権力とマイノリティ -24ページ目

「医療制度改革法案」自民党内で内紛? 新聞論調の違い

■「ご懐妊」より「医療制度改革法案」のニュース
 ニュースは「紀子さまご懐妊」で「皇室典範改正に慎重論」なんていう論調ばかりが目立つ。
 が、わたしは断然、高齢者の医療費負担増など、さまざまな問題・課題をはらんだ「医療制度改革法案」ニュースの方が大変に気になる。
  以前、このブログで、以下のような記事をアップしている。
「経済財政諮問会議」によって仕組まれている医療「構造改革」
<http://ameblo.jp/t-garasu/entry-10005567241.html>
「医療改革構造試案」は医療の「市場原理」導入へ
<http://ameblo.jp/t-garasu/page-2.html>

 今国会で「医療制度改革法案」が上程されることになっているので、その行方が気になっていた。最近、1月18日に開かれた経済財政諮問会議で、医療制度改革が議事に上がっていたので、ホームページで議事録要旨と厚労省提出の資料をチェックしていた。
 そしたら、次のようなニュースである。ネットで報道をチェックしたのだが、読売新聞と朝日新聞の論調の違いを検証してみよう。最近、テレビで「ジャーナリスト宣言」というCMをしている朝日新聞から引用してみよう。

蛇足  朝日新聞社御中  「ジャーナリスト宣言」というからには、ぜひその神髄をご披露しただければ幸いです。 元朝日新聞読者より。


●朝日新聞  2月7日11時19分
【医療制度改革法案、自民部会が了承 療養病床削減も決着】
http://www.asahi.com/life/update/0207/007.html
自民党の厚生労働部会と医療、介護両委員会の合同会議は7日、高齢者の負担増や新たな高齢者医療制度の創設などを盛り込んだ医療制度改革関連法案の要綱を了承した。党内から反発が出ていた長期入院者のための療養病床削減案については、患者の受け皿となる介護施設のあり方などについて検討規定を設けることで決着した。一方、医師不足対策としてへき地での勤務を開業の条件にする案は、与党や医療関係者らの反発に配慮して見送りになった。同日午前の党政審、総務会を経て10日に閣議決定され、国会に提出される見通し。(中略)
「医師不足は危機に面しており、大きな意味がある」「医師の社会的任務として経験も必要」などと前向きにとらえる意見の一方で、「やる気のない人に行かせても、根本の解決にならない」「臨床研修の中身を充実させることで解決が可能な部分がある」などの意見が出た。与党からも、「職業の自由選択を縛りかねない」などの批判が出たため、法案への盛り込みは見送られた。

■与党・自民党内の内紛を報道する読売新聞
  次は、保守的と見られる読売新聞だが、医療・福祉政策については、取材記者の層の厚さを思い知らされる。それゆえ、社会保障制度に関しては、読売新聞や産経新聞の報道が要チェックであると、つねづね感じている次第である。

●読売新聞   2月7日23時38分
【医療制度改革関連法案、論議紛糾も国会提出了承ノ自民】
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060207ia22.htm
自民党は7日、高齢者医療などを抜本的に見直す医療制度改革関連法案の今国会提出を了承した。ただ、法案に盛り込まれた、慢性疾患の高齢者が長期入院に利用する「療養病床」の削減に、「厚生労働族」と呼ばれる関係議員の多くや衆院の新人議員が反対し、党内論議は紛糾した。(中略)療養病床の入院患者の約半数は、実際には医療がほとんど必要ない「社会的入院」だとされる。法案は、こうした「冗漫な医療」(丹羽雄哉・党社会保障制度調査会長)を排除し、医療費の削減を目指すものだ。(中略)
しかし、自民党内では療養病床削減への異論が相次いだ。7日午前、党本部で開かれた厚生労働部会と社会保障制度調査会の合同会合では、衆院新人がつくる「83会」の飯島夕雁(ゆかり)氏が法案了承を求める執行部にかみついた。
83会の他のメンバーや、木村義雄・元厚労副大臣、武見敬三参院議員らも「長期入院の高齢者を追い出すことになる」「都会では病床が足りない状態」と同調。新人議員とベテランの厚労関係議員が「共闘」して法案に反対した。
これに対し、丹羽氏は、「少子高齢化社会が進展する中で、療養病床の再編は医療費適正化の「1丁目1番地」の改革だ。療養病床に代わる受け皿は真剣に検討する」と、法案への理解を求めた。大村秀章厚労部会長も「ベッド数が減るわけではなく、ベッドの性格が変わるだけだ」と強調した。最後は「こんな決め方は許せない」などの怒号が飛び交う中、大村部会長への一任をかろうじて取り付け、その後の総務会で法案は正式に了承された。

■「1丁目1番地」ってなに?   国会での論戦に期待!
  いわゆる厚生族と呼ばれる「日本医師会」の族議員たちは、医療「構造改革」に対しての、「抵抗勢力」であったのだか、9・11総選挙の小泉チルドレン&シスターズなどの圧勝に対して、抵抗勢力であることを誇示できなくなっていたようだ。 何やってもムダだ、という「あきらめムード」が漂っていたのでしょうか?
  国会の衆参両院での厚生労働委員会では、与野党問わず、この国の医療制度の行方について、真摯な議論を望みたい。わたしたち国民は、国会での論戦を注視している、そう申し上げておく。

『ジェンダー・フリー・トラブル』

■ジェンダーはさまざまな変数が交錯する場
 21世紀の幕開けとほぼ同時に始まった、性教育・ジェンダーフリー・バッシング現象は、現在も進行中であり、その現象は「ジェンダー・フリー」概念から、「ジェンダー」概念、さらに「ジェンダー研究」へと、そのターゲットが拡大中である。
 『ジェンダー・フリー・トラブル』(木村涼子編・白澤社・2005年)は、9名の執筆者がそれぞれの専門分野から、バッシングの社会的背景を検証している。
 ジェンダーという概念は、1995年の世界女性会議(北京会議)から、世界的に急速に広まった。ジェンダーはセックス(性)と区別するために「社会的・文化的につくられる性差」と訳される。この概念をもう少しくわしく見ていくと、セックス・セクシャリティ・階級・人種・年齢など、さまざまな変数が交錯する場であるという。

■新自由主義経済化の若年労働をめぐる現状
 新自由主義経済では「市場は万能」というフィクションに支えられているため、失敗が多いが、その失敗の言い訳のためのスケープゴートが用意されている。それは、非正規雇用のフリーターや「働かない」ニートと呼ばれる若者である。資本は中高年の雇用を守るために、若年労働力による雇用調整を行っている。 
 ジェンダーレスに、労働者を搾取し始めたネオリベラル資本に関する考察が欠かせない。ところが、労働本来の失敗である原因に目が向けられないですむように、巧みに世論形成が行なわれているのである。ネオリベラルな権力作用とは、再編された<男性性>による権力作用だ。

■男性の周辺化と「フェミナチ」について
 <文化戦争>としての最近のバックラッシュは、インターネットでフェミニズムを「フェミナチ」と呼ぶ(いわゆる2ちゃんねらー)の若年男性の動向が、目立っているのが特徴だ。まるでフェミニズムが、支配権力の一部であるかのように主張する「フェミナチ」バッシングが盛んになっているのは、その背景に、一部の男性の周縁化および男性間の「格差」拡大があるからではないか。
 90年代前半の予想において決定的に見えていなかったのは、80年代に完成された「企業中心社会」がその隠された基本テーゼとしていた<男同士の絆>の崩壊ではないか。いま求められているのは、周辺化された男性に向かって発信していく言説だろう。
 <中心>に<周辺>がモザイク化されて組み込まれ、グローバリゼーションの状況下にあって、<中心>のただ中に疎外されて存在する男性を、可視化していくことが求められている。

■「純潔教育」の始まりは敗戦後の「私娼の取締り」?
 
 ジェンダー・バッシングは、性教育をいちばんのターゲットにしている。
 バッシング派のいう「新・純潔教育」のルーツをたどれば、第二次世界大戦後に、私娼を取り締まるための風俗対策、治安対策として出発した「純潔教育」という名の性教育である。純潔教育は、占領下の買売春政策を補完する役割を担ったのである。
 つまり「買春疑惑議員が純潔教育を支える」埼玉県議会の構造は、歴史的に見て「正当性」があるということだ。

■ラディカルな思想のはらむ困難性
 近代的な価値観を転倒させようとするジェンダーやフェミニズムは、ラディカルな思想である。そうした思想であればあるほど、困難をはらんでいるといえる。
 ジェンダーやフェミニズムは、人間存在に関わる家族・教育・企業・国家などに関して、さまざまな共同性の試みを論じているが、それらを現実化していくためには、高度に政治的なプランニングが要求されている。ジェンダー・バッシングに立ち向かうわたしたちに求められているのは、さまざまな情報の共有化と<政治>ではないか。

『闘えない軍隊 肥大化する自衛隊の苦悩』

■九条改憲は米軍再編を視野に入れた議論を
『闘えない軍隊』(講談社+α新書・2005年)の著者である半田滋記者(東京新聞)は、1992年から現在まで防衛庁担当として、自衛隊の取材を継続してきたジャーナリストである。
 半田氏は「九条の会・さいたま」の講演(1月22日)で、「自衛隊は平和主義者である。なぜなら、もし戦争になれば、真っ先に殺されるから存在だから。九条の改憲論議は、米軍の再編問題を視野に入れた議論が必要ではないか」と話した。
 著書はまえがきで、半田氏は改憲議論が戦後50年ではなく、60年になって、改憲草案や論点整理をしているのは、この10年間に自衛隊が劇的に変化したことと無関係でないと指摘している。半田氏は1992年のカンボジアPKO、そして、イラクに派遣された自衛隊の活動を現地で取材している。

■冷戦構造の崩壊後も軍事訓練を重ねる自衛隊
 自衛隊は1950年、朝鮮戦争にきっかけに警察予備隊という名で産声を上げた。4年後に成立した自衛隊法によれば「自衛のための必要最小限度の実力装置」とある。ソ連の驚異を背景に西側諸国の一員として、それを阻むための役割を担った。が、ソ連崩壊による、いわゆる冷戦構造の崩壊後も自衛隊は規模を縮小することなく、強力な武器を買いそろえ、訓練を重ねていた。1991年に初の海外派遣となったペルシャを皮切りに、カンボジア、モザンビーク、ルワンダ、ゴラン、東ティモール、そして、現在はイラクに派遣されているのである。
 憲法で禁じた武力行使や集団的自衛権の行使にならないように、武器使用を戒め、国連の指揮下にも入らないというPKOの制約は、少しずつ緩められた。

■サマワで給水ではなく、ODAでイラク人を雇用?!
 イラク派遣はその集大成であり、同時に次に向かう助走であるという。イラクに自衛隊を派遣したのは、いうまでもなく小泉首相だ。米国の要請に従い、陸上自衛隊をサマワまで送り込んでいるのである。取材した半田氏によれば、サマワは閑散とした過疎の村ではなく、バックダットから国道を南下するとサマワ大学、サッカー競技場があり、ユーフラテス川にかかるりっぱな鉄筋の橋を渡ると、市街地が現れ、石造りの町並みが続き、国道の両脇には、さまざまな店舗が並び、車のクラクションでうるさいほどにぎやかだという。失業率は高いが、生活に必要な最低限の食料は、引換券によってただのような金額で買えるそうだ。
 もしかして、自衛隊は砂漠のサマワで給水の仕事をしているんじゃ、なかったのー?!
サマワの人びとが自衛隊に求めたのは、街を近代化して「リトル東京」にすること。そんな魔法を自衛隊に求められて、無理な話だが、自衛隊はODA(政府開発援助)に目を付け、NGOの要請によって出資できる草の根無償資金協力で、イラク人を雇用する仕組みをつくり、さまざまな施設の復旧を行っているという。ODAは外務省管轄だし、自衛隊の安全を確保するための保険でもない。
 この現実を著者は「自衛隊の戦地派遣とは、イラク特措法やODAという法律や制度を液状化させることであると断定せざるを得ない」と解釈する。そして「自衛隊海外派遣は、憲法解釈まで変えるパワーがあるといわざるを得ない」と……。シビリアンコントロール(文民統制)を放棄し、責任はすべて現場にあるという、現在の肥大化した「闘えない軍隊」の姿を、わたしたちが直視するための格好のテキストがここにある。

【イラク支援:陸自第9次部隊、サマワへ出発】
●毎日新聞 2006年1月29日 20時28分
 http://www.mainichimsn.co.jp/shakai/wadai/news/20060130k0000m040079000c.html
 イラク南部サマワで活動する陸上自衛隊の第9次人道復興支援群の第1陣約150人が29日、イラクへ向けて出発した。
 支援群は首都防衛を担う静岡、埼玉、神奈川、千葉県などの東部方面隊約500人で組織され、任務は約3カ月。第1陣に続いて順次、サマワへ向けて出国していく。イラク南部で治安を担当する英豪軍と連携し、支援活動とともに撤収の準備を進めていく。
 

なんだか、やかましい「子どもの防犯」のニュース

◆さいたま市は、全小学校に警備員を配置
 昨日、宅配されていたフリーペーパーの『ショッパー』にたまたま目を通していたら、さいたま市内の小学校の「防犯」の記事が目についた。『ショッパー』の記事によれば、「政令指定都市で市立の全小学校に警備員を配置するのは全国初!」だそうだ。
 ついつい夜ふかし、朝になり、たまたまNHKテレビをつけていたら、「子どもの安全」「子どもを守れ カギは地域の力」なんていうテーマの番組をやっている。

◆「国民保護に関する埼玉計画」と「安心・安全のまちづくり」
 有事(戦時)における21世紀の「国家総動員法」が、国民保護「管理」法制である。地方自治体が、その地域事情に合わせて、「国民保護計画」を策定することになっている。全国的にみて埼玉県はその先進地域であり、「安心・安全のまちづくり」政策を積極的に推進している自治体である。
「安心・安全」という文言を、そのまま理解すれば、決して悪いことではない。日本社会は治安のよい地域だし、決して、凶悪犯罪が増加し、治安が脅かされているなんていう現実は、警察白書などの統計でも明らかにされていない。
 なのになぜ、ここ最近になって「治安が悪化」したのだろうか。そこには、いつでも戦争が出来るような体制づくりをしておきたいという、権力の欲望がある。また、性犯罪を始めとする「凶悪犯罪や少年犯罪」について、メディア・スクラムによって、犯罪被害者に対して、非情な取材攻勢をかけているため、テレビを見ていると、同じような映像が次々とたれ流されている情景が、日常茶飯事になっている。

◆「オオ!ヤバ」小学校の地域ぐるみの安全?!
 どうみても、埼玉県は「安心・安全のまちづくり」先進地域であることは、間違いないようだ。さいたま市立大谷場小学校のホームページには、「地域と進める安全な街作り 地域ぐるみの学校安全推進モデル事業の実践を通して」なんていうコーナーがあるので、一部引用してみよう。
 http://oyaba-e.saitama-city.ed.jp/kenshuu/anzenhoukoku01.html#labeltop
◇本校の学校安全の取り組み
 近年、凶悪犯・粗暴犯が増加しており、昨年は大阪池田小学校において多数の死傷者を出す凶悪事件も発生し、学校の安全も危ぶまれています。大谷場小学校は、南浦和駅の北東に位置し、浦和競馬場も近く、地域住民も治安に不安を持つことのある地域を学区としており、子どもたちへの危険が心配されています。
 このような中で、本校が文部科学省より「地域ぐるみの学校安全推進モデル地域」に指定され、学校内の安全環境を整備し安全教育を充実させるとともに、学校・家庭・地域の各関係機関が相互に連携を図り、一体となって各種の安全活動を行い、学校安全を推進していくことは、学校安全に止まらず地域をあげての「安全な街作り」として、重要な試みであると考えます。◇

 そのまくらことばに、大阪・池田小事件が使われているし、「凶悪犯の増加」なんていうウソも書いてあるし、イヤハヤ…です。そういえば少し前にテレビニュースで、この小学校のこと、やっていたなぁ。さいたま市の小学校っていうのは、覚えていたけど、南浦和の大谷場(オオ!ヤバ)小学校だったのか…。

『ホラーハウス社会 法を犯した少年と異常者たち』

◆精神障害者の地域福祉・医療政策がなぜ、行われていないのか
 芹沢一也氏は『狂気と犯罪 なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』(講談社+α新書・2005年)で、「社会からも法からも排除されている精神障害者」について、近代司法に精神医学が積極的に手を貸してきた、その歴史と思想のありようを明らかにした。
 なぜ今なお、日本が世界一の精神病院「大国」であるかについての実態や、その事実すら知られていないのが現実である。精神病床が、人口比でも絶対数でも、世界最大(日本の精神病床は世界全体の18%を占める)である。WHO(世界保健機構)は、2002年に日本の精神医療について「病院収容から地域医療への転換を緊急に進めるべき」との勧告を行なっている。すでに、精神障害者の隔離政策から地域福祉・医療政策に転換した欧米諸国との格段の隔たりがある。
 日本の精神医療は「医療なき隔離収容」で、精神科特例といわれる制度で、入院患者たちは一般診療科よりも少ない医療スタッフで、大量の抗精神病薬を飲まされ、病院は患者の治療よりも管理を強いられている。
 世界的な潮流からいえば、精神病床の数は大幅に減り、精神障害者はその病を抱えながらも、地域で暮らせる福祉・医療政策が進んでいる。家族のもとで暮らすのではなく、グループホームやアパートで生活をし、ときには、その人のペースで労働している。精神症状の再発、そして、不安や孤独が襲ってきても、それに対応できるような「駆け込み寺」的な医療・福祉システムが機能しているのだ。なぜ、日本ではそうした福祉が行われていないのか、きちんと検証する必要がある。

◆「あぶない」精神障害者を予防拘禁する医療観察法
 2001年の大阪・池田小事件を契機に、「凶悪犯罪」の「再犯を防止すべき」という、権力の長年の念願であった「予防拘禁という保安処分」の法制化が、昨年7月に施行された「心神喪失者等医療観察法」である。この法律の前提には、罪刑法定主義のいわば、適用除外である刑法三九条に対する検証が欠かせない。著者はその歴史的な言説分析を行いながら、果敢に論じている。医療観察法の法案の審議当時から、国会等での取材を続けてきたわたしにとって、まさに目から鱗の本であった。

◆非行少年を保護する社会の終焉
 その続編である『ホラーハウス社会 法を犯した少年と異常者たち』(講談社+α新書・2006年)では、決して統計上明らかに増加していない、少年犯罪をめぐる現状分析を行なっている。少年法の厳罰化は、少年法が本来持っていた教育的機能を放棄する方向に向かい、少年を「保護」する社会の終焉を予兆する。
 同時に、犯罪精神医学の歪んだ「欲望」として、精神鑑定を行う精神科医が「犯罪の専門家」に変質していることをあぶり出している。たとえば、理解不能とされる性犯罪者(最近のニュースでいえば、宮崎勤事件の最高裁判決)などの「動機なき殺人」は、いつの世にも存在したし、1990年代以降に急に激増したわけではない。

◆取材者としてのうずく感覚に共感し、問いかけたい想い
 解説の藤井誠二氏の「取材者としてのうずく感覚」に共感しながら、本書を読んだわたしからすれば、著者の「不安にとりつかれた」今という時代を、どのように受け止めるのかが、問われていると感じる。わたしたちの社会が、わたしたち一人ひとりに突きつけられていると…。
 わたしなりのささやかな論点整理を試みよう。
 医療観察法は精神障害者の治療から離れてしまっている現実。そして、犯罪を未然に防ごうとする環境犯罪学の誕生が意味するものとは何か。
「少年と精神障害者に対する社会の姿勢の変化とは、秩序を乱すものたちを監視し、隔離する仕組みづくりである」という思想の歴史に着目してきた著者の鋭いまなざしがある。
 つまり、現代という社会は「恐怖と治安を快楽として消費する社会」であり、「ホラーハウス社会」とは、犯罪というエンターテイメントと治安をパッケージ化しているのである。「排除と快楽」それらを傍観し、自らはその境界線に踏み込むはずがないと、勘違いしている、わたしたちの社会の多くの住人たちとは、いったい誰のことなのか? 
 本書を読んで「じっくり考えてみよう」と、わたしはみなさんに、問いかけたい想いを抱いている。

統合療法が認知されるために、考えなければならないこと

◆メディア・ウォッチャー@谷口 今日いちばん気になったニュース
 それは、糖尿病の少女がインスリンも打たずに、新興宗教の教祖に騙され、そのために殺され、両親が裁判を起こしたいうニュースだ。
 小児の糖尿病は、成人の肥満などが原因の糖尿病とはまったく違う型の病気であり、インスリンはその子どもにとっては、まさに命綱の薬物療法である。テレビニュースを見ていたが、その少女の主治医はいったいどういう対応をその子どもや家族にしていたのか、それがとても気になった。

◆現代医療と代替療法のきわめてむずかしい関係
 インタビューに答えていた母親のニュース映像を見た、単なるわたしの推測だが…。
 親は子どもを糖尿病の専門医に受診させており、現代医学的な治療はきちんと行っていたようだ。
◇疑問その1 その主治医と治療に関して、いろいろ相談できる関係がつくれていたのだろうか? 
 日本の現代医学は西洋医学が基本であるため、多く医師たちは、東洋医学を始めとする代替療法について、大変に無知であるといわざるを得ないのが、今の日本の医療界の実態である。
 親が子どもに代替療法を受けさせてみたいと相談したとき、その医師はどんな反応をしたのだろうか。

◇疑問その2 「次世代ファーム」を訪れるときに、親は故意にインスリンを持参していなかったのは、どうしてなのか?
 代替療法は、ホントに玉石混淆なのが実態である。高ければ高いほど、価値があるという「迷信」が患者の側に蔓延していることも事実だし、そこにつけ込む「業者」も少なくない。適正価格というものを、医療消費者が判断する基準を持ち得ない、そういう現実もある。
 極端に高額な健康食品を使えば、西洋医学とは縁が切れる、と強要されていなかったか。それなりに適切な現代医学的な治療を受けているにもかかわらず、「わたしを信じなさい」と言って、新興宗教的、あるいは、自己啓発セミナー的に、現代医療の継続を絶つことを強要されていなければ、親はインスリンを持参していたのではないか。

◆親の英断と第三の道の選択
 にもかかわらず、両親が「次世代ファーム」を提訴したということは、そうしたさまざまな葛藤を経ての決断だったのではないか。そうわたしには思える。裁判の行方はとても気になる。が、そうしなくてもよかった第三の道はなかったのか。子どもに現代医療と代替療法を統合して、受けられる可能性はなかったのか。それがわたしには大変気になるのだった。
 
【死亡少女の両親、「次世紀ファーム」を提訴 賠償求める】
 朝日新聞 2006年01月18日
http://www.asahi.com/national/update/0118/TKY200601180415.html?ref=rss
 岐阜県恵那市の自然食品農場「次世紀ファーム研究所」で昨年7月、泊まりがけで訪れていた神奈川県内の中学1年の少女(12)が死亡したことをめぐり、少女の両親が18日、同研究所の代表らを相手に、計約1億円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。
 訴えなどによると、少女は母親に連れられて昨年7月15日、同研究所を訪れ、母親は16日に自宅に戻った。18日、同研究所から少女の呼吸が停止していると119番通報があり、少女は病院に運ばれたが死亡が確認された。少女は小児糖尿病で、インスリンを毎日投与する必要があったが、同研究所を訪れた際は持参しなかったという。

宮崎勤事件の最高裁判決

◆2006年1月17日 宮崎勤事件の最高裁判決&阪神淡路大震災のニュース
 テレビニュースなど見ながら、つくづく感じるのだか、1月17日は、ある意味において、特別な日であったようだ。
 なぜなら、ライブドアへの捜索やヒュザー社長の国会証人喚問もあったが……。
 メディア・ウォッチャーとしては、宮崎勤事件の最高裁判決や阪神淡路大震災のニュースの方が、大変気になった。
 阪神淡路大震災から11年。あの大震災の教訓は、生かされているのだろうか? 大変、疑問である。 信越地震やこの冬の大雪に関する報道から、つくづくそう感じざるを得ない。

◆世界の、憂鬱な先端
 宮崎勤事件の最高裁判決に関しては、ここ最近「17日に最高裁の判決」という報道が盛んになされていたので、そういえば……、という感慨があった。
『M/世界の、憂鬱な先端』(文春文庫)の著者である、ノンフィクション作家の吉岡忍氏に対するマスメディアの動向に注目してレポートしたい。
「M」とは、いうまでもなく宮崎勤のイニシャルである。吉岡忍氏は、この事件について、継続取材を行い、約10年の時間を費やし、20世紀末に同書を単行本として出版している。

◆教訓を引き出せなかった判決ではないか
 その吉岡氏が、今日のニュースに登場することは、わかっていた。だから、マスメディアが、吉岡氏の言動をどのように扱うかについて、わたしの興味があった。
 午後6時&7時のNHKニュースでは、最高裁判決の傍聴を済ませた吉岡氏に対して、取材をしていたが、次のような趣旨のコメントであった。
「なぜ、あのような犯罪が起こったのか、何も解明されていない。このような極刑を処するとすれば、この事件からの教訓を何も引き出せなかったのではないか。社会は(少女などの社会的な)弱者に対して、ますます攻撃的になっている。さまざまな事件をくいとめることのできなかった司法の責任は、どうなるのか。また、司法精神鑑定のあり方について、精神医学はどう考えていくのか、もっと考えて欲しい」
 テレビ朝日の報道ステーションでは、最高裁の傍聴に向かう吉岡氏を追う映像を流していた。吉岡氏は「事件当時、単純わいせつ事件として処理されていた事件が、凶悪犯罪とされてきた経過があるが、今日の判決は、その落差を埋めることができなかったのではないか」というコメントをしていた。
映像にはならなかったが、キャスターのコメントによれば、「宮崎勤が所有していた約6000本のビデオのうち、性犯罪に関するビデオはわずか数十本であった。にもかかわらず、(凶悪な)性犯罪として扱った司法の追及は、何だったのか?」という吉岡氏のコメントを紹介していた。

◆どう考えればよいのか? 刑法三九条
 報道によれば、弁護団は裁判のやり直しを求めているが、その根拠は、被告の「精神異常」だ。つまり、刑法三九条「心神喪失者の行為はこれを罰せず、心神耗弱者の行為はこれを減刑す」である。





 

無保険者急増と年金未納者は医療費の自己負担?! 気になるニュース

 今年は憲法「改正」問題を始め、この国の行方を決定づける大きなメルクマールの年になるようだ。そして、医療「構造改革」は、社会保障制度の崩壊現象としての象徴になるだろう。何でもかんでも「国民の責務」といって、自己責任ばかりが強調され、社会的弱者は生きていけなくなる。高齢者や障害者は、国の穀潰しのごとく責め苦を負い、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する生存権すら危うくなる。
 医療や年金、福祉などの社会保障制度は、国民に対する国家の責務ではないのか。それすら果たせない国家とはいったい何なのか。決して日本の社会保障制度は充分とはいえず、国民に対して情報公開もせずに、きちんとした制度設計ができなかったのは、なぜなのか。きちんと考察する必要がある。
 ヨーロッパ諸国では、いろいろ事情は違うようだけど、国民は権力に対してきちんと意思表示するし、税金の使い道に対する透明度も高く、タックスペイヤーとしての政治意識は高い。国家をそのまま信用しているのではなく、主権者として政府や地方自治体に対して監視を怠らない。日本の場合、「お上」意識がいつまでも抜けず、主権者としての意識があまりにも低いのではないか。
 もっと私たちは、権力に対して怒るべきではないか。自分たちの国のありようについて、あるべき社会保障制度について、意識的であることが求められている。

●毎日新聞 2006年1月4日 
【国民健康保険:全医療費を自己負担、「無保険者」が30万世帯超 04年度】
 国保滞納対策「資格証明書」、00年度の3倍を交付 -04年度・毎日新聞全国調査
http://www.mainichimsn.co.jp/science/medical/news/20060104ddm001100045000c.html
 国民健康保険料の長期滞納を理由に、医療費の全額自己負担を求められる資格証明書を市町村から交付され、保険証を使えない「無保険者」が04年度、全国で30万世帯以上に達したことが、毎日新聞の全国調査で分かった。資格証明書は滞納対策とされ、交付数は00年度の3倍に増えたが、滞納世帯数は逆に上昇。どの自治体も同じように国保財政が悪化する中、交付数に大きな格差も出ている。国民皆保険制度の根幹が揺らいでいる。

●読売新聞 2006年1月4日
【年金未納なら医療費は全額自己負担に、厚労省が検討】
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20060104ik01.htm
 厚生労働省と社会保険庁は3日、国民年金の長期未納者と長期未加入者について、国民健康保険(国保)を使えなくする措置を導入する方向で検討に入った。国保が使えなくなると、医療機関に受診した場合の患者負担は全額自己負担になる。年金の未納・未加入者に対する事実上の罰則規定を設けるものだ。実施の具体的な基準を詰めたうえで、早ければ2007年度から実施したい考えだ。

刑法三九条と日本の近代を考える

 刑法三九条について考えるとき、刑法とは何なのか? という根源的な問題が立ちはだかる。
 刑法と少子化問題でいえば、優生保護法(現・母体保護法)を廃止して、中絶を非合法にし、刑法の堕胎罪を復活させることが考えられる。ジェンダー・バッシング派が、執拗に性教育を非難し、ジェンダー・フリーを勝手にセックス・フリーと誤読することに注意したい。
 とりあえず、現行刑法の成立について、芹沢一也氏の『<法>から解放される権力』を再読してみる。「人格」を裁くのが現行刑法であるのならば、「人格障害者」を予防拘禁したいという「犯罪精神医学」の欲望は、稚拙な医療観察法の今後の解釈や運用によって達成されるかもしれない。

◆すべてのピースが揃った!
 芹沢氏が11月の講演会で、医療観察法の成立にあたって「すべてのピースが揃った」と、90年代後半以降の分析をしていた。
 すべてのピースとは、1. 犯罪に対する社会のスタンスが根本的に変わったこと。犯罪被害者のいう概念が発見され、犯罪者は社会の敵として認識され、犯罪被害者への感情移入が行われた。1. 神戸の酒鬼薔薇事件に象徴される少年犯罪の凶悪化、怪物化する少年という存在。1. 2000年の厳罰化を目指した少年法の「改正」。1.日垣隆氏の「刑法三九条のタブーを突く」という言説。そして、最後のピースは、2001年の児童殺傷事件としての池田小事件の発生である。
「犯罪精神医学」の欲望とは、社会に望ましくない性犯罪者らを「異常」だと決めつけ、人間を丸裸し、社会から排除するための学問である。「触法精神障害者」をスケープゴートにして、触法と異常を合体させていく。それが医療観察法の真の狙いなのだが、余りにお粗末な法適用の乱用で、実のところその真実が見えてこないという、これまたなし崩し的日本の現実がある。

◆近代日本とポスト・モダンの難しい関係
 近代日本という歴史的なスパンで考えるとき、幕末から明治というひとつのメルクマール、昭和ファシズムを準備した<大正的な時代>から第二次世界大戦の敗戦、そして、戦後60年といわれる現在までが、実は地続きであるという「歴史」が存在する。
 そして、思想やロジックを変更するためには、政治的力学が働くため、大きな問題を抱え込んでいるのが、今という時代なのではないか。
 アメリカの日本に対する内政干渉である「年次要望改革書」に、忠実である政権がずっと続いてきて、今まさに日本が壊れていくところを、私たちは体験している最中だという認識をしている。わたしは今の日本の現実に悲観的にならざるを得ない。
「市民革命」の経験を経ずして、「近代」を迎えた日本という国家の不思議。日本という場所で、ポスト・モダンをどう提起するのか、難しい課題だけど、歴史は確実にポスト・モダン状況を迎えているようだ。
 刑法三九条を考えるとき、日本の近代そのものの問い直しが迫られているのではないか。あらためて、そう感じる。

わたしは「ラブソング」が嫌いだった!

 今日(すでに、昨日だが)は、午前中から1日中、市民運動のために県庁にいた。めんどいので、そのことはここで話したくない。いやはや、なんだんなぁ、想定内とはいえ、てめえらぁ、そこまで仕組んでくれるのよぉ…(?!)の世界で、ただただ、いやはや(イントロ、終わり)…。

 半年ぐらい前だったかなぁ、たまたま深夜のテレビニュースのあと、そのままテレビをつけていたら、小田和正の「フォークソング自分史」みたいな番組を毎週やっていたので、ついついそれを見ていた。

 その続編ともいうべき、番組を今日やっていた。それも、メインのコンサート会場は、うちのご近所だった模様。たとえ、それを事前に知っていたとしても、わたしはその会場には、足を運ばなかっただろう。フォークっていうのは、数十人、多くても数百人のコンサート会場が、身の丈にあったコンサート会場だから。

 音楽的にわたしは、70年代フォーク世代。オフコースの「さよなら」とかは、知っていたけどすでに、わたしの関心外の世界だった。フォークソングは、ラブソングであるとともに、反戦歌だったりするのに、日本フォークは、なぜ、そういうメッセージを発しないわけ……とか、10代の頃に思っていた。男性歌手の歌うラブソングは、女性を私物化したいという差別ソングだったりしたわけで、「えーぇー、なに!それ?」とか、想っていた。

 女性のフォークソングで引かれたのは、男に捨てられた女の恨み節だったもんねぇ。わかりやすくいえば、中島みゆきだけど、あと、山崎ハコとか……。もっといえば、わたしはかなり古くて、浅川マキのファンで、彼女の年末コンサートにはずいぶん足を運んだ。

 でも、小田和正のコンサート番組を見ながら、知っている歌をひとりカラオケ状態で、落ちこぼれる涙を抑えきれず(ボロボロ…)に、一緒に口ずさんでいた。そりぁ、小田和正の「フォーク自分史」番組で、何か共鳴するものが、あったんだろうけど…。

 ついつい、想ったんだけど、人を恋して愛したいという欲望を、「平和」に歌っていられるのは、日本が平和だったから。でも、そのラブソングをいったい、いつまで歌うことができるのか…。そんなことを想うと、男の歌うラブソングっていうのも、なんかしみじみしゃうわけ。

 女が男を恨みながら、「勝手にしてよぉ…」と自らの世界に埋没しつつ、「あたしはひとりで生きていくのよ」と言い放つ。が、男は「僕のすべては君だけ…」とかいって、何か、すれ違っているんだけど、そういう人びとの関係の世界が存在することが、実はとても大切なんじゃないか、だって…想うわけ。