週刊さんでいリターンズ -28ページ目

週刊さんでいリターンズ

起業系コメントが面倒になったので(わしはまだ病院にいたいんだお)、コメントは承認制にしました。基本知ってる人のコメント以外は承認しませんのであしからず。1日10人も見にこないブログで営業しても効果は少なかろうになあ、ご苦労さま。まあ、頑張ってくれ。

ども。ここ2週間ばかり肝機能低下したせいか抑うつ気分満載だったさんちゃんですこんばんは。
昨日もまあいろいろあったし、今も呑気にブログなんぞしてる場合じゃないのかもしれんのだが、気分はやや上昇気味だ。そのきっかけが、自分が別のところでつけていた日記だったというのがナルちゃんで申し訳ない。

しかし、あのダメPTの時に書いていた日記は、ダメで情けないながらもわしってばとても、ものすごく、明らかに、患者さんが好きだ、という気持ちがよく出ていた。

絶対臨床に帰る。

と、言いながら現実的には無理かもしれないので、「気持ちとしては絶対」だが確約はできない。(なんだそりゃ)


自分の専門である循環器の授業に出ていてふと思った。

汎論の講義はそれぞれの科の臨床ドクターが、学会に提出した内容であっても一般の人にわかりやすいように噛み砕いて説明してくれる。ところがどういう訳か、循内の講義だけはカンファ(博士課程の発表)をそのまま講義にあてている。

一応わしも内部障害を勉強したPTなので、テーマと概略はわかる。しかし詳しい内容ははっきり言ってほぼ理解できない。

もっともっと頑張って勉強すれば理解できるようになるかもしれない。
しかしわしの年齢と職業と頭の程度と残された時間を考えると、

「そこを頑張って勉強するよりも自分の専門分野の知識を充実させた方が効率的だ」

つまりもう彼らのやっていることを理解する努力をしても時間の無駄、すなわちわしにはもう一生理解できないだろう、ということになる。

望んだところでわしには無理な範囲がある。お医者はわしにわからないレベルを研究していることを再確認した。そして心リハでは当大学のドクターたちには患者としてもビジネスパートナーとしても安心できるということも理解した。

しかし一般の患者さんにとっては、病気について正確に詳細に説明をしても多分すべてを理解するのは無理だろうから、端折ってというと失礼だが、生命予後や今後の見通しなどわかる範囲の情報だと思う。すると本当に頭のいいドクターかどうかは患者さんにはわからないかもしれない。何分最近の日本では難しいことを難しく説明するより、誰にでもわかるように説明する人が頭がいいと思われているからな。(きっと池上彰のせいだ・笑)でも、それが本当に正しいことなのかどうか、確認しているだろうか。そしてどのような手段で?(ネットで調べると医療情報は相当根拠のないものが混ざってたりからかなり注意が必要)

噛み砕いて説明されたことを聞いて全てをわかった気になることと、自分で原理を理解できることは全く違う。そしてわかった気になると、その説明が本当に合っているのかも確かめようとしなくなるのが普通の人間だ。自分で調べるぐらいに多少残しておくぐらいが実は親切ではないか。

バカにもわかるように説明するというのは仕事によっては大切なことではあるが、本当のところはやっぱりバカは聞いても理解できない。わかったつもりが表面的なものであると、応用が効きやしない。原理を理解するためには自分で考える時間が必要なのであるが、正しい考え方、下手をすると考えるという行為すらわかっていないのがバカのバカたる所以である。

あ、他人のことじゃなくてこれはあくまで自分の今までの経験でのことです。わし、まだきちんと考えられているのか自信がないですもん。言うじゃないですか、「バカの考え休むに似たり」って。この1年、どれだけ教授に罵倒されたことか・・・

ただの罵倒じゃなくて、うちの教授のようにきちんと考える人から見るとわしは理論的ではない上に何も考えてないように見えるのだろう。でも、こうして怒られ続けたおかげで自分がするべきことや、やってもムダなことがわかったのだからそれはそれでいいんだ、そう思わなきゃやってらんねえ。


という訳で、弘兼憲史が「努力は必ず報われる、は嘘だと子供に教えるべきである」と言ったそうだが、わし的にも「バカには”お前はバカ”ということをわからせた方が今後の人生を送る上で、ムダが省けて実は親切かもしれない」と思ったりする。や、さすがに人様に面と向かって”バカ”とはわしごときがよう言わんが。


とりあえずノーベル賞を取った日本人は増えているかもしれんのだが、一般的な日本人の頭脳レベルはどうなのかと心配する。わしのようなうすらバカが世間一般で言うとそれなりの大学出てる上に、院に受かっちゃってるからだ。大丈夫か、にぽん、と人の心配するよか自分の心配しろよと。その通り。

本日の結論:もうバカと言われるのも飽きてきました。来年はバカ脱出したいです。
今日の医事法学は、「安楽死」という問題だった。

担当は普通に外来で300人担当していらっしゃる、ある分野の専門医ドクター(科は秘す)だ。
一般人から見ると医師と法学など関係なさそうに思えるかもしれない。しかし、少し前にちらっと書いいたのだが、異状死では法医学や救急の医師は常に関係がある。

このドクターの場合は、詳しい事件の内容は業務上書きたくないのだが、かつて身も手を尽くしたある難病の患者さんの病気が重くなった時に、介護をしていたそのご家族が1つならず悲惨な事故を起こしてしまった。その時ドクターが受けた大きなショックをきっかけに終末期医療の自己決定権を法律的に考えるために、その関係の大学院に入り直したそうだ。(しかも大学病院にフルタイム勤務しながら。どれだけタフなドクターだ)

そこで学んだことを生かして患者さんが終末期を迎えるにあたって、法律的に問題にならないようにご本人やご家族とよくよくお話し合いをして、ご本人の意思確認をされるとのこと。なにぶん命にかかわることなので、一つ扱いを間違えると、起訴されるリスクを伴う内容である。(業務外では、意思確認書などの法律的な講習会講師もしらいらしたりする。どれだけタフなドクターだ)

詳細は省くが、一度延命治療を初めてしまうと、途中で止めると言うのは難しい。始める前にご本人のしっかり意志を固めておく必要がある。

「延命治療を受けるかどうかについては日頃から考えておいた方がいい」
ということを、いくら医者一人が300人担当している患者とご家族に一生懸命伝えても、世の中医者にかからない元気な人の方がむしろ多い。そうそう人が死ぬことを念頭に置きながら生きてはいない。いつも死に方を考えとけといっても実際にはピンとこないだろう。・・・生きている限り、常に事故に遭うリスクはゼロではないんですけどね。

わしはPTとはいえさすが老人病院勤務だったので、ドクターの話の中で挙がった「死に際が苦しい病気」(但しそのドクターが専門としている領域は除く)の3つのうち、2つは担当して死に際を見ていた。残りの1つももちろん担当していたが、お見送りはしていない。それは、簡単に死ねずにじわじわ真綿で絞められる、と言われる病気だ。その患者さんは今のところは症状が落ち着いていらっしゃると聞いている。よかった。が、あの状態でもう何年になるのだろう。

いろいろ思うところがあるのだがこれ以上書けません。


そしてその前の授業では、通所施設に見学に行っていた。身障、重心、高次脳、自閉などいろいろ。自閉症児にTEACCHプログラムをかなり工夫されて取り入れていた。

そこでも思うことがいろいろあったが、やっぱり書けません。


本日の結論:どんなになっても「生きる権利」はある。
が、どんなになっても生きなくてはならない「生きる義務」なのか?
相方みかんせいじんは、よくもまあと思うぐらいたくさん本を読む。おかげで家は本だらけだ。

かくいうわしも、小中学校時代は学校の図書館中の本を読みつくすんじゃないかというぐらいの勢いで本を読んだ。大学では日本文学科に入ったのだが、そのあたりからぱったり読書量が減って、会社に入ってからは更に減った。

事実は小説よりも奇なり、と言うが子供の実生活など限られている。ネットもない時代、本は手軽なワンダーランドだった。大人になって、世の中には本よりも面白いことがたくさん待っているから本を読まなくても良くなったというのは寺山修司をダシにした言い訳だ。しかし、ある時から「読んでくれ、と誘っている本が少なくなった」というのは本当だ。

筒井康隆の短編に、テレビを観すぎた男に視聴率の神様が憑りついた話があった。その話のようだが、ある時から本屋に入ると、「これは絶対面白い」というのが分かるようになったのだ。本の神様が憑りついたのかもしれない。

それは作家によらないし(もちろん外れのない作家はいるが)、傾向に脈絡も全然ない。そして若さのきらめきという一瞬の才能はアンテナにひっかけてくれないし、ベストセラーも関係ない。だが、わしにとっては誘ってくる本は面白いものばかりで、外したことは多分ないと思う。

なので、相方みかんせいじんが買う本を見て、読んでもないのに申し訳ないのだが
「ごみのような本をたくさん買うなあ」
とちょっと呆れ風味である。果たして聞いてみると面白いの本もあるが面白くないものも多いようである。若い頃であれば、ムダも人生のうちだし外れを多くひいてこそあたりの喜びがある、と思ったものだが40も半ばを過ぎるとムダを整理して死ぬ準備を始める頃なのだから、

「つまらないなら途中で止めればいいのに。」
と思う。そのように相方に言ってみると、

「百田尚樹さん(『永遠の0(ゼロ)』の人ですね。あれは良かった)のようなことを言うなあ。
でも、せっかく買ったんだからお金がもったいないじゃん」

と言う。つまらんものにかかずらわってる時間の方がもったいないわい。

そんな相方が、ある本で「時間がムダだった」とまで怒っていたので念のため聞いてみた。

「・・・。あのさ、エドガー・アラン・ポー読んだことある?」
「?」


元ネタを知らなきゃ面白さがわからんだろうな。読んだが怒るほどの本ではないぞ。
その本は、「蘆屋家の崩壊」だった。津原泰水さん、相方がツイッターでけなしてごめんなさいね。

ヤツの場合、江戸川乱歩もどのぐらい読んでいるか怪しいものだ。とりあえずミステリーの古典をいくつか勧めてみようと思う今日この頃。

本日の結論:結局家が片付かないという言い訳です。
今週に入ってから体調が悪いさんちゃんですこんにちは。
今日は多分今までで一番この病気らしく痛い。

月曜の朝いちから講義があってずっと朝から出動だったので、講義のない今日はだらだらしています。
すまんにょ。

そんな訳で、思って昔大好きだった日記(当時はブログなんてなかったのだよ)を発掘した。残念ながらもう現物は存在しないので、ウェブアーカイブでしか見られない。しかしこれがもう傑作。

期間限定で公開します。年月日のところを押すと見られますが全部は見られないのが残念。
http://web.archive.org/web/
のページのThe wayback machineに↓を張り付けてどれでもいいのでクリックしてみて下さい。
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/66654/


ところでウィキペディアによると、ウェブアーカイブとは、「そのコレクションを後世の研究者、歴史家、一般大衆のために保存して、アーカイブとしたもの」だそうだ。

わしのさるにきもそうなのだが、このようなものが後世の一般大衆に役に立つのか否か、甚だ微妙である。

それにしても彼女は素晴らしい哲学者だ。わしの心を揺さぶる珠玉の名言の数々。

「知らないの?お金は寂しがり屋だからたくさんあるとこに集まるんだよ?」
「あのね、人間金なんかなくても生きていけるのよ!」
「足りないカロリーなんて酒で帳消しだよ」
「だってさ。昼間に飲む酒は他のどの瞬間に飲む酒よりうまいのよ?
 アタシ毎日昼間から酒飲めるんなら、人生をボウに振ってもかまわないわ」
「前にも言ったけど(酒を飲んだ時は)記憶なくすくらいがちょうどいいのよ。覚えてるべき事なんてそんなに世の中にはないの」
「タヒんだ人間に何ができるってのよ。コワイのは今現在生きてる人間でしょ~?」


今のところわしにとってはこれを超える日記やブログ類は、未だ存在しない。

時々目にするが、変にこ頭がいい人ほど面白く物を伝えようとしているのだろうがかえって面白くないという文章がある。

特に婉曲的に特定の誰かへ物申すブログは、関係ない人にとってはゴミだし、ほぼ相手にも伝わらない公開G行為。・・・わしのこの10年のにきは伝えるべき相手もいないのに後悔G行為だが(汗)。

この「オレ」さんの文章は単純明快。何よりサイトーさんの生き方が単純明快だ。
わしもそうありたいな。


現在はどうしていらっしゃるんだろう。恐らく今も酒を飲んでいるのだろうと思われるが、彼女とオレさんの幸せをささやかに陰ながら祈る今日この頃。
先週と今週は師匠が海外出張なのでぶったるんでいるさんちゃんですこんにちは。

わしは学生だから長い夏休みがあるんだろう、と見込みで相方は夏に長期旅行をもくろんでいたのですが、6月末から9月の頭までは毎日のように師匠から怒られて怒鳴られて罵倒されて、申し込んでいた(申し込むなよ)世界遺産への旅はキャンセルしました。

で、とりあえず師匠には計画は通ったので、相方にせがまれて釧路周囲に行って酒を飲んだりアイヌの踊りを踊ったり酒を飲んだり丹頂鶴をみたり酒を飲んだり酒を飲んだりしてきました。

楽しかった。

で、帰ってきたら師匠からメールが来ていたので(学会中なのに・・・涙)一気に現実に引き戻され既に腰が引けている情けない状態ですみません。あ゛-。朝方に抑うつ気分山盛りです。


何だかわしの病気の周辺では、ツイッターでやたら勉強会やらネットやらで情報収集する人たちが騒がしい。(と言ってもわしもここでは相当情報収集出来ているので感謝。悪いがアメブロでは役に立つ情報は皆無に等しい)

やたら学会や勉強会がある今日この頃なので仕方ないのであろうが、薬と金の話は食傷気味だ。
この周囲の方は長期闘病か、重度の疾患の方が多いのでいろいろ不満がおありなのは理解する。

わしかて早死にしたい訳ではないので、自分でできること、例えば運動や不摂生しすぎないようには気を付けるが、あまり薬や医療の進歩に期待をし過ぎてもなあ。もう人生50年近くも生きてきているから、そりゃあちこち傷んでも当然であろ?なんぼ生活習慣病ではないと言えど、さんざっぱら酒飲んできたし、睡眠も足りないし、精神的な負荷もかけてきたし。

若くから普通の生活を営めないぐらいの症状の方は気の毒だと思うのでこういうのも申し訳ないのかもしれんが、わし的にはもう一生時々トイレの神様につかまっても痛くても辛くてもしょうがないや、と諦めてしまった。

後は、こいつをだましだまし細く長く付き合っていくか、もっと早い滅びの道を辿るか、だな。
と、立川談志師匠の訃報を聞いて考えてしまった。

がんだとわかってもタバコも止めず、ライフスタイルを変えずに長生きしない、という手もある。
それで悪化してもわしらや家族に文句を言わず自己責任を取れるのであれば、アリだ。

しかしまあ、よく政治家なんてやったよなあ。
とりあえず、わしのミク友の「だんしがしんだ」の回文に脱帽。合掌。
こんばんは、、、先週末から体調絶不調のさんちゃんです・・・恒例のトイレの神様には解放されましたが現在胃痛を抱えて提出書類作製ちう。かなり辛いです。



昔、患者さんに言われました。守秘義務があるので出自は申し上げられませんが、ある分野でご高名な方でした。

「過去は記憶の積み重ねです。未来は予測の積み重ねです。どちらも時間軸の中で考えるという行為が 必要です。

 あの世には時間が存在しません。

 故にあの世は存在しません。」

その時のわしは質問しました。

「現在という時間は、何も考えずとも成立する、写真のような瞬間の積み重ねで存在し得るということはないのでしょうか?」

この患者さんはわしとは違ってものを考えない瞬間と言う時間がなかったのかもしれません。
それに対して何も考えずに生きているわしらしい質問を投げかけてみたわけです。

「うーーーん。カントという人は”生まれつき”ということを言っていますが、そういう考え方もあるかもしれませんねえ」

わしを全否定しない、なんて素敵な患者さん。
カントは読んでみましたが、全く歯が立ちませんでした。すみません。

とりあえず、わしはそれ以来、あの世というものは信じなくなったような気がします。
霊魂についてはちょっと保留です。



といいつつ、ミスチルじゃなくてキヨシロー(超ラブ)だ。
・・・これは喉頭摘出無理だな(涙)某病院で可能な亜摘出だとしても、声は潰れてしまう(嘆)
わしもこの魂を揺さぶる声を持ってたら、延命よかオペ拒否一択だ。

ま、いろいろありましたが、これからもいろいろあります。
とりあえずあと1週ごたごたしたら2週間ぐらい休めそうです。
その間にいろいろ頑張ります。いや、わしじゃなくて姉に頑張ってもらわなきゃなあ。

バカでも粘り強く生きていればまあ、なんとかなる。
しかし、昨日の面談での、

「あなたは理解してないけれどこれ(わしのレポートの一部)は常識だから書かなくていい。」
にはまいった。本当に常識も理解してないバカですみません、師匠。

そして授業では、法医学のドクターに「あいつ、怒ることあるの?(=怒ったのを見たことない)」

と言われるうちの師匠って。


(註:話が複雑になりますが、わしの師匠は循環器内科医なので心事故などの救急も担当してます。突然死の場合は事件じゃなくても異状死と認めれば医師法で届け出が義務づけられています。そして届けるとくそ忙しいのに地元警察から事情聴取をされるのですが、刑事ドラマのような狭いがきれいなところではなく実際はロッカー室のような狭くて汚いところで3時間ぐらい取り調べられるそうです。普通の医者なら精神的にまいっちゃうくらい大変なようです。ちなみに法医学の医者は、警察から異状死体の解剖を頼まれる人たちです。なので救急のドクターが調べられた後に法医学の医者の出番となります。本当はもっといろいろあるけど、とりあえずこのぐらいで。)


師匠、現場では怒ったことがないらしいぞ。しかも、救急でしょ?

・・・怒られたことしかねーぞ、わし。

わしが超弩級のあふぉなのか、師匠が現場で神なのか、どっちだ。

同じ研究室の弟子仲間からすると、「先生が望むならどこ(の病院)でも行きますよ」
らしいので、現場神なんだろうな。

どれだけ、あふぉなんだよわし。がっかりだよ。


昨日は師匠との面談の後、循環器の勉強会に出た。

研究室の弟子仲間もちょこちょこ出ていたが、みなケーシー(白衣)のままで、その後仕事に散って行った。時間は午後7時。そうだな、確かにわしも病院にいた時はその時間であればまだ仕事をしていた。
もちろん残業代なんてねーだ。それが当たり前。

熱意と言う名の好意の元に成り立つ現在の医療、あふぉだと思うなら思うがいい。
それが崩れたら損をするのは誰よ?自己犠牲とは思っていない、
わしらはそれを自分の能力のうちだと楽しんでもいる。
・・・去年までのわしならな。今は病気だからといってこの有様だ。

病気で羽を片方もがれたと思った。でも現場では病気は通用しないぞ。
仲間にも迷惑だし、何より患者さんに失礼だ。
同じ病気の人と同じ土俵に立ってる場合じゃない、プロならば。

そんなわしにも傘を差し続けてくださいよ、師匠。

片肺でも片翅でも、
帰ろう。わしを待つ基地へ。
 
I shall return!
・・・落ちがマッカーサーか>わし(愕然
ようやっと研究計画に先が見えてきたようなそうでないようなさんちゃんですこんにちは。
今日はそれとは全然関係ない話。

少し前に毎年恒例の出身大学のOB行事がありました。わしはそこで大概卒後60周年記念パーティーの司会担当です。簡単に言うけど、22歳で卒業して60年ですぜ。そこに大酒が投入される心臓病プレイ。

わしは医療従事者だから有事の時に便利なんですよ。
幸い今の所は一度もないけど、毎回一番近いAEDを確認したり、蘇生GO!の歌で心肺蘇生の手順を確認したりしている。今年も無事でした。よかった。

去年は特別な事情があって主力行事の担当をしたため60周年担当は2年ぶりだったのだが、一昨年と今年では60周年のOBに決定的な違いがあった。

一言で言うと、最早戦中世代ではなかった。
確か3年前が学徒動員で繰り上げ卒業のOBだったと思うのだが、少し前は勉強どころではない時代のOBだった。挨拶を始めると、必ず戦争に絡んだ話からとんでもなく長くなる「俺が俺が」の世代の方々。

今年は妙にスマートでありながら、今までよりも幅広い要求が出た。
「コーラない?」なんて要求は初めてだ(笑)わずか2年で豊かな世代になってきたんだなあ。

今までであれば、時代の変化の先端を行くのは子供だったのだが、こう不景気と逼塞感が続くとこれからは時代が変わったんだなあと教えてくれるのは老人になるんじゃないかと思ったりした。面白いな。


大学のOB会の幹部は政財界のお偉いさんが仕切っていたようで、わしの大学でも少し前まで某政治家夫人のご父君にして某一部上場企業会長の某氏が結構長く務めた。今の会長も某美容系会社の社長さんだが、まだお若い部類に入るので、周囲のやっかみがあっていろいろ大変のようだ。

そして、今や女子学生が半分以上を占めるというわしの大学だが、卒後60周年では女性OBがまた延べ10名もいない。OB会の幹部にかろうじて女性が1名いるのだが(日経の交遊録に出たことあるような方)、今回の改選でその女性を会長に推そうとした女性OBたち(OGともいう)が古いOB達に叩かれて大変な目に遭ったらしい。

一番ひどい目にあったのが、わしの委員会の副委員長である。
それまでは古いOB達からアイドル的にかわいがられていたのに(わしより10歳ぐらい上だけどまだまだ美人だからね)手のひらを返されたように冷たくされて面前で非難された経験は彼女を痛く傷つけたようだ。そりゃそうだ。育ちもいい美人が普通に幸せな結婚をして上流家庭に入った後にそんな経験をすることはないだろう。わしみたいに毎週罵倒される中年の方が珍しい。(←いいんだよ、自分の話は)

「OB会では、女は発言してはいけないってことがわかった・・・」
と、しょんぼりしている副委員長を慰めるためにわしが述べたことは以下の通り。

それなりの地位で会社を引退して社会的に立場が弱くなったご老人達の最後の砦は家庭と大学。いや、家でさえ奥様は同世代だからともかく子や孫から疎まれているかもしれない現在、大学の年功序列は手放しがたいパラダイス。

若い世代との対話を求めるような人々ならとっくにそうしておるはず。今更ご老人の最後の活躍場まで取り上げるのもいかがなものかと。いいか悪いかという問題ではなく、日本ではほんの65年前まで「大義のためなら人を殺してもいい」と教育されていた訳で、そういう世代の方々の考えを変えようというのは難しい。

「でも、大丈夫ですよ、先輩。あと10年で絶対変わります」

理由は簡単。10年でほぼその方たちはほぼOB会に出てこれない状況になっているからだ。
無理に戦わなくても時間が解決してくれる。徳川家康作戦、相手より長く生きること、これが大事。

不謹慎っぽくて申し訳ないが、それが現実です。90以上まで現役でひょこひょこ外に出て来られるなんて、前の病院の麻酔医の言葉を借りれば神に選ばれた人だ。こんなこと言うわしだってもう株屋では使い物にならないだろうし、この仕事だっていつまで現役でできるものか。

その頃には大学OB会にしがみついてたりしてな(笑)
ども。改めて研究のアウトカム(目指すところ)で今更悩んでいるさんちゃんですこんにちは。

・・・自分のバカっぷりに改めて嫌になるな。怒られて当然だ。


先週は怒られはしなかったのですが(逃げてるからだ)、ゼミの方々と一緒に行動していると改めて自分の空気の読めなさに自己嫌悪に陥ること甚だしいのであります。改めて、がここまで4つも出てきたのにちっとも改まらないのが極めて残念だ。

この業界に入って、学校でもそうだったし、実習でもそうだったし、就職してもそうだったし、今の学校でもそうだ。間違いではないのだがそれはあまりやらないなあ・・・というぎりぎりのラインを普通に越えてしまうのがわしの困った所だ。

間違いではない。しかし微妙。
空気は読めない癖に、そういう周囲の顔色と文脈は読めるので、途中で合点がいって心の中で冷や汗をかくこと多少。

前の職場では、些細なことに目をつぶれないお局様が数人いたので、ご注意を頂き「ごめんなさい」と謝って直せば済むことだった。はっきり言わずに陰口で言う方もいたようだが、誰かしら注意をしてくれる人がいたのでありがたいことだった。特別な信念がないのであれば微妙な線は超えない方が好ましいとわしも思っている。


だったら初めから気づけばいいのだが、残念なことに気付けない。(探すの面倒なのでリンクしないが偽新人時代のダメなわしをご存知の方はおわかりかと存じます)
元々が人のことをあまり気にしないので、本来医療の仕事には向いていない性格なんだろうと思う。好きではなかった株屋の仕事では怒られるなんてことは実際にも考えたこともなかったので(会社側の不備は別だ)、本人の性格と嗜好って違うのよね、がっかり。

この業界に入ってそれなりに性格の欠陥を本人の注意で補えるようになったと思ったのだが、ちょっと環境が変わるとすぐこの有様である。しょんぼり。

例えばだ。これは本当にくだらない例なのですが。(くだらなくない例は挙げたくない・涙)
ゼミで発表がある時にゼミ生がみんな端っこの方に座っているとする。わしは何の疑問も持たずに真ん中の後ろの席に座ってしまう。すると後から来た教授がわしの前に座る。

何も間違いではない。席は空いているので別に構わんのだ。だから誰も注意はしない。
しかし、席の近さは心理的かつ身分の近さでもあることに教授に座られた瞬間にさすがのわしも気づく、空気は読めないが文脈は読めるので。

みんな遠慮しているというか、近くに行くのは畏れ多いと思っているのだ。
わしだってそうだ(泣)近づきたくない、自分の出来の悪さを痛感しているのに。仰木監督を恐れなかったイチローじゃないんだからさ。みな初めからわかっていて両端の列に窮屈でも詰めて座っていたのだ。初めから気づけよなあ、わし。

と、ゼミの皆様は多分気にしていないようなことだが過敏に反応して一人で胃を傷めたりする。
(前の職場であったらご丁寧に「そこは座らない方がいい」とゼミの”後で”言うお局様がいたはず)

うちのゼミの皆様は、わしが年寄りだということを差っ引いても、どうしてここまでというぐらい寛容な方が多い、と外部から入った同期(といってもわしより遥かに若い)と驚いている。

あれだけ教授に叩かれれば謙虚にもなるよなあ。もっともここまで叩かれるバカはわしだけだろうが。


こうまでやっつけられるのは、一重にわしに才能・頭脳・思慮が欠如しているから、繰り返しでしつこくて読んでくださる皆様も飽き飽きかと思うが、一言で言えばバカなのだが、それでも医療業界に来て良かったなあと思うこともある。

バカだが、自分がバカだということはわかるようになったことだ。バブルの頃働いていた株屋の時代には気づいていなかったよ。

それから、想像力と言うか、妄想力が豊かになった。
元々本を読むのが好きだった。人生をシミュレートするには読書は適していると思うが、病院はそれ以上だ。何分リアルに人の死がごろごろしているのだし。(その話はまた長くなるので別の機会に)

想像力が豊かになって何が得かと言えば、腹が立つことがとても少なくなることだ。
いろいろな現象を勝手に想像して納得するので、人に対して腹が立つということはほぼない。ストレスが減る。もっともそれ以上に教授からのストレス負荷がかかる訳だが(笑)

だったら、もっと空気が読めると自分に対して腹が立たなくてよいのだがなあ(涙)自分が一番のストレス源だ。
ども。相方みかんが社員旅行のため、1人で家にいます。
昨日はいちんちレポートしたり資料集めをだらだらと時々ピグライフしながらやっていました。

今日はふらふらとあるブログに引き寄せられたり、オートレースのライブにひっかかってしまったり。

片平ああ、何だよお。おばさんの希望を背負ってるんだからスタートで終わらないでくれよお。
・・・人に自分の修論の未来を託してはいけない>ぢぶん。
ちなみに元スマップの森くんは決勝進出しました。偉いね、記念だし。優勝はしないだろうが。

という具合に例によってどんどん話がそれていくのですが、この癖はブログ以外ではマジ止めよう。単位落とすで。


そこで終わるのは気分悪いので話をまるきり変えて今日の出来事。

頂いたお手製マーマレードのビンを開けようとしたら開かなかった。
うそ。いくら病気と言ってもこのあたくしが?

何度かチャレンジするが、指の調子は悪いし総伸筋腱が肥厚していて切るとヤバいので諦める。

しかし自分の商売を考え、「無理くりでなくても方法があるはず」と戻ってビンの蓋を温めたりする。

しかしやっぱり開かない。相方が明後日帰ったら開けてもらおう、と諦める。

・・・しかしやっぱり自分の商売を考え、「1人暮らしの患者さんはどうするのだ、開けてくれる人を探せと言うのか?」と戻って、滅多に使わない道具を出して使ってみる。

・・・開いた。
道具を使うのはサルでもできるが、人間は道具をつくる。
ワニさんグレイト。(このネタは姉のブログ向きなのでブツの画像は載せない)


んで、何が言いたいかと言えば、ある所で「PTは生活生活いうより身体機能を上げてなんぼ、評価だけじゃ意味なし」、というようなニュアンスのことを見たのだが。全くその通りだと思う、そこは賛成だ。生活や環境を変えるのはPTじゃなくてもできる。そして評価できても改善できなきゃ意味なし。

だが、その身体機能の向上が限界と見た時はどうするのだ。それでも頑張らすのか。患者の限界じゃなくてPTの限界だと言うのか。(そして評価については技術と表裏一体と思うがまあいいや)そこで、この機能で生活するにはどうするよという話に帰ってくると思うのだが。

書かれた方は老人のリハはお嫌いのようなのでその発想はないか。ご自分の得意なフィールドを選んで独立成功されているようなので、少し偏ってるなとは思うが細かい点を挙げて反論するほどのことではない。


一つ言うなら、この仕事始めて3~5年ぐらいは、ちゃんとやってさえいれば一番技術的に伸びる時なのでついこのまま直線的に伸びちゃうような気がしちゃう時だ。

しかし、脳卒中直後の患者さんと同じで実は技術の伸び方は直線的ではなく対数関数的だ。
そして残酷だが、やはり才能・センスが最終的には物をいう、と思う。外科医と一緒だ。

つい使い勝手のよい手技に持ち込んで、それでも患者さんはそこそこ良くなるので1人よがりになる。それは嫌だからボコられるのを覚悟ですごい研修会に出て、やはりボコられる。で、練習するのだが相手は「神の領域」なもんだからそんな簡単に教わった技が身に着くはずもなく、ある程度で足踏みする。

しかしそんなプラトーに見えて、それでも頑張っていると、ある時突然対数関数から3次関数になったような伸び方をしちゃう人もいる、でも終わっちゃう人もいる(笑)

それは確かに経験年数の問題じゃない。

でも上手い下手なんて外から見えないから(患者さんの間では噂にはなってしまうんだけどね)我々は経験年数で測ってしまう。(といっても10年越える頃になると自分が何年目かわかんなくなるが)
だから本当の技術の上手さは独立して稼げるか稼げないかという考え方はある意味間違ってはいない。腕が良くても人あしらいが下手な人もいるので稼ぎ=技術でもないけどな。

と、思った。

まあ、早くに独立した場合、何年続くかということで真価が問われるだろうからそれも大変だな。
教えるのも確かに勉強になるのだが、下ばかり見てると余程の才能でない限り、こっちの成長が止まるのだ。
そしてわしは余程の才能ではない(笑)


才能は外から見えないし、技術は自分より上手いか下手かぐらいはわかるが、物差しはあくまで自分と、その自分が今までみたすごい人との間で測ることになるのであまりアテにならんのよね。

例えるなら、ち〇ぽの大きさを物差しで何センチと測ってから、あいつはオレの何倍だというのなら誰でもわかるだろうが、物差しがないからといって、

「オレはあの大学生よりでかかった」と言われても大学生がエノキレベルかもしれんし、
「彼は小学生より小さい」と言われても小学生がマグナムかもしれんし、参考にならんといいいながら結局経験年数で比べてしまっているやんかという罠。・・・ちょっと変な例えだがまあいいや。