さて、

武蔵国造の乱の考察を前回やってみたのですが、それに関連して无邪志国造(むざしこくぞう?)、胸刺国造(むさしこくぞう?)の2つの言葉について考察してみましょう。

无邪志国造、胸刺国造とは武蔵国を支配したとされる国造でこの2国造は同一のものであるとする説と別であるとする説があります。明確な結論はなさそうです。

では基本的な理解のためにWikipediaの記事を簡略に以下に抜粋します。

 

无邪志国造(Wikipedia)…

1.无邪志国造の祖先

天之菩卑能命の子建比良鳥命が无邪志国造の祖。

高橋氏文によれば、大多毛比は「無邪(志)国造」の祖。

先代旧事本紀の国造本紀によれば、成務天皇の時代に出雲氏の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命の10世孫の兄多毛比命が初代无邪志国造に任命された。

2.无邪志国造の本拠地

A.のちの武蔵国足立郡

武蔵氏および大伴氏の本拠であり、現在の東京都の足立区と埼玉県の東南部。

足立郡の郡衙はさいたま市の大久保領家遺跡と氷川神社東遺跡にあったと推定されている。武蔵武芝は足立郡の郡司だった。

B.のちの武蔵国埼玉郡笠原郷

笠原氏の本拠、現在の埼玉県鴻巣市笠原。武蔵国造の本拠地はこの近くにある埼玉古墳群と推測される。

C.のちの武蔵国入間郡

物部氏の本拠、現在の埼玉県入間市・川越市・狭山市・所沢市・富士見市・ふじみ野市など。

3.无邪志国造の支配領域

現在の埼玉県と東京都の境界周辺、荒川流域にある北足立郡・入間郡・旧大宮市に当たる。

无邪志国は知々夫国造の支配した知々夫国と合わさって7世紀に令制国の武蔵国となった。当初武蔵国は東山道に所属していたが、771年に東海道に移管された。

.无邪志国造の関連人物

笠原使主(かさはら の おみ、おぬし)

安閑朝に同族の小杵と国造の地位の相続を争い(武蔵国造の乱)、朝廷より国造に定められて勝利した。

小杵(おき・おぎ、生年不詳 - 安閑天皇元年(534年)閏12月)

日本書紀によれば笠原使主の同族で、安閑天皇の時代に使主と武蔵国造の地位の相続を争い(武蔵国造の乱)、小杵は密かに上毛野小熊に助けを求め使主を謀殺しようとしたが、朝廷は使主を国造に定めて小杵を誅したという。

5.无邪志国造の古墳

无邪志国造の祖兄多毛比命が実在するのか本貫地は何処なのかは不明である。しかし大型古墳の動態から見れば、南武蔵か比企が有力な候補地となる。

 

胸刺国造(Wikipedia)…

先代旧事本紀国造本紀によれば、岐閉国造の祖・兄多毛比命の子の伊狭知直が初代胸刺国造に任命されたという。

 

以上がWikipediaによる一般的な解釈となりますが、前回までの時代推移を追った分析とは合わない点が散見されます。

1.の大多毛比と兄多毛比命は長くなるので一番最後に。

2.のA、B、Cを地図上に出してみます(下図)

白☆がそれですが、6、7世紀の古墳分布(黒△)と結構ずれてます!

大國魂神社・武蔵国府跡が多摩川沿いの古墳と一致するのは問題ないですね。ここは奈良政権の出先機関ですから。

 

埼玉古墳群・鴻巣市笠原、大宮氷川神社・大久保領家遺跡が古墳分布と重なってないのが面白いですね。大宮氷川神社の位置は東京湾から荒川沿いに遡上する入り口にあたる最大拠点ですので、まぁ古墳をバンバン作るような場所ではなかったのかな? また埼玉古墳群はちょっと変わってて、荒川の氾濫原に唐突に集まってます。普通小高い場所に築くところを、沖積平野の自然堤防みたいな低い場所に作ってます。これってモニュメントとしての意味合いじゃないのかな?

入間郡の方はというと台地上に十分古墳がありますし、荒川を上下する舟運をコントロールできる位置ですので自然ですね。ただし、入間市・川越市・狭山市・所沢市・富士見市・ふじみ野市などとある場所は古墳のないエリアでむしろ武蔵の雑木林の中ですので、入間郡といっても北部の方が中心だったのでは?

こうやって見ると、Wikipediaの記述は小山川~荒川エリア、荒川~入間川エリアという古墳密集地区を無視しちゃってますね。これでいいのかな?

 

3.の「埼玉県と東京都の境界周辺、荒川流域にある北足立郡・入間郡・旧大宮市」はいわゆる大宮台地のことですね。ここはかつて弥生時代までは弥生町式土器と方形周溝墓の密集エリアでしたが古墳時代に入って古墳はそんなに多くなくて明らかに力を失っている感じです。ここを国造の支配エリアとしてしまっていいのかな??

 

4.については前回の武蔵国造の乱をご覧ください。

 

5.南武蔵は多摩川沿いのことですね。比企は埼玉古墳群のことですね。埼玉古墳群については2.の中で述べました。

 

さてさて、問題の1.です。

大多毛比と兄多毛比命は百嶋神社考古学解釈していきます。

 

「天之菩卑能命の子建比良鳥命が无邪志国造の祖」ということですね。

天之菩卑能命(=天穂日命)は豊玉彦です。

詳しくは久留米地名研究会・古川清久氏のブログを読んでいただきたいのですが簡略に記すと、天穂日命=豊玉彦で豊玉彦は大幡主の息子です。

大幡主は元々は雲南省の昆明辺りから漢族の南下・圧迫により南シナ海へ南下し、海南島経由で日本列島に移動してきたヘブライ系白族。

大規模な船団を率いていたことから多くの幡を掲げる御主人と言う意味の名であり、北部九州から出雲一帯までを支配していた列島開拓者でした。ですので古事記、日本書紀に書かれている「須佐之男命が天照大御神と誓約したときに生まれた神の一人」「国譲りの交渉に大国主神の許へ行ったが大国主神に心腹して三年も報告しなかった」は創作だとします。

(海の王者・大幡主(=天穂日命)というとなんか天忍穂耳(=鹿島=海幸彦)とイメージが被るんですが別系統です。ひょっとして穂=帆・セイルということかな??)

 

では建比良鳥命はどうかというと、そのままの名前では百嶋・古川両氏の資料に見当たりませんでした。

(いやそもそも天穂日の子供が多すぎるんですよ!)

 

確かに関東は大幡主系の領域といえるので、その大幡主の末裔が伝説の大多毛比、兄多毛比命ということはあり得ない訳ではない、と考えます。大幡主は九州北部から出雲まで(実際にはもっと広い)支配していたということで、それが氷川神社と関連を見出せるのか?

全国の氷川神社分布を見ると熊本県宇土半島、島根、石川県、新潟、栃木、埼玉となっています(集中しているのは石川、埼玉)。この分布から考えるに、氷川神社を奉斎する人々はまず東シナ海から熊本県宇土半島に上陸した後、日本海側を転々と北上し、新潟から東へ山脈を越えて会津若松、郡山に達してから南下し、埼玉へたどり着いた…と推定しています。

埼玉県大宮氷川神社の由緒には「兄多毛比命が氷川族を率いて氷川神社を建てた」とありますので、上記の移動を裏付けしていると思います。しかもその移動ルートは大幡主領域です。

 

他に関連しそうな点として古川清久氏は「兄多毛比命の多は多氏と関連あるかもしれない」と仰ってました。

上で書いた「大幡主で元々は雲南省の昆明辺りから漢族の南下・圧迫により南シナ海へ南下し…」の過程で、白族の多将軍が漢族を迎え撃ったという歴史が古川氏のブログに紹介されています。

ということで百嶋系譜をたどって探してみたのですが草壁吉見の流れには兄多毛比命なる名前は見出せませんでした。兄多毛比命は謎の人物のままです。

実在したとすれば、一族を日本海側から険しい山を越え会津に至り、そこから延々関東平野へ南下し、埼玉県大宮に一大拠点を築いた英雄、ということになるでしょうね。

 

さてさて話は元に戻りますが、「无邪志国造、胸刺国造とは同一のものなのか?別々なのか?」ですが…

古墳分布図を見れば多摩川流域と荒川上流域でキッパリ分かれてますので、まともに考えればこの2つが无邪志国造、胸刺国造ということになりますか。フロンティア・兄多毛比命が初代无邪志国造ということなので、荒川上流域が无邪志で、後年奈良政権が開発した多摩川流域が胸刺国造となるのかな?

 

でもハッキリ言って前回武蔵国造の乱を解釈できたので、ま、重要性が低い話題ではありますね~