あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!
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自分のこと、好きですか?

私は自分大好き人間です。

といっても、10代の頃は自分のことが嫌いで仕方なかった。

名前といい、顔といい、体格といい、自分好みではなく、いつも他人を羨んでいた。

結局は、自分の考え方次第だから、まわりが褒めたところで自尊心は変わらず、いつも卑屈だった。

でも、いつの間にか、気付いたら自分のことが好きになっていた。

きっかけというものこそ見当たらないが、一つ確かなことは見識が広くなっていたことだ。

かつての私は、周りが外見ばかり気にしていることを知っており、またそういう人ばっかりしかいないのが日本だと決めてかかっていた。

まあ、10代の殆どの子は外見の評価が重視している。(その証拠に、アイドル系の追っかけやファンもろもろは、比率的に若い子が多い)

また、少し大人びている10代や、とっかえひっかえを繰り返す方々は、自分が良いと思う性格ばかりを目で追い回し、臭い部分にはフタをする「あばたもえくぼ」である節が見受けられる。

これらは、どれも視野が狭いことや自分の欲求に基づくものが多いのではないだろうか。

私はこれが正しくて、あれが間違いだなどどいうつもりはない。

ただ、気付く人は気付くし、気付かない人は気付かないだけのことだと思っている。

つまり、私は気付いたのである。

自分が思っている面や周りが指摘している面だけが、自分を構成する特徴ではない。

それどころか、全ては反転する。

つまり、長所としての「明るさ」は、短所の「馬鹿さ」ともいえたり、「神経質」は「まじめ」や「細かいところに気が付く」などともいえたりするのだ。

そして、「馬鹿さ」から自分がダメなやつだ、とか、「頭がいい」からまわりを見下していい、などとはならないし、そもそも論理的ではない。

「馬鹿さ」は、それを克服しようとすれば努力の天才になれる。

「容姿」に自信がなくても、他のところでいいところが必ずある。

私から言わせれば、「わがまま」も立派な長所なのである。

だから、学歴がなく、容姿もパッとせず、インドアで、理屈屋で、空気を読まずに何でもストレートに物申す私は、知識欲が旺盛で、生き方を重視し、多くの本を読み漁り、理屈を整理し、あいも変わらず空気を読まない変人でいる自分が好きでしょうがない!!

自分のことが、どうしても好きになれない人は、他人の好きなところが自分にないか、あるいは他人の嫌いなところが自分にないか探ることをお勧めします。

2本目のパイプ完成

あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!
あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!

今度は、こだわりにこだわりぬいてつくった、渾身の1品に仕上がったものと思っている。

悠々と自慢できるパイプと自負している。

勿論、売らないし、そんなつもりもない。

そもそも、買い手がいるかどうかの問題もあるが、私一人が勝手に言う分には問題あるまい!!

ところで、このパイプ作りについてふと感じたことがあった。

それは、パイプ作りは私にとって罪の昇華なのではないかということである。

昇華というとフロイドを連想するが、彼はその定義をリビドー欲動(性欲動)を直接的な性行動で満たすのではなく、スポーツや芸術、仕事などその他の活動で間接的に満たすこととしている。

しかし、ここでは性欲動に限ったものではない。

なにせ、罪って言っているくらいなので、もっと広く、また主観によって限定されている。

ここでは罪が何か(what)なのではなく、作ったパイプが罪の代替物なのである。

もっと言えば、パイプを作ることで罪を回避し、パイプへのこだわりは罪の質なのである。

つまり、パイプは罪そのものであり、そのパイプへの思い入れの強さは罪への思い入れでもある。

しかし、一転してパイプ作りは、罪と向き合うことの時間的な延長、つまり”逃げ”なのではないだろうか。

昇華をもってしても、罪は洗われないし消えない。

ただ、その罪と向き合い、受け入れることがユングのいう「個性化過程」として必要な”心の作業”なのであろう。

だから私はこう思う。

人は、自分の中にあるさまざまな罪と向き合い、また戒めとすることが必要なのである、と。

皆さんには、そういったものはあるだろうか。

手作りパイプ2本目

一本目では、全体のバランスや小傷など残したままのパイプだったが、

今回は、この2点を可能な限り整えて仕上げた。

あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!
あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!
あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!

うっすらとヤスリの後が残っている部分もあるが、殆ど目立たず、また木目に合わせたシェイプに仕上げることができた。

個人的には、そこそこ満足のいくものに仕上がったのでかなり達成感がある。



話は飛ぶが、それ自体は「幸福」ではない。

それができることが、「幸福」なのである。

これらの”感じ”が、「幸福」を追求するうえで重要なんだと思っている。

故に、私はどんな「不幸」のなかでも「幸福」でいられるのである。

1本目のパイプ完成

あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!
あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!

もう、1ヶ月近く前にできていましたが、こんな具合に仕上がった。

個人的には、不良品の域です。。。

完成を焦って、細かい傷を残し、左右非対称な状態で仕上げてしまった。

遠目で見る分には、なかなか良い仕上がりになっているので使ってますね。


ところで、「自分でつくったものを売る」としたらいくらにするかを考えたことはありますか?

このパイプにもし値をつけるとしたら、私は3,000円ですね。

何故かって?

そりゃ勿論、原価くらいはほしいからです。

つまり、原価販売ですね。

駄作だし、無名だし、傷あるし。

でも使えるから、材料費くらいはほしいといったところですな。

やっぱり、納得のいくものならいくらでもだすけれど、納得のいかないものは原価に近づくのはあたりまえですね。

これって、物だけじゃなくて行動や行為も同じではないでしょうか?

みなさんは、日ごろどのようなことをしてますか?

そこに”こころ”はありますか?

自分の価値に気付いていますか?

良い面と悪い面の二面性を見出せていますか?

探していると、きっと楽しいと思いますよ。

自作パイプ ~1日目~

パイプって意外と高いんです。

勿論、ピンきりですが。

高いパイプは、デザインも良く、木目もきれいで、芸術性の高いものなのです。

しかし、そんなパイプは安くても十万~数十万もするもんで、手が届かない。

では、いかにして良いパイプを安く手に入れるのかとなると、自分でつくるのが安い!!

てな訳で、昨日からつくり始めたパイプがコレです。

$あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!

荒削りの段階で細かい割れ目がでてきてしまい、それが消えるまで削っていたので当初のデザインから少々のズレが生じたものの、かえってよいシェイプに仕上がりました。

んで、今日紙やすりでゴシゴシやった結果がコレです。

$あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!!

いくら粗目の紙やすりでも、0.2・3ミリの小傷をフラットにするのはなかなか骨の折れる作業なもので、更なるヤスリがけは、来週にしようと考えています。

あ~、勉強やらなきゃな~。

鉛の男

男の子は立っていた

流れのある川の中、冷たくも暖かくも変わる川の中、膝上程度まで水量のある川の中

いつからだろう

いや、気付いたときには川の中に立たされていた

男の子は思う

「流されてはならない」

だから、前かがみに身体を傾ける

川に寄りかかるように

それはそれで男の子にとって楽だった

流れが急な時は、より前に傾き、

流れが緩やかな時は、それなりに傾き、

ある時には、流れてみたりした

しばらく流れにのる日々が続いた

とても楽だったからだ

でも、ある時男の子は歩き始めた

またもとの位置に戻る為に

流れに逆らって歩いた

歩いているうちに気付いた

いつの間にか、水量が足の付け根まで増えていることに

それでも逆らって進み続ける

もとの位置に戻る為に

歩いているうちに、また気付いた

雨が降ることに

それでも逆らって進み続ける

もとの位置に戻る為に

男の子はもとの位置についた

ついてしばらくしたとき、気付いた

周りに人がいることに

しかし、男の子にとってそれは、ただ「いるだけ」だった

そう思ったとき、男の子は青年になっていた

青年は考えた

「もっと進んでみたら何があるだろう」

気になって仕方がなかった

だから、歩き始めた

川の流れに逆らって歩き始めた

ところが流れがとても急で、なかなか進まなかった

時には、歩かない日もあった

流される日もあった

それでも歩いた

歩いていて、青年は気付いた

いつの間にか、水量が腰上あたりまで増えていることに

それでも歩き続ける

未知なるものをもとめて

歩いていて、青年は気付いた

川の中に、石があることに

そこに立つと腰上まである水は、膝下までになる

それは、休むときにとても楽だった

だから、休むときはその石のうえに立った

休んでいたら気付いた

周りに人が居ないことに

しかし、青年にとってそれはあまり関係のないことだった

男の子のときと同じように

しかし、青年は周りの人がうらやましくもあった

ああなれたら、と思う日もあった

でも、なぜうらやましく思ったのか分からなかったから

だから、青年はまた歩き始めた

気付くと青年は男になっていた

男は知った

自分はがむしゃらであることに

「流れ」に逆らっていることに

それでも、歩き続ける

流れに逆らって

気になったものを、確信に変えるために

男は歩きながら考えた

「何故、周りの人はいなくなったのか」

答えはすぐ見つかった

男は、「前」しかみていなかったのだ

流れにのっているときは、流れの方向が「前」で、

流れに逆らっているときは、逆らっている方向が「前」

だから、流れに逆らう男は、右と左、ついでに後ろも見た

すると、人がたくさんいた

いや、確認した

いることは、前から知っていた

見ようとしなかっただけだ

何故なら、男は悔かったからだ

そう、たくさんの人は川の中にいない

地上にいた

地上の人は楽に歩き、休むときは横になる

寒いときは衣類を着用して「火よ灯れ」と叫びあたたまる

暑いときは衣類を脱いで「風よ吹け」と叫び涼む

そんな人になれないから、悔しかった

何故なら、男は生まれたときから川の中にいたからだ

だから、男にとって周りの人は「いる」だけであった

しかし、それも今日限り

男は右左にある陸地に上がろうとした

地上に何があるか知りたくて上陸を試みた

しかし、それは何度も失敗した

その度、諦めようと思った

ところが、あるときようやく地上に立つことができた

そこには、川にはないものが多くあった

とても、嬉しくて仕方がなかった

すると、男は男の子に戻った

男の子は、地上のあちらこちらを走り回った

とても嬉しかったからだ

そこで、男の子は知った

花を

風を

火を

そして、人を

気付くと男の子は、また青年になっていた

青年は調べた

花の特性を

火の特性を

風の特性を

そして人の特性を

気付くと青年は、また男になっていた

男は考えた

花の存在を

風の存在を

火の存在を

そして、人の存在を

男はそれを周りの人に伝えた

しかしそれは、受け入れられても、到底理解されるものではなかった

だから、男は人に背を向けた

その瞬間、地面は消えて川の中に落とされた

何故なら、男は地面にも背を向けたからだ

同時に後悔した

何故、地面を知ろうとしなかったのか

何故、足元を調べなかったのか

何故、自分が立っているのか考えなかったか

男は、その日から鉛になった

川の深く深くに沈んだ

鉛は、流された

川に

鉛は蹴られた

人に

鉛は捨てられた

地面に

鉛は、石にぶつかった

いつか、休んだ石だった

その石は、確かに存在していた

同時にぶつかった

常に川の中に存在している、川の底に

その時、鉛は鉛の男になった

鉛の男は、歩いた

いつか目指した、川の上流に向かって

川の流れに逆らって

鉛の男は地上にはあがれないから

流れに逆らって歩く

男は「鉛」の男だから、地上にはあがれない

鉛の男は、自分が鉛であらねばならないと思うからだ

地面に捨てられるのが、逃げられるのが怖いから

だから、川の中で生きようと決めたのだ

しかし、川にはいろいろな障害があった

流れ

水量

温度

不安定な足場

だから、鉛になった

流されないよう

水の抵抗に負けないよう

川の温度に順応できるよう

しっかりした川底まで足を踏みおろすために

そして、自分の意思を固める為に

川で生きていくことを

同時に鉛の男は知っている

川には水があることを

流れていることを

温度が変化することを

水量の変化は抵抗の変化であることを

立つことができることを

また、多くの人は知らない

川には水があることを

流れていることを

温度が変化することを

水量の変化は抵抗の変化であることを

立つことができることを

更に多くの人は理解しない

「自分勝手」であるということを

「考えていない」ということを

「知ろうとしない」ということを

「見えていない」ということを

そして、何より自分を「大切」にしていないということを

その点、鉛の男は理解していた

自分の「考え」が足りないことを

自分が多くを「知らない」ことを

自分が「見ようとしない」ことを

そんな自分が「いる」ことを

そして、鉛の男は歩く

考えるために

知るために

見るために

そして、新たな地上を「川の中」で探すために

今の日本って・・・

何となく、冷たく感じる。


建前で相手に尽くして、個人ばかり主張している気がする。

一人一人が特別だという意識が過剰だったりして、「何で自分ばっかり」とか、「周りの他人はどうせ~だ」なんて思いすぎだと思う。

あたかも、自分が正しいかのごとく人を操ったり、上手くいかないことを他のせいにしたり。


全く団結しない。

しても、表面的。

例えば、ワールドカップ開催中とか下心があるときとか。


そんな中でも、暖かい人もある。

そんな人を見ていると、嬉しく感じる。

電車で、子どもを抱えた女性に席を譲る光景をみると、それだけで幸せになれる。

皆も、暖かいものを感じるであろう。

全員が全員、譲りあっていたらそれはそれで気持ちが悪いが、自分を閉じ込めて、虚勢を張っても結局自分が疲れるだけ。

自分のキャラ作りをするのは自由だが、そのキャラは自分自身ではない。

そのキャラを維持するために社会を脅かそうとしても、本質的には誰も得をすることはないだろう。

考えれば考えるほど、分からなくなる日本。


私は、日本を良くしたい。

その気持ちすら、今じゃ気持ち悪く思われがち。

なんか、色々と残念な国になっちゃったなぁ。

お金の正体

漠然と「お金は欲しいか」と聞かれたら大半は欲しいと思うのではないだろうか?

私だって欲しい。

特に、「大金が手に入ったら~」話で代表的なのは、宝くじが多いであろう。


金額は3億円で・・・

当たったら・・・


なんて流れで。

皆さんはどうなのだろう?

結構多いのが、「家を買う」や「貯金」である。

大体の人は、家に、貯金に、競馬に・・・・

どんどん続けていく。

ただ、気付くと殆どが自分の為に使用している。

家庭があれば、家族内の共有止まりである。

まあ、顔も知らない他人にあげるつもりもないだろうし、そうなるだろう。

そこで、疑問がある。

お金で、欲しいもの、それも実際の生活や社会に不必要なものを買い込むことが、人の幸せなのだろうか?

事実、三大欲求もお金がなければ満たされないわけで、お金が絶対的な基盤になりつつあることも確かであろう。

だからといって、お金は人に幸せを運ぶ天使達なのだと本気で思っている人はまず少ないだろう。

しかし、少なからず買い物をして嬉しかったり、満足したりするのも事実。

だが、その満足は長く続かない。

皆さんもそうであろう。

例えば、お気に入りの車を買った。

買ってしばらくは、ウキウキしながら洗車して、運転して、とても大事に扱う。

しかし、車検のとき、事故したとき、今乗っているモデルのニュータイプが出たときなど、当時の愛着はどこへやら、といった感じが多いだろう。

そんな中、いつまでも愛着をもって乗っている人も少なからずいる。

では、その違いはなんだろう??

人の倫理⑬

私の見解(要は自問自答の結果)としては、これも倫理に遠く及ばない。

マナーとはあくまで「相手のための配慮」であり、自分のとある品格や尊厳などの維持のためではない。


ならば、大衆の倫理って何なのか。

恐らく、そんなものはないのだろう。

しかし、この”大衆”がある具体的なグループを指すとき、そのグループには倫理が存在するのであろう。

例えば、営業職の人は傾聴することや自社商品の強みと弱みを公平に説明することが、営業における倫理にあたるだろう。

これが、(実務に携わったことがないので想像ですが)M&Aのような交渉になれば如何に弱みをカバーできるか、強みを伝えられるかが、相手のメリットに適っているかなどが肝になり、穏やかに傾聴している場合ではないだろう。

だから、不特定のグループに共通する倫理は存在しないと考えるのである。


しかし、私はこう思う。

「ある程度のマナーは日本人としての倫理観である」と。

この「ある程度」のマナーが出来ない人を見るたび残念に思う。

また、マナーができ過ぎている人、いわゆるこれ見よがしのマナーを見せ付けてくる人を見ても残念に思う。

両者とも、相手への配慮ではなく利己的な配慮であるからだ。

だから、最低限のマナーが日本の古き良き伝統として、普遍的な行動規範として受け継がれていくことをただただ願うばかりである。

お金の正体①

私の友達にしろ、近所の子どもにしろお金をとても欲しがる。

恐らく、多くの人はお金が沢山あれば越した事は無いと考えるものだろう。

そして、「宝くじが当たったら」なんて盲想をして満足したり。

そのわりには、お金の正体をよく分かっていない。

私?

私自身も分かっていないんだと思いますが。

ただ、少なからずお金についての考察を重ねたことがあるというだけです。

その考察の結果・・・

お金とは、経済発展の道具である。

また、精神充足の道具である。

更に、金額の多寡に比例して不安や恐怖を増す道具である。

どれも想像できることであるが、一般にはこのような考えも識域下で存在している。

それは、お金が権力の道具であるということである。

まあ、順をおって述べていこうと思う。
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