狂
何か困難なことを成し遂げようとするとき、人は”狂”と言われるのだと思います。その目的を達成するには、自分の生命・人生をキリのように研ぎ澄まし、力を集中させなければなりません。
やりたい事が純粋になれば、行動も純粋になります。純粋とは、言いかえれば原理的ということでもあります。原理主義者は、力の方向が集中し過ぎているが故に、バランスを欠いていると思われることがあります。しかし、歴史はむしろ原理主義者を歓迎しているように思います。
この世に無数に存在する未知を解き明かすには、社会が定義する”バランス”を逸脱しなければなりません。最初に火を利用した人類は、周囲から狂者と思われたかもしれません。人類は様々なタブーをつくり、それを犯し続けてきました。タブーというものは宇宙のルールではなく、特定の時代や集団がつくりあげる幻想です。それらは我々を生まれた時から死ぬまで縛り続けます。
そこから脱出し、鳥瞰図を得るために大切なことは、衝動(直感)に従うことかもしれません。直感はその出所が極めて不明瞭なものです。これまでの経験で得たものなのか、生存本能から導き出されるものなのか、それ以外の何かなのかは分かりません。しかし、社会に風穴を開け、大きな革新を成し遂げた人々は、自己の内なる衝動に耳を傾け続けた人のように思えてなりません。
誰かに指示された仕事、誰かが認めてくれた生活の中では、なかなか衝動に耳を傾けることはできません。誰かの声を聞いている内に、自分の人生は終わってしまう気がします。
少なくとも自分自身は、自分の内なる声に耳をすまし、その声に応え得る人生を送りたいと願っています。そうした視点で考えると、塾で授業をすることも、本を読むことも、自転車に乗る事も、大差ないと思えてくるのです。
群馬からの風
一昨日はすごい強風だった。そんな中、自転車で北上した。
土手の上のサイクリングコースは遮るものが何もないので、風を正面から受ける。そのため、こいでもこいでもスピードが出ない。ジャンパーがバタバタとはためき、木の葉のようにあおられる。
北西の季節風は群馬方面から吹きこんでくる。そのため、群馬に近づけば近づくほど向かい風が強くなるような気がする(群馬に巨大扇風機が設置されているイメージ)。群馬にいる風の魔物が埼玉からの侵入を拒んでいる気もする。
強風で寒い日は、快晴であってもどんよりと曇っているような気分になる。そのため、もっと風が強そうな群馬はもっとどんよりしているのではないかと思ってしまう。
群馬は魔界に近く、群馬と新潟の県境(三国峠)は魔界そのものだと勝手に思っている。平安京の住民が東北地方を恐れたのと似たような感覚かもしれない。そんな魔界を超えると、突如として苗場スキー場というオアシスが現れ、命拾いした気にさせてくれる。
そういえば、自分が住んでいる地域を北限と考えている人は、埼玉県には割と多いように思う。居住地から南(東 京方面)のイメージは鮮明なのに、北(群馬方面)は暗黒に塗りつぶされている。群馬を暗黒地帯視するのは、埼玉の県民性かもしれない。
さんざん群馬について書いてしまったので、今度群馬に入ったら帰ってこれないかもしれない。
筆写
「脱学校の社会」という本にあまりに感動したため、本の内容を全て自分のものにしようと思い、まる写し(筆写)を試したことがあります。そして3ページほどを書き終えた時、その道のりの長さに絶望し、あっさりやめてしまいました。
江戸から明治にかけて、筆写が盛んに行われた時期がありました。工学や化学系などの輸入書は高価で希少であったため、志溢れる貧乏書生は筆写によって書物を生産し、同時に内容を吸収していたようです。
一冊の本を筆写するには膨大な労力が必要ですし、他にも筆写したがる人は大勢います。そのため、一人ひとりがなるべく短い時間で筆写する必要がありました。本を一旦ばらばらにしてから手分けして筆写することもあったようです(本の持ち主は嫌がりますが)。かつての人々は英語やオランダ語の辞書なども筆写したといいますから、その情熱が明治維新や近代化を支えたと思います。
筆写を行えばカバーできる範囲は狭いかもしれません。しかしながら、その理解度・吸収度は格別であったと思いますし、読むだけでは為しえないような内容の吟味ができたと思います。黙読と筆写とでは、自動車と徒歩ぐらい速度に差が生まれますが、それゆえ景色も変わってくるはずです。
骨の髄まで沁み込んだ知識は事あるごとに鮮明に再生され、新知識を得たときの化学反応もきっと鮮烈であったと思います。
かつての書生の勉強方法(筆写&輪読)に触れると、情報の取り扱い方に対してとても考えさせられます。一長一短はありますが、学ぶべきことは多いと思います。特に受験勉強という作業は泥臭さを要する部分が多いため、かつての勉強風景は示唆に富んでいると思います。
携帯問答
「お前がいつまでも携帯持たないと、連絡がつかなくて大変なんだよ」
「家に電話すればいいじゃないか」
「いつも家にいるとは限らないだろ?それに携帯ならメールだって送れるし、電話帳とかカレンダーとか手帳の機能なんかは何かと便利だと思うよ。」
「携帯だっていつも出れるとは限らないし、僕が家に居そうな時間なら分かるだろ?”いつでも出れる”って状況も好きじゃないな。何だか落ち着かないんだ。メールならパソコンにすればいい。電話帳なら家の電話機の横にある。手帳は常に持ち歩いてるけど、紙とペン以上に信頼できるものはないと思う。つるつるしたディスプレイを変てこなペンでなぞる事ほど嘘くさいものはないよ。こんにゃくで作ったラーメンぐらい嘘臭い。カレンダーだって手帳についてるしね」
「まあ他にも色々と便利な機能があるんだよ。電車の時刻表だって、天気だって、ニュースだって見れちゃうし」
「そんなものを見るために毎月何千円もお金を払うなんて御免だね」
「他にも事故にあったり犯罪に巻き込まれたりした時に必要かもしれないじゃないか。最近は公衆電話の数も減ってきてるしな」
「もしそうなったら周りの人に助けを求めるよ。周りに人がいなかったら自分で何とかする。第一そんなあるかないか分からない事態に備えて携帯を持つことは馬鹿げているよ。生命保険の掛け金を増やした方がよっぽど現実的だ」
「そんな頑固なこと言ってると、何かの集まりとか飲み会とかでお前だけ呼ばれなくなるぞ」
「携帯を持ってないと呼ばれないような会なんて、僕にとってはそもそも必要ないものなんだろうな。同窓会にしろ結婚式にしろ、本当に集まってほしい人には手紙を書くものだしね。第一手紙の方が素敵じゃないか」
「お前と話してると屁理屈ばっかりで疲れるよ。もう勝手にしろよ」
「そうかな。僕からすれば君の意見の方が屁理屈な気がするけどね。結局携帯電話の必要性もよく分からなかったし。僕からすれば、ほとんどの人は必要性があるから携帯を持つんじゃなくて、携帯を持ちたいから必要性を作り上げているように思える。証拠もないのに起訴しようとする検察官みたいだ。とにかく僕は無駄なものが好きじゃないんだ。シャワーを浴びながら電話をする人とは、一生分かり合えない気がするよ」
とまあ書いた訳ですが、i phone 持っちゃってるんですけどね。
