埼玉県立歴史と民俗の博物館シリーズ(①、②、③、④、⑤、⑥)で埼玉県域の地理的歴史、それを根拠にした古代の歴史を演繹しました。
簡単におさらいすると…
関東の中心は古代から荒川流域であり、そこを支配したのは氷川神社勢力であることは誰の目から見ても明らかだと思います。その根拠は「大宮台地と武蔵野台地に挟まれたかつての古荒川湾は縄文時代から人口密集地帯で、そこを丸ごと抑えるように分布しているのが氷川神社群だから」です。
また、その氷川神社群を創設したとされる兄多毛比(えたけひ)命が出雲族を率いてここを開発したとの当地の伝承が、百嶋神社考古学によって合理的に説明できた…というところまでたどり着いた訳です。
この点を基本的な理解として踏まえつつ、武蔵野台地を西から東へ流れ荒川へ合流する柳瀬川を遡上し、流域に展開した入植者(侵略者)の姿に迫る新シリーズ「柳瀬川を遡上する」を連載したいと思います。
第1回目の今回は柳瀬川の河口に陣取っているようにしか見えない敷島神社をレポします。
■敷島神社・・・埼玉県志木市本町2丁目9−40
関東平野のほぼ中央
これではよく分かりませんので河川情報を重ねてみると…
古荒川湾に面した立地であるとわかります。
さらにアップにしたものです。同様に河川を強調書き込みしますと…
新河岸川は現在荒川に沿うように流れている川ですが、古荒川湾(青色半透明部分)の水際線と考えてください。
柳瀬川が古荒川湾に注ぐ河口部を取り締まるかのように敷島神社が立っているのが分かります。これだけで、古荒川湾から柳瀬川へと遡上する舟運に対し課税するための監視所の役割を担っていた地点だと分かります。
古荒川湾を支配していたのは氷川神社群ですので、敷島神社も当然その傘下の一つであったと想像できます。
柳瀬川河口部をちょっとアップにしてみました。
柳瀬川の両岸に神社群が集まっています。ここは柳瀬川を上下する舟運でよほど栄えたのでしょうね。南岸の方が神社が多くて「本町」の地名が見えますのでこちらが中心だったのでしょう。
なんだか、小さな川越みたい…
面白いのが、左下の柳瀬川が細くなっている場所。ここの地名が「針ヶ谷」となっています。細くなった谷のような地形なのでこういうネーミングになったのでしょうね。
これが新河岸川。
江戸期に舟運が盛んで、今の状態でも舟運に問題なさそうです。
これは新河岸川と柳瀬川(左側)の合流点を下流側から見たものです。
柳瀬川も舟運に用いることのできるだけの川幅があります。
その合流点のすぐ西に敷島神社があります。
江戸後期からの稲荷2社と水神社と浅間社を合わせた、と。
だから祭神は倉稲魂、ミズハノメ、コノハナサクヤ姫、と。
周りは住宅地ですが境内は静かで手入れが行き届いていました。
拝殿
賽銭箱の神紋がちょっと変わっています。
倉稲魂、ミズハノメ、コノハナサクヤ姫を表現したオリジナルの神紋なのでしょうか。
拝殿奥
拝殿の千木は外削(男神)、鰹木は5本(男神)ですので本殿に祀られているのは男神です。倉稲魂、ミズハノメ、コノハナサクヤ姫ではありません。
なんだか九州の宗像大社のようですね。
ということはこの男神は大幡主かな?
拝殿屋根の神紋は大幡主でした。
拝殿に向かって右には稲荷
覆屋の中にあるはずです。
隙間からのぞいてみましたが何も…
さてこちらは拝殿に向かって左の鷲宮(わしみや)神社です。
氷川神社は荒川を挟んで多く分布していますが、鷲宮神社はすごく少ないです。
ここは数少ない鷲宮神社でも、荒川西岸の珍しいものです。ここまで兄多毛比(えたけひ)の力が及んでいたのですねぇ。
鷲宮神社は以前詳しくレポートしていますので是非ご覧ください。
ここまで見ますと、倉稲魂、ミズハノメ、コノハナサクヤ姫の陰に隠れた大幡主が真の主祭神。
そして鷲宮神社には兄多毛比。柴刺が3つありますのでひょっとしたら、兄多毛比、スサノオ、クシナダ姫が祀られているのかもしれません。
さて鷲宮神社のさらに左には2つお社があります。
右側が金刀比羅神社、大国主です。
神紋が大幡主になっていますが、神社の方のご説明によると三つ巴は間違えてかけているだけだそうです。
これは何の神紋なんだろうか?
さてこちらは左手のお社です。
神紋はコノハナサクヤ姫ですね。
でもこれは(これまでの経験から)ナガスネヒコ(天鳥船)なんじゃないのかな?
ナガスネヒコ隠しなんじゃないかと感じました。
東京~千葉のいわゆる下町(武蔵野台地より低い沖積平野)では酉の市が方々で催されます。その酉の市もナガスネヒコなんじゃないのかなぁ…
コノハナサクヤ姫とナガスネヒコ…関係ない神々ですが、これはコノハナサクヤ姫の陰にナガスネヒコを隠していると感じました。
さて、境内には他に末社があります。
子安神社、コノハナサクヤ姫。
神紋がサクラと違いますねぇ。なんでだろう?
こちらは水神社、ミズハノメ。
水神 宮と書いてあるのかな。
と、ここまで見て主祭神とされる倉稲魂、ミズハノメ、コノハナサクヤ姫が本殿から出されています。
ということはやはり本当の祭神は大幡主なんじゃないのかな?
でもその大幡主が大々的に打ち出されていないのは、やはり大幡主はここに大きな影響を与える存在でしかなくて、古荒川流域から柳瀬川に入ってゆく入口たるここ敷島神社一帯を初期において支配したのは鷲宮神社=兄多毛比なんじゃないのかな? と感じました。
神々の世界で兄多毛比はとてもマイナーで、豊玉彦の実子で関東開発に成功した人物としてはあまりに存在感なさすぎです。
そういった点から、兄多毛比は「消された存在」なんじゃないかとさえ感じますね。
大幡主という誰が見ても文句の出ないものを持ってきて据えているのが、ちょっと唐突にも感じます。
以上がここ敷島神社の分析となります。
さて、本殿に向かって左の方に田子山富士なる、江戸期の富士山信仰により人工的に作られた小山があります。
登ってみますと途中に山岳信仰の石碑が多数あります。
頂上はこういった具合でした。
田子山富士の裏手に回ってみると、このようなものが…
さらに田子山富士の側面には松尾神社。
といったふうに様々な信仰が混合されている様子でした。
この神社は荒川から武蔵野台地の奥深くへ延びる主要河川・柳瀬川の入口に当たります。
当然のように周辺には氷川神社が多数立地しています。ここは氷川の河口町だったのです。そんな中に氷川ではないような顔をしたここ敷島神社が不思議だったので来てみました。
ここは元々鷲宮(わしみや)神社だったのだと思います。
氷川神社群の中にあった鷲宮神社を大幡主が覆いかぶさるように隠しています。
なんでこんなことするの?
以前から疑問があって、それは「氷川と鷲宮は違うのかな?」ということでした。
大宮氷川神社では初代武蔵国造・兄多毛比が大宮氷川神社を開いたと言っていますが、祭神には含まれていません。
鷲宮神社では豊玉彦と兄多毛比を壮大な本殿に祀っていますが、スサノオとクシナダ姫の存在感は薄いです。
スサノオとクシナダ姫は兄多毛比の祖父母で、兄多毛比が関東開発を行う上で多大な援助をしたはずなのです。
なのに、なんだか同族嫌悪でもあるのかな?とでも思えるほど「溝」を感じるんですよね。
誰か教えて~(笑