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映画「幸せの経済学」~ローカリゼーションの意味を考える

先日、渋谷のアップリンクで「幸せの経済学」 という映画を見てきました。監督は、私が3年ほど前に読んでとても感動した本「ラダック 懐かしい未来」の著者、ヘレナ・ノーバク・ホッジ氏です。

ラダックは、インドの北部にある、近代化が遅れた辺鄙な山岳都市の村です。そこで10数年前に著者が見た風景は、電気も水道も通っていないが、人々が自信に満ち、自給自足に近い生活を行い、助け合って満足に暮らしている風景でした。子供たちは明るく生き生きとし、仏教文化も伴って人々は謙虚に働き、「とても幸せだ。」と語っていたそうです。その本を読んだとき、現代社会が失ったもの、人間の幸せについて、目から鱗が落ちるような思いがしました。

 さて、その後のラダックは、欧米の資本が入って急速に都市化が進んだ結果、人々は「貧乏」になってしまいました。10数年前にはここには「貧しい人」はいなかったそうですが、今では、浮浪者が増え、「お金が無く貧乏だ」として西側に援助を求めるようになり、スラム街が大量に発生しています。

 何が、そのような劇的な変化を引き起こしてしまったのだろう?と思います。

私たちの暮らしが、発展途上国の文化よりも「優れていて、進んでいる」という、身勝手な妄想から、グローバル経済を唱えて世界に進出した結果、世界中の半分以上の人々を飢餓と貧困に追い込んでいる、こちら側の人間の罪はどこまで深いのだろうか、と。

 映画「幸せの経済学」は、現代のラダックの様子を通して、現代社会が陥っている人間疎外の価値観、経済至上主義の暴力を、リアルの映し出していると思いました。その中で、現代の人が自信を失う理由というものが明確にされていてはっとしました。グローバリゼーションが人間に与えるものは、地球規模での競争です。

世界競争で勝ち進んだ大企業の中でも、選ばれた優秀な人が送り出す大量の製品、人種も肌色も違う白人の美しい女性が宣伝するめくるめく広告を見ながら、「自分はその人と比べて醜く、劣っている」というふうに自分を評価します。自分たちの暮らしはみすぼらしく、貧しい、と欧米メディアを見ながら絶望する。無意識にしみこんだ強い劣等意識は、人々の心を蝕み、過激な競争心や無気力、依存心、あるいはテロリズムを培養します。

一方で、ヘレナ氏がここで提唱しているのが「ローカリゼーション」です。身近な社会、地域のつながり、食糧やエネルギーの地域での生産、その基盤をつくることと同時に世界との交流を活発に行う、地域の固有性を大切にしながらお互いに交流するような未来では、人はもっと幸せになるだろうと言っています。それは、先進諸国でも同じです。

 原発のようなエネルギーでなく、自然エネルギー拠点を分散配置し、地域の生産性があり、コミュニティーを大切にした単位をつくることが、可能性のある未来を考えるときにとても大切だと、この映画で深く考えさせられました。

 

 

「キッズタウン東十条」が新建築6月号に掲載されました。

3月に竣工した「キッズタウン東十条」 が新建築の6月号に掲載されました。


建築家 田口知子の日常をつづったブログ

今月は「保育のための空間」というテーマの特集号です。保育園、幼稚園、こども園など、さまざまな新しい保育園の試みが紹介されています。自分以外の建築家の文章を読むと、なるほどそういう考えもあったか、と新たな発見があります。建築を作ることはいつでも発見に満ちていておもしろいです。

 

 私が新建築に掲載した設計主旨を転載します。


 「すべての場所が遊び場であるように」

この建物は、JRの土地に民間が建設と運営を行う「JR東日本グループ子育て支援事業」の一環で計画された、定員90名の認可保育園である。駅前狭小地で保育室面積を確保するため、RC造の5階建となった。園庭もない厳しい環境で建築として何が可能かを考え、建物全体を遊び場にすることを考えた。

繊細でダイナミックな成長期にある子供たちの遊び場に大切なものは、風や自然光、温度や湿度、においなど、刻々変化する自然を全身で感じられる環境だと思う。2階から4階に配置した保育室は、子供たちがいつでも外に出られるように、建蔽率に入らないバルコニーを南西側全体に張り出させた。デッキ貼りの眺めの良いバルコニーは、子供たちに人気の遊び場になっている。また、園庭の代わりに設置した5階の屋上広場から3階までを、連続する段丘状の屋外遊技場としてデザインした。砂場、すべり台、クライミングウオールなどを階段にからめて造作し、立体的な外遊び空間が実現した。

保育室は階ごとに乳児・幼児・遊戯室+児童デイサービスに分かれており、各階は間仕切り壁の無いひと繋がりの空間で、段差や水回り、EVコアなどによってゆるやかに分節される。高さ85cmの可動収納家具を使って「食事」や「昼寝」「おもちゃ遊び」など、細かなゾーンを作りだすことができる。

ある幼児教育家によると、少し高いところから見下ろすという行為は子供の脳を発達させるらしい。子供にとって階段や段差は、大人の危険意識とは別の、新鮮で刺激的な体験になりうる。同様に吹き抜けを見下ろす窓や、町の風景を眺める窓も、子供の目線にあわせて数多く配置した。その結果道路側のファサードは、床レベルに近いFIX窓と通風用の高窓が、リズミカルに並ぶ特徴的な外観になった。

この保育園が、多様な遊び場や好奇心を刺激する環境を提供し、子供の発達や成長に寄与するだけでなく、大人も新鮮な喜びを体験できる場所として、豊かに育っていってほしいと思う。

「100000年後の安全」~原発の使用済核燃料の処理を問う

昨日、渋谷のアップリンクで「100000年後の安全」という映画を見ました。

フィンランドで、原発で発生した使用済燃料棒を廃棄するための施設を、地盤の中深く数キロにわたるトンネル状の施設をつくり、その先に燃料棒を埋設していくという、実際に行われている施設のドキュメンタリーでした。

今回の福島の原発事故は、蓋をして考えないことにしていた原子力発電の根源的な問題を浮き彫りにしました。私たちは、原発を、資源のいらないお金が儲かるとても便利な発電施設、放射能は漏れたら怖いけど、それが起こらない限り大丈夫でしょう、という微妙な楽観的な判断保留状態のまま原発は使われ続けました。

 その結果、各原発の建屋の中には発熱を続ける使用済核燃料がどんどん増え続け、その燃料棒は数万年に、人が即死するほどの高レベルの放射能を発しつづけるという事実を、どう考えているのでしょう。実は、まだ誰も本当にはそのことに答えを出していない、という大変な事実を、こわれた福島の建屋の上部の「その部屋」を見て、私たちは直視する羽目になりました。

 映画では、フィンランドが、オンカロと名付けられた場所、使用済核燃料廃棄施設を作り続けているというドキュメンタリーです。この施設は完成するまでに100年かかる、と言っていました。フィンランドは、18億年、不動の岩盤があり、そこであれば安全だろう、という専門家の結論がこの計画の根拠になっているようです。廃棄物をロケットに入れて宇宙に飛ばす、あるいは、海に沈める?どれをとっても数万年の期間、大きな環境へのダメージなく安全を担保する方法ではない、という専門家の結論です。でも、そこで、堅牢な岩盤をダイナマイトで壊しながら、地下深く埋蔵施設をつくり、核燃料を充填してあとはコンクリートで封印する、という計画委です。人が近づかないために、どのように未来の人類に伝えていくか、言語も違う、文面も違っているかもしれない未来の人類に伝える方法を真剣に議論している様子が、滑稽でもあり、シニカルな現実として伝わってきました。

 日本は地震国ですし、このように地下を掘るのはありえないのは確か。ぞれでは、いったい、この使用済核燃料、どうしようとしているのでしょう?

原発は燃料費がかからないし安定した発電方法である、これからも必要だ、と言っている政治家や電力会社の人には、もっときちんと現実を直視してほしいものです。原発をやめても持続可能な社会、安全な未来をつくっていかないといけない、そのためにできることは何なのか、真剣に考えつづけたいと思いました。


建築家 田口知子の日常をつづったブログ げんぱつとはなんぞにゃ?まぐろのほうがいいぞ。(りょうま)