愚図愚図日記 ~スーの魂~

愚図愚図日記 ~スーの魂~

映画の話はたま~に…。かなり統一性のないブログです。くだらないことも書くけど許してください!!



「ファシストになるより豚でいるほうがましだ。」


「冒険飛行家の時代は終わったんだ!!今は国家とか民族とかくだらないスポンサーをつけなくちゃ飛べないんだよ。」



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最近、友達に猛烈に勧められて  「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 」 を見た。
かなり泣けるというハードルが上がりきった状態で一気に見た。

正直アニメで泣いたのなんていつだったか思い出せないし、よくクレヨンしんちゃんの映画が泣けるって言われてるけどそこまで感動したことなかったし、というかあの戦国武将の奴は後に草彅剛・新垣結衣で実写映画化されて散々な結果になったのは記憶に新しいのだが。

そんなこんなでまぁ見てみようと思ったら、1話あたり22分くらいの長さもちょうど良いし、テンポも良い。
最期のオチもずっと見えてて、お涙頂戴なのも分かっているんだが、最終回、、、大号泣してしまった。
これはやはり11話の積み重ねでできるものだ。こんなネタ実写化絶対するだろと思うのだが、2時間ではそこまで泣けないと思う。恥ずかしながら、結構な時間泣いてしまった。

この物語の舞台である秩父で聖地巡礼に訪れる人々が後を絶たない。今年の夏祭りでは大変なことになってたらしい。
最近は映画よりもアニメの舞台の方が、人が訪れて地域活性化に繋がっている。最近の邦画も不作続きだし、そもそもロケ地に訪れようと思う作品はほとんどない。

それこそ数年前、「らきすた」で盛り上がった鷺宮。神社の絵馬から始まり、しまいにはらきすた神輿も出る。
商店街では饅頭や弁当を売る。らきすたのキャラクターを話すおじいさん、おばあさん。
とてもシュールで面白くてほっこりする。
そんなネタを2009年にNONFIXでドキュメンタリーにしたものが面白い。
絶対に知り合うはずもなかった両者がひとつのアニメ作品によって距離を縮めるという。なかなかロマンティックな世界である。

NONFIX 「オタクと町が萌えた夏」 らき☆すた 聖地巡礼


http://www.youtube.com/watch?v=9Zb7mA0yd90


ちなみに僕の実家の栃木県岩舟町も


「秒速5センチメートル」

 http://www.youtube.com/watch?v=hUBMW45MTj0



ラストの駅や好きな子が転校してしまうところになっており、いくつか聖地巡礼しているブログなんかもみかけた。


さぁこれからどんな町がまた作品で出てくるのか、、、、、。








随分前に見たのだけど、また思い出したので感想を書こうと思います。

この映画、ドキュメンタリー映画では異例の大ヒットをしている。
エンディングノート自体にもスポットが当たって売れてるのだとか。

今年はドキュメンタリー映画の当たり年だ。夏には「監督失格」が脚光を浴びていて(まだ見れてないのだが)
どちらもセルフドキュメンタリー。

ヒットの要因はどこにあるのだろうか? 是枝さんがプロデューサー、早くからメディアで取り上げられていた(各情報番組、全国紙各誌)いやそれだけでない。ジワジワと広がっているのだ。それだけ見た後、誰かに話したい、誰かと共有したい内容なのだ。

でも、とにかく僕は良いと思った。お父さんになりきった監督のナレーションのテンポからは、今までの闘病ものドキュメンタリーとは一線を画している。to doリストでキャプション分けをして見やすくなっている。
僕はてっきり素材がたっぷりあって、プロの編集マンやその他作家などが上手くまとめあげた、いわゆる「情熱大陸」的な手法だと思ったが、そんなことはない。監督のインタビュー記事を読んだら、是枝さんに見せた時点で既にあの形だったというのだから、監督の編集センスは素晴らしい。


この映画の一番の魅力はお父さんのキャラクターだ。
営業一筋、熱血サラリーマン、段取り命。映画のそこかしこで垣間見える人間性。
そして、何より性格が明るくひょうきんなお父さん。

よくテレビなどで末期ガン患者のドキュメンタリーを見たけど、あんなドキュメンタリーは見たことがない。
もちろん実の娘がカメラを回しているから、最初から距離間はない。(親子という意味での距離間はあるかもしれないが)しかしながら、何より素晴らしいのは監督の回し方だ。監督は映画の中で娘という視点をあまり出さない。
映画の最期、病室に家族全員が集まる所でおそらく娘として父親と話し、泣き、お別れを告げているがそこは一切出てこなかった。

そして、この映画は誰でも経験する家族が亡くなる時という、通常テレビ番組や映画にはなりにくい普通を映し出しているから素晴らしいのだ。

僕もばあちゃんを二人、じいちゃんを今まで亡くしていて、それぞれ看取ってきたが、あの時の雰囲気がすごく出ていて思い出した。

現実は意外に淡々としているのだ。
僕のじいちゃんが入院し、段々喋れなくなってきて、危ないかもとなった時も、病院の帰り母親と礼服の話になり、買いにいった。まだまだそんなこと考えたくないけど、急に来た時には他にもやることが山ほどあるから、今の内ということで買いにいったのだ。

ばあちゃんを看取った時もそうだ。意識がなくなって、ずっと病室にいたが夜中になり、僕と母親で家の掃除に行かされた。遺体を寝せる和室にタンスなどがあり、それをあらかじめ動かしたほうが良いという判断だった。
そして、部屋を片付けている時、ばあちゃんが亡くなった一報を聞いた。

葬式の時にいろんな準備でテンパっている父親を初めて見たし、納骨するまでは嵐の様にハードスケジュールで進んでいく。

エンディングノートでもそんなドタバタ感も最期の病室のシーンでよく出ていた。

それにしても砂田監督は、父親を敬い、永遠のものにした。本当に父親思いで、親孝行をしたと思った。
あのお父さんは、観ている人の心を鷲掴みにしたし、僕の中でも忘れることはないだろう。
映画を見て数週間経つけど、未だにお父さんの表情や言葉を思い出す。

新宿ピカデリーも満員だったし、あんなにすすり泣く声が聞こえた映画を初めて見た。
映画が終わってもしばらく立てずぼーっと人などもいた。

それはそうだ。人の人生を見たんだ。亡くなるまでを見せられたんだから当たり前だ。

ドキュメンタリー映画が限られた人が見る様になってしまって久しい今。
この映画は今後のドキュメンタリー界に置ける希望になったと思って嬉しくなった。

これからもこういう映画でしかできないものをやるべきだと思った。








非日常だった一週間が終わり、徐々に日常に戻りつつある様に思える。
余震、原発問題が落ち着き見せたことによる安堵感だろう。
しかし、その陰には福島原発で今も命を削り作業し続ける東電社員、自衛隊、消防、警察の
尽力のお陰であることは言うまでもない。

先程、現場を指揮したハイパーレスキューの隊長の会見をテレビで見て思わず泣きそうになった。
「隊員たちが」と言いかけ思わず感極まり言葉がつまる。
そしてその後、隊員たちの家族へのお詫びをした。
まさに決死隊になった彼等には頭の下がる思いだ。
毎日会社に行き仕事の合間にニュースで福島原発の状況が落ち着いたことを見て安心できるのは彼等の命を張った作業の上にあるからだ。
これを自分に置き換えた時、果たして自分にはできるのかと考える。

それは地震発生時、最後まで避難を呼びかけた警察官や役所の人達。
そして家族の安否が分からないので、現場で作業を進める人達。
その全てが自分の職務を全うしている。

もし家族の安否が分からない状態だったら、今俺は仕事を放り出して
現地に行くだろう。また、必ず被爆すると分かっている現場に行けるのか。


彼等の命の代わりに、今がある。
そのことを忘れず明日からまた仕事が始まる。

http://dailynews.yahoo.co.jp/iphone/local/2011sanrikuoki_eq_miyagi/?1300608366

未曾有の災害が起こった。
あの日あの瞬間まで誰もが想像しなかった。
でもそういうものなのかもしれない。

地下鉄で最初の地震があり、車内は一時騒然となった。
車内アナウンスは確実にいつもとは違った。
ネットは繋がらず外界はどうなっているのか気になった。
そして、外へ出る。
以前と変わらぬ感じ。すぐさま携帯でニュースを見た。
宮城沖 震度7
この文字でかなり離れた所で起こったと安堵した。
乃木坂から会社に戻ろうとする。
すると、通りは人だかりができていた。
皆会社の下に出ている。中にはヘルメットを被っている人も多くいた。

この前ニュースで見たエジプトのデモを思い出す。
こんなに多くの人が働いているのかと思ってしまった。

すぐに緊張してくる。やはりただごとじゃない。
自分の中で何度も災害に巻き込まれた時の想像を繰り返す。
携帯でカメラをまわした。
すると第二波。

おばさんが悲鳴を上げる。
そしてまた歩き出す。
会社に向かうと向かいの公園が人でいっぱいになっていた。

会社の人とも合流。
一気に安堵感が増す。まだ会社に戻るのは怖かったが、だんだん寒くなってくる。
あの時、黒い雲が空を覆い異常だった。
何か食べ物と飲み物を買った方が良いと思いコンビニに行く。
その時はまだコンビニにも人はいなかった。

会社に戻りテレビを見ると驚愕した。
ちょうど1時間がすぎた頃だった。
テレビに映し出されたのは、大きな津波が岸に向かっていく所だった。

興奮してみんな喋っていた。
そして、家や車をなぎ倒しながら畑に侵入する。
ものすごい事が起ってるのに、妙に淡々としていた。

現実はやはり映画と違う。
理解が追いつかないのだ。

そこからは会社でずっと状況把握する。
異常なことがどんどん起ってくる。

そして、極めつけは原発が危ないということ。
最低な状況が更新されていった。

夜中帰ることを諦め、帰宅難民にもならずいつもの如く
会社に泊まることに決めた。

両親ともずっと携帯が繋がらなかったが、夜に電話で話す
一気に安心した。

外に出るとコンビニの食べ物がなくなっていることに
驚いた。揺れを感じ、あの映像をみてしまったら冷静でいること
なんかできない。もしもの時に備えることを考える。
東京が徐々に混乱していた。

赤阪の街に出ると、会社に泊まることを決めビール買い込む人や
居酒屋で飲む人達。現実はまたも淡々としている。
僕らも夜中過ぎたころ、居酒屋に行った。

はっきり言って、起ってしまったことをちょっと忘れたいというのも
あったかもしれない。


翌朝すぐにテレビをつける。
ニュース映像を見るたびに驚きを隠せない。

もう仕事なんか手につかない。
なんで自分はテレビ業界で仕事をしているのにこんな
時に、どうでも良い番組を制作してるんだろうかと思ってしまう。

自分の番組は4月の後半。
その時までに落ち着いてるのか、こんな番組を見たいと思う人がいるのか。
僕には分からない。
でもとりあえずはだらだらと仕事をする。

昼間、昨日多くの人が非難していた公園で重盛さとみが
バラエティ番組のロケをしていた。
同僚と急いで見に行く。
多分みんな思ってるはずだ。
こんな時に…。
そんなことは分かっててもみんな自分の仕事をしなくてはいけない。
何かその光景がやけに平和で逆に怖かった。

外に出ている間に原発は大変なことになっている。
放射能漏れ?被爆者三人
こんなこと起こり得るんだとしみじみ思ってしまった


停電になる。更に食べ物はなくなっていった。

帰りがけ焦って水やカップ麺を買いこむ。

急に不安になってしまった。

そして今日、徐々に落ち着きを取り戻している様だった。

明日から大阪にロケに行く。
関西ではもっと平和な日常が続いているはずだ。

今こうしている間にも、孤立化している人や生き埋めになっている人が
いると思うとなんとも言えない。
想像を絶する地獄絵図はまだ広がり続けている。
少しでも多くの人が助かって下さい。

今回の震災で被害を受けた方々にご冥福をお祈りします。










小まめにブログを書こうと思う。

昨日の夜、四谷学院時代の友達に10年ぶりにあった。
10年という時間の流れももちろんだけど、あまり違和感を感じなかったというのが驚いた。
割りと話し出すとその頃のことを覚えてるもので盛り上がる。

また10年の間に起こったことを話し出しても、面白い。
地元の同級生と喋るのとは少し違った。

俺は今年で東京に来て10年が経ったんだ。一人暮らしを始めて10年。経験を生かして掃除に自炊にベテランということはなく10年前より退化している。一体どういうことなんだ…。

ただテレビとコンポの鉄の棚は10年間変わってない。
いかに家具にこだわりがないか分かる。

最初に住んだ家は今でもよく覚えてる。間取りも配置も。
引っ越しが終わり親が帰ったあと一人ぽつんと取り残されたあの感覚。
予備校が始まるまでの数日間。何も孤独を埋める術がなかった。地元の友達に電話をすると既にそこでは俺抜きの生活が始まっていた。そんな当たり前のことに凹む10年前の自分はどんなに子供だったんだろう。

でもそれは結局ずっと続いていた。
今だっていつまでいるんだろうと考える。東京の生活は10年間でゆったりと上下しながら良い時と悪い時を繰り返している。多分これからも変わることなく続く。
おじちゃんの容態が8日急変した。前の状態を見ているから覚悟はしていたのでついに来てしまったかと思った。
新しく手伝っていた仕事も忙しくなり始めていたからどうしようかと思った。親とも状況を話して、もしあれだったら無理しなくても良いと言われた。でもそう言われるとどうしても会いたくなってしまった。

仕事も引き継げば良いんだと思い、急いでまとめた。時間が経てば経つほど焦ってくる。もしかして俺のことを待ってるんじゃないか。
枕元で声をかけて優しい笑顔で返してくれるかもしれない。

終電を調べ、一度家に帰って着替えや革靴などを取ってから向かう。それどころじゃないけど、その後のことも考えなければ。台風の影響もあり湘南新宿ラインは止まっていた。仕方なく赤羽から宇都宮線で帰ることに。

姉ちゃんからとりあえず落ち着いてるという連絡をもらったので気分は落ち着いた。地元に着くのは11時を過ぎてしまう。実家に帰るには迎えに来てもらわなくてはならないし、とりあえず病院に行きたいので向かうことにした。病院には母ちゃんが泊まると言っていたので一緒に泊まることにした。
11時半ごろ栃木駅に着く。駅はすっかり新しくなっている、今から10年前高校を辞めてすぐ高架化の工事をやっていたことを思い出した。
夜中の駅前は静まり返っていた。病院へは歩いて10分程。普段住んでいる環境からか、やたら暗く感じ怖くなる。
病院で母親と合流する。
おじちゃんを見るとすやすや寝ているようだった。呼んだが目は開かず周りもいるので、ロビーに戻ることに。とりあえず安心した。

それにしても、何度来ても病院の雰囲気は苦手だ。しかも、おじちゃんの部屋はナースセンターのすぐ向かい、つまり重病人の部屋だから余計だ。
しばらくロビーと病室の往復を繰り返した。
ロビーで母親と話している時にいつかこの母親を自分が看取ることを想像した。凄く先な話だけど、必ずいつかは来ることなんだと言いようのない不安と悲しさに襲われた。そして、夜中に少しだけ寝た。

翌朝、父・姉と合流する。一度シャワーを浴びに家に帰りまた病院に戻る。僕たちのできることはずっと病院にいること。父親は前日寝れなかったため一度家に帰って寝ることに。
姉と一緒に声をかけると目が開く。もう声はでないし、首も振らないのでこちらに気付いているのか分からない。
『おじちゃん、分かる?』 根気よく声をかけた時、それに答えるように心拍数が上がり眉毛が動く。気がついてるんだと姉と話す。しかし、本当は分からない。見舞い客たちはそうやって納得させるしかない。
しばらく目を開けているが、また目を閉じて眠り始める。こうして段々起きる時間が少なくなっていくんだと思った。

目を閉じて眠り続けるおじちゃんをずっと見ている。その最期の瞬間まで必死で生きようと息を吸い込んでは吐く。誰もがやっている当たり前のことがこんなにも凄いことだったなんて思わなかった。

そして、思い出すのは一緒に過ごした思い出。
姉ちゃんも同じことを考えていたのかふと語り出す。

『いつも朝私たちが登校する時、おじちゃんが自転車を道路の方に向けてくれて、手を振ってくれてたよねぇ』

言われて思い出した。毎朝、自転車をすぐ出発できるように向きを変えてくれて、笑顔で送り出してくれる。
それはおじちゃんにとっても日課で毎日の生活の一部だったのだろう。
その時は何も思わなかったけど、今はおじちゃんの僕らに対する愛情がよく分かる。
そんな人後にも先にも現れないことは分かってるのが悲しい。
昨日ダッシュで帰って良かったと心から思った。
おじちゃんの容態は平行線を辿っている。
2日前に医者からいつ急変してもおかしくないと言われた。しかし医者もそれがいつなのかは分からないのだという。
おじちゃんは最期の時に向けて頑張っている。

その日は家で待機することに決める。

2日前に医者からいつ急変してもおかしくないと言われている。しかし医者もそれがいつなのかは分からないのだという。
恐らく昏睡状態の中眠るように逝くのだろう。そこに向けて旅をしているんだと思った。
看護婦さんに聞いたら本当に人によって違うらしい。つい30分前に喋っていて、ふっと亡くなる人もいれば、血圧、心拍数が最低ラインで一週間生きる人もいるという。
それはまさにその人の去り方とも言える。

今まである程度体の機能しなくなれば時間は決まってると思っていたので初めて知ったことだった。

そして、今日のおじちゃんは眠り続けていた。いくら声をかけても目を開けず完全に昏睡状態に入った。その時は少しずつ近づいているのかもしれない。

今日、朝早く起きてきれいな朝焼けを見て、夕日を見た。昼間は空に虹がかかっていた。病院から帰って家に着くと満天の星空を見た。最近こんな景色見る時間もなかった。おじちゃんが見せてくれたんじゃないかと思ってならない。

しかも父、母、姉と四人でずっといる。
ここ数年こんなに一緒にいたことなんてなかったかもしれない。
これもおじちゃんのお陰だ。ありがとう。

また明日病院に行く。
うちのじいちゃんは今年で91歳になった。
ここ数年はグループホームにずっと入っていて、少しずつ弱ってきてはいるものの元気に暮らしていた。痴呆が進み始めていたことはあったがいたって元気だった。

8月の29日に父から体調を崩したので入院することになったと電話があった。実は進行性の癌が腎臓にあったらしく、体中に転移して手の施しようがないらしい。
あまり長くないかもしれないから会える時に会って欲しいとも言われていた。

9月7日に実家に帰り見舞いに行った。やはり弱ってはいたが、流動食を一生懸命に食べていた。その姿を見ていたら、一生懸命生きようしているんだと思って、泣きそうになった。
すぐにどうこうという感じでもないらしい。

そして今日また実家に帰ったので会いにいった。病室は四人部屋で前のベットの人は以前行った時と違う人だった。

僕と母ちゃんで行くとおじちゃんは寝ていた。
寝ているとなかなか起きないし、朦朧としてることもあったと言っていたので今日は挨拶できないと思っていたが、すぐに目が開きこちらに気がついた。この前の時は僕のことを分かってなかったみたいだけど、今回は分かってくれたみたいだ。しばらく手を握った後、また目を閉じる。
時々眉間にシワが寄り苦しそうな表情をしている。『大丈夫?痛い?』と聞くと『大丈夫』と答える。本当はもの凄い痛いはずだ。またしばらくすると痛みは静まっていったのか安らかな表情になった。
そんなおじちゃんを見ているといろんなことを思い出して、また涙が出そうになった。母ちゃんの前なのでこらえる。ゆっくりと確実に忍び寄っている死の影は消えることはない。

そして、おじちゃんは一言『帰るべ』と言った。
人はその最期の瞬間もいたいところにいれないんだと思った。

今はもう頑張ってとしか言えない。
黒澤明の映画であったなぁ。何てかっこいいタイトルなんだと思ったくらいだ。
この作品で三船敏郎は見いだされて後の作品に出て行く。破天荒な生き方をしてきたチンピラを演じて主役の志村喬を完全に食ってしまった作品。
今まさに酔っ払ってる訳で駅前の焼き鳥屋でレモンサワーを飲み干している。飲まなきゃやってらんないわって大声で叫びたい。

年末から年明けにかけてかなりひどい仕事ぶりをしたせいで僕の評価は地の底に落ちた。
やっぱり適当に何かできるはずがない。ましてや仕事だから必ずボロは出る。

あぁ全てをやり直したいだとか、辞めたいとか色んなことが頭を交差する。もうAD何かやりたくないって気持ちが一番強いんだと思う。

今の蟻地獄から抜け出したい。抜け出すにはどうするか?
信頼を勝ち取ることだ。単純なことがわかっているのに、今は何も浮かばない。

もっとクリエイティブなことがしたい。面白いものを作りたい。胸を張って『これ俺が担当したんだ』と豪語したい。
『色々大変だったよ』なんて苦労話の一つや二つかましてみたい。

あぁ俺はどうしょもなく腐っていて錆び付いてる。周りにコーティングされていた安いペンキははがされ赤錆がびっしりついた表面が露出している。
早く修復しないととんでもないことになる。
ジャリ…ズズー
危なかった、疲労によりもつれた足がいうことを聞かなくなっている。
辺りは薄暗くなってきた。

『ホホホホホホホホ キキキキキキキ』


森から得体のしれない生き物の鳴き声がする。
これは本当に早く帰らなければ、行きで通過した神社に差しかかる。

『よしここを抜ければ…嘘だろ?』
僕が目にしたのは閉められた鉄格子の扉だった。扉には『夜間通り抜け禁止 迂回路へ』と書かれていた。
迂回路はじめじめした土と木の根とでボコボコした歩きづらい道だった。息が切れてくる。気がつくと自分の呼吸だけがあたりに響き渡る。
『はぁはぁなんで俺こんなことしてるんだろう…』
次の瞬間だった。右足が木の根に引っかかってしまった。何も考える暇もなく、僕は後ろに倒れ意識を失ってしまう。
徐々に意識が遠のくなか、木の葉が不気味に夜空に揺れていた。



『僕はどうしてここにいるんだろう…』



眠りに似た感覚。しかし、一つだけ違うのがもう目覚めないような気がしてならないことだ。きっと遭難とか災害で死ぬ人ってこんな感じなんだろうな。となぜか冷静に考えていた。今にも閉じてしまいそうな瞼を僕は必死で開けようとしたが、そんな僕の抵抗は虚しく暗闇の世界に引きずり込まれていく。

その時後悔した。なぜあの時あんな選択をしてしまったんだろうと。




長い前振りはともかく僕はなかなか休めないことに心が折れていた。
泊まりまくり三週間休みがなかった僕は番組が終わると同時に次の土日2連休を楽しみにしていた。久しぶりに実家に帰りたいと思い金曜の夕方実家に帰ることを伝えたのだった。その一時間後土曜1日ロケに行くことが告げられた。次の日はまさに地獄。朝5時起き(ほぼ寝れなかった)夜9時くらいまで。帰りがけ酒をあおり、帰ってから映画などを見て眠る頃には朝方になっていた。
もう次の日は決まりきっていた。起きたら薄暗く夕方になっていた。
僕が思い描いてた週末はもろくも崩れ去った。夕方に起きたものがすぐに寝れるはずがない。しかも、月曜日は運の悪いことに月に一度の朝礼だった。朝方最悪な気分で布団に入る。そして、起きた瞬間寝坊だった。ダッシュで走れば間に合ったかもしれない。しかし僕にはもうそんな気力が残っていなかった。事務の人に電話をして、頭が痛いから午後からにすると報告する。そのあと二度寝をして時間は13時になっていた。それでも急ごうとはせずにオナニーをしてシャワーを浴びる。そして家をでる頃には15時になろうとしていた。駅までの道すがら、今更行ってもという思いが駆け巡る。
目の前を走る中央線を見る。会社とは逆の方向に行きたい。遠くに行きたい。僕は高尾山に行くことに決めた。
9月の後半はまさに地獄だった。恐ろしい程の翻訳、初めてのスタジオ収録。やってもやっても仕事が増え泊まりが多くなる。といってもこれはかなりオーバーに書いている。番組完成までの期間は短かったし、割り切ればできる仕事だ。
最近、底力のようなものが出なくなっている。番組が完成して見た感想はただただ面白くなかった。まぁでもこれでゆっくりと週末は休めると思った束の間土曜日にロケが入ってしまった。
ずっと実家に帰りたかったので、親に明日帰ると連絡した直後にその話が出てしまった。断ることなどできるはずもなく、その日1日ロケをすることに。もう僕の中のモチベーションはだだ下がりで会社に対する不信感もつのる。私生活をかなぐり捨て、ようやく一息つきたいと楽しみにしていた二連休を脆くも吹き飛ばしたのだ。
そして日曜はねるだけで終わってしまう。

夕方に起きた人間が寝れるはずもなく、ずっと寝れない。翌日朝から会社のミーティングがあったので出なくては…。

起きた時にはミーティングが始まる一時間前に急いで準備する気力もない僕はそのまま休む決意をした。そして僕はそのあと眠りに落ちてしまう…。こうして僕の無理やり作った休日は始まった。

次回予告
『突然の登山、懐かしのあの場所へ』