イヤハヤ…

 

博物館ご紹介も今回が最後です。

残りの展示品を見ていきましょう。

これは埼玉県川島町東大塚古墳出土と伝えられる石棺(6世紀)です。セメントで作ったかのような正確な面と線ですがこれは石製で正確な工作技術です。

場所は上図の通りです。

秩父産の緑泥片岩でできていますので、葬られた者は秩父出身者だったのでしょう。この場所から荒川を遡上すれば秩父ですので、おそらくこの人物は秩父勢力拡大の任務を帯びて荒川を下り川島町に拠点を築いたのでしょう。

 

次の展示は埼玉県秩父郡皆野町にある金崎古墳群大堺3号墳(7世紀初)のレプリカです。

 

場所は秩父盆地から荒川が出てゆく最下流の出口です。おそらくここが下流からの侵入を警戒しつつ、交易に対する関所のような場所だったのでしょう。

竪穴式から横穴式へ変化があったと。

石室・石棺の材料がルーツを表している、というのは正しいとして竪穴/横穴もそうなのかな??

方形周溝墓がそのまま連続的に大きくなったのがいわゆる古墳だと思います。※1 ですから初期の古墳に竪穴式が受け継がれるのは自然です。横穴式への変化には理由があるのかな?

Wikipediaによると、2世紀後半に公孫度遼東太守となったことがきっかけで横穴式石室が朝鮮半島へ伝わり、4世紀後半~5世紀後半にかけて九州全体へ広まり、その後6世紀になって日本全国へと行き渡った…という流れらしいです。

竪穴/横穴の違いは一種のスタイルの流行でしかなく、でもどんなにスタイルが変わっても埋葬の核心たる棺はやはりルーツ・アイデンティティ・帰属に結びついた材質で作るのが守るべき流儀という気がします。

革靴にスーツを着てても朝食はごはん・漬物・味噌汁というのと同じと考えたらいいんじゃないのかな? ま、革靴にスーツを強要される事情というものもあるかもしれませんが。

 

さて上でご紹介した埼玉県川島町東大塚古墳の石棺が秩父産の緑泥片岩だったと聞いて思い出したのが、埼玉古墳群・将軍山古墳の石室です(#089本日のつれづれは…埼玉県立さきたま史跡の博物館をご覧ください)。

埼玉古墳群・将軍山古墳の石室の石材が面白くて、壁石は千葉県富津市産、天井石は長瀞産(つまり川島町東大塚古墳の石棺と同じ)。

将軍山古墳の埋葬者の出自が千葉県富津市と秩父長瀞から出ている、と考えてよいのでは?

このように秩父由来の古墳と思われる東大塚古墳、将軍塚古墳(埼玉古墳群で唯一発掘調査された)が荒川を挟んで古墳時代の終わりに成立していたということは、関東の銀座通りともいえる荒川水域に秩父勢力が進出してきたことがよく分かります。

戦国大名の出自の多くが山間の夜盗まがいであり、収穫期に下流一体を収奪していたという話を聞いたことがあります。

秩父一党が荒川を駆け下って収奪し勢力を伸ばしていたのかもしれません。(秩父も調査に行かねば!)

 

次の展示は鍛冶遺跡です。

上図の黒い金床マークが奈良・平安時代の鍛冶遺跡です。

時代が下っているので多摩川流域に集まっているのは当然ですね。小山川~荒川エリアはまだ勢力が強いですね! 荒川~入間川エリアは南半分だけ元気な感じです。入間川と多摩川にはさまれた武蔵野台地はまぁソコソコですね。ちょっと落ちぶれていた大宮台地が復活してます。でも荒川沿いではなく中川、旧利根川沿いですね。たぶんですが鍛冶は自然風を利用しやすいところに作るのが関係しているんじゃないのかな?

伊奈町大山遺跡では大規模な製鉄遺跡が発見されています。

まだまだ荒川沿岸勢力は強いですね! なんだか、律令制度・奈良政権の支配といっても実質的には荒川流域に及んでいないんじゃないのかな??

時代が下っても(南関東にある中央出先機関を無視して)荒川周辺で勢力を高めていたのが実態なのかな、と感じました。

あ! だから武蔵国府勢力は荒川勢力に無視されたくなくて恩着せがましく荒川流域広範囲の有力神社を集めて武蔵大國魂神社のような総社をデカデカと(恥ずかしげもなく)作ったんだ! マジでダサ!(現代でもよくある~)

 

これは鍛冶炉の模型です。こんな小規模な炉で鉄を生産してたんだ!

 

さて最後に陶器窯の分布を示します。(白い茶碗マーク)

まぁ八王子でも頑張ってるけど、やはり荒川の西岸「小山川~荒川」「荒川~入間川」がダントツですね。大宮台地は完全に空白になってますが森林資源の関係でしょうか、すみわけが明確になったと言った方が正確なのではないでしょうか。

 

今回、埼玉県立歴史と民俗の博物館の展示品をネタに様々な考察をしてみました。結構なボリュームになってしまいましたが…

この一連のレポを書いてみてすごい勉強になりました。こういったベースの知識がないままいくら神社研究してみても大いなる勘違いになっていた可能性大です。

また一連のレポを書くにあたって久留米地名研究会・古川清久氏、伊藤まさこ氏にはしつこいくらいお話をお聞きしてしまいご迷惑をおかけしました。大々感謝申し上げます。(ご迷惑は引き続きおかけするとは思いますが…笑)

 

 

※1

そもそも方形周溝墓の発掘写真を見ると、盛土部分を完全に削って平らにしてしまった状態を撮影していることが多いです。これじゃ写真を見た人は「方形周溝墓って真っ平らなんだ」と受け取ってしまいます。

実際は土を結構盛ってあるので、方形周溝墓を大きくすればそのまま竪穴古墳になると思います。