八丈島の石垣
↑ 玉石垣と無電柱化 ↓
無電柱化は、道路の地下空間を活用して、電力線や通信線などをまとめて収容する電線共同溝などの整備による電線類地中化や、表通りから見えないように配線する裏配線などにより道路から電柱をなくすことで無電柱化は、道路の地下空間を活用して、電力線や通信線などをまとめて収容する電線共同溝などの整備による電線類地中化や、表通りから見えないように配線する裏配線などにより道路から電柱をなくすことです。
↑ 玉石垣保全地区市入口 ↓
無電柱化の整備により、以下の効果が発生します。
「無電柱化」の効果は防災に寄与します
道路の寸断を防止
大規模災害(地震、竜巻、台風等)が起きた際に、電柱等が倒壊することによる道路の寸断を防止します。
電線類を地中化
電線類を地中化することにより、災害時におけるライフラインの信頼性・安全性が向上します。
歩道スペースが広くなり、高齢者や車椅子・ベビーカーを利用する方の安全通行が可能になります。
交通安全に寄与
交差点での見通しが良くなり、交通標識等も見やすくなることから、交通安全に寄与します。
無電柱化の効果は
電柱や電線のないすっきりした景観で、まちが美しく生まれ変わります。
無電柱化による景観の向上は、まちの魅力を高め、まちの活性化に寄与します。
↑ 大里商店(食料品・雑貨) とレトロなポスト↓
鉄製の赤い丸型ポスト
1901年までの約30年間、全国で活躍した黒ポストに代わり、1901年からは皆さんも写真などで一度は目にしたことがあるであろう、赤色で丸い鉄製のポストが使われ始めます。
郵便ポストの色が黒から赤に変わったのには理由があります。 当時、郵便ポストは「郵便箱」と記載しており、公衆便所は「垂便箱」と呼ばれていました。
この二つの名前が非常に似ていることからわかる通り、酒に酔った人が間違えて「郵便箱」で用を足す事故が多く起こったことが原因という説が有力です。
さらに、黒色だと夜は見えにくいということもあり、イギリスで採用されていた赤いポストが日本でも採用されました。 また、火事で焼けてしまわないように鉄製にし、通行の邪魔にならないように丸形を採用しました。
玉石垣の摘み方
大里の玉石垣
ほぼ同じ大きさ、形の丸石が積み上げられた石垣の珍しい眺めは素晴らしい。
八丈島の西にある八重根港の近く、大里(おおざと)地区には、丸い石が積み重ねられた不思議な石垣の風景が広がっている。
場所によって多少の違いはあるものの、石の大きさは正面に出ている丸い部分の高さが約12cm、奥行きは30cmほど。
六方積みという手法で規則正しく積み上げられていて、芸術的な作品にも思えてくる。
流罪人が海岸から運んできた石が用いられたとされるが、これだけほぼ同じサイズの丸みをおびた石があったのかと疑問に思ってしまうほど。
大里地区の玉石垣は、その規模、保存状態ともに八丈島で最良とされている。
この辺りには島の役所である陣屋があったため、これだけの玉石垣が残されているという。
↑ 石と石の間には接着したり何かで支えたりはしていない ↓
↑ 玉石垣の上には防風林になる木々が植えられていて伸びた根っ子が出てくる ↓
↑ 根っ子が大きく成らないうちに切断しないと石垣が変形する恐れもある ↓
小田原北条氏の代官が来島したのは1528年(享禄元)のことで、この地に陣屋を設けた。江戸時代になると、幕府はここに島の役所を置いた。
六方積み
一個の玉石を中心に、6個の玉石を配するように積む手法で規則正しく積み上げられていている。
石と石には隙間が有り水捌けが非常良く崩れ難い
1900年(明治33)には、東京府八丈島庁となり、大里地区は島の政治の中心地となったが、その8年後に島庁は移転。
↑ 玉石の摘み方(反り返りの有る積み方と無い積み方)↓
戦国時代から明治時代まで続いた八丈島の政治の中心地には、その威厳を示す玉石垣だけが残されることとなったのだった。
関ヶ原の合戦で敗れた宇喜多秀家が初めて八丈島に流されてから、幕末までに1917人の流人が八丈島に流されてきました。
江戸時代の役所は大賀郷の高台、大里集落にあり、明治41年の移転までこの地が政治の中心地となっていて、島役人が暮らしていました。
流人は食料を確保するため、海岸から玉石を運び上げ石垣を作りました。
この玉石垣に使用されている丸い玉石は、もともとは海岸にあったものでした。
長い年月、波にもまれて丸くなったものを拾ってきて石垣を築いたのです。
玉石を運んだのは、本土から島に送られてきた流人と呼ばれる人々でした。
流人というのは本土で罪を犯したために島流しになった人のことで、八丈島は江戸時代、犯罪者が送られる「流人の島」としての役割を担っていました。
流人たちが、横間海岸から大里まで1㎞ほどの道を、島での仕事として玉石運びをおこなったそうで、報酬は石一つにつき握り飯一つ。
島に流されたといっても、その後の生活は誰も面倒を見てくれません。
食べるものが無ければそのまま野垂れ死に。生きるために、彼らは玉石運びに従事しました。
陣屋に残る美しい玉石垣は、そんな悲しい歴史の語り部でもあります。
とはいえ、島は冬でも暖かく、人はとびきり親切で、生活は貧しく苦しくとも、そうそう暮らしにくいというところでもなかったようです。
その証拠に、罪を許されて島を離れた流人の中には、再び島に戻って島で一生を終えた人たちもいます。
流人に愛着を抱かせてしまう魅力が、八丈島にはあるようなのです。
この玉石の石垣は今でも、八丈島で規模・美しさともに秀逸とされています。台風の多い八丈島の暴風雨から住居を守るための防風林としての機能もあります。
歩いて15分ほどの距離を、この玉石が両サイドに積まれる道の光景は圧巻です。
民家は屋敷のまわりに玉石や溶岩の石垣を築いた(オリ)。その上にはツバキや椎などを防風林として植えました。