権力とマイノリティ -23ページ目

医療に市場原理導入を目論む規制改革会議の宮内義彦氏のマッチポンプ

■泥棒が裁判官になるような「利害の抵触」
 日本医療に対して、米国式の市場原理を導入することに警鐘を鳴らし続けてきた李啓充氏(医師・作家・元ハーバード大学助教授)は、昨年5月の兵庫県保険医協会の講演で「利害の抵触」として次のようなことを述べている。

「ある職種に就いている人が、その立場や権限を利用することで、個人的な利得を得ることが可能になるような状態」を利害の抵触と言う。たとえば、泥棒が裁判官の立場になって、自分を裁き、無罪にするようなことを指す。
「利害の抵触」の最たるものが、規制改革会議。その代表(議長)の宮内義彦氏はオリックスの総師。オリックスはリース業が本業だが、保険業を大々的に営んでいる。規制会議は、混合診療の解禁を突破口に、医療の市場原理の導入を目論んでいる。
 オリックスは融資する際に、オリックス保険会社のガン保険の加入を条件にする。民間の医療保険の市場が自動的に増えるのが、未承認薬の抗ガン剤など混合診療の解禁である。自らの企業が潤う立場にある人が、小泉政権の規制改革会議で、混合診療解禁の旗振り役をしているのだ」

■民間資金の導入・運営によって設立された公立病院の高知医療センター
 「高知医療センターは、県立病院と市立病院を合体させ、PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)によって設立された。病院の建設から、医療機器のリースなど、病院経営の多くをオリックスが仕切っている。
 つまり、宮内氏の規制改革会議は、日本医療を米国資本のビジネスチャンスと、公的保険の抑制という相反する二代政策を掲げている。これは明らかな政策の間違いであり、医療本来のあるべき姿を基本にすえて考えるべきだ」
(「月刊保団連」臨時増刊 2006年 全国保険団体連合会発行より)

 高知医療センターについては、地元紙の高知新聞が詳しい記事を連載しているので、以下を参照のこと<http://www.kochinews.co.jp/rensai05/05tougoufr.htm>。
 院長の退任などのトラブルを抱え、オリックスの担当者は医療経営の素人であるがゆえの誤算など、「官から民」というスローガンは、決して成功しているように見えない。が、この高知方式は、全国的に赤字を抱えている公立病院のモデルケースとして注目されている。

      高知医療センター    ⇦ 院長退任の記者会見   


 ■「小さな政府」のサッチャリズムを源流にしたPFI
 高知方式のPFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)とは、いったいいかなる政策手法なのか。
 1992年に英国で始めて導入された公共施設の建設、維持管理、運営などを民間の資金や経営能力や技術を活用して行う新しい社会資本整備の手法である。
 日本では、1999年に「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律」の成立により、国や地方自治体などで、公共事業のコスト削減のためにさまざまなプロジェクトが実施されている。当初は庁舎などの公用施設が中心だったが、医療・教育・リサイクルなどと対象範囲が拡大されている。
 最近、自治体の公共施設が指定管理者制度によって、どんどん民間に払い下げられているのだが、その根拠がPFIだったのかぁ、と思わず納得・・・。
 英国でスタートしたというPFIだが、1980年代後半のサッチャー政権に源流があるようだ。財政再建政策の手法として「民営化」と「外注化(アウトソーシング)」を導入したが、公共サービスの質のコントロールができなくなるなどの弊害を招いた。
 それまで収益を生まない公共事業の整備に民間資金を使うという手法は認められていなかったが、PFIは既存の法体系を変えずに、民間資金を使って公共事業の整備を進めることができるようになった。

■官民のパートナーシップ構築を訴えた労働党のブレア
 1990年代の保守党メジャー政権は、サッチャリズムの「小さな政府と市場原理主義」を踏襲したが、労働党のブレアは「英国の経済繁栄の背景には、教育格差の拡大や貧富の差の拡大がある」と批判し、「将来の経済繁栄を持続させるためには、官民のパートナーシップを構築する必要がある」と訴え、1997年に労働党の政権奪還を果たした。
 ブレア政権の官民のパートナーシップの構築の考え方が、PPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)と、PFI(パブリック・ファイナンス・イニシアティブ)である。
「行政と市民のパートナーシップ」というスローガンは、日本でも盛んに使われるが、英国などヨーロッパの公共としてのパートナーシップと、どうも根本的に違うのではないか。行政の下請けとして、安上がりにこき使われる福祉NPOなどのありようなどを見ていると、そう思わざるを得ない。日本では市民が、真の主権者としての機能しているとは思えないからだ。
 小泉流「構造改革」(日本社会の破壊工作)は、弱肉強食の新自由主義政策である。その政策の源流をたどると、1980年代のサッチャーやレーガン、中曽根にたどり着く。レーガンとナカソネのロン・ヤス関係は、ブッシュ・コイズミ関係を彷彿とさせるし、更にもっとあぶない日米同盟関係という従属・隷属構造の深化を感じるのは、わたしだけではあるまい。

やっぱり出た 障害者自立「阻害」法の犠牲者

■重度の身体障害者を親が殺害する痛ましい事件
「障害者自立支援法」は、障害者の自立支援を謳い、身体・知的・精神の3障害を統合し、共通の福祉サービスを受けられるといいながら、実は障害を持つ人たちやその家族に 対して、「福祉サービスを金で買え」という自己責任論で貫かれている悪法である。
 今まで多くが、無料で受けられていた福祉を、受益者負担とかいう論理で、サービスを受けるのだから「原則1割は、自己負担」にするというもの。障害を持つ人は、もともとその障害のために働けないことが多いし、家族もその介護や看護に追われているため、低所得者層が多いのは明らかではないか。
 わたしはこの法律の犠牲者が出ると思っていたが、やっぱり、である。母親が子どもである重度の身体障害者を殺害するという、痛ましい事件が起こった。

■病気も障害も老いも「自己責任」?!
 それぞれの障害は、今まで違う法律によって、福祉・医療について定められ、それぞれ運用されてきた。それでもまだまだ、不充分な点も多く、財政的支援についても、先進国の中では相当に低い。かなり強引に昨年10月に成立した障害者自立支援法は、障害者の自立を阻害するものにしかならない、とわたしは考えていた。
 各障害の実態調査もほとんどなされず、きめ細かな議論も国会で行われなかった。それに障害者団体の強い反対運動があったにもかかわらず、マスメディアはまるで人ごとのように、きちんとした報道をしてこなかったし、人びとの関心も低かった。
 障害も病気も、老いすらも「自己責任」で、何とかしろというこの国のありようは、社会的弱者を見殺しにする社会である。社会保障制度・福祉を切り捨て「小さな政府」の実現をめざすというというが、ますます格差が広がり、貧困層の増加を招き、社会のあらゆるところに、いろいろな矛盾の拡大しか、想定できない社会になってきている。
 人は誰しも病気にかかるし、障害を持って生まれる人もいるし、事故で身体に障害も負う人も、社会的・経済的な影響で精神の病気にかかる人もいる。だれもがそうした可能性があるにもかかわらず、社会的弱者に対する福祉や医療を切り捨てるとは、まともな社会のありようとは思えない。

■西日本新聞 2006.4.13  
【福岡市・重度障害の娘殺害 母、孤独な介護の果て 自立支援法が重荷? 新たな負担「払っていけぬ」】
http://www.nishinippon.co.jp/news/wordbox/ 

 福岡市中央区のマンションで三月十一日、母親(53)が重度身体障害者の二女=当時(27)=を殺害した事件は、介護疲れの末の悲劇だった。福祉関係者の間で寛大処分を求める嘆願書の署名活動が広がるなか、殺人容疑で逮捕された母親は十三日、拘置期限の満期を迎える。母親を追い詰めたものは何だったのか? 背景を追うと、原因の一つに「障害者自立支援法」の重圧も浮かび上がる。 (社会部・豊福幸子)

▼夫も病死して
「疲れた。一緒に死んでほしい」。事件数日前、母親は別居する長女(29)にこんな電話をかけていた。長女は母親宅に駆けつけ生活を共にしたが、事件は長女が留守にした一瞬のすきに起きた。
 母親は二女の首を絞めると自らの腹を包丁で刺し無理心中を図った。
 県警の調べでは、二女は二十歳ごろ脳血管の病気を突然、発症した。全身まひによる歩行困難などで身体障害者一級の認定を受けた。
 やがて、夫はがんを宣告された。母親自身も股(こ)関節に軽度の障害を抱えていた。当時を知る医療関係者は「夫の看病、二女の介護と、一人で本当に頑張り通していた」と母親の様子を振り返る。
 一昨年に夫が亡くなってからは、在宅支援サービスを利用しながら、母親一人で二女の介護を続けていた。

▼契約打ち切る
 在宅支援サービスの関係者は二月、母親のこんな言葉を聞いた。
「三月からは(在宅支援の)ヘルパーに甘えないで、少し体を慣らしたい。四月からは自分だけで介護しないと」
 言葉の通り、母親は二月末、それまで二女が利用していた二カ所の福祉施設への通所をやめ、在宅支援センターとの契約も打ち切った。
 今年に入り、「障害者自立支援法」の施行が迫ると、母親は周囲に「費用をこの先ずっと払い続けることができるだろうか」と度々漏らしていたという。
 二女は入浴介助などの居宅介護を月に約二十五時間、外出介護を月に五、六回程度利用。これまでの支援費制度では自己負担がなかったが、支援法の施行後は、利用料の原則一割負担を求められることになっていた。
 国は低所得者の負担を減らすため、負担の上限を設定。福岡市の財政負担(二年間のみ)を合わせると、二女の場合は月額約一万二千から一万六千円の自己負担になったとみられる。母親には最終的な負担額は伝わってなかったとみられるが、仕組みを説明する福祉関係者には「払っていけない」と繰り返し、話ができない状態だったという。

▼入所まで10年
 一方で、母親は数年前から、二女を重度身障者用の療護施設に入所できるよう申し込んでいた。だが、希望の施設には三月一日現在で三十七人の待機者がおり、「入所まで少なくとも十年はかかる順番だった」(同施設)。
 寛大処分を求める嘆願書にはこうある。「母親は介護の負担が大きく、生活にも疲れ、支援法への不安で心を閉ざし、不安定な状態になってしまっていた。障害者の生きる権利を奪うことは許されないが、母親一人を責め切れない」

コミュニティを壊したのいったいだれ?!

 深夜テレビで、ダムで沈む村の様子を記録した女性の写真と、そしてそれらの、村民たちのその後の様子をレポートする番組を見ていた。
 わたしが生まれた年に、ダム建設のために、離村して行かざるを得なかった・・・そして、その後、戦死したかもしれない夫のために、自分の住む村の様子を記録するために、写真を撮り続けていたという、たったそれだけのレポートだった。それに、この話題は以前、どこかで、見たし聞いたものだったな、という記憶はあった。
 なんか、わたしはテレビを見ながらなんかつらく、わけもなく涙していた。

 「安心・安全のまちづくり」のために、コミュニティの再編・復活みたいなことが、いわれる昨今だか、日本各地の村や村落の共同体を壊してきたのは、いったいだれなわけ?
 全国でダムや道路を造るなどの、開発という名の環境破壊。そして、米国資本である「マクドナルド」に象徴されるような、全国どこに行っても、同じような店しかない。
 が、地方に行ったら、そういう店を見つけたら、そこで「安心して、くつろげる」なんていういうのも、国内旅行者の本音だ。

 わたしは東京生まれの埼玉育ち、という中途半端。まっ、首都圏の様子しか、本当のところ、よくわからないのだけれど…。取材ということをしていたりするので、自分の関心事である事柄については、全国津々浦々とはいかないまでも、それなりにウォッチングしてきた。

 ある時、気分転換をはかりたく、近場で小旅行することになり、神奈川の元議員である友だちと、奥秩父に2回ほど出かけたことがある。埼玉県の秩父といっても、それなりに広大な面積を占める地域である。旅するなら県内の秩父に行くより、東京から新幹線に乗って京都にいく方が、よっぽど楽というくらい、鉄道の交通網がローカルなの。
 わたしたちが出かけたのは、秩父の平地ではなく、奥秩父といわれる山梨との県境である山村で、はっきりいって、紅葉のときに、車で訪れる観光客ぐらいしかいないぐらい、マイナーな「観光地」。

 現在は、相当にすたれているユースホステルに泊まり、再度、山奥に訪れたときは、県直営の宿に泊まったのだけれど・・・。それらは、新たなダムを造るために、税金を投入された施設だったし、税金という補助金がなければ、どうみても運営できるような代物ではない施設だった。
 すでに「秩父湖」というダムがありながら、新たなダムは、その紅葉の名所すらダムに埋めてしまうということが、出かけていってはじめて、わかった、わたしたち…。だから、その山奥の宿泊施設にも、「行ってみようね」っていって、再度、出かけた。
 どちらも、秩父線の最終駅である三峯駅からのバス路線しかない。
 鉄道はそれほど距離があるわではないけど、単線だから、本数もなく時間もタラタラかかる(それはそれで、よいのだが…)の。バスもその鉄道便に、なんとか合わせているだけ。

 もしかしたら、春なのでサクラでも咲いているのでないかと、訪れた秩父市・旧滝沢村(最近、若者たちが集団自殺したとかいう…)から、わたしたちは、スタコラサッサと、逃げ帰ってきた。そこの山村に行き着くための道は、そこの路線バスの運転手だから、なんとか信頼して、行き来したけど…。ホントに山道だから、都会の道路の運転しかしかしていない人だったら、「絶対にジコるぜ!」の世界だった。

 みんな地方に住む人たちの術で、みんな車だから、バスに乗るのは老人ぐらい。バスに同乗した人が「村が死んでいくようだ…!」と言った言葉が忘れられない…。
 多分、似たような光景をテレビを見たからだ・・・。わたしのこみ上げる想いは。



 

“政治のポルノクラシー化”埼玉県議会2代続けて「買春疑惑」議長!

■定例県議会最終日3月24日のドキュメント
 わたしたちは、2003年12月に日本テレビの「報道・特捜プロジェクト」で放映された、タイ・バンコクなどで海外視察中に埼玉県議の「買春疑惑」行為に怒った。約15,000名の請願署名を集め、議員辞職を迫ったが、それを果たせなかったばかりでない。昨年「買春疑惑」議員が埼玉県議会議長に就任、そしてまた今年も2代続けて「夜遊び議長」が決まった。
 これまで市民として、できうる限りのねばり強い活動を継続してきた。昨日、埼玉県議会最終日に議長選があり、朝は県庁前で県職員に対する街頭宣伝活動を行い、午後から最後のロビー活動と、本会議を傍聴するために女性3人で議会棟に入った。
 なんとそこに、わたしたちを待ちかまえていたのは、緑の腕章を付けた3人の県職員で、わたしたちを見るなり「どこに行くんですか?」と声をかけられた。わたしは「各会派の控え室に行きます」と言ったが、ぴったり3人はストーカーのように、わたしたちに張り付き、エレベーターにも同乗してきた。各会派の議員控え室に、声明文と資料を届けに回ったのだが、ずっと後を付け、控え室そばで待機。こちらがエレベーターで移動すると、彼らは階段を駆け上がる。

■ロビー活動を妨害するなんて冗談じゃない!
 実はその数日前に、自民党の控え室に声明文を配布してほしいと、事務局に頼んでいたのだが、団長の一存で議員には配布されなかった。そのため、控え室の前で直接、自民党議員に手渡していたのだが、議会事務局の職員7、8人が、わたしたちの前に立ちはだかり、体を張って邪魔しに来た。それにもめけずに配布を続けようとすると、なんと警察を呼んであわや逮捕か、という状況になった。
 主権者のロビー活動を妨害する、議会事務局の態度は尋常ではない。そんなことがあったので、県職員はわたしたちを待ちかまえていたようだ。まったく冗談じゃない! わたしたちは日頃から県庁によく出入りしているが、こんなことは前代未聞である。
 本会議が始まり、傍聴したが、暫時休憩になり、2時間ぐらい待合室で暇つぶしをしていた。途中でトイレに行ったとき気がついたのだが、外では相変わらず監視職員が待機していた。

■「よぉ!2代目、買春疑惑議長!」とヤジを飛ばす
 やっと、本会議が再開され、議長選という名ばかりのセレモニーをずっと傍聴していた。 知事という権力者から利権に与ることが、政治だと勘違いしている自民党議員たちは、節操もなく権力者にすり寄ることしか考えていないのだ。それに、野党議員もまったくの腰砕け状態で、知事に対する批判勢力になり得ていない、悲しい現実がある。
 セレモニーが終了し、めでたく2代目の「夜遊び議長」が誕生した瞬間、仲間が「買春疑惑議長!」とヤジを飛ばした。わたしもそれに呼応して2、3回「2代目、買春疑惑議員の誕生!」と議長や知事、議員たちに響くようとに大声を張り上げた。その瞬間、議場の雰囲気が明らかに変わった。一般的にいって議員たちのヤジもかなりひどいものが多く、普通なら傍聴席に向かって「うるさい! 静かにしろ」と罵倒されるはずなのに…?!
 まあ、国会ならすぐさま衛視が飛んできてつまみ出されるのがオチだが、ほとんど傍聴者がいない県議会なもんで、例の監視職員5人がわたしの回りを固めた。わたしは一人ひとりの名札を見てメモをして、彼らの顔をジロジロ睨みつけていたが、わたしから視線を反らし、ただそこにいるだけ。最初にヤジを飛ばした仲間はひとつ席を開けてすぐ隣にいるのに、ひとりの職員は彼女との間に入って、態度の大きいわたしの方に詰め寄る。
 かわいそうに、そういうことを訓練されていないもんだからおマヌケなの。フォーメーションからいって、その職員はわたしの方ではなく、もうひとりの彼女の外側に張りつくべきでしょうが…。監視職員たちは、かなり緊張してビビッていたのかしら?

■埼玉県議会〝政治のポルノクラシー化〟
 娼婦政治とは、10世紀半ばのローマ教皇庁で起きた堕落政治のこと。この時代の教皇たちは、売春婦などの女性によって強い感化を受けたが、これを〝政治のポルノクラシー化〟という。
<http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/>
 K首相をはじめ自民党幹部など今の日本政府は、政治のポルノクラシー化が大変進んでいるが、どの地方自治体も似たり寄ったりのお寒い政治家たちに、わたしたち有権者は政治を委ねてしまってよいのか?
 ロビー活動に対する妨害行為は、小心者の知事や特別秘書から県職員に対して、指令が飛んでいるに違いない。わたしたちは3年越しで「買春疑惑」を問題にし、民主主義にもとづいた合法的な活動を行なっている。にもかかわらず、この間のわたしたちの活動に対するに数々の嫌がらせ行為を行っているのは、知事を支える「買春疑惑」議員たちは自らの身の潔白を証明できないためである。

わたしのうつ&「社会的弱者」対する「棄民政策」の進行

■うつは倦怠感などの身体症状がしんどい
 このところ、うつがひどいし、なかなか回復しない。うつの引き金になっている要因には、いくつか心当たりがあるが…。自らトラブルを生産しているつもりはないのだが、なぜか、向こうからトラブルの種が飛び込んで来て、その対応に追われていた。どうもその処理がなかなかうまく収まっていないために、うつがなかなか回復しないようだ。
 朝、目が覚めても起きる気力がない。肩こりや全身倦怠感の常態化により、からだが機能しないため、「脳機能不全」になり、考える意欲も本を読む気力もなくなり、むっくり起きあがって夕方につけたテレビニュースも、布団に入って音声だけ聞くだけ。そして、毎日ひたすら「無為な日々」が過ぎていくように感じてしまう。 
 昨年の夏から口内炎もずっと治らない。口蓋の表面が腫れているので、とても不快感がある。重症な肩こりの影響だろうが、左腕がジワーとかすかに痺れる。肩こりも口内炎もうつによるストレス反応だから、仕方がないのだが、思うようにからだが働かず、外出するのも億劫になると、だんだん抑うつ的になり、マイナス思考が加速する。それがもどかしい。

■ある外科医の「臨床現場での勇気」とインフォームド・コンセント
 わたしが精神科医からの処方されている薬は最小限度だ。最近飲んでいなかった抗不安薬を気休めに飲んでいるけれど…。わたしが精神科クリニックにまめに通うのは、薬の処方以上にドクターとの面接、いわゆる精神療法のためだ。毎回のドクターとの会話が、わたしの精神的な大事な一部の支えになっている。患者は医者のとる対応によって、ずいぶん気持ちが変わる。患者と医師もひとつの人間関係ですから、医師に冷たく扱われると、悲嘆に暮れる患者も少なくない。
 これはどんな医療でもいえること。ある外科医が「臨床現場での勇気」という文章でインフォームド・コンセントについて次のようなことを語っています。
「患者さんには勇気がいります。同じように臨床医にも勇気がいります。インフォームド・コンセントとは、単に医療者側からの十分な説明を求めることだという考え方は、不十分なのだと思います。そうではなくて、この不確実性や不安性を伴う状況で意志決定を行うためにお互いの情報交換です。そのためにお互いに話をして、信頼にいたるプロセスなのだと思います。臨床現場に必要な勇気は医師と患者さんのパートナーシップで、はじめて形成されるのです」

■患者と医師のパートナーシップの「再構築」を阻むもの
 本来のインフォームド・コンセントを実現していくためには、患者と医師のパートナーシップが大切です。それを築いていくためには、患者も自分の病気についてよく知らなければならないし、わからないことは医師にきちんと質問できるようにならなれりばならない。医師はそれに対して、自らが誘導したい方向で応えるのではなく、患者の問いに、「不確実性や不安性」も踏まえ、真摯にいくつかの選択肢や今後の可能性について、きちんと話し合える関係性を築いていくための時間や場がとても大事になっている。
 にもかかわらず、現在進められている医療「構造改革」は、そうしたことをいっそう難しくさせる「患者と医師の不幸な関係」を予兆させるのが今の現実だ。
 アーアー、わたしのうつの原因のひとつには、日本社会の「社会的弱者」に対する「棄民政策」が進行している現実を、目の当たりにしているからではないか…、と密かに想っている。
 

うつ病が原因で自殺した管理職の妻が会社を提訴

■働き盛りの男性の自殺とうつ病の関係
 日本の自殺者が、3万人を超えるようになってから久しい。働き盛りの中高年が、仕事や家族の(特に経済的な)重圧や人間関係のこじれなどが要因になり、うつ状態からうつ病になる。それでも「自分がだらしないんだから…、もう少しで何とかなるはず」と、がんばってしまう。そして、いつでも自殺できるようにと、ビジネスバックの中に首つり用の縄を忍ばせているのだ。彼らは他人に相談することもなく、精神科や心療内科にかかることもなく、自らを追いつめて自殺してしまうのである。
 「女性は自分の心身の不調に敏感なのか、軽症で受診するケースが多い。しかし男性の場合は、せっぱ詰まって『診断書を書いてください』と言って、重症化してから受診するケースが多く、もう少し早く来院してくれれば、治療もやりやすいのに…」とは、ある心療内科医の証言だ。

■格差社会は「中・高年男性」社会で激化していないか!
 成果主義の導入とやらで、何でもノルマ達成優先、そこに住宅ローンや子どもの教育費など、一家の大黒柱としての経済的な重圧が重くのしかかる。今の日本社会なら、たとえ会社をクビになっても、うつ病などの疾病なら傷病手当と失業保険で、数年は生活できるだけの社会保障がとりあえず整備されている。それに、住宅やマンションを諦めて、賃貸アパートに住み替え、妻もパートで働いたりと、いろいろ工夫すれば何とか生活できるはずだ。
 そういう「新たな」生き方の選択肢も考えられないほど、働き盛りの男たちは「弱く」なっている。格差社会は、働き盛りの男たちの間でこそ、拡大しているのである。そしてそれが、若年労働力の非正規雇用者の増大とも、大いに関係し、マスコミや御用学者の働かない「ニートが増えている」といういい加減な言説がひとり歩きしているのではないか。

■うつ病とパワーハラスメント
 つらつらと、こんなことを書いていたのは、以下のような報道をネット上で得たからである。
 地方紙は、通信社配信の記事が多いので、タイトルで「上司しっせき原因と提訴 うつ病で自殺の所長妻」という記事が多い。ここには「うつ病」という疾病名が明記されており、「ノルマ達成を強要し、成績が上がらないこと執拗に叱った」それが、自殺の原因であり、会社に対して損害賠償の訴訟を起こしたという記事である。
 ところが、同じニュースなのだが、大阪読売の報道の見出しでは「パワハラで自殺した会社員、異例の損賠提訴」とある。記事は「パワーハラスメント(=職権による人権侵害)が自殺の原因」とあり、「うつ病」という疾病名は明記されていない。
 精神疾患のなかでは、最近比較的、認知されるようになった「うつ病」ではある。それでもまだ、それに対する人びとに正確な情報が伝わっていないことを、わたしは改めて痛感した。
 そこで、うつ病とその周辺に関連する疾病である「気分障害」「気分変調症」「抑うつ神経症」「抑うつ状態」に関する論考を書こうとしたのだが、またの機会に譲ることにする。

●中国新聞 3月9日
【上司しっせき原因と提訴 うつ病で自殺の所長妻】
http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2006030901001117_National.html
 道路舗装大手、前田道路の東予営業所(愛媛県)の所長だった男性=当時(43)=がうつ病で自殺したのは、上司が過剰なノルマ達成を強要し、厳しいしっせきを続けたためなどとして、男性の妻が9日、同社に慰謝料など約1億4500万円の損害賠償を求める訴訟を松山地裁に起こした。
 訴状などによると、男性は2003年4月、営業成績が著しく悪い同営業所の所長に就任。四国支店の上司らは男性に業務命令の限界を超えた過剰なノルマ達成を強要し、成績が上がらないと執拗(しつよう)にしかった。
 男性は04年8月、うつ病を発症。9月の会議で、支店の上司から「会社を辞めろ」「能力がない」などと約3時間にわたり、ののしられ、3日後に営業所敷地内で首つり自殺した。

●読売新聞(大阪)3月9日
【パワハラ自殺で営業所長の妻が会社を提訴…松山地裁】
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20060309p302.htm
 上司から成績不振について執ようにしっ責を受けたことなどが原因で自殺、労災認定を受けた大手道路建設会社「前田道路」(本社・東京)の営業所長(当時43歳)の妻で松山市の会社員岩崎洋子さん(44)ら遺族が9日、自殺は会社側が安全配慮を怠ったためなどとして、同社を相手取り、慰謝料など1億4500万円の損害賠償を求める訴えを松山地裁に起こした。弁護団によると、パワーハラスメント(職権による人権侵害)が自殺の原因などとして労災認定されたケースで遺族が会社側に損害賠償を請求する訴訟は異例という。
 訴状などによると、男性は2003年4月、愛媛県内の同社営業所に赴任。業績不振が続くなか、過剰なノルマを課されたうえ、04年7月ごろから、四国支店(高松市)の上司に呼び出され、「所長としての能力がない」などとしっ責され続けた。男性は同年9月に自殺。新居浜労働基準監督署は05年10月、しっ責され続けて心理的な圧迫を受けたことなどが自殺の原因などとして労災と認定した。
 遺族側は「上司の行為は業務命令の限界を著しく超えた人権や名誉を傷つける不法行為。被害を繰り返さないために、会社のあり方を問いたい」などと主張。

          

日本の「貧困」問題の深刻化を予兆させるニュース

TBS「ニュース23」で「旭川国保訴訟に一人で挑んだ男性、敗訴」というニュースを報道していた。
 憲法25条の生存権に関わるピックニュースである。この問題は、日本の経済格差が広がり、今後の貧困問題の激化による、さまざまな社会問題を予兆させる。
 アメリカ合衆国のハリケーン・カトリーナ後の復興に、貧困層のアフリカン系の住む地域の復興が遅れ、人種と差別の問題が改めて浮き彫りになっているというニュースもあり、まさに、日本も他人事ではすまされない、事態を迎えているといわざるを得ない。

●TBSのニュースサイト
【旭川国保訴訟に一人で挑んだ男性、敗訴】
http://news.tbs.co.jp/part_news/part_news3236638.html
 弁護士もつけず最高裁の大法廷にたった一人で挑んだ男性。男性は、「所得の低い人たちが払えないような国民健康保険の保険料を徴収するのはおかしい」と訴えました。しかし、その声は裁判官には届きませんでした。
 壇上にズラリと並んだ15人の裁判官。「憲法の番人」と呼ばれる最高裁判所の大法廷、そこに、たった一人で挑んだ男性がいます。「びっくりしたよ。イスから違うんだもん。天井は高いし、さすがは大法廷だと思ったね」(杉尾正明さん)
 北海道・旭川市に住む、杉尾正明さん(70)。国民健康保険料の支払いを巡って、市を相手に裁判を続けています。10代の頃からたびたび結核を患った杉尾さんは、高校に進学せず、新聞配達や廃品回収で生計を立ててきました。やがて、55歳で無職となり、一家の年収はおよそ90万円にまで落ち込みました。生活保護を受ければ、1年間におよそ180万円を受け取り健康保険料も免除されます。
 杉尾さんは、生活保護は受けないが、年額およそ2万7000円の健康保険料は免除してほしいと旭川市に申請しました。しかし、市は認めませんでした。
「低所得でも自立しようとする人間から保険料を徴収するのはおかしい」、杉尾さんはそう訴え、裁判に踏み切りました。「石にかじりついても頑張らなきゃ。味噌とか、しょう油を仲間にもらって歩いた。交通費は仲間のカンパだよ」(杉尾正明さん) しかし、弁護士にはことごとく断られ、結局、図書館に通い独学で訴状を書き上げたと言います。

■各紙の報道を見てみれば・・・
 このニュースを見たあと、すぐにネットで電子版ニュースを検索でチェックしたら、各紙それぞれ報道している。
 読売新聞は、2月27日に「弁護士なし・独学の旭川国保訴訟、1日に最高裁判決」、そして3月1日に「たった一人の最高裁判決、国保訴訟の杉尾さん敗訴」と報道。同日、朝日新聞の記事冒頭がまとまっているので、以下、引用する。

●朝日新聞 2006年03月01日20時53分
【旭川国保料訴訟、原告の上告棄却の判決 最高裁大法廷】
http://www.asahi.com/national/update/0301/TKY200603010276.html
 北海道旭川市の条例を舞台に、国民健康保険(国保)料の料率が議会のチェックを受けた条例に明示されず、市長の告示で定められていることが、法律や条例に基づかない課税・徴収を禁止する憲法84条(租税法律主義)に違反するかどうかが争われた訴訟の上告審判決が1日、あった。最高裁大法廷(裁判長・町田顕長官)は保険料と税との違いを強調し、「保険料に憲法84条の規定は直接適用されない」と述べた。そのうえで「同条の趣旨は及ぶが、その趣旨に市条例が反するとはいえない」として、賦課処分の取り消しを求めた男性の上告を棄却し、男性の敗訴が確定した。
 15人の裁判官全員一致の意見。同様の条例は多くの政令指定都市などで採用されており、判決の行方が注目されていた。

■貧困の原因は「自己責任」なのか?
 わたしは生活保護について取材している。その制度は、失業は補足しないし、簡単にいえば「すってんてんで、今日の食べ物にも住む場所にも困る」という経済的極限状況にならない限り使えない、かなり限定的な「権利」である。しかし、統計上明らかなように、生活保護受給者は、高齢者の一人世帯(多くは高齢女性)が、最近急増しているのである。
 福祉事務所は、高齢者に持ち家があるという理由だけで、「その家を処分してから、また、相談に来てください」というのが現実だ。また、労働法など雇用保険の適用にならない個人請負業者は、病気や障害になった場合、生活に困窮したら、生活保護制度しかその救済制度はないのが現実である。
 そのうえ、日本の社会保障制度が「世帯単位」で設計されているために、家族の支援が受けられないという認定を受けなければ、生活保護は受けられない。つまり、個人単位での社会保障制度がないということである。
 生活保護を受給すれば、とりあえず貧相なアパートなどの住居は確保され、食べることには困らない最低限度の生活は保障(文化的生活はかなり限定的だが…)され、医療費はタダである。つまり、生活保護さえ受給できれば、医療への受診抑制は起こらず、働いていたときよりも、医療機関にかかりやすくなるというのが実態だ。
 しかし、疾病などにより「とりあえず生活保護」の人たちにとっての自立への道は、遠いといわざるを得ない。はっきりいって、生活保護法の「自立支援」というは、雇用労働への復帰しか、想定されていない。これだけ非正規雇用が急増し、雇用形態の多様化しているなか、雇用労働のみが社会復帰というのは、いかがなものでしょうか。
 今後の日本社会の変容に関して、「貧困」という言葉が、ひとつがキイワードになるのではないでしょうか? そんなことを、痛感させられるニュースでした。

トリノオリンピック&わたしのイタリアへの想い

 アリャララ・・・もう2月も終わりなんですねぇ。
 ダラダラと部屋にこもっていたら、テレビでトリノオリンピックの開会式と閉会式を、見てしまっていた。なんかさぁ…オリンピックって、商業主義と結びついたり、政治的に利用されたりと、なんか気にくわないの、わたし。
 だけど、開会式も閉会式も、あのパフォーマンスには、魅せられたなぁ。全世界にテレビ放映されることことに対しても、きちんとプログラミングされているんだけど、すごいアーティスティクだったなぁ。すごい! お見事!
 わたし、世界地図がちゃんと頭に入っていないから、開会式の選手入場を見ながら、手元に精巧な地球儀とか、世界地図が欲しいって思ったよ~ん。 

 トリノは訪れていないのだけれど、イタリアにはチョコッと行ったことがあって、フィレンツなんか、ひとりで街歩きしていて、「絶対また来るぞ!」って思っている。
 だって、さぁ、美術館なんかに嵌っていたら、時間なくなるから、ひととおり街を歩いて、街の息づかいを感じていたかった。路地裏にある文房具屋さんとか、スーパーマーケットでオリーブオイルなんかの食材をウオッチしているだけで、すごい楽しかった。
 これはローマだったけど、ウィンドショッピングしていて、こんな機能的な女性用ビジネスバックって、日本にないよな~とか…。アルマーニのお店に入って、カジュアルシャツなんか、ゲットしたり、そのたぐいのものぐらいは、お小遣いのユーロで買えたし、そういうささやかな買い物って、すごく幸せだった。

 トラベル英語も出来ないわたしだけど、ボティ・ランゲイジと「ワン、ツゥー、スリー&ノーセンキュウー」だけで、ひとりの街歩きも何とかなったし、広場で鳩にパンをあげているおじさんとか、建物の修復をしている職人さんの写真なんかも、ちゃっんと撮ってきた。
「ノーセンキュウ」これがわたしのキイワードだったと思う。はっきり言って、観光立国イタリアだから、「ネギ鴨」日本人が見え見えだったし、なんでレールに敷かれた道しか歩けないのって…。
 わたしは、激安ツアーの裏もそこそこ見えたし、「入らないものは入らない」っていう、態度表明が大事なんだって思った。英語をはじめとする世界的な言語が「出来る、出来ない」ということより、「わたしは、わたしだ」という覚悟というほどのものではないんだけど、そういう自分の想いが大切なんだと思う。

 くそー! 世界中いろいろ行きたいところはあるけれど、ヨーロッパはもう少していねいに、歩いてみたい、そんな想いを抱いている今日この頃である。
 

ルポ「乱用される医療観察法」が『週刊金曜日』に掲載

 心神喪失者等医療観察法の適用に関して、7月に施行以降、いろいろ取材してきました。その記事が17日(金)発売の『週刊金曜日』に、「乱用される医療観察法」として掲載されることになりました。
 ぜひ、皆さまにご一読いただければ、と思いましてお知らせします。
 なお、『週刊金曜日』<http://www.kinyobi.co.jp/Recent>は、大手書店で販売されています。

 医療観察法の適用に関する取材は、思いのほか困難を究めました。引き続き、調査・取材をしていますが、更に取材のハードルが高くなっていることを感じます。
 また、マスメディアがこの問題に関する報道をしていないため、精神障害者をめぐってどんな変化が起きているのか、一般に知らされず「闇から闇の世界」に、なってしまうことを大変に憂慮しております。

 ルポをお読みいただいた方がいらっしゃいましたら、このブログにコメントいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

日本社会は個人単位が認められない! 共働き公務員給与の減額ニュース

■胎児の性別はいつわかるのか?
 紀子さまの「ご懐妊」で、「皇室典範の改正」問題の先延ばしのニュースが相変わらず盛んだ。最近は、超音波検査などで胎児の性別がかなり早い段階でわかる。
 いったいそれがいつ頃わかり、いつ宮内庁がそれを発表するのだろうか? あるいは、出産まで性別を国民に隠し通すつもりなのだろうか?
 皇室ひとりの女性の妊娠が、この国の政治の行方を左右している姿が、なぜか滑稽だ。 
 いったい皇室の役割って、何なの?! 「国民の象徴」とか言われてもねえ…。

■信じられない! 共働き公務員の給料の減額
 公務員や教員などは、共働きが多い職種である。過酷な労働条件の民間企業と違い、労働基準法「同一労働・同一賃金」の原則が基本的に遵守されており、女性にとって働きやすい職場だからだ。
 財政難が理由で職員の給料を減額のするのであれば、全員の給料を一律に減額すべきではないのか。労働組合は、憲法十四条の「法の下の平等」を根拠に、反発しているが、まったくその通りである。
 日本では社会保障制度が、世帯単位で設計されている特徴がある。たとえば健康保険証は、個人に対してではなく世帯単位で発行されている。つまり、社会の単位が「個人」ではなく、「家族」が基本になっているのである。
 男女ともに、結婚して家族をつくるという選択も、シングルで結婚しないという選択も、わたしたち一人ひとりの個人の選択ではないか。それに、たとえ家族がいても死別など、高齢者などの「ひとり世帯」も増加している。
 社会保障制度の設計などは、個人を社会の基礎単位にすることが求められているのではないだろうか。そうでなければ、いつまでたっても、女性は男性とセットでなければ、一人前とされない。憲法では男女平等が規定されているが、現実はまだまだ「女性差別社会」なのである。

【共稼ぎ職員給料2割削減/日田市長方針】
●朝日新聞大分県版 2006年02月08日
http://mytown.asahi.com/oita/news.php?k_id=45000000602080005
 大分県日田市の大石昭忠市長は7日、夫婦や親子がともに市職員で同居している場合、双方の給料を4月から2年間、2割削減する条例案を3月定例議会に提案する方針を示した。財政の硬直化を軽減するためとしているが、市職員労働組合は「共働きに絞った減額は憲法で保障された法の下の平等を侵害する」と強く反発している。
 市によると、現段階で対象となるのは738人の市職員のうち、いずれも夫婦の33組。2年間で計1億450万円の節約になる。
 市は1月、市職労に共働き職員の自発的な2割返上を求めたが、市職労は「共働きとそれ以外の職員を差別することになる」と受け入れ拒否を文書で回答した。