BOOKMAN -5ページ目

その時は

「優太っ、優太っ」
母の声が聞こえる。
「う、うーん」
光が眩しい。
「珍しいわね。いつもは目覚まし時計が無くても、勝手に起きるのに。もうそろそろ起きないと遅刻するんじゃないの」
と言いながら、床に落ちていた教科書を机の上に置いた。
「えっ」
壁に掛かっている時計を見た。間に合う時間だが、ゆっくりしていると遅れるかもしれない。
「何かあったの」
と言いながら、部屋の窓をあけた。
「別に」
「ふーん。じゃあ朝ご飯出来てるからね」
「あぁ」
着替えをし、部屋を出てリビングに向かった。イスに座り、背伸びをした。
食卓には豪華でもなく、質素でもない食事が並べてある。
「親父はもう行ったの」
食卓の向かいの茶碗や皿には、誰かが食事をした跡がある。
「うん。お父さん出掛けてから、優汰呼びにいったから。」
少しほっとした。
歯を磨いていると、食卓に置いていた携帯電話が鳴った。五秒ぐらい、着信音1が鳴り響き、止まると携帯電話の一部が緑色に点滅した。歯を磨き終え、携帯電話を見ると渡辺のようだ。靴を履きながら、渡辺に電話をした。
「もしもし、優汰くん。」
透き通るような声は、電話越しでもほとんど変わりはないが、透き通るような声は、いつもより弾んでいる。
「うん、電話したよね」
片方の靴を履き、踵を直した。
「うん、今どこにいるの」
なぜか、ドキッとした。
「い、家にいる」
なぜか、悪いことをしているように思えた。
「良かった。優汰くんならもう学校に着いてると思ったんだけど」
「どうしてまだ家にいるの」と聞かれそうな気がして、慌てて言葉を飛ばした。
「たまにはゆっくりしようと思って。それで、何で電話してきたの」
なぜか、正直には言いたくなかった。
「一緒に学校行かない。いろいろ話したいし」
一緒に学校に行くと、また学校の奴らに何か言われるのではないかと思ったが、今の渡辺には断わりづらかった。
「あぁ、分かった。じゃあ昨日の公園で待ってて」
喋り終えると同時に携帯電話を左手から右手に変え、もう片方の靴を履いた。
「うん、待ってる」
確かに端から見れば、付き合ってると疑われても仕方がないなと思った。
いつもと同じ道を歩いて行く。この道を何百回も通って来た。あと何回通るのだろう。当たり前な風景だったけれど、飽きることは無かった。
飯を食べるように歯を磨くように風呂に入るように寝るように、この道を歩くことは、日常の一部にあったから。

その時は

どう誘えばいいだろうか。薄暗い天井を見ながら、考えた。
確かに田中とは仲が良い。でも、それは小学校までの話だ。
中学に入ってから二年間は別のクラスだった。小学校の頃もだが、違うクラスになったときは、わざわざ話しかけには行かない。すれ違っても、何も言わない。
それをするのは違うと思った。
今年は同じクラスになったが、話しかけるのが気まずくなっていた。田中は小学校の頃から何も変わっていない。身長は伸びたが、元々背が高かったから、変わったようには見えない。何も変わっていない田中に、話しかけづらい。

本当に俺は田中と仲が良かったのだろうか。俺は田中のことを友達と思っている。いや、それ以上の存在だ。ただ、休み時間の数分間話すだけだったけど、大きな存在だった。
でも、田中は俺のことをどう思っているのだろう。田中は誰にでも優しく、公平に接する。
今、振り返ると、田中から話しかけられた覚えがない。話すとしても、俺と良樹が一方的に話して、田中は笑顔でうなずくだけだった気もする。田中は俺のことを友達と思っているだろうか。
あんな簡単に返事をするんじゃなかった。落ち着いた今になって思った。
左側の白い壁をじっと見た。明日が憂鬱だ。いつものことだけれど。

その時は

「誰、その好きな人って。」
ここまできたら、自分から積極的に聞いたほうがいい。そうでないと朝になってしまう。
「た、田中くん。」
照れたのか、うつむいて顔を隠した。
「田中って田中敬のことか。」
「う、うん。」
渡辺の口から出てきた言葉はそれほど意外な言葉でもない。むしろ思っていた通り。思っていた通りで妙な肩透かしをくらった。
田中敬は大地の前の席にいるノッポの男子。
「優汰くんは田中くんと仲いいよね。」
確かに仲はいい。小学校のときは、良樹と三人で休み時間に何度も話しをした。だが、それ以外は何もしない。学校以外で遊ぶこともない。よく分からないがそれだけで十分な気がした。
「うん、まぁ一応。でもお前が一番田中と仲いいけどな。噂もあったし。」
と言って、ベンチにあぐらをかいた。
渡辺は人気があるらしく、何度も告白されている。そして、全て断っている。そのせいか、誰かと付き合っているという噂が出た。
性格が似ていたことと、女子の中で渡辺とだけよく話すという理由で田中が疑いの中にいた。
良樹もその中にいたが、一番疑われていたのは俺。二人で帰る姿を何度も見られており弁明もさせてもらえず、二年になっても、渡辺と少しでも喋ると視線を浴びたり、ひそひそ声が聞こえたりした。
俺はそんなことは全く気にしないが、渡辺は俺に気を使ったみたいで学校であまり話しかけられなくなった。
それから、佳代とも話しをしなくなり、良樹も渡辺と佳代に話しかけづらくなったようで、いつの間にか四人は半分に分かれていた。
だが三年になってすぐの、委員会を決める話し合いのときから、渡辺と田中が付き合ってるという噂がまたでた。それからは、俺たち四人の仲は徐々に元に戻っていった。だが、渡辺と田中の噂はまだ継続中。
「噂はうわさだよ。」
確かにそうだ。実際、渡辺が付き合っていないことは知っていた。
今まで、噂と呼ばれるものを何十回も聞いてきた。その殆どは、大げさや嘘、勘違いなどで出来ていた。 噂を信じる気はないし、もし噂の中に本当があったとしても、偶然としか思わない。「噂もあったし」というのは、二人の仲がいいということを言いたかったのだけれど。

「それで、相談ってなに。俺に何かしろってこと。」
「うん。えっとね、田中くんと遊びに行きたいの。もう少しで中学も終わっちゃうし。でも、どう誘っていいか分からなくて。だから、悪いと思うけど優汰くんに誘って欲しいの。三人で遊ぶってことにしてくれないかな。」
「渡辺も分かっているのか。」
ぼそりと、呟いた。
「えっ、分かっているって何のこと」
暗闇の中、うっすらと渡辺のきょとんとした顔が見えた。
「あっ、何でもない。」
つい間違えた返事をした。
「もう少しで中学も終わっちゃうし。」
この言葉を訊いた瞬間に、心臓の鼓動が大きくなり、一気に鳥肌がたった。喜怒哀楽のどれにも当てはまらない感情が沸いた。
「それで、駄目かな。」
「あ、あぁ、いいよ。」
鼓動も鳥肌も収まる気配はない。
「本当に。」
満面の笑顔を見せた。
「うん、誘ってみるよ。」
「ありがとう、優汰くん。」
満面の笑顔の倍の笑顔。
「じゃあまた明日ね。」
幸せそうな顔をして帰っていった。
携帯電話の中にあるアナログ時計は、短針は7という数字の少し先を指し、長針は2と3のちょうど間を指していた。
側溝に足が躓いて、片方の靴が脱げた。こんなドジをしたのは久しぶりだ。