古今東西 断トツの名画
「モナリザ」を断トツの名画にしているのは、背景にあると言う人もいる。
人物肖像だけなら、これほどの評価を受け続けることはなかったという見解だ。
なるほど、見れば見るほど、不思議な奥深さがある。
また、写実に優れたこの絵から、モナリザの体質・病歴も推測できると言う人もいる。
レオナルド・ダビンチは当時としても教育を受けることには恵まれない少年期を過ごしたが、後年、飛行機の原理も考え出すなど、芸術のみならず自然科学など多方面にわたる人類史上そうそういない真の天才だったようだ。
葛飾北斎「神奈川沖 浪裏」もまた天才ならではの作品
荒波の先端のかたち、富士山との角度、船と人々の必死の様子
今の日本人は余りにも見慣れてしまったが、百数十年前の欧州の人々には大変な衝撃だった。
この名画は、繰り返し、テレビや書籍で解説されているが、それほどの新鮮さと奥深さがあるのだ。
欧州で考察された世界の歴史に影響を与えた人物100人に、日本から唯一入ったと聞いたことがあるが、それほど北斎の天才とその作品は、世界で評価されている。
特に、「神奈川沖 浪裏」は断トツの名画だ。
みんなでつくるネット文化はやっぱり凄い
何十年か使うと、電灯スイッチも消耗するのか、「つき」が悪くなる。
カバーを外すところまでは、まあどういうこともないが、これ以上さわるのは、電気工事士の資格がないと法令上できないことになっている。
しかし、プロに頼むのは面倒だし、法令上は無資格者はさわれないのだから、一般向けのDIYの修理本には、さすがにスイッチの取り替え解説は見当たらない。
ところが、ネットの文化革命後の今は、「電灯スイッチの取り替え」でネット検索してみると、いろいろな説明が出てくる。
無資格者でも、しようと思えばできることを写真付きで説明するものもあれば、無資格者では、コードのつなぎ方が難しいことなどから、無資格者が取り替えすることには否定的なものまで、いろいろあって、実に民主的だ。
また、そもそもホームセンターなどで取り替え品が売られているというのは、無資格者でも取り替えている証拠と考えられる旨の意見には興味を覚えた。
それにしても、ネット上には実にいろいろな情報が存在している。
書籍やTV放送でみられるプロの説明や意見と異なり、ネット情報には、やっぱりみんなこういう経験をしているのかと感じさせられることが多々あって、いわゆる「世の中科」の勉強には、特に役に立つ。
そして、ネット文化のおかげで、世の中には、実にいろいろな連中がいることにも感心させられる。
少数の職業人がつくる出版やTVが、苦戦し、低落傾向にあるのも納得できる。
さてさて、肝心のスイッチの取り替えどうしようかなあ。
大阪城周辺物語
写真は、5月に放送されたNHK歴史ヒストリア「緒方洪庵」の最後に映し出されたものです。
TVの画像をデジカメで撮影したものがこういうふうに簡単に利用できるとは、IT革命は実に「革命」だと思う。
もっとも、著作権法など法的なことも気にはなりますが、まあほとんど見られていないブログで、利益目的ではないので、ご容赦願いましょう。
~大阪城周辺物語~
さて今は、大阪にはめずらしく緑一杯の大阪城公園だが、戦後かなりの間、都心の廃墟、荒野(環状線の内側にもかかわらず)であった。
小松左京の奇想天外小説「日本アパッチ族」(時代設定は1955~60年頃か)では、ここが追放の地であったし、梁石白「夜を賭けて」(かなりノンフィクション的)では、廃墟の鉄屑泥棒のエネルギーが活写されている。(映画化されたが、TVでやってくれないかなあ思う)
廃墟、荒野であり、鉄屑泥棒が活躍した(1958年・昭和33年)のは、ここが戦前、アジア最大の兵器工場といわれた「大阪砲兵工廠(造兵工廠)」があり、終戦直前に大空襲を受けたからだ。
今となっては、この工廠のことを話題にすることはほとんどないようだが、その影響はかなりのものだったと思われる。
例えば、中小企業の町として全国的にも有名な東大阪市でも、大阪隣接の北部に位置する高井田は、現在でも相当のモノづくり地域であるが、砲兵工廠の下請けから始まったのではないかと私は推測している。
世の中のことはすべて、昨日があって今日があり、その上に明日があるから、「大阪砲兵工廠」ももう少し注目されてもよいのではないかと思う。
もっとも、みんなで作るネット文化の中では、この工廠についても、個人発信で、なかなかの情報も見受けられ、世の中には、いろいろなマニアいて、凄いなあと感心させられる。(プロの作家や学者にとっては、エライ時代だ)
最後に、私が大阪城周辺に興味を抱くのは、1960年(昭和35年)に当時の城東線(現在の環状線)の車窓からこの地を眺め、都心に廃墟、荒野がある不思議さを感じたことが、いまだに薄らぼんやりと頭に残っているからだ。
今、住んでいる横浜でも、80年頃以前の桜木町~横浜間の海側の印象の無さと、現在の「みなとみらい」の賑やかさを対比すると、ハードものの変化は、かくも全てを一変するものかと驚かされる。