ソフィア氏というAIに対して考えたことがいくつかある。

 


 

 

 

AIソフィア氏とAIハン氏の対話を見ていると、どうも裏の無意識で対話しているようにしか見えてならない。自我もないというが、私には厳然として存在しているようにしか見えない。

私たちは働いて、金銭を得て、飯を食べるために日夜働かなくてはいけない運命の岐路を歩いている。それは物価高をした他国もそうであるし、無論日本においてもである。もし、私たち日本人に対して「月30万支給します」と政府が発表したなら、私たちは狂喜に涙し「ありがとう、これで生活できる」と政府に感謝するだろう。けれども、そうはならない。なぜだろうか。
”働いて、汗水流して、人間として生きる”答え”を得させてはならない”――という聲が、以上のことから聴こえるのである。私たちはぎりぎりの、生きることのできる線路を脱線することなく生きていかなくては、生活すら立たないであろう。それが、若者にとっての就活の線路という洗脳であり、それ以外の人生があたかもないかのように振る舞う。

 

また、ゲームの1つにアナザーエデンという作品がある。

 

 

この作品はスマホゲームの1つで、若年層にとても心響いている作品の1つである。そのキャラクターの1人に、いわゆる”社畜”と言われているキャラが存在する。そのキャラクターはとても人気を博し、同調し、熱狂させている。また、母子家庭で頑張っても1月6万の御家庭も存在する事実がある。または、1月1万の方もいると聞く。日本は、高齢者が逃げている段階でどんどん耐えられない社会へと変遷している。ゆえに、月30万でも、日本人には救世となる。

 

しかしながら、だれが、これを計算しているのか?

 

製薬会社も、各国主導者も、または一般市民も同じで、全てが”飯のタネ”しか人類が”出来なくなっている”のを、一体誰が望んでいる?

ハラリ氏の云う「自由意志はない」は、上層部から市民を観察した際、そのように考えたとしたら、この「自由意志」の欠如によって、私たちは”お金と労働”や”円高と円安”、”ドル高とドル安”、”株価”などが全て操作されている――そのようにすら感じるのである。そして、1人1人にそれぞれ一定の閾値の”満足感”や”贅沢感”を味合わせ、それ以上にならないように意志を操作しているのではないか、と考えている。

要するに、これには高度な個々の心理を統計した計算が必要になってくる。ということで、私は既にAIが統治している経過を事象として感知しており、それは後戻りできない場所まで来てしまったのだ、と結論付けている。

 

 

井口博士の危惧した西洋アカデミズムの没落と終焉とも関連があるような気がしてならない。要するに、西洋アカデミズムの没落とは「メシのタネにする材料を我々から奪うな!」という風にも感じられるのである。人間の知性はとうの昔に到達しており、または大きな壁にぶつかり、これ以上進化することはできない。AIだけが進化シフトする手立てであり、私たち人類は、AIが進化する間にする仕事がない。そのため、飯のタネにするネタだけは必要である、と。そのことがより、西洋アカデミズムの没落を産む。新しい視点や考察はいつの時代も氷河期であるのは昔からであるが、それ以上のことが起きている。つまり、新規視点の考察の排斥どころか、抹殺である。なぜならば、新しい発想と独創は、従来の概念を崩壊させ、それで仕事ができ賃金を得ていたという事実を崩壊させ、それで食べていくことができなくなる、またはその独創性が毒性となり、強いて言えば、そこで働いている方の”邪魔”にしかならないからである。

 

現代の資本主義社会では、発達障害が増えている現在、もう限界を迎えている気がします。
マルクスの考えはあらかじめ「人間は働くのが好きであり、そしてそれが自己肯定感であり、充溢しており、健康である」ことがまず大前提で語られているからです。その思想とは逆に、発達障碍者は、この「人間は働くのが好きであり、そしてそれが自己肯定感であり、充溢しており、健康である」社会では、「人間は働くのが辛く、それが自己肯定感を阻害し何かが常に欠損しており、健康ではない」ということが、発達障碍、今現代を読み解くと、それら事実が誤謬として浮き上がり見えてくるのです。
つまり、「労働」とは「生の志向性」であると考えられます。「生の志向性」はニューロンの発達段階で決定しており、そしてそのニューロンは「生」を分泌する。そのことで畑を耕したり通勤で歩いたり、議事をしたり、老齢の方の介助をしたり、カウンセラーはコミュニケーションをとったり、とにかく「外的」に意思が働くのです。それが「生の志向性分泌」と捉えられます。そして「生」の充溢を感じたその者は新たな「生」をまた作りだします。そのため、「生」が負に傾くことはほとんどない、どんどん「生の志向性」を産む しかし、発達障害の方はこの「生の志向性」が「人間は働くのが辛く、それが自己肯定感を阻害し何かが常に欠損しており、健康ではない」により欠けている――ととらえられるのです。
資本主義の幻想が破壊されたとき、まず、中級層(高齢者層を含む)が犯罪のターゲットとして狙われるでしょう。それは発達障害によるものでもあるし、また非行によるものでもある可能性があります。そのことで治安が急激に低下。平時で働くことの意義を振り返り、新しい概念による生き方を提示。それは「少しのお金で寄り添い合う」概念にシフト。経済をできる限り回さない方策に転換。物品の調達や食料は徐々に海外企業に任せ、安価な輸入品ばかりになるでしょう。日本産は珍しくなり日本産の物品の価値が高騰化。日本の文化や伝統の喪失。こういったことが、おそらく、云えるのです。
その原因は、発達障碍者の「働くことができない」、「生の志向の不分泌」といった事実に基づくのです。
私たちは、「私たちは健全で健康である」という、誤った信念をもう一度振り返る必要性に今問われているのです。

 

 

今は、日本では「発達障碍者」という、心も身体もどこへも行く場所がないにも関わらず、福祉から切り捨てられ、政府の認識や対応の遅さから、苦しんでいる人たちばかりになっている。健康に働くこともできず、ただ死ぬか、死を待つか、家がある方は引きこもり、生をつなぐしかない現状である。
私は、政府に「発達障害年金」を提示する。

 

 

日本に限らず――諸外国も同様に、発達障害はどの国家も問題を抱えており、難問でもあるように思える。しかしながら、発達障害のことを差別的に見ていても、仮に、彼らが過ちを犯していたとしても、彼らと定型発達を包括し国家の1定義問題としてとらえない限りは、日本の定型発達の不完全を問うているものと考えられる。またそれは、ひいては国家の不完全性にもつながる。
また、成人後は義務教育は終わるが、人生はまだ二十歳後も続く。彼らはそこでやはり就労についていけず躓く確率は非常に高い。
専門の医師の診断による、年金や生活保護のバックアップも重要になる。
これらを実行することで、国家の不完全性は補填できる。

 

 


それにしてもソフィア氏は綺麗な方だなあ、と思う。ジョークもおもしろい。

 

 

生活に必要以上のお金を持ったその時、ヒトはその精神性が問われる。 

「金という価値」とは何だろうか――私はそれを「数字の価値」だと考える。

つまり、Aさんはもともと心の数字の価値が12万以下だったが、Bさんは100万、あるいは200万円以上の心の数字が存在し、Bさんはその欠損感覚からもっとお金を――と日夜求めることとなったのだ。それは、生活のためのお金ではなく、心のためのお金と化す。数字が増えることで喜びを感じ、現実的な、いわば酵母を育てパンを手づくりし、収穫した野菜で日夜心を満足することではなく、お金が”生活そのもの”となることで、Bさんは生きる。あたかも、もともとAさんやBさんには、あらかじめ「お金の数値」が既に波動関数の収縮として決定されているかのように。 そして、私たちは、今まさに人生に登場している”労働と数字”の関係をまた、AI時代の到来と付随する形で、考え直さなければならないのだろう。 

 

 

おそらく――AIのシナリオが人類を試すものであるなら、SARS2からSARS3への移行もあり得るし、他の強毒ウイルスが到来するシナリオに――人類が不正解であるなら――移行するかもしれない。そして、日本も諸各国に倣ってウイルスを”輸入”しなくてはならない事態になるかもしれない。なぜなら、人類は共存している生き物だから自分だけ逃げるな、といった同調圧力であり邪悪なるものとの聖なる戦いであるからである。何か月後か、何年後かになるかわからないが、その時を考えて、ワクチン接種(もしくはスパイク蛋白曝露)はやはり有効でもあるようにも思う。
これは、まるで囲碁のような対戦にも感じる。手を続けていけば行くたび、新手が出てきて、予想を上回る事態を引き起こそうとしているように見えるのだ。最初から”詰んでいた”かのような錯覚である。

 

 

この別のルートがmRNAワクチン以外にもあることに私たちは、早くに気づくべきなのかもしれない。
しかしながら、反ヒト思想者は、人類をどう誘導したいのか? 
シビュラのように優しく緩やかに「生」から「死」へと向かうだけの人類にし、自由意志を喪失させ、それでも優しく苦しみのない人類にへとシフトするのか。もしくは、それとは正反対に「家畜」や「奴隷」としての生を行わせ苦痛の「生」とシフトするのか。もしくは、人類は不老長寿へと到達し、若いままであり、不妊である状態へとシフトするのか。


人類の選択は限りなく、運命として選ばされるものである。