イヤハヤ…

前回はさきたま古墳群を見て回った訳ですが、古墳を眺めるだけでは何も情報は得られません。
そこで発掘結果を知りたくて埼玉県立さきたま史跡の博物館へ行きました。
(展示物の写真は博物館のガイドラインに沿って撮影しております)
古い航空写真を見ることができました。
広大な沖積平野の微高地に集落が点在し、それ以外の土地は湿地帯で水田耕作に適していたのでしょうね。
これは関東平野の古墳分布図ですがそれぞれの古墳の向きが分かります。(見づらいので大きいサイズでアップしましたので拡大してご覧ください)
古墳の向きがルーツに関する意識を表していると仮定すると、さきたま古墳群の場合はきれいにそろっていて2つ考えられるのかな。
1つは秩父方面、もう一つは東京湾から荒川・元荒川を遡上し辿り着いた上陸地点。(ひょっとしたらもっと遠方かもしれませんが…)

余談ですが上の地図をよく見ると利根川の北側にある古墳の向きが結構バラバラですね。同じ地域内でも被葬者によってルーツが異なるということでしょうか??

さて次の説明板も面白いです。
さきたま古墳群の1つ将軍山古墳の石室の石材なのですが、壁は千葉県富津市産、天井は長瀞産だというのです。
一部の近畿にある古墳の石棺の石材が九州産で、それは被葬者のルーツが九州だからだという話を思い出してしまいます。
(この写真は将軍山古墳石室内部ですが見る限り石棺は無いようです)
千葉県富津市は100km程離れており、石材を輸送するなら東京湾を斜めに30km渡って更に荒川を60km遡ったということですね。長瀞から石材を輸送するには荒川を35km程下ればよいです。
富津と長瀞、それぞれとどんな関係があったのでしょうね。
Wikipediaによればさきたま古墳群の将軍山古墳の形が、富津市にある内裏塚古墳群の1つ・稲荷山古墳(さきたま古墳群にも同名の古墳があるのでヤヤコシイ…)と似ているといいます。
長瀞とは他に共通点は無いのか…今のところ不明です。

では次回はさきたま古墳群でも最も有名な稲荷山古墳の展示物を見ましょう。