『ジェンダー・フリー・トラブル』 | 権力とマイノリティ

『ジェンダー・フリー・トラブル』

■ジェンダーはさまざまな変数が交錯する場
 21世紀の幕開けとほぼ同時に始まった、性教育・ジェンダーフリー・バッシング現象は、現在も進行中であり、その現象は「ジェンダー・フリー」概念から、「ジェンダー」概念、さらに「ジェンダー研究」へと、そのターゲットが拡大中である。
 『ジェンダー・フリー・トラブル』(木村涼子編・白澤社・2005年)は、9名の執筆者がそれぞれの専門分野から、バッシングの社会的背景を検証している。
 ジェンダーという概念は、1995年の世界女性会議(北京会議)から、世界的に急速に広まった。ジェンダーはセックス(性)と区別するために「社会的・文化的につくられる性差」と訳される。この概念をもう少しくわしく見ていくと、セックス・セクシャリティ・階級・人種・年齢など、さまざまな変数が交錯する場であるという。

■新自由主義経済化の若年労働をめぐる現状
 新自由主義経済では「市場は万能」というフィクションに支えられているため、失敗が多いが、その失敗の言い訳のためのスケープゴートが用意されている。それは、非正規雇用のフリーターや「働かない」ニートと呼ばれる若者である。資本は中高年の雇用を守るために、若年労働力による雇用調整を行っている。 
 ジェンダーレスに、労働者を搾取し始めたネオリベラル資本に関する考察が欠かせない。ところが、労働本来の失敗である原因に目が向けられないですむように、巧みに世論形成が行なわれているのである。ネオリベラルな権力作用とは、再編された<男性性>による権力作用だ。

■男性の周辺化と「フェミナチ」について
 <文化戦争>としての最近のバックラッシュは、インターネットでフェミニズムを「フェミナチ」と呼ぶ(いわゆる2ちゃんねらー)の若年男性の動向が、目立っているのが特徴だ。まるでフェミニズムが、支配権力の一部であるかのように主張する「フェミナチ」バッシングが盛んになっているのは、その背景に、一部の男性の周縁化および男性間の「格差」拡大があるからではないか。
 90年代前半の予想において決定的に見えていなかったのは、80年代に完成された「企業中心社会」がその隠された基本テーゼとしていた<男同士の絆>の崩壊ではないか。いま求められているのは、周辺化された男性に向かって発信していく言説だろう。
 <中心>に<周辺>がモザイク化されて組み込まれ、グローバリゼーションの状況下にあって、<中心>のただ中に疎外されて存在する男性を、可視化していくことが求められている。

■「純潔教育」の始まりは敗戦後の「私娼の取締り」?
 
 ジェンダー・バッシングは、性教育をいちばんのターゲットにしている。
 バッシング派のいう「新・純潔教育」のルーツをたどれば、第二次世界大戦後に、私娼を取り締まるための風俗対策、治安対策として出発した「純潔教育」という名の性教育である。純潔教育は、占領下の買売春政策を補完する役割を担ったのである。
 つまり「買春疑惑議員が純潔教育を支える」埼玉県議会の構造は、歴史的に見て「正当性」があるということだ。

■ラディカルな思想のはらむ困難性
 近代的な価値観を転倒させようとするジェンダーやフェミニズムは、ラディカルな思想である。そうした思想であればあるほど、困難をはらんでいるといえる。
 ジェンダーやフェミニズムは、人間存在に関わる家族・教育・企業・国家などに関して、さまざまな共同性の試みを論じているが、それらを現実化していくためには、高度に政治的なプランニングが要求されている。ジェンダー・バッシングに立ち向かうわたしたちに求められているのは、さまざまな情報の共有化と<政治>ではないか。