789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
もしも人が人間的思考の運動(信⇔擬)による見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって分別した状態で、苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩=人間的思考の運動にとらわれている人が人間的思考の運動を止める事以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある=人間的思考の運動が止められない人」と呼ぶ。
人が清らかになり、覚るためには、自らが知り、自らが見て初めて、疑いようのない智慧となる。書物によって、あるいは見方によって、あるいは、誰かから聞いた知識によって理解しても、実践によって獲得しなければならないのである。それは、アナログの世界の人々にデジタルの話を聞いて理解をしてもらっても、実際にアナログからデジタルに変換しなければ、理論上の空想で終わることと同様に、清らかになることはできないのである。