『ホラーハウス社会 法を犯した少年と異常者たち』 | 権力とマイノリティ

『ホラーハウス社会 法を犯した少年と異常者たち』

◆精神障害者の地域福祉・医療政策がなぜ、行われていないのか
 芹沢一也氏は『狂気と犯罪 なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』(講談社+α新書・2005年)で、「社会からも法からも排除されている精神障害者」について、近代司法に精神医学が積極的に手を貸してきた、その歴史と思想のありようを明らかにした。
 なぜ今なお、日本が世界一の精神病院「大国」であるかについての実態や、その事実すら知られていないのが現実である。精神病床が、人口比でも絶対数でも、世界最大(日本の精神病床は世界全体の18%を占める)である。WHO(世界保健機構)は、2002年に日本の精神医療について「病院収容から地域医療への転換を緊急に進めるべき」との勧告を行なっている。すでに、精神障害者の隔離政策から地域福祉・医療政策に転換した欧米諸国との格段の隔たりがある。
 日本の精神医療は「医療なき隔離収容」で、精神科特例といわれる制度で、入院患者たちは一般診療科よりも少ない医療スタッフで、大量の抗精神病薬を飲まされ、病院は患者の治療よりも管理を強いられている。
 世界的な潮流からいえば、精神病床の数は大幅に減り、精神障害者はその病を抱えながらも、地域で暮らせる福祉・医療政策が進んでいる。家族のもとで暮らすのではなく、グループホームやアパートで生活をし、ときには、その人のペースで労働している。精神症状の再発、そして、不安や孤独が襲ってきても、それに対応できるような「駆け込み寺」的な医療・福祉システムが機能しているのだ。なぜ、日本ではそうした福祉が行われていないのか、きちんと検証する必要がある。

◆「あぶない」精神障害者を予防拘禁する医療観察法
 2001年の大阪・池田小事件を契機に、「凶悪犯罪」の「再犯を防止すべき」という、権力の長年の念願であった「予防拘禁という保安処分」の法制化が、昨年7月に施行された「心神喪失者等医療観察法」である。この法律の前提には、罪刑法定主義のいわば、適用除外である刑法三九条に対する検証が欠かせない。著者はその歴史的な言説分析を行いながら、果敢に論じている。医療観察法の法案の審議当時から、国会等での取材を続けてきたわたしにとって、まさに目から鱗の本であった。

◆非行少年を保護する社会の終焉
 その続編である『ホラーハウス社会 法を犯した少年と異常者たち』(講談社+α新書・2006年)では、決して統計上明らかに増加していない、少年犯罪をめぐる現状分析を行なっている。少年法の厳罰化は、少年法が本来持っていた教育的機能を放棄する方向に向かい、少年を「保護」する社会の終焉を予兆する。
 同時に、犯罪精神医学の歪んだ「欲望」として、精神鑑定を行う精神科医が「犯罪の専門家」に変質していることをあぶり出している。たとえば、理解不能とされる性犯罪者(最近のニュースでいえば、宮崎勤事件の最高裁判決)などの「動機なき殺人」は、いつの世にも存在したし、1990年代以降に急に激増したわけではない。

◆取材者としてのうずく感覚に共感し、問いかけたい想い
 解説の藤井誠二氏の「取材者としてのうずく感覚」に共感しながら、本書を読んだわたしからすれば、著者の「不安にとりつかれた」今という時代を、どのように受け止めるのかが、問われていると感じる。わたしたちの社会が、わたしたち一人ひとりに突きつけられていると…。
 わたしなりのささやかな論点整理を試みよう。
 医療観察法は精神障害者の治療から離れてしまっている現実。そして、犯罪を未然に防ごうとする環境犯罪学の誕生が意味するものとは何か。
「少年と精神障害者に対する社会の姿勢の変化とは、秩序を乱すものたちを監視し、隔離する仕組みづくりである」という思想の歴史に着目してきた著者の鋭いまなざしがある。
 つまり、現代という社会は「恐怖と治安を快楽として消費する社会」であり、「ホラーハウス社会」とは、犯罪というエンターテイメントと治安をパッケージ化しているのである。「排除と快楽」それらを傍観し、自らはその境界線に踏み込むはずがないと、勘違いしている、わたしたちの社会の多くの住人たちとは、いったい誰のことなのか? 
 本書を読んで「じっくり考えてみよう」と、わたしはみなさんに、問いかけたい想いを抱いている。