<2023.10.25>「あなたが僕を…」公式音源挿入、再掲

<2022.9.29>

 

松山千春、1985年春のコンサート・ツアー「虹のかなた」

 

1985年6月28日、山梨県民文化ホール(当時名称)に参加した。当時高校3年。大学入試に向け完全な勉強態勢に入っていたが、何が何でもの思いでチケットをとり会場に飛び込んだ。

 

セットリストの中で、ほぼレギュラーで、当時痴呆が始まっていたお父様への思いを込め、お父様へ呼びかけるような歌詞内容の未発表曲を弾き語りで歌った。

 

↓ この時のセットリスト

 

この曲には本当に感動した。この公演直後に発売予定のアルファレコード移籍第一弾アルバム『明日のために』に収録されると思って楽しみにしていたが、入っていなかった。

 

これから出すシングルのカップリングでぜひ発表して欲しいと今でも思っている。

 

ちなみに、ご存知のとおりファンの方がこの曲を弾き語りしている映像がYouTube上にあり(「松山千春「父へ」/第4回へたうまライブ2部」で検索可能)、およそのメロディや雰囲気は確認できる。

 

弾き語り、使っていたギターはおそらくヤマハの「天地」だったと思うが記憶が定かではない。黒いボディのギターだった記憶があり、全編ストロークで弾いていた。

松山千春が歌っている途中、マイク(スタンド)が下がってきた。歌い終えた直後、やっぱり松山千春がそのことに触れ「マイクスタンドが下がってきた。俺は寝て歌おうかと思ったぞ」と笑いをとっていた。

 

その歌の歌詞概要は以下。

 

何度も同じこと話すあなたに
少し驚いただけ
いいよ何度でも答えてあげる
僕ここにいるから

いくつもの季節が あなたを変えてゆく
僕が見えますか その手僕に
届くといいのだけれど


子どもたちのため体も心も
少し疲れたのかな
教えてください
何をすれば あなた喜んでくれる

いくつもの季節が あなたを変えてゆく
僕が見えますか
その手僕に届くといいのだけれど


覚えていますか あなたにしかられ
涙流したことを
寒い夜にはあなたの胸で眠り
夢を見てた

覚えていますか あなたに連れられ
みんなで帯広へ行き
最後のしたこと パチンコしたこと
食堂でご飯を食べた

いくつもの季節が あなたを変えてゆく
ねえ、僕が見えますか
震えるその手届くといいのだけれど

※歌詞はあくまで推測/完全にこの内容だったかは不明

 

上の歌詞にもあるとおり、足寄に住む松山千春一家にすれば帯広市は一番近い大都市だった。買い物や食事、行くとすると帯広だった、と松山千春も何度も語っている。

 

それとても、きっと当時の家計状況からしたらそんなに頻繁ではなかっただろう。だからこそ、行った記憶はより鮮明に刻まれているのではないだろうか。

 

この歌詞がいつ頃のことを歌っているのかは不明だが、少なくとも松山千春が少年の頃だろう。たとえばそれを10歳頃とすると、昭和40年(1965年)頃。

 

帯広市商店街振興組合連合会ホームページには帯広駅の発展具合が写真とともに経年で掲載されている。

 

昭和42年9月の帯広民衆駅(当時名称)は以下。昭和41年秋に改築されこの駅舎になった。

 

 

上で私が仮定した昭和40年どんぴしゃな写真はないが、例えば松山千春一家が訪れた当時の帯広市にあった駅舎というのは上の写真の改築前の駅舎か、上の駅舎それなのかもしれない。

 

アングルは違うが昭和45年当時の帯広駅前は以下。昭和45年は松山千春14~15歳。もしかするとこういう駅前の帯広にも行ったのかも知れない。

 

 

ちなみに松山千春が生まれた昭和30年前後の帯広駅駅舎は以下。

 

 

ともあれ、この未発表曲を思い出すたび、松山千春が私たちに何度も語ってくれた松山千春のご両親やご家族のことを思い出す。

 

またそれらのことを思い出すたびに、自分の両親や家族、ふるさと山梨での日々を思い出す。思い出す度、感謝の気持ちが込み上げて来る。

 

生命は永遠に続き、かつ常にそこに存在しているものであり、現実世界で亡くなった人にも、生きている人の願いは届くと信じている。

 

現実として、むしろ亡くなってからこそ私の父と母がいつも一緒に私の中に生きている実感が強い。

 

 

松山千春の今の思いも亡きご両親に、お姉様に弟さんに届いていると思う。逝いてなお、むしろ逝いたからこそ誰もが一緒に生き続けている。

 

松山千春―「勇気ありがとう」

(松山千春が自身の父を歌ったもの)

松山千春―「あなたが僕を捜すとき」

(松山千春が自身の父を歌ったもの)