tablaboyの道日記 -39ページ目

tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

『人間は録音盤のようなものだ』
と五井先生はよくおっしゃってました。
生きていることはその録音を再生していることになります。
再生しているものを、あたかも今創られたものと勘違いして、また録音機の中に入れてしまう。

この作業を延々と続けているのが、普通の人間の姿になります。
ではこの轍、想念の輪廻から抜け出るにはどうしたらいいのでしょう。
釈尊は、『四諦八正道』をお説きになり、人間の真実の生き方、解脱への道をお示しになられました。

それは一般の人間にはとてもできない方法です。
ではどうすれば人間は、その録音をやり直すことが出来るのでしょう。
永安先生は、くわしくその解脱に道を解説してくださっています。

永安先生講話シリーズ #3

和尚もチャネリングなどは否定していました。
私が想うに、危険が多く、誘惑が多く、やはり瞑想の邪魔になり、進歩が遅れる、ということだと思います。以下参考にしていただければ幸いです。


"
一つ覚えておきなさい。決して霊的な力を手に入れようとしないこと。
たとえそういう力があなたの道に自らやってきたとしても、できる限り早くその力を捨てなさい。

それらのトリックに耳を貸してはならない。
その霊的な力はこういうだろう「何が間違ってるというんだ。
霊能力があれば人を助けられるじゃないか。多くの人の役にたつんだよ」と。
だが、霊能者になってはいけない。
あなたはただこういうのだ「私はそういう力など欲していない。誰も誰かを救うことなどできない」と。
あなたは見せ物になるだけで、誰も救うことなどできない。"

    
"
霊能力の誤用に対する唯一の解毒剤は、愛だ。
愛がなければ、力は腐敗する。
あらゆる力は腐敗する。
それが財力であれ、権力であれ、政治力であれ、霊能力であれ違いはない。
あなたが「自分には力がある」と思い、そして、その力に対する解毒剤としての愛がなければ、そのとき、あなたの力はほかの人間にとって災い、呪いとなる。
というのも、力というのは、人間をめくらにするからだ。
愛は人の目を開く。
愛は人の目を浄化する・・愛はあなたの知覚をクリアーにする。
力は人の目を曇らせる。"

私も肝に銘じたいと思います。

最近、江原啓之さんがテレビでよく霊界や守護霊さんのことをお話しているのは、とても意義があり感謝しているのですが、だからといって、誰でも簡単にああいう霊能を授かる、開発できると想うのはとても危険だなー、と思っています。
そこまで確固とした、エゴのない霊能力というのは、きわめて稀なことで、過去世からの正しい修行、徳行、感情に捕われない修行の積み重ねと、統一行---それが現在の江原さんの基礎になり、江原さんの守護神さん、昌清霊の強力な援助、指導があって、今日の仕事をなさっていると感じています。深ーい神霊の意図がそこにあるわけです。そういう基礎なしに『自分もそうなりたーい』、とか、『霊能で人のために働きたーい』というのは、ちょっと神霊の世界を知らなさすぎる、と想います。以下五井先生の霊能に関するお話です。特に、チャネリングなどなさっている人、霊能を得たいと思っている人は、よく読んでいただいて自分も人をも傷つけないようにしていただきたいと想います。


“真の霊能と魔境

魔境とは自己利益的欲望の現れ
禅宗の坊さん達が、魔境についての忠告をしているのを時折り本等で読みますが、その人達は、霊眼に映ずるすべての姿形、例えば仏、菩薩像等も、ことごとく魔境の現われである、迷い心の現われである、とはく否定していますが、私はこれは断見である、一方的な見解であると思います。何故ならば、釈尊をはじめ、大弟子の目連、舎利弗、迦葉等は皆、霊眼で仏菩薩や、霊界、幽界の情景を観ることが出来た人達であり、イエスや、その弟子達も、やはり、そうした霊眼が開いていたのです。只、それに把われてはいけないということの注意は絶対に必要なのです。
といって、近頃の低い行者のように、霊眼霊視を売物にして、何か特別に自己を偉大視させようとすることは、これは又困りものです。
そこで、真の霊能と、魔境的、迷い心の幻覚、幻聴との区別を、どういうようにしてつけたらよいかということになります。初め、人間にとって危険な魔境的、幻聴、幻覚とはどういうものかをお話しましょう。魔境とは、先ず最初に、自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力をつかいたいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言すべてをいいます。そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念、そうした統一でなった霊能は、全部一度うちけして、もとの普通人に還えらなければいけません。それは例えば霊限に仏・菩薩の姿が観え、霊聴に神と称し、キリストと名のつてきこえてきても、これは駄目なのです。何故というと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力を頂く境地にはなれないからです。しかもそのような欲望的境地でも、亡くなった人の姿が観えたり、現象的には適中する霊聴、霊言の力にはなり得ます。そして、その場その場の細かい御利益も与えられます。しかしそれだけの話で、魂の開発向上には少しも役立たぬばかりか、遂に自己の身を滅ぼし、ひいては他人の魂を傷つけゆがめてしまうようにもなるのです。それから、善し悪しかまわず、はっきり、いってしまう霊言、人をおびやかし、人の勇気をくじくような霊言、人と人とを不仲にさせるような霊言等々、それが実際に当っていても、これらはすべて魔の境地からなる霊能というべきなのです。それではその霊能とは、どういう現われをするのかといいますと、
まずその人の、愛の深さが、最大の条件となります。愛が深いということは、魂の清さ高さを単的に現わしているからです。自己を深めたい、人を救いたい、人の為に働きたい、人の世のために全力を挙げたい等々、常に自己の力を他に捧げたい、という愛の心が根本になって、開発された霊能であることが第一です。だがいかに深い愛をもっていても、霊視、霊聴、霊言を審判もせず、ただやたらに信ずるようではいけないのです。霊能があったからといってすぐ有頂天になったり、すぐ人に告げてみたりする軽率さでは、守護神はその人に及第点を下さらないのです。もしその人に深い洞察力がなけれぼ、出てくる霊能を否定しつくすことです。否定して否定して、否定しつくしても、どうしても消えぬ霊視であり、霊聴であり、霊言であったら、それはやはり真実のものと判断すべきです。
しかし、もっと危険性のないことは、出てくる霊視、霊聴、霊言に把われず、我が天命を完うせしめ給えの祈りと、守護霊、守護神の加護を念じつづけることです。そうしていさえすれば、霊能になる天命のものなら、必ず善き霊能者として社会人類のために働かせて下さるのです。もし、そうしているうちに霊能が消えてしまったとすれば、その人の素質が外に現われる霊能ではなく、内部からの直感的働きとして、職業生活を通して、天命を完全にとげてゆく素質であるということになるのです。真の霊能はすベて守護神の指導によるものであり、魔境的、外道的霊能は、幽界の悟らざる霊魂達の興味本位の肉体界ヘの働きかけによるのです。”

和尚は愛についてあらゆる角度からアプローチした希なる覚者だと想います。
以下愛についての和尚の講話の抜粋です。何度よんでも 「YES」とうなづきます。


“覚えておきなさい。愛は存在する唯一の美だ。
愛しているとき、あなたは美しい。
愛していないとき、あなたの美は消え去る。
何かを、誰かを憎んでいるとき、あなたは醜くなる。
誰もが美しくありたいと思いながら、ほんのわずかの人々しか、愛深い自分であろうとしない。
だから、この世でほんのわずかしか美しい人間がいないのだ。
あなたは一つのことを観察したことがあるだろうか?
・・全ての子供がビューティフルな存在として生まれる。
醜い子供を見つけるのはきわめて困難だ
・・あらゆる子供がビューティフルだ。
その後、その美しさはどこにいってしまったのか?
・・生という砂漠のどこかに。
ビューティフルな大人を見つけるのはごく希だ。
どういうわけか、子供のときに持っていた美は消え去り、醜くくなってしまった。
マインドがずる賢くなり、もう愛がなくなってしまった日、醜さが始まる。
それを覚えておきなさい!
有り得る限り、愛深くありなさい。
最大限愛深くありなさい。
そうすれば、自分の愛する力が日増しに育ってゆくことが分かるだろう。
もしあなたが最大限まで愛するなら、あなたはどんどん広がり続ける。
あなたの愛はより大きく、より大きく、より大きくなってゆく。
あなたの愛はどんどん大きくなり、どんどん広がり得る。
あなたの愛は宇宙そのものと同じ大きさにまで広がり得る。
そして、あなたの愛が宇宙と同じ大きさになったとき、そこに祝福がある。
それが神との出会いということだ。”


愛ほど美しいものはないですね

今日までの軌道を辿っていますと、「人間は戦争か環境破壊で滅びることは間違いない」、と少し頭のいい人なら誰でも感じていると想います。何かしなければならない、という気持ちが湧いてくるのは私だけではないと想います。

下記は五井先生の『運命を恐れるな』からの抜粋ですが、20数年まえに初めて読んでからも、まったく色あせることなく、年々深く心に染み込んでくる内容なのです。まだ、自分なりの方法を発見できていない方は、自分ひとりでやさしく実行できて、全くお金のかからない、悟りと愛行の方法である『世界平和の祈り』をお勧めいたします。下記を参考にしていただけれ幸いです。

 

 


“祈りとは、神にすべてを託して自己の本心を開発する方法です。そうしますと祈りによって自然と道は開かれてゆきます。そういう生き方をしていますと、その場その時々その一瞬一瞬がその人にとっては天命を完うしていることになってゆくのです。”


“不安の想いがでてくる度びに、この想念は消えてゆく姿なのだ、という想いで、世界平和の祈り言の中に投げ入れてしまう。何回でも何十回でも何百回でも、その方法をつづけてゆけばよい。否定がでたらまた祈り、祈りに対する否定が出たらまたいのる、というように、すべての想念行為を、消えてゆく姿として、世界平和の祈り一念に切り替えてゆく。そうするうちに、その人の潜在意識にひそんでいる、罪悪感や不調和の想念が、表面に出ては、消えてゆく姿として、世界平和の祈りの大光明波動に融けこんでゆき、また現われてきては、祈り心の中に融けんでゆくという具合に、暗と光明とが次第に入れ替ってきて、いつの間にか、その人の潜在意識は、世界平和の祈りの大光明、人類愛の光明波動に充たされてきて、その人が意志力でどう想おうと想うまいとその人の想念行為は自然と、明るい正しいものになってくるのであります。”


“世界平和の祈りは、往相(本心開発)と還相(愛行)とが同時に行われるのであり、自分の救われが同時に世界人類の救われになっているというところに、今日までの宗教と根本的相違があるのであります。三才の童児でもちゃんと世界人類のために働いているというのが、この世界平和の祈りの特徴であるのです。先程からも申しておりますように、肉体身の自分を、自分の力で守ろうとするところから、敵ができるのでありまして、この自己保存の想いがなくならないうちは、国と国との争いも個人同志の利害得失のかけ引きも、いつまでもつづいてゆくわけなのですから、この世の業想念波動は消え去るわけがありません。それはやがて、地球人類滅亡のふちに追いこんでしまうのであります。
肉体身の自分の想念行為を、すべて、神のみ心の中に入れきってしまって、神のみ心の中から改めて、自分の運命を頂きなおす、という風になりますと、自分の肉体生活を自分で守るのではなくて、神の力によって自分の肉体生活がなされてゆく、という自覚がでてきます。お互いがそういう自覚になってきますと、自己保存の本能という、動物的な本能が、次第に薄れてきて、神ヘの全託ということになってまいり、生きるも死ぬも神様任せということになり、自分の利害のために、人を損ねるというようなことがなくなってくるわけなのです。
こうした原理を、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という方法で行じていますと、意外と容易に神のみ心のままの生活ができてきます。これは一人がやり十人がやり百人がやりというように、次第にやる人が多くなっておりますので、やがては非常な広範囲で世界平和の祈りが行われてゆくことになると思います。
世界平和の祈り言そのものが、もうすでに個人と人類とをしっかり結んでいる祈り言でありまして、個人がすでに人類の一人という意識に立っての祈り言になっていますので、自分一人だけの利害関係に把われている想いが自然とほどけていって、愛他行の人にならざるを得なくなってしまいます。
南無阿弥陀仏は勿論よいことですが、南無阿弥陀仏の世界に入って、そのまま地球人類に光明をふりそそぐという形になるのが、世界平和の祈りなのであります。
ですから、妙好人になった人の一部の人が、禅宗の坊さんのような強い意志力で、南無阿弥陀仏と一つになろうとしていた、そういう苦心の代りに消えてゆく姿という、易行の道がそこに置き換えられているわけで、世界平和の祈りの教えは、やはり南無阿弥陀仏以上の易行道であり、法華経そのままの教えであるということになるのです。”

人間は習慣の想いで生きています。自分で気づかなくても、過去のすべての体験、知識を土台にして、想いというものが沸いてくるように出来ています。
私は16歳くらいに自分が前世で宗教家であったことに気づきましたが、自分の想いを覗き込むと、そこに習慣の想いがあり、自分が過去にどんな人間であったか容易に分かります。では祈ると運命にどんな影響が現われるのでしょうか?
 最近、ジェラルディン・カミンズ氏のイエスの霊界通信を読んで、常にイエスが荒野で聖霊たちと交流するために祈りをしていたことから、祈りを意義をまた再確認した次第です。
 以下五井先生の「聖書講義1」からの抜粋ですが参考になりましたら幸いです。

 

 

 

“実に言というものは大事なものでありまして人びとは常に言の根元に遡ってを使うようにしなければならないのです。光ある言葉、生命ある言葉を日常茶飯事にでも使えるようにならなければ、神のみ心を地に現わすことができません。
私はこの言と言葉をはっきりニつに分けて説いておりまして、言の方は光の波動(ひびき)言葉のほうを想念波動と説くのですが、言葉にしても想念波動にしても、その根元は、言であり、光であるのですから、純粋な言とし、汚れなき光の波動とするためには、言葉や想念波動のでてくる頭脳や心を空っぽにする必要があるのです。
いわゆる小智才覚を捨てる、ということです。
ところがなかなか、この小智才覚を捨てることができません。頭脳や心を空っぽにすることはこの世的な頭が良ければ良いほどできにくいことなのです。そこでそのためにこそ、想念を神のみ心に向けきってしまう祈り心が必要になってくるのです。
人間の本来性である、光の中に、言が中に、生命の本源の中に飛びこんでゆく祈りが大事な行事になってくるのです。天のみ心が地に現われますように、という祈りでもいい、世界平和の祈りの、天命が完うされますようにでもいい、愛深い私にならしめ給えでもいい、み心のままにならしあ給えでもいい。とにかく、この世に渦巻いている想念波動圏から、超越してしまう方法をとることが必要なのです。超越してしまう先は、いわずと知れた神のみ心の中であるわけです。”

“ 信の心というものは一朝一夕で深くなるものではありません。それは何生かけた宗教の道によって生れてくるのですが、過去世のことはともかくとして、今生におけるたゆみなき祈りの行によって、信仰はしだいに深められてゆくものであります。ですから、自分はなかなか信仰が深くならぬ、神の存在は信じながらも、どうしても自分頭脳智で物事を考え行ってしまって、心の深いところから智慧や力が湧き上がってくる感じがしたことがないなどという人は、そういう焦り心をも含めて、ひたすら神との一体感を祈りつづけるといいのであります。それは、ただ単純に神様ありがとう存じます、という祈り言一点ばりでもよいのであります。あまりむずかしい祈り言葉では想念の習性がつきません。すべては想念を習慣づけることが必要なので、祈るという習慣をまずつけることが必要なのです。
それにはやはり、自分の頭で納得できて、しかもやさしい祈り言葉がよいのです。
神様ありがとうございます、に徹底してしまえば、四六時中、単純なその言葉を心の中でくりかえしていてもよいのですが、それだけでは単純すぎると思ったら、世界平和の祈りのような意味のはっきりした言葉にしていってもよいのです。主の祈りでも勿論よいのですが、私は世界平和の祈りの提唱者ですから、世界平和の祈りをおすすめいたします。世界平和の祈りを何気なくでもよい、心の中で祈りつづけておりますと、いつの間にか神のみ心と通い合う愛の心が生れてきて、しだいに信仰心が深くなってくるし、世界平和の祈りのもつ、大きな広い意味が自然と心の底から理解できてまいります。”

 祈りは「自己保存」という肉体人間の防衛システムから、自由自在心なる創造力へを意識を解き放つための方法であり、守護霊、守護神との全きつながりを形成するための交流でもあるのです。

こういう国家同士の問題で、いざこざがるときは、特に国を守る守護神たちが非常に活躍して、なんとか戦争にならないように、犠牲が大きくならないように働いてくださっているのを実感している。

世界各国の祈りを聖ヶ丘でしているとき、ハートがものすごいバイブレートしていて、まるで道路工事を胸の中でやっているような振動とエネルギー、熱を感じたことが何度も何度もある。

これは神々が人間の肉体のバイブレーションを媒体として、国家のカルマの消滅を図っていると感じた。

というように、祈りは、個人の幸せと人類、国家の幸せを同時に達成できる、また個人が全体に奉仕できるもっとも簡単で効果のあるすばらしい方法なのだ。

最近、霊能者の江原さんがテレビで、守護の神霊のこと、霊界のこと、この肉体世界と、霊界の違い、波長の法則などお話してくださるので、本当にありがたいと思っている。

その背後に、大きな神霊の世界の計画を感じるのだ。

次の時代の準備をしている。

来るべき霊性文化、他の星との本格的な文化の交流の地ならしをしている。

そこにはシャンバラという地球の守護神たちの前線基地があり、その指導者のもと、人間に価値観、宇宙観の転換を促しているのだ。
それがスピリチュアリズム(神霊主義)のとなり、神智学や各種霊性開発団体の台頭となり、神霊と人間の緊密な関係を築こうとしている。
また、それが守護の神霊への瞬時絶え間なき感謝行を中心とした、世界平和の祈りとなっているのである。
人間というものは、守護の神霊の加護なしには、一瞬たりとも生きてゆけない存在なのだ。
江原さんの天命が完うされますように、とエールを送り続ける

我々はみな
過去の徳を消化して生き
未来の徳を積んで生きている
いい環境に置かれているとき・・・ありがとうございます
悪い環境に置かれているとき・・・過去の不徳を軽く消してくださってありがとうございます。
「ありがとうございます」と素直に守護の神霊を含め、あらゆる物事に感謝するためには、練習が必要です。

しかし、これ以上の近道があるとは思えません。
守護の神霊への感謝は、霊界に移行したときのキーポイントになりますので、疎かに出来ません。

いつ移行しても霊界、神界で立派に働ける想いの状態を創りあげておく。

それが、人間の真実の生き方ではないかと、ふと思ったのでした

今、さかんに竹島について報道されているが、もう国、国家というもののエゴが丸出しになっている。

戦争の原因はなにか?
それは自己保存の本能、人間が生き延びるために自己防衛のために命を賭けて戦う。

それが戦争・・
なんと数多くの戦争がこの5000年の間で起こったことだろう
ほとんどが正義のための戦い、自国民の利益を守るための戦い、神のための戦い
戦い自体が正義に反するというのに


韓国が平和でありますように
韓国の天命が完うされますように
韓国民が愛深くありますように
韓国民が愛そのものでありますように
世界人類が平和でありますように
すべての国家が愛深い教育を実施しますように
と祈らずにおれないのだ