忘れないうちに 今日はバンバン坂道記事いっちゃうよ
モグばかりしてると だめだねぇ~ブログがおろそかになってさ
なんかねぇ~だらだら上がりながら ゆきちゃんに近況報告してた
この坂道前は ずっと ゆきちゃんの近況報告を聞いてて
この階段あたりは 自分の今の気持ちなんか上がりながら 話してた
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。『江戸切絵図』(嘉永6年尾張屋清七坂)いよると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓町の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斎藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。
まぁ~歴史のある坂道階段なのね
よく わかんないけど・・・・
石川 啄木が近所に住んでただけ理解出来た
壱岐坂(いき坂)
標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615~1623)のほんごうの図を見るに、此の坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
御弓町については「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」とある。(旧事茗話)
坂を下ると新壱岐坂の広い道路にぶつかりますが、もともと壱岐坂は現在の新壱岐坂を横切るような方向へ下っていたとのこと
東洋学園大を挟んで 左斜めに上がってく坂道
郵便局が途中にあります
新壱岐坂
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
大正12年(1923)の関東大震災の復興計画によって、新しくひらかれた昭和の坂である。
この坂の中ほどにある東洋女子短期大学のわきで、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。「壱岐(殿)坂」という壱岐坂の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名がついたといわれる。江戸時代からあった古い坂である。
ながい歴史のある壱岐(殿)坂の名をとって、この坂を“新壱岐坂”とした。現在は、区内の幹線道路としてひろく知られているが、もとになった壱岐(殿)坂の名は忘れられようとしている
白山通りと本郷通りを結ぶ 坂道の大通り
なんか普通の大通りで 暑くて 画像撮り忘れ・・・・・
あと4坂 がんばんべ~
これ終わらないと 次の探検行けない