あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!! -3ページ目

人の倫理⑤

前回からかなり時間がたってしまったが、仕切り直していきたいと思う。


さて、前回かなりはっちゃけた事をいった。

すなわち、「そんなものは消えろ」という言葉である。

これは、周りに流される倫理は倫理としての価値を持たないということである。

そのため、自分がなく、何処と無く不安定なのである。

結果のひとつとして、精神病や犯罪者気質といた心理的問題を起こす。

言い換えれば、病的な心理的問題をもつ人は、自分の倫理が存在しないのだろうということ。

そして、そういった人が増えるほど、国も病的な状態へと近づくのだろう。


私はこういった国の状態が「悪い」とも「善い」とも思わない。

しかし、少なくともそこに住む人たち、つまり私たち一人一人が幸せになりたいと強く思うのなら、自分の確立、倫理が必要となるだろう。

他人任せ、寄生的な状態では、本当の自分の幸せなど望めないのだから。


しかしここで疑問が浮上してくる。

それは、個人倫理の発展である。

例えば、ある人(太郎君)が年上は敬うべきだとの立場から、年上の意志を先行させるべきとの倫理をもっているとしよう。

年上を敬い、その意志を尊重すること自体は、一般的に「善」であると言えるだろう。

太郎君もその倫理に従い、行動してきた。

ところが、人は歳をとる。

若かった太郎君も、やがて「年上」の立場となる。

この時、太郎君の倫理では自分が敬われ、意志を先行できる立場にいることになる。

この倫理を、そのまま適用したならば、太郎君と同じ倫理をもつ年下とは良好な関係を築けるかもしてない。

しかし、反対の倫理をもつ年下とはどのような関係になるだろうか。

一面的な見方ではあるが、何となく想像はできるだろう。

多くの場合、直接的あるいは間接的な衝突が予想される。

人の倫理④

子どものうちは、周りの大人たちからその場所での”ルール”や”マナー”を教わるものだろう。

しかし大人になれば、自分で決めて行動するようになる。


それが、環境的なものである。

要は、自分で学習・体験したことを自分の中に取り入れ、自分で”自分のルール”をつくることである。

それこそ倫理なのだと考える。

大概の人はそれがあるはずなのだが、実際のところそういい切れるほど倫理的ではない。

優柔不断、自分がない、流されるといった特質がある人は本当に多い。

それは、社会で言う”マナー”のない人がその人だけの倫理を持ち、それに則って行動した結果、マナーがないのとは違う。(勿論、それだけの一貫性があればの話しではあるが)

むしろ、前者の方がタチが悪い。

何故なら、人のせいにできるからだ。

何か、不都合が生じると「だってみんなやってるじゃん」という。
そして、「私は一所懸命やっているのに、あなたのせいで全部壊れた」なんて言う。

私はここで、あえて「子ども」になり、こう言わせてもらう。

「そんなものは消えろ!!」

この言葉の本質的な意味が分かる人は、少ないように思える。

そして、ごく稀に私自身もこの言葉の対象者になるのだが・・・orz

人の倫理③

では、人の倫理はどこからやってくるのか・・・

考えるに、3つが挙げられる。

一つは遺伝的なもの。

一つは教えられたもの。

一つは環境的なもの。


遺伝的なものを語るには、私では能力不足であることを痛感している。

しかし、この遺伝的なもの一言で例えるなら「血筋」というのが分かりやすいかと思う。


次の教えられたものは、多くは養育者から直接的に伝えられたものである。

この倫理は、良かれ悪かれ伝えられることで、程度の差はあっても社会に通ずるようなもの(つまりマナー)であり、個別的なものでもある。

しかしここのところ、このマナー意識の希薄化がよくみてとれる。

私はバイト中に「買い物後の会釈」(思いやりや気配りといった和の精神)と「トイレを借りる人の挨拶(借りる旨を店員に伝えるor伝えない)」(マナー)を各1000人の統計をとり、その比率も簡単に算出した。

この希薄化は、わざと日本的あるいはマナー的行動を行なわない人の他に、その精神やマナーを知らない人もいる。

この知らない人は、本来は養育者から教えてもらうものでもあるはずなのに聞かされていない、つまり「そんなものは不要だ」といった養育者の価値観から言わないのではないかといった指摘もある。

そして、それを周りの社会人が目の当たりにしながら、指摘しないという「和の精神」には心底残念に思う。

いや、道徳ではなく倫理だからこそ指摘しないともいえるだろう。

そして、それだけ倫理同士の衝突が恐れられていることもそれとなく分かるだろう。

人の倫理②

じゃ、そもそも倫理って何ぞやということになる。

倫理と似た言葉に道徳があるが、道徳は普遍的理性というか普遍的秩序というか。

要は、国規模のマナーや規則といったものである。

一方倫理とは、一人・一集団の個別のマナーや個別的秩序で、それぞれの人や集団において異なるものがある。

そしてここで述べる倫理も、同じ意味で使っている。

つまり、一人の人間であればそれぞれの思うマナーや守らなければならないと思っていること。

集団であれば、職業的な仮面(ペルソナ)である。

そのため、そこかしこに「異なる倫理」が動きまわっていることになる。

だから、一度「異なる倫理」同士が真正面からぶつかれば、そこが戦場になることさえある。

それだけの力が一つ一つの倫理には備わっている。


ここでは、その一人の人間における倫理について私の考えと客観的な考えを述べていきたい。

人の倫理①

人はそれぞれ、好きに活動している。

かのようにみえる。

確かに、本当に自分勝手に生きている人も中にはいるでしょう。

でも、大半の人は何かしらの”縛り”、つまり自分ルールと言ったところでしょうか、そんなのがあるものだと思っている。

この、”縛り”や自分ルールのことを、私はその人の倫理・倫理観と言い換えたい。

この倫理は、その人が意識的に構えてるものと無意識的なものがある。

意識的なものはその人が生まれてから今までのなかで、「感じた」(生きるとは⑧参照)ことの一つの答えで出来ている。

だから個人差があり、それぞれで細かく違っているのだ。

無意識的なものは、ユングの理論をそのまま当てはめることができる。つまり、人の普遍的な構えとして同様なものを偶有しているということ。

これらがあわさって、その人の倫理となっていると考えている。

そして、人はこの倫理に基づいて(いると思っている人もいるが)活動している。


以下、人の倫理、大衆の倫理、その行動を批判的考察を述べてみようと思う。

愛とは・・・④

愛とは、疑問である。


相手の自由を認めてますか?


相手を束縛してませんか?


相手を信じてますか?


相手を頼りにしてますか?


相手は頼りにしてくれてますか?


相手に弱みを見せられますか?


相手の弱みを受け入れてますか?


相手に甘えられてますか?


相手の甘えを受け入れていますか?


相手の長所を見てますか?


相手の短所を見てますか?


相手と向き合ってますか?


相手は向いてますか?


相手に寄生してませんか?


相手は寄生していませんか?


相手と共生関係になってませんか?


相手との関係に”愛”はありますか?

愛とは・・・③

愛とは、創像することである。


この「創像」は、、新たな象徴(シンボル)を創り上げるということ。

そしてそれは、本来「自由の許容」と「信頼」をもつ関係にのみできるもの。

男女関係で分かりやすいのは、子どもをもつということが「創像」である。

これは生物学的に男と女であれば、理論上は誰とでも可能だろう。

しかし、多くの男女は人を選ぶ。

また、一つの”愛”の形として子どもをもつものだと思う。

だから、その子どもは自他共に認める幸福感のなか育っていく。



この「創像」には、男女間特有の考えの融合し新しい考えを誕生させることも含まれる。

例えば、父権性(活動力や発展性など)と母権性(抱擁力や安定性など)の組合わさった家訓なんかがそうだと思う。(自分の思想なのにこれ以外に具体例を挙げられない)

だから、生物学的な性に左右されることない「創像」も存在するのだと考えている。

つまり、同じカテゴリー上であれば、一方が男でもう一方が女なら男女の恋仲があって当然なのではないだろうか。


そして、これは男女関係ごとそれぞれで異なるものが「創像」される。

だから、子どもも考えも唯一無二のものなのである。


今更ながら、この「創像」は親友ではたどり着けない。

男と男の親友なら父権的になり、女と女の親友なら母権的なものになると思う。

そして、「自由の許容」と「信頼」をもつ男と女の親友が「創像」したのなら、それは親友ではなく恋仲である。

多分。(笑)


「自由の許容」「信頼」「創像」の三つを持つとき、至上の愛となる。


皆さんの愛とは”何”ですか

愛とは・・・②

愛とは信頼すること。


相手の「自由」な行動を信じるということ。

それでいて、相手を「信頼」の名の下に束縛しないということ。

何故なら、一言「信頼している」という意味の込めた言葉を言うと、時にそれが重石となり束縛になり暗示になる。

だから、”無言の信頼”つまり、何も言わずに分かり合えることこそ本当の信頼関係といえるだろう。

その時、相手の行動に対して責任を問わない。

信頼しているのは自分の勝手であり、自分の問題だから。

だから、「信じていたのに」と言うのは筋違い。

よって、信頼とは相手とともに自分の判断も対象になっている。


また信頼とは相手に甘えること。

でも、常時甘えるのではない。これは、共依存、共生に繋がる危険な関係。

そして、相手が自分に甘えられる姿勢をもつ。

自分ばかり甘えるのは愛ではない。

また、相手に甘えられるだけが愛ではない。

この甘えを、周囲に見せ付けるのではなく、特定の相手にのみ見せる。

周囲には甘えている様を見せつけるのではなく、その逆の様を見せる。

しかし、(不自然でない)仲良しである様は見せ続けて欲しい。

この様子は、見るものを平和な気持ち、安定した気持ちにさせやすい。

だから仲良しであることと、甘えていることは違う。

そして、仲良しである様は、いついかなる時でも必要としている。


これらのことが自然にできたとき、それだけ自分が成長したとき初めて、自分を相手を信頼しているといえる。


「自由の許容」と「信頼」を満たす関係は、親友関係である。そして、男女の恋仲である。

ニーチェは「友情と男女の愛はよく似ている」と言った。

これが、その理由だと私は考えている。(このニーチェの言葉は後から知った)


皆さんの親友関係、恋仲には信頼がありますか?どんな信頼ですか?

生きるとは・・・⑮

生きるとは、認め認められるということ。


誰が、何に?

自分が自分や周りの人にである。

何故?

(あえて多くの人とするが、)多くの人は自分の軌跡、つまり生き方や存在を認められたいと考えているから。

本当は認められたいものであろう。

そして、認められるから生きているのである。


例えば、

天才的な戦略”孫子”を世に残した孫武、経営の神と言われる”松下幸之助”は生きながらにして、社会的に認められた。

ニーチェは死して後、時を経て認められた。


生きているうちに認められれば、それを自分の体験として生きがいにもなるだろう。

しかし、死して認められたとしても、その存在は生きた軌跡として今も「生き」続けている。


何が言いたいか?

つまり、一生懸命生きるということ。

認められるために生きるのではない。

人として生きる結果として、認められるのだ。自分を認められるのだ。

そして、”逃げない”生き方をした者はより大きな功績を残し、認められるのだと信じている。


生きることが楽だと言う「人」より、大変だと言う「人」のほうがはるかに多いだろう。

その大変なこと(と人間だけは「考え」る)ができる自分を認めよう。

人を認めよう。

そして、「感じ」たものを何一つ切り捨てないよう、「発展」させられるよう生きることを少しずつ心がけよう。

そうすれば、きっと自分の誕生を自分から「喜ばれ」ていることを「感じ」られるだろう。


そんな気がする。

雀を踏んだ

家の玄関を出てすぐのこと、左足に嫌な感触が感じられた。

最初、ゴキブリあたりを踏んだものと思っていたが・・・

恐る恐る振り返ると、そこには雀がもだえていた。


全く気付かなかった!!

苦しそうにジタバタしていたが、すぐに動かなくなってしまった。


故意でないにしろ、本当に申し訳ないことをしてしまった。


私は、近くにある植え込みみそっと置き、こう告げた。


「お前の分まで生きるから」

と。



私はまだ、「破壊」することしかできない陳腐な人間なのだと思い知った。