前回(#117セルフアーカイブ埼玉県立歴史と民俗の博物館2)は関東平野の弥生土器の変遷を順番に追ってみまして全体像が分かりにくくなってましたので地図上に可視化してまとめますね。
まずは東京都・埼玉県の方形周溝墓の分布を図にしてみました。↓
明るい茶色の部分は丘陵、台地ですが東京から埼玉までしか描いていませんのでご承知を。
水色は主要河川で黄色ポイントは方形周溝墓です。河川は現在の状況を描いておりまして弥生時代では水域が現在よりもかなり広大だったと思われますので、たとえば荒川は茶色の台地の間を満たしてしまうほどの幅のある古荒川湾とでもいうべき水域だったと思われます。
まず上図では方形周溝墓が台地のフチに集中しているのが分かります。台地上は水田を作れませんし水域では稲作はできませんのでこういった分布になるのですね。
そういった点を想像しつつ以下の図をご覧ください。
弥生土器の分布を追記したのが上図です。弥生時代後期の状況です。
■が弥生町式土器、■が吉ヶ谷式土器で、この2つは太平洋岸を東上して東京湾から上陸したのだと思います。荒川と入間川を境界としてはっきりすみわけしているのが分かりますね。■は武蔵野台地東端(北限は入間川)と大宮台地全体に分布しています。
■は武蔵野台地のフチの小山川と入間川に区切られたエリアに分布しています。
その西側に分布している■が樽式土器。これは素人の見た目前出の2種とそんなに変わらないのですが、太平洋側ではなく群馬の西のどん詰まり碓氷峠方面から入ってきたものです。
中央高地から入ってきたものと太平洋側から入ってきたものが出くわしたのが小山川ということになります。ここも興味深い場所ですのでそのうち実地調査したいと思います。
さて上記の地図に鹿島神社(濃いブルー三角)を重ねたのが下図です。
鹿島神社は全国の海岸部に分布している最大フランチャイズで、関東では栃木、千葉にはたくさん分布していますが、大宮台地周辺と武蔵野台地中央にはあまりありません。鹿島神社の空白地帯を埋めているのが(下図)…
氷川神社(白い三角)です。見てわかる通り■弥生町式土器、■吉ヶ谷式土器の分布と重なります。
そして関東3大神社の最後は…
香取神社(黒い三角)です。香取神社は大宮台地とその東側にある猿島台地の間を流れている中川、江戸川沿いに多く展開しています。鹿島神社群から圧迫を受けている印象ですが、なぜか霞ヶ浦北方に東西に延びる形で謎の分布もあります。なんだろコレ?
今回は埼玉、東京の遺跡を地図にプロットしたので、鹿島神社、香取神社は関連を推理できません。今後時間をかけて関東全域を同様に調べ上げる必要があるでしょう。遠大な話だねぇ!
氷川神社は東京湾から上陸した弥生文明と関連を疑う分布になっていますねぇ。ま、地図からは時系列が読み取れないので確定はできませんが…
んん~、でも氷川神社は会津方面から関東平野へと南下したことは確定的なので、太平洋岸を北上してきた弥生土器や方形周溝墓とは直接は関連ないんだよな…。弥生文明が東京湾に達して荒川を遡上しようとした時に氷川神社が(金をとって水先案内人として?)協力した、というストーリーなら成立はしそうですね。あ!、だから荒川遡上の限界が氷川神社の北限であり、それが太平洋側から入った弥生土器(弥生町式土器と吉ヶ谷式土器)の北限でもある、ということか!
もしかしたら小山川(群馬からの南下勢力)と荒川(東京湾からの北上勢力)の間のエリアで激しいせめぎあいがあったかもしれませんね。このエリアはそのうち実地調査します!!
(群馬調査ポイントがどんどん増えていく~)
今回は埼玉県、東京都の弥生時代まで見てきました。
太平洋側から荒川を遡上し関東平野に入り込んだ弥生文明の担い手たちは名も知れない開拓民ですが、古墳時代に入って少しづつ正体を見せ始める…のかな?
次回、古墳時代に突入です。
ここでお詫びです。
前回(#117セルフアーカイブ埼玉県立歴史と民俗の博物館2)の終わりで弥生土器の分布がひょっとして「无邪志国造(むざしこくぞう?)、胸刺国造(むさしこくぞう?)の2つに関係あるんじゃないか?」と想像したというところまで書きました。
これは史書に記述のあることですので興味深いのですが、一旦時代の流れに従って次回は古墳時代についてレポします。
期待してた方(あまりいないと思うけど)、ごめんね~