狂
何か困難なことを成し遂げようとするとき、人は”狂”と言われるのだと思います。その目的を達成するには、自分の生命・人生をキリのように研ぎ澄まし、力を集中させなければなりません。
やりたい事が純粋になれば、行動も純粋になります。純粋とは、言いかえれば原理的ということでもあります。原理主義者は、力の方向が集中し過ぎているが故に、バランスを欠いていると思われることがあります。しかし、歴史はむしろ原理主義者を歓迎しているように思います。
この世に無数に存在する未知を解き明かすには、社会が定義する”バランス”を逸脱しなければなりません。最初に火を利用した人類は、周囲から狂者と思われたかもしれません。人類は様々なタブーをつくり、それを犯し続けてきました。タブーというものは宇宙のルールではなく、特定の時代や集団がつくりあげる幻想です。それらは我々を生まれた時から死ぬまで縛り続けます。
そこから脱出し、鳥瞰図を得るために大切なことは、衝動(直感)に従うことかもしれません。直感はその出所が極めて不明瞭なものです。これまでの経験で得たものなのか、生存本能から導き出されるものなのか、それ以外の何かなのかは分かりません。しかし、社会に風穴を開け、大きな革新を成し遂げた人々は、自己の内なる衝動に耳を傾け続けた人のように思えてなりません。
誰かに指示された仕事、誰かが認めてくれた生活の中では、なかなか衝動に耳を傾けることはできません。誰かの声を聞いている内に、自分の人生は終わってしまう気がします。
少なくとも自分自身は、自分の内なる声に耳をすまし、その声に応え得る人生を送りたいと願っています。そうした視点で考えると、塾で授業をすることも、本を読むことも、自転車に乗る事も、大差ないと思えてくるのです。