMwxgXbAAkWEDX/view

 

(2)

新作評論刊行

『村上春樹を歩く・その後 〜読書会と文学聖地巡礼の試み〜』土居豊 著

Kindle版

https://amzn.asia/d/eGw3d5I

 

 

『村上春樹の猿〜獣と嫉妬と謎の死の系譜』(浦澄彬 名義)

Kindle版

https://amzn.asia/d/9btJDxZ

 

 

(3)

マガジン「土居豊の文芸批評」不定期連載中

《作家・土居豊が「文芸批評」として各種ジャンルの作品を批評》

https://note.com/doiyutaka/m/m8acfd4c1e7cc

 

※最近の批評例

土居豊の文芸批評・アニメ編【『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』は21世紀の混迷を先取りしたアニメ】

https://note.com/doiyutaka/n/n635eacda21a8

 

(4)

時事通信配信の書評多数

 

2024年も、ご贔屓いただきますよう、どうぞお願い申し上げます。

 

土居豊のフェイスブックページ

http://www.facebook.com/yutaka.doi

 

Amazon著者ページ

http://www.amazon.co.jp/-/e/B00491B5TQ

 

土居豊のX(旧ツィッター)

https://twitter.com/urazumi

 

 

【作家・土居豊 経歴】

2000年、村上春樹論の連載で関西文学選奨奨励賞受賞、評論『村上春樹を歩く』(浦澄彬名義/彩流社)刊行

 

2005年、音楽小説『トリオ・ソナタ』(図書新聞)で小説家としてもデビュー

 

小説『トリオ・ソナタ』ジュンク堂大阪本店で面ちん。自筆のポップ付き。

 

 

2009年、評論『村上春樹を読むヒント』(KKロングセラーズ)刊行、評論『坂の上の雲を読み解く! これで全部わかる、秋山兄弟と正岡子規』(講談社)刊行

 

NHKドラマ『坂の上の雲』関連本の一つで、平積みに。

 

 

2010年、評論『村上春樹のエロス』(KKロングセラーズ)刊行

 

 

 

紀伊国屋書店新宿本店の店頭の特別売り場に、面ちんとなった。

 

 

2011年、第2回ブクログ大賞にノミネート

 

2012年、評論『ハルキとハルヒ 村上春樹と涼宮ハルヒを解読する』(大学教育出版)刊行

 

 

2013年、評論『沿線文学の聖地巡礼 川端康成から涼宮ハルヒまで』(関西学院大学出版会)刊行

 

 

2014年、『いま、村上春樹を読むこと』(関西学院大学出版会)刊行、毎日新聞夕刊に小説『傘』を掲載

 

 

2015年、評論『司馬遼太郎の文学を読む 『坂の上の雲』と幕末・明治の大阪』(電子書籍版)刊行

 

2016年、評論『ミリオンセラーの生まれ方 「君の名は。」はセカチューかノルウェイか?』(電子書籍版)刊行、小説『供犠 トリオソナタ2』(電子書籍版)刊行、小説『オレンジ Motojiro Kajiiに捧ぐ』を総合マンガ誌「キッチュ」第七号(ワイズ出版創刊号)に掲載

 

漫画家ムライさんにイラスト提供いただく。

 

 

2017年、評論『真田幸村VS徳川家康 なぜ司馬遼太郎は幸村贔屓でアンチ家康だったのか?』(電子書籍版)刊行、評論『村上春樹で味わう世界の名著』(電子書籍版)刊行、共著『西宮文学案内』(河内厚郎監修 関西学院大学出版会)刊行

 

2018年、『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会)刊行、地方新聞に土居豊の連載エッセイ掲載(時事通信社の配信)

 

 

2019年、小説『名探偵ブロッくんとお城のおばけ』を総合マンガ誌「キッチュ」第八号(ワイズ出版2号)に掲載、新聞書評を担当し時事通信社から各地方新聞へ配信、小説『彼女たちのフーガ』(電子書籍版)刊行、小説『ウイ・ガット・サマータイム!』(電子書籍版)刊行

 

 

2020年、エッセイ『関西オーケストラ演奏会事情〜20世紀末から21世紀初頭まで』、『コロナ禍の下での文化芸術』など連載、YouTube講座・作家・土居豊チャンネル【「涼宮ハルヒと、ナンシイ・ブラケット」書籍化企画講座】、【司馬遼太郎「翔ぶが如く」を読んで、現代日本を語る】など配信開始、学会誌掲載オープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』2号:映像メディア時評 人文死生学研究会番外編「涼宮ハルヒ」+京都アニメーションお別れの会参列報告、明治安田生命PR誌「関西を考える会」に執筆

 

2021年、地方新聞に「土居豊の社会時評」を掲載(時事通信社の配信)、時事通信社の配信で書評を多数掲載

 

2022年、学会誌掲載J-STAGE:こころの科学とエピステモロジー4巻 (2022) 1号:映像メディア時評「京アニ作品の死生観」論その1【ミステリーアニメの死生観〜『涼宮ハルヒ』とP.A.WORKSの『Another』、そして『氷菓』】

 

2023年、学会誌掲載オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』最新号Vol.5(2023/5/15グーグルサイト公開。同年6/2Jstage公開)映像メディア時評(特集)「京アニ作品の死生観」論 その2【音楽アニメの死生観~『けいおん!』『響け!ユーフォニアム』の場合】、評論『村上春樹を歩く・その後 〜読書会と文学聖地巡礼の試み〜』刊行、『村上春樹の猿〜獣と嫉妬と謎の死の系譜』(浦澄彬 名義)刊行、マガジン「土居豊の文芸批評」不定期連載中《作家・土居豊が「文芸批評」として各種ジャンルの作品を批評》第1回「村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作」

 

以下、2024年へ続く

 

 

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