あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!! -4ページ目

愛とは・・・①

愛とは、自由を許し受け入れるということ。


人には欲求がある。

死に関わらない限り、それを他人に強制してはいけない。

それは、たとえ家族でも。

付き合っているのだから性行為は勿論のこと、異性との2ショット、合コンをするなと言う。もっと支配的になると、いちいち連絡してくれなどと言う。

それは、愛ではない。

なぜなら、人も動物だから。

また、理性があるから。


本当に愛があるなら、それらを許せる。

本当の愛があるなら、支配や束縛、管理をしようと思わないしする必要がない。

だって、愛しているのだから。


私は、愛とは誰もが美しいといえるようなものだと思っている。

無償の愛、無条件の愛という言葉があるが、まず相手の全てを受け入れることで達することのできる心である。

”あばたもえくぼ”という言葉があるが、あばたはあばたであってえくぼにはならないのである。

それを美化してはいけない。

見てないふりをしてはいけない。

そのままの”相手”を見なければいけない。

何故なら、それら全てを含めてその人なのだから。

過去の出来事、今の状態があるから”その人”なのである。

それを許容して初めて、愛が出発する。


皆さんはどうだろうか?

生きるとは・・・⑭

生きるとは、死ぬこと。


人はどこかで、死をもって終わるのだと考えるだろう。

私も死をもって終わるのだと思う。

しかし、「死」も生きることの一つなのだとも思う。


多くの人は今だけを生きるのでなく、何十年後、いや老後のことまで考えていると思う。

なら、折角なので死ぬ間際まで考えて欲しい。

だって、そこまでいってやり残し、受け入れ残しがあったら後悔するから。

だって、「死」によって自分の生を完成させるのだから。

だから、不貞腐れながら、後悔しながら、がっかりしながら死を迎えるのではなく、笑って死ねたら今生きている自分や後に残される人たちも感慨にひたれるのではないだろうか。


また、死とは自分の死であり、周りの人たちのスタートでもある。

自分という生命は一つであり、それを見る周りも一つである。

その一つの生命が終わることで、周りの状況は細かく変化する。

ただし、ここでは悲しいとかそう言うのは抜きにしている。

ただ「死」を迎える人が変われば、この現象をどう受け入れ方やその後をどう過ごすかが変わるものでもある。

生命の終わりは、多くの場合は悲しい出来事である。

しかしそれは、主観的な、自分の整理の問題。

「死」を迎えた人がどんな人生だったか、周りの人がその人を見てどんな人生に見えるかが「死」における本当の問題ではないだろうか。

誕生して「喜」ばれ、生きることで「喜」ばれたのだから、「死」も一つの「喜び」として迎えることができたら、その人も、周りの人もきっと幸せな人生なのだと思う。


皆さんが、幸福な「死」を迎えられることをお祈りします。

生きるとは・・・⑬

生きるとは、川である。


世界には様々な流れがある。

宗教的な流れ、世俗的な流れ、政治的な流れ、経済的な流れ・・・

つまり、イデオロギーと時間である。

少なからず多からず、大きな流れの中に身をおいている。

私はその川の底にあるもののいずれかが私たちなのだと思う。

あるものは流れに逆らわず、コロコロと下流まで流れる石(意志)であり、多くを「感じ」ることでまさに角のない石(意志)となる。

あるものは流れの中にありながら動かない大きな石(意志)や生物であり、その地点の流れを「感じ」「考え」その立場の深きを知るものとなる。

またあるものは流れに逆らう生物であり、「冒険」しながら流れを「感じ」つつ「考え」ることで、川ある性質を理解するものとなる。

さらには、その川から飛び出す生物もいる。川に身をおきながらも超直感的な感覚で、川にいる一つひとつの石や生物を理解するものとなる。


どういう生き方が良いというのはない。

優劣はない。

経験が異なるだけで、全く同じ形、性質のものは存在しない。

それでも石は石であり、(生物のうち)魚は魚なのである。


皆さんは、どんな生き方でしたか?

台場まで自転車で・・・

23時頃のこと・・・

弟が「海見に行かない?一人じゃつまらないから一緒に行かない?」といってきた。

少し考えた末、一緒に行くことにした。


今までも何度か一緒にどこかに行くこともあったのだけれども、ここのところ何かにつまづいているようで気にかかっていたので、心境を探るに丁度良い機会だった。

結果分かったことは、”元気”だということ。

ただ、この”元気”を使う場が見つかっていないようで、もがいているように見えた。


そもそも、学校生活での人間関係が問題なのは分かっていたが、本質が分からない。

運動神経の良い弟に過度な期待をしていたことも少なからず絡んでいるんだと思う。


なんにしても、彼は発達課題に挑んでいる。


そっと支えてあげたいと思う今日この頃。


弟よ、共に戦おう。

生きるとは・・・⑫

生きるとは、それ自体は無意味ということ。


早とちりはしないで下さい。

これは、生の否定ではありません。

むしろ、肯定なのです。


よく、「なんで生きているんだろう」「生きるってなんだろう」なんて台詞聞きますよね。

これは、(普遍的なというより)独自の存在意義を問いただす質問であって、生が何たるかという疑問ではないんです。

そして、多くの人が欲しがる答えは存在意義なんんだと思います。

私が存在論を語るにはやや知識不足ではありますが、少なくともこの存在意義はそれぞれの遺伝子と生まれ育った環境にあるのだと考えてます。

何故なら、独自の存在意義はその人の内にある、固有の情報と固有の生育環境にしか見出せないからです。

これらは「表現」することで顕在化し、「発展」へ繋がる。


この時点で、生きるということはもはや前提となっている。

つまり、生きているから存在意義を問うわけです。

そして、この存在意義の問は「感じ」「考え」た結果の疑問であって、「感じ」「考える」ことのない世界では必要ない疑問です。


複雑な疑問は”人”にしか出来ません。

その”人”は、他の人がいるから意義がある。

自分が「感じ」ていなくても、他の人は自分を「感じ」ている。

そこに意義がある。

だから、自分以外(物質といわれるもの)に何もない世界では、まさに”人”としての”生”は無意味なのです。

そして、そんな世界はこの世に存在しません。

”生きる”を「考える」のは、人間以外の存在(いわば神)がすること。

生きること自体は無意味でも、その存在は大変な意味がある。

そんな気がします。


皆さんは”生”と”存在意義”をどう捉えていますか?

意識の高い人、低い人②

だから、お客さんといえどコンビニでトイレの使用寺には、マナーが問われるのです。

よく考えてください。

自分の家のトイレを、親戚でもない人が無断で使用されたらどうですか?

自分が友人の家に行って、無断でトイレって借りますかね?

中には、「別になんとも思わないから友人の家のトイレだろうと勝手に借りますよ」なんて人もいるんでしょう。

もしそんな方がいるなら、話しを聴きたいです。(笑)

だからといって、「確かにその通りだ。じゃ、明日から変えるか。」て人もいるかもしれません。

そんな方の話も聴いてみたいものです。(笑)

ただ、場所によってそれがマナーか否かって変わってくるもんだと思います。


先日、小学生くらいの女の子がトイレを使用するときに「貸してください」、使用した後に「有難う御座い」を言いましたが、まぁ律儀なことこの上ない!!

寧ろこちらが恐縮しちゃったり、凄いなあと感服したりで。

その反面、いかにも高そうなスーツを着こなした男性や、明らかに見た目重視の服を着る女性などは、自分のトイレかのように使用します。(笑)

かといって、「私はマナー人ですよ」オーラだしまくりの人は、それはそれで怖い。

だから適度な礼儀は、人と人との関係を解きほぐしやすい行為なんだといえるのではないでしょか?

そして、この適度な礼儀こそ「和の精神」の表れなんだと思う。


折角、世界からも一目置かれるような”精神文化”なのだから守って生きたい。

皆さんはどう思いますか?

意識の高い人、低い人①

私はコンビニで働く大学生ですが、コンビニにはいろんな人が来ます。

当然ですけど。

その人たちは、ある個人的な規範や倫理など、あるいは無意識のうちに様々な行動をするわけです。

んで、その行動である意識の度合いが見て伺えるわけですが、まあ、「何の」って話ですよね。

ここでの意識の度合いは、「日本人としての意識」です。

(私が言う意識の度合いは、大体これなんですが・・・)

とりわけ、「和」の精神を何か勘違いしているのか、はたまたどうでも良いと考えているのか分かりませんが、「本当に日本人ですか」って聞きたくなる人が、間々いらっしゃる。

例えば、

デモ行進かてくらい、道を占領しながら入店する人

立ち読み出でなく、すわり読みするスーツマン

当然のように、何も言わずにトイレを使う人
(中には便を、壁に塗りたくる人も・・・)

箸などの食器具を必要以上に欲しがる人

これでもかってくらい、律儀に挨拶する人

沢山います。

この中で、私が注目している人は無断でトイレを使う人たち。

別に、文句をいうつもりはありません。

厳密には、私のトイレでもないわけですから。

ただ、思うんですよ。

なんで、自分の物のように使えるんだろうと。


ファミレスや居酒屋じゃ、わざわざ「トイレ貸してください」なんて滅多に言わないとは思います。

でも、こういう場所は一種の「居間」でもあり、食欲を満たす場であるわけです。

そこに、トイレがないのはあまりにも不自然じゃないでしょうか。

だって、摂取したものは排泄されるのが人の生理現象なんだから。

つまり、そこではトイレがあって当然なんですね。


でもコンビニは違う。

トイレがない店舗やあっても貸せない店舗などがある。

つまりコンビニの場合、トイレはサービスの一つであっても、サービス業の中には含まれないんです。

あって当たり前じゃないんです。



②に続く


生きるとは・・・⑪

生きるとは、表現するということ。


人は多様なヒトゲノム(遺伝子)の情報によって、様々な独自性と可能性をもって誕生する。

それこそ、人の数だけ個性があるのだ。

しかし、いつのまにか個性はある特性のもと、分類されカテゴリー化される。

例えば、明るい、元気、短気、ネガティブ、男らしいなど・・・

それぞれのカテゴリーの中には、尺度があり、組み合わせがある。

それを踏まえてカテゴリー化している。

だから、”明るい”にもそれぞれの個性が詰まっている。


これは、何かしらの能力も同じである。

例えば、記憶力、体力、気力、運動力、知力、推測力、応用力、集中力・・・

いや、もっとあるだろう。

とにかく、それぞれの”あれ”と”これ”を組み合わせて一つの個性ができている。

そこに優劣はない。

だから、それぞれが思うように「表現」してほしいと思う。

そのためにも、人としての「発展」を欠かしてはいけない。


とはいっても、社会で生きるためには仕事をするのが一般的だろう。

たとえ、投資家や資本家といえど、一つの仕事である。

しかし、投資家や資本家、社長、建築作業員といった個性は存在しない。

だって、これらはあくまで役割。

それも、本来は役割の適性があってこその物種なのだ。


大企業の社長もアマゾンの奥地に行けば、ただの人。

あるいは、おじさん、おばさん、若者なのである。

でも、社会では役割を過小評価してもいけないし、役割だって演じなきゃいけない。


だから社会で「表現」するのは、個性+役割なんだ。

社会では、自分らしさだけでも、役割だけでも自分の「表現」としては足りない。


私はこの瞬間は、”青二才の若造”ではなく、”時代遅れの思想家”として自分と日本を「表現」している。

皆さんは、何を、どうやって「表現」しますか?

夢⑤

久々に鮮明に記憶した夢です。


夜の学校のようなところで、英雄と言われている人が数人の魔族に追いかけられていた。

その人は個室が二つあるトイレの左の個室に入り込んだ。

追いかけていた魔族のうち先頭の二人が、その個室を確認した。

しかし、そこにはおらず、魔族たちはトイレを後にした。

この時、英雄はトイレの衝立の上におり、魔族たちの視界と固定概念を見事に利用したのだという。

それを知った(どこでどう知ったかは分からない)私は、その状況を頭の中で何度も再生し、本当に見つからないようにシュミレーションをしていた。

衝立に登って本当に見つからないのだろうか。

壊れないだろうか。

それならいっそ、衝立から一度降りて、魔族たちがトイレを見終わった瞬間にまた、衝立を登り個室にはいれないか。

三つ目のシュミレートをしてみると、うまくいかず、魔族たちに怪しまれる結果となった。

(ここで場面が切り替わる)

私は、3階建ての学校の1階にいた。

魔族を倒すために、学校のある部屋で”あること”をしに行くところだった。

早速、ある部屋へ向かい、”あること”を行なった。

すると、魔族(獣姿)の一人が出現して襲いかかってきた。

私は、3階に向けて必死で逃げる。

追いかけてくる魔族は私に向かってこう叫んできた。

「月のみえる場所では、俺達(魔族)の力は3倍になる」

そういって、私を追いかけてきた。

3階のフロアの天井は、すでに魔族によって破壊され、月が見えるところとなっていた。

私はそれを知りつつも、3階に向かっていた。

3階に着き、とある教室に入ろうとしたところ、私の中から力がみなぎってきた。

私は獣化した。

完全に獣化するまでは記憶があり、3階にいた魔族をいともたやすく倒したあたりまでは覚えていた。

しかし、次に気が付くとあたりは明るくなっていた。

また、半壊だった天井は全てなくなっており、壁以外に壊れているものは、ことごとく灰のように粉々になっていた。

そんななか、私はぼーっと立っていた。

この時、近くに(友人かだれか覚えていないが)人がいた。

生きるとは・・・⑩

生きるとは、0(ゼロ)を創るということ。


私たちは、それぞれ”1”人という数をもった存在。

一人ひとりが「考え」、その人数分だけ存在している。

そして、それぞれの「考え」はそれぞれにとって確実に在るもの。

しかし、人は集団の中で生活する。

そして、その集団の中には当然のように多くの「考え」が存在している。

だから、多くの「考え」を聴く。

自分とどう違うのか。

自分とどう似ているのか。


同調する必要はない。

「考え」を理解する、その努力をすることが大切。

そして先入観を持ったりや憶測を立てない。

つまり、まず「0」の状態を創るということ。

とはいえ、自分の考えを捨てるのではない。

何故なら、集団で生きるためには全体的な一体感が必要だから。

この一体感を一人でも感じていないのならば、その人は真に集団に属しているとはいえない。

人を完全に理解することは不可能でも、それに近づく努力はできる。

だから「発展」のための基盤としても、「0」ベースを一人ひとりが創り、集団で「0」を創ることが必要だと考える。


そうすればきっと、以前より素直になれるから。