イヤハヤ…

去年8月以来久々のブログ更新です。
 
さて今回は神社ではなく、埼玉県大宮にある埼玉県立歴史と民俗の博物館へ行ってみたレポです。

立派な博物館です。ここは関東に多数ある氷川神社群の総本山・氷川神社のすぐそばです。
さて早速展示物をみていきましょう。
一般展示は時代順になっていて、まずは丸木舟が展示されています。写真左上に見えている古い木が発掘された丸木舟で、写真中央は発掘品の原型を再現したものです。
肉厚で重そうな感じです。
この丸木舟が使われた約3500年前は現在より海水面が高く、東京湾が大宮台地の麓まで入り込んでいた(奥東京湾)ので、丸木舟は重要な交通手段だったのでしょう。
奥東京湾は大宮で二股に分かれ、Maxで桶川や館林にまで侵入していたのですね。縄文時代が終わったとしてもこれらの地域は湿地・湖沼として内陸に取り残されたでしょう。
以前読んだ富山和子氏の著作に
「大宮台地の麓の水田は増水する度に流され、人力で引っ張って元に戻した」
「水田の下に深い泥の層があって、他所から来た嫁が知らずに誤って落ち行方不明になったのを河童の神隠しといった」
「大宮台地の下から栄養を含んだ泥を馬に背負わせて台地上へ運んだ」
などと書かれていましたが、これらは奥東京湾の名残だったのかもしれません。
実際、埼玉古墳群へ出かけたときに見たのですが荒川周辺の土地は低くてまっ平らで、豊かな水量の用水路が方々にあったのです。灌漑の進んだ現代においても水が押し寄せ続けているのがよくわかりました。
 
さて、丸木舟の次は墓制です。
これは約2100年前の埼玉県深谷市上敷免(じょうしきめん)遺跡の骨壺だそうです。説明版によると縄文時代からの伝統だということですが、火炎土器のようなデザインじゃなく弥生土器のフォルムに縄文的な柄が少々残っているデザインで、縄文と弥生はいきなり交代したんじゃなくグラデーションのようにまじりあって変化していったんだなって分かりました。それは土器デザインだけじゃなく社会のありようが変化していったということでしょうね。
再葬墓はまず遺体を埋めて白骨化させてからその骨を壷に納めて改めて埋めるという埋葬文化だったということですね。
九州の(かつての)海岸部に点在する「アオ」地名を考察した太宰府地名研究会・古川清久氏のコラム※1を思い出します。
海洋民族は埋葬する前に遺体を海辺に置いて白骨化させる。その場所に「アオ」地名を残した、というのがコラムの趣旨ですが骨壺を使ったこの埋葬手順と似ています。※2
このことから想像されるのは、少なくとも弥生以前に上敷免に住んでいた人は日本の海辺に広く住んでいた海の部族の一派で、弥生時代が到来し稲作を取り入れつつ墓制度は古いまま受け継いでいた…といったことでしょうか。
それと対照展示だと思いますが、こちらは約1900年前の北部九州福岡県永岡遺跡の甕棺墓です。あらかじめ白骨化させることなく大型の甕に遺体を納めるので上敷免遺跡とは異なる埋葬文化です。つまりこれは縄文時代からの地付きの海の部族ではない、ということですね。
時代が下って(~3世紀)新しく出現した埋葬方法が方形周溝墓です。
左上の分布図をみると武蔵野台地の荒川沿い、大宮台地の西側ふもと、多摩川沿いに作られているようです。河川に近い沼地のような低地に墓を作るわけにはいかなかったせいでしょうね? また武蔵野台地の中央部は水利上の理由で水田開発ができないので、稲作を基幹産業とする弥生集落は進出できなかったのでしょう。
面白いのが左下の図です。普通は右上、右下の写真を見せられるのですが、左下の図を見ると溝の内側は結構土が盛ってありますね。ピラミッドに近いというか、知らなかった… こういう構造だったら、これをこのまま大きくしたら古墳になりそうな気がします。古墳って突然出現し大和政権の支配が~みたいな話がよくありますが、すでに古墳の原型が弥生時代にあってそれが全国的流行で巨大化しただけじゃないの? などと想像しますね。
この辺は古墳の最初期を観察するべきでしょう。
 
方形周溝墓に戻ります…
問題は方形周溝墓を作った人と、上敷免の骨壺墓制度の人が人種として同じなのか異なるのか、です。稲作は多くの人口を養えるので稲作を外から持ち込んだ部族は確実に有利になりますね。墓制は受け継がれる文化なので、ここは方形周溝墓を外から持ち込んだ部族が人口を増やし、古くからいた部族を飲み込んでいったと考えるのが自然じゃないかな?
Wikipediaから方形周溝墓について引用します。青字
「弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がった。」
「方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、家族の墓だったと考えられる。」
「弥生前期の中部・関東では、一度遺体を土壙して骨化させてから小型の甕や壺に埋納する再葬が行われていたが、方形周溝墓が伝わると墓制の主流となった。」
「方形周溝墓は弥生時代より早い時期に朝鮮半島に大量に発見されている。墳丘墓は支石墓と同じく、中国には見られない墓制で、朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられている。」
「北部九州では方形周溝墓は少なく近畿地方に発見され始める。」
このWikipedia解説を普通に読むと「方形周溝墓の種族は朝鮮半島南端から近畿へ入り込んで、その後時間をかけて関東まで北上した」と読めます。実際最初にこれを読んだときは私もそう受け取りました。
ですがよくよく調べたら、九州には方形周溝墓として超有名な平原遺跡があります。これは非常に著名で有力な方形周溝墓ですので、このことから自然に考えれば「方形周溝墓の部族はいったん北部九州に上陸、完全に橋頭保を確立したのちに近畿へと広がった」と解釈したほうがよいのでは?
特に平原遺跡のある糸島は有名な魏志倭人伝に書かれた一大率とも想定される場所ですので、方形周溝墓の部族は(副葬品から考えても)相当力を持った部族で、群雄割拠する九州からフロンティア・畿内へ進出したと考えた方が自然なのでは?
その結果弥生中期に墓制度が変わってしまうほどの規模で近畿へ、続いて東海・関東へと方形周溝墓の一族が増大・移動・定着したということではないですか? これ、すごい重要ですね。
そんな大規模な人間の移動とは? いやそもそもその人たちって誰なん? まぁ一言で言えば弥生人となるのでしょうが、これは分からない概念にネーミングすることでわかった気にさせるというよくあるパターンなのでは?
方形周溝墓とそれを用いた部族についてはまだまだ分からないことだらけなので、今後徐々に調べたいと思います。
これは方形周溝墓の航空写真。明らかに葬るための区画として決められていた場所だと分かります。サイズ、向きはバラバラで、決められた墓専用エリアに適当に作ったって感じですね。
 
さて次の展示は弥生式土器についてです。これは稲作文化(方形周溝墓も?)を外部から持ち込んだ部族が発展し、村ごとに生きてはいたが村同士の関係も深く大きな派閥があったということですね。
発掘された弥生式土器の様式の差に注目し、埼玉県域内では3世紀までに3つの文化グループが形成されていたと想定できるらしいです。
各々の領域は南東から順に以下の3エリアです。
1)大宮台地と荒川を挟んで対岸の武蔵野台地沿い入間川まで(これは氷川神社の分布と重なります!
2)入間川と小山川の間の武蔵野台地沿い
3)小山川の北西側
それぞれのエリアの土器の特徴は以下の写真をご覧ください。弥生土器の形としては素人目にはそんなに大きく変わらず、表面仕上げが異なります。

1)弥生町式土器:細かい縄文模様が特徴
2)吉ヶ谷(よしがやつ)式土器:荒い縄文模様を多用する
3)樽式土器:櫛描模様が特徴
 
さて、この3種の土器スタイルがいかに分化したかが知りたいポイントでありますが、以下次号へ続きます…
 
※1阿保(アボ)船王後墓誌に見る青地名
※2上敷免遺跡付近を地図でみると近くに大きな墓地があります。ひょっとしたら上敷免遺跡の時代から埋葬場所として定着していたのかもしれません。
そのように想像するには理由があって、古川氏の「アオ」地名コラムにアオ地名とウメ地名のセットも紹介してあるのです。
GoogleMapではちょうど上敷免遺跡の近くに梅沢という名前が見えます。
「アオ」で遺体を白骨化させ「ウメ」に埋葬する習慣を持った海洋民族が東京湾に進入し荒川を遡上して上敷免遺跡付近に定着したのかな…などといつものように想像してしまいますね。