最近、江原啓之さんがテレビでよく霊界や守護霊さんのことをお話しているのは、とても意義があり感謝しているのですが、だからといって、誰でも簡単にああいう霊能を授かる、開発できると想うのはとても危険だなー、と思っています。
そこまで確固とした、エゴのない霊能力というのは、きわめて稀なことで、過去世からの正しい修行、徳行、感情に捕われない修行の積み重ねと、統一行---それが現在の江原さんの基礎になり、江原さんの守護神さん、昌清霊の強力な援助、指導があって、今日の仕事をなさっていると感じています。深ーい神霊の意図がそこにあるわけです。そういう基礎なしに『自分もそうなりたーい』、とか、『霊能で人のために働きたーい』というのは、ちょっと神霊の世界を知らなさすぎる、と想います。以下五井先生の霊能に関するお話です。特に、チャネリングなどなさっている人、霊能を得たいと思っている人は、よく読んでいただいて自分も人をも傷つけないようにしていただきたいと想います。
“真の霊能と魔境
魔境とは自己利益的欲望の現れ
禅宗の坊さん達が、魔境についての忠告をしているのを時折り本等で読みますが、その人達は、霊眼に映ずるすべての姿形、例えば仏、菩薩像等も、ことごとく魔境の現われである、迷い心の現われである、とはく否定していますが、私はこれは断見である、一方的な見解であると思います。何故ならば、釈尊をはじめ、大弟子の目連、舎利弗、迦葉等は皆、霊眼で仏菩薩や、霊界、幽界の情景を観ることが出来た人達であり、イエスや、その弟子達も、やはり、そうした霊眼が開いていたのです。只、それに把われてはいけないということの注意は絶対に必要なのです。
といって、近頃の低い行者のように、霊眼霊視を売物にして、何か特別に自己を偉大視させようとすることは、これは又困りものです。
そこで、真の霊能と、魔境的、迷い心の幻覚、幻聴との区別を、どういうようにしてつけたらよいかということになります。初め、人間にとって危険な魔境的、幻聴、幻覚とはどういうものかをお話しましょう。魔境とは、先ず最初に、自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力をつかいたいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言すべてをいいます。そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念、そうした統一でなった霊能は、全部一度うちけして、もとの普通人に還えらなければいけません。それは例えば霊限に仏・菩薩の姿が観え、霊聴に神と称し、キリストと名のつてきこえてきても、これは駄目なのです。何故というと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力を頂く境地にはなれないからです。しかもそのような欲望的境地でも、亡くなった人の姿が観えたり、現象的には適中する霊聴、霊言の力にはなり得ます。そして、その場その場の細かい御利益も与えられます。しかしそれだけの話で、魂の開発向上には少しも役立たぬばかりか、遂に自己の身を滅ぼし、ひいては他人の魂を傷つけゆがめてしまうようにもなるのです。それから、善し悪しかまわず、はっきり、いってしまう霊言、人をおびやかし、人の勇気をくじくような霊言、人と人とを不仲にさせるような霊言等々、それが実際に当っていても、これらはすべて魔の境地からなる霊能というべきなのです。それではその霊能とは、どういう現われをするのかといいますと、
まずその人の、愛の深さが、最大の条件となります。愛が深いということは、魂の清さ高さを単的に現わしているからです。自己を深めたい、人を救いたい、人の為に働きたい、人の世のために全力を挙げたい等々、常に自己の力を他に捧げたい、という愛の心が根本になって、開発された霊能であることが第一です。だがいかに深い愛をもっていても、霊視、霊聴、霊言を審判もせず、ただやたらに信ずるようではいけないのです。霊能があったからといってすぐ有頂天になったり、すぐ人に告げてみたりする軽率さでは、守護神はその人に及第点を下さらないのです。もしその人に深い洞察力がなけれぼ、出てくる霊能を否定しつくすことです。否定して否定して、否定しつくしても、どうしても消えぬ霊視であり、霊聴であり、霊言であったら、それはやはり真実のものと判断すべきです。
しかし、もっと危険性のないことは、出てくる霊視、霊聴、霊言に把われず、我が天命を完うせしめ給えの祈りと、守護霊、守護神の加護を念じつづけることです。そうしていさえすれば、霊能になる天命のものなら、必ず善き霊能者として社会人類のために働かせて下さるのです。もし、そうしているうちに霊能が消えてしまったとすれば、その人の素質が外に現われる霊能ではなく、内部からの直感的働きとして、職業生活を通して、天命を完全にとげてゆく素質であるということになるのです。真の霊能はすベて守護神の指導によるものであり、魔境的、外道的霊能は、幽界の悟らざる霊魂達の興味本位の肉体界ヘの働きかけによるのです。”