先日、ストリップを観に来て、どうにもやるせないことがあった。

 あるベテランの踊り子さんから、私が渡した手紙を細かく破いて突っ返された。そのうえ「妄想語や出来事を書いたりするのは止めて下さい!」と添え書きされてあった。

 彼女にはこれまで10回ほどポラ時に手紙を渡していたが、その内容というより、自分の名前を登場させた手紙を他の踊り子さんに渡したことを激怒していた。ステージを褒めて書いていたが、勝手に書かれたことが気に入らなかったらしい。

 これまで手紙にはあまり反応がなかったので読んでくれない方かと思っていたが、ある意味しっかり読んでくれていたようだ。ポラなんかの対応もこれまでは普通にしてくれて気さくな方だと思っていた。それが今回、急に感情的に対応され、添え書きには「ベッドの手拍子はウザイ、常連なら舞台の見方くらい分かれよ」とまで殴り書きされていた。

 彼女の対応を見て、いたたまれない気分になり、4回目の公演を観ずに3回目で帰った。4回目でポラの回収をしようとしていた方もいたが、その日はとても続けて観る気分にはなれなかった。

 

 私としても反省すべき点はある。他の踊り子さんからも、実名での記載は避けた方がいいと指摘されたことがあった。新たに書くものはそうするようにしているが、過去に書いたものを完全に手直ししていないものもある。褒めて書いているからこれぐらいいいかなと安易に考えていた点は反省しなければならない。

 それにしても、私は悪意をもって文章を書いたつもりは更々無い。さらっと読み流してもらえればと思うがそうはいかないのかな。

 

 彼女の怒りに対して私も怒りで反応するのはたやすいことだ。これまでポラを買って応援してきたのが何だったのか、とも思う。しかし、私は怒りよりもむしろ無性に悲しかった。

 彼女から「もう私のステージは観てもらわなくて結構です」と言われたが、こういう対応をされてしまえば、もう観る気にもならない。

 彼女の感情的な対応で、私との縁は完全に切れた。怒りは縁を切る。

 

 踊り子と客という関係は「ゆるい関係」だと思う。会いたい時に会いに来れるもの。別に強制されているわけでもなく、自分の都合に合わせた自由意志による。そこがストリップの良さでもあると考えている。

 しかし、しょせん人間対人間の遊びであるがゆえ、そこにはやはり人間関係は存在する。もちろん縁も発生する。とくに手紙というのは縁の媒体になる。直接相手のハートに飛び込んでいきやすいので、急速に仲良くなることもあれば、今回のケースのように感情的にもなる。人により感じ方・捉え方が違うのはいたしかたない。手紙を止めればいいのかもしれないが、そうすると私のストリップへの関心は萎えてしまう。渡す相手をもっと絞り込む必要があるとは考えている。金銭的な問題もあることだし、ポラを買って手紙を渡す方は本当に楽しく仲良くしてくれる方に限定すべきなんだろうな。

 今更ながら、初めてステージを拝見し、気に入って、そのまま辞めるまでずっと応援を続けられる、というのは幸せなことだなと思う。

 縁を気持ちよく持続させられるかどうか、できれば、いつもさらっとした関係でストリップを楽しみたいというのが私の本音である。

 

 

 

平成20年1月                          仙台ロックにて 

 

 

 

 

 

 今回は「幸せと不幸」について考えてみます。

 

 私はこうやってお手紙というかストリップ・エッセイを書いているが、自分以外の踊り子さんの話をした時に、他の踊り子さんの話が聞けて参考になったわと言ってくれる方もいれば、如実に嫌な顔をされる方もいる。中には他の踊り子さんを褒めることで自分が馬鹿にされたと怒り出す方もいて、さすがにこれには私自身反省もさせられたが、逆になぜ彼女はそういう捉え方をしてしまうんだろうと驚かされた。

 

 例えば、ポラが一枚売れたとする。ある踊り子さんは「一枚でも売れて幸せだわ」と思う。別の踊り子さんは「たった一枚しか売れなかったわ。わたしはなんて不幸なのかしら」と思う。前者は、ポラを買ってくれたお客に感謝する。後者は、ポラを買ってくれなかったお客を恨む。ひどい劇場だと嘆く。おそらく、そのぐらい捉え方が違ってくる。

 どちらが幸せかは言わずもがな。幸か不幸かは紙一重といえる。

幸せな人は幸せの数を数えようとするが、不幸な人は不幸の数を数えたがる」。幸・不幸論というのは結局こういうことではないのかな。

 仲良くしてもらっている東洋の踊り子Åさんがお手紙の中で次のような言葉を書いてくれた。「悲しいことや辛いことは、すぐに気づけるのに、楽しいことや幸せなことは、自分でしっかり気づこうとしないと気づけないですよね。幸せと不幸っていつも隣り合わせなんですよね。」全くその通りだと思った。

 

 ダンスが下手だとする。それを嘆くより、まだまだ上達できる可能性を喜び、練習に励めばいい。上手くなれば自己満足できるし、他人が褒めてくれれば更に幸せになれる。

 容姿に自信がなくても、嘆かずに、自分の個性ととらえ、自分のいいところを伸ばすことを考える。人間なんて完璧な人がいるわけがなく、7割方欠点だらけ。3割いいところがある人だって珍しい。会社で仕事をしているときも部下の育て方は短所是正よりも長所伸長の方が本人も周りも会社もハッピーになるのは経験済みのこと。

 人間というのは自信を持つといい顔になっていく。笑顔が多くなる。

 踊り子さんもいっぱい練習して自信がつけば自ずといい顔になって、いいファンがついてくる。

 

 以上、気持ちの持ちようが大切だということを話しているのだが、ではすべてが自分だけの問題かというとそうとも限らない。

 ダンスが下手なら練習すればいい、これは自分の問題。ところが、ポラが売れない、これについては相手がある。先ほど述べたように、自分の受け止め方の問題はあるものの、相手を自分の方に振り向けさせるにはどうしたらいいのだろうか? いいファンに出会い、いいファンを得る、まさに踊り子さんが幸せな状態になるためにはどうすればいいのか?

  そのためには「縁を大事にする」ことに尽きると私は思う。幸運というが、「運が向く」ためには周りのひとつひとつの縁を大切にした結果が運につながるものだと私は感じている。親子・親戚縁者、結婚縁、職縁、すべてが自分を幸せにする大切な縁である。ストリップを趣味としている私には踊り子さんとの縁を大事にするのが幸せの秘訣となる。そのためにお手紙を書いているのであって、お手紙で相手をけなすなんてことは絶対に考えていない。

 前にも書いたと思うが、「ポラ一枚が縁の始まり」。自分に関心をもって、お金を出してポラを買ってくれたわけだ。この縁を生かすかどうかが、踊り子として幸せになれるかどうかの分水嶺なのかもしれない。

 

 

 最後に長くなって恐縮だが、「縁は風」という話をしたい。あるお坊さんのお話。

 われわれは大きな樹の一枚の葉っぱにすぎない。一枚の葉として生まれ、成人すると枝から離れていく。ふつうは重力により、そのまま真っ直ぐ下の地面に落ちていく。ところが人の一生というのは真っ直ぐ下に落ちずにいろんなところに流されていく。なぜに?  風が葉をいろんなところに運んでいく。ときには鳥が葉をくわえてどこかへ持っていくかもしれない。つまり、風や鳥こそが縁なのである。

 あなたはさわやかな風に髪をなびかせ、そして、いつかすてきな鳥があなたを伴侶として連れていくのである。

 私も秋田の田舎に生まれたが、仙台の大学に入り、会社に入ったら最初は九州からスタートした。それ以降、日本全国まわっている。そして今こうして仙台にいるが、まさに縁によって人生が運ばれている実感がある。家族や仕事にめぐまれ、そのうえストリップという楽しみを得、自分は本当に幸せだと思っている。

 

 

 

平成21年10月                         仙台ロックにて 

 

 

 

 

 

 

以下の文章は、篠崎ひめさんから、文章を書く上でのポイントを質問され、それに応えたものです。ひめさんから内緒にと言われているので、ここだけの秘密ですが、ひめさんは小説を書こうとしているようです。実は私も密かに同じ願望を持っています。お陰で、お手紙でのコミュニケーションが弾みました。

  1. こっそり披露いたします。

 

 

 ひめさんが小説を書いていると聞いて、最初はびっくりしました。でも、ひめさんは身体もくるくる動くけど、頭もくるくる回転するから、ひめさんが小説を書くというイメージがすぐに抱けましたよ。ひめさんは根っからの表現者(アーティスト)なんですね。身体で表現するのも、文章で表現するのも根は同じですから。

ひめさんが書く「思春期の女の子のお話」ってどんなんだろうと考えるだけで私まで楽しくなってきます。

 

 さて、ご質問の「文章を書く上でのポイント」ですが、・・・

前に話したように、私にとっては書くという作業は一種の脳の排泄行為で、一定期間ある程度の知識がインプットされると自動的にアウトプットしたくなります。表現が悪いですが、それは排泄行為というか射精のような快感があるのです。それは自己表現という人間が本来持っている本能的な欲求なのだと思います。その時点では文章が上手い下手というのは関係なく、頭の中のものが文章に落とし込めて、好きなように書ければそれでいいのです。それだけですっきりします。それ自体が癒しなんです。

 人に見せるつもりの文章というのは少しスタンスが違うかもしれませんが、書くという行為が自己表現のひとつであるということは所詮は人に見せることでより自分を知ってもらいたいという欲求が内在することになります。

 文章を書くというのはかなりのエネルギーを費やします。書き慣れていない方には苦痛になるでしょう。それを克服して、書けるようになったからには、書く行為によって相手に自分を知ってほしくなります。文章は自分自身です。相手に読んでもらうことで自分を理解してもらい、また次に書くことへの励みにするわけです。私は踊り子さんを読者にすることでかなりの文章が書けました。ストリップを題材にすることでかなり自分の中を覗くことができたわけです。

 文章を書くことは自分を知る作業でもあります。一番楽しいものはいつも自分の中にあります。それをどれだけ引き出せるかが人生を楽しくするこつです。ストリップそのものはたしかに楽しいですが、私にとってはストリップを通じてこうして自分の中を覗き、真実の自分、何が本当に大切なのかという物事の真実みたいなものを確かめることが楽しくてたまらないのです。それはストリップでなくてもよかったのかもしれませんが、たまたまストリップであったというのも偶然なる必然ということでしょうか。

 ずいぶん回りくどくなってしまいましたが、大切なのは、上手に自分と対話することなのでしょうね。そうすれば筆も進みます。

 

文章を書くには自分をハイ・テンションな状態にする必要があります。知力・体力が充実していないとなかなか書く気がしない。疲れていると全くダメですね。私の場合、文章を書くのは朝です。睡眠をとることにより、身体も疲れがとれ頭もすっきりしているからです。楽しく文章に向かう前段取りがいるんですね。

自分が楽しい状態であれば楽しい文章ができてくるし、落ち込んでいればそういう文章になります。まさに文章は自分の気持ちの反映なのですね。

ただ、文章で表現していくと、必ず自分の心の奥底を覗く作業が伴います。それはけっこうどろどろしたものであり、ひめさんの表現を借りると「くらい」ものになりがちです。でも、それを避けていては本当の気持ちは表現できませんね。こうした自分との対話を繰り返しながら文章は出来上がっていくものだと私は思います。

 

 心構えみたいな前置きが長くなってしまいました。

 もっと具体的に私が文章を書く上で気を付けていることを述べてみます。

1.     思いついたことをメモする習慣が大切。頭はいつもいろんなことを思いつき考えています。ところが、それを思い出すことがなかなかできません。そのために、こまめに、思いついた瞬間にメモすること。そして、それを習慣付けることです。私はいつも小さなメモ帳を持っていて、ステージの最中でも取り出してささっとメモしています。もう何冊にもなりますが、私のお手紙のネタは全てそこから出てきます。

2.     こだわることが大切。たくさんの事象がいつも目の前を通り過ぎます。たいていの人は漫然と見ているだけです。しかし、こだわることにより何かが見えてきます。そういう感性を養っていきたいと常に思います。

3.     常に新しい知識を吸収すること。自分の中に蓄積してある情報を掬い上げて表現するためには外部から刺激を与える必要があります。古い知識は新しい知識と絡み合うことで新たに光り輝きます。

4.     最も心掛けているのはテーマです。テーマがなければ人に見せる文章は成立しません。このテーマこそがその人の生き方・哲学、まさにその人そのものであり、テーマこそが人を納得させるのです。ですからテーマが文章全体を支配します。

起承転結などストーリーも大切ですが、テーマがあるからこそのストーリーだと考えます。

5.     文章が輝くために「キーワード」がポイントになることもあります。先に「キーワード」ありきで、肉付けすることが私の場合は多い。読後感として、この「キーワード」だけでも残ればこの文章は成功なのです。

 

以上、思いついたことを列記してみました。あまり参考にならなかったかな。

 

今の私は、こういうエッセイを書くのがほとんどです。前は、自分の子供を相手にして創作童話を書いた時期もありました。そのときには楽しくてポンポンと童話のネタが出てきましたが、そういう発想力を常に磨いておかないとなかなか出てきませんね。今は童話は書こうという気がないので全くダメですね。

子供との童話エッセイのほかにも、夫婦生活を通してのエッセイ、自分の心をみつめたエッセイ、「クマのプーさん」についてのエッセイなど、その時々の興味ある題材を通して書き続けてきましたが、これまでは誰に見せるでもなく書いてきたので飽きてきたら自然と打ち切っていました。ところが、今回のストリップ・エッセイについては踊り子さんという読者を得たお陰で、かなりの文量が書けています。これをまとめて本にしたら何冊分にもなるでしょう。本にしたらと言ってくれる踊り子さんもいますが、内容が内容なだけに、なかなか難しいですね。それでも、今は、神様が書け書けと言ってくれてるので書き続けているという感じかな。

 また、いつか小説も書いてみようかな。。。まだまだ先のことになりそうですが、それが密かな夢です。たとえば「ストリッパーを愛してしまった男性。叶わぬ恋に苦悶しながらも、彼は新しい愛の形を知っていく。現実の生活とストリップという虚構の世界とを行き交いながら、生きる意味を問い続ける。」 こんな内容はどうかな。 ひめさんが言うように、「触れることのできない相手を想う気持ち」というのを描いてみたいな。本当にきれいな恋愛というのはプラトニックなんだと私は思っています。ともあれ、小説は老後の楽しみにでもとっておくつもりです。(笑)

 

 

平成19年11月                          仙台ロックにて 

 

 

 

 

 

 

 

ストリップの一番の楽しみは、自分のお気に入りの踊り子さんと仲良くなることです。

仲良くなるというのはどういうことかというと、常識的な話ですが、私のことを意識してかまってくれるかどうか、言い方を代えれば私とコミュニケーションをとってくれるかどうか、ということ。

コミュニケーションのとり方にもいろいろあります。

まず、目のコミュニケーション。ステージで私の顔を見つけた瞬間に、パッと笑顔を向けてくれる人。この笑顔を見ただけで、あぁ今日は来てよかったなぁと思います。単純だと思われるかもしれませんが、ある意味、これがコミュニケーションの最終形なんです。

会話のコミュニケーション。一般的にコミュニケーションといったら、このことですが、ストリップの場合は、踊り子さんと話せるのはポラタイムくらいしかないので殆ど会話はできません。でも、短い時間ですが、一対一で相手の時間を独占して、表情を含め濃いコミュニケーションができます。踊り子さんが自分のことに関心があるかどうかは瞬時に判断できます。

ひとつの例ですが、私は仙台に転勤する際、口頭でも手紙でも何度も相手に話していますが、仙台から応援に来ても、仙台の「せ」の字も言ってくれない方がいます。私が仙台にいることをおぼえていない、つまり全く私に関心がないということです。

手紙のコミュニケーション。ストリップは長い会話は無理なので、長くコミュニケーションをとりたければ手紙というのが手っ取り早い手段になります。少なくとも、自己紹介、自分の考え、感想、その他雑談を伝えるには手紙ほど便利なものはありません。

ご存知のように私は書くのが趣味なので毎回お手紙を書きます。私は書くことでストレス発散しており、ストリップに関してこんなことを考えたんだよということを踊り子さんに話してみたくなります。返事を期待しているわけではなく、ただ私の話に耳(この場合は目か)を傾けてくれたかどうか。興味がなかったり、活字が嫌いな方は読まないでしょう。これも私に関心がなかったということです。手紙というのもある意味で私自身ですから、読む気がないということは私と仲良くする気がないということです。

手紙に対するコメントがポラに記されてあったり、丁寧にお返事をいただいた時は本当に嬉しいものです。毎回でなくてもいいんです。今日は忙しくて読む暇ないけど帰ってから読むね、とか、お手紙おもしろかったわよ、とポラのときにひとこと言ってもらうだけで救われます。

目のコミュニケーションができるようになった方とは、こうした会話や手紙のコミュニケーションが自然な形でできます。とくに返事が有る無しは関係なくなります。

この段階は心のコミュニケーションと云えるかな。なんとなく気持ちが通じたり、顔を見ているだけで癒されたり。人の心の根っこには「淋しさ」があり、それを充たしてくれるものを求めています。従って、心のコミュニケーションこそがまさに究極のコミュニケーションと云えますね。

 

仲良くなれるかどうかの分岐点はどこにあるのか、私にとっては大きな問題。もう少し話を続けます。

 

初めてステージを拝見して、まずは挨拶代わりにポラを買います。私の場合は、エロポラは撮らないので、目的は「仲良くなれるか」の一点、目的ははっきりしています。

ポラひとつ買うだけで、踊り子さんの人柄がけっこう分かります。ステージの時は緊張もあって怖い顔をしていた方がポラタイムで初めて気さくな性格だというのが分かったりするのもおもしろいものです。

最初に自己紹介のお手紙を添えますが、合わせて踊り子さんのプロフィールや今後のスケジュールを教えて下さいとお願いする。

反応はさまざま。

中には、まったくコメントのない方、ただ「ポラを買ってくれてありがとう」とだけある方、こういう方はポラを買ってもらうことだけを考えてお客には関心がない、もちろん私の手紙なんかには全く興味がなかったと捉えられる。仲良くなれる可能性がない場合には手紙も書けないしポラも買わない。

たいていの方は手紙に対するお礼の一言とプロフィールや今後のスケジュールについてポラにメモしてくれる。こういう方にはもう一度お手紙を書いてみようと思う。二度、三度とお手紙を差し上げて、反応を見てみる。この時点は、ファンになるかどうか迷いながらポラを買っている。正直、最初に外見やステージを気に入ってポラを買っているわけなので、このままファンへの道を突き抜けたいと思って接しているのだが、手紙の反応が全くないと、段々書いているのが虚しくなり、最後はふられたというか、縁がなかった思って諦める。時に、私が急にポラを買ってくれなくなって訝る踊り子さんもいるが、申し訳ないがポラ代も有限なので割り切るしかない。

手紙に対して反応して、喜んでくれて、中には丁寧にお返事までくれる方もいる。私はこういう方には徹底的にファンになります。

こんな言い方は大変失礼かもしれませんが、手紙は踊り子さんが私に関心を示すどうかのリトマス試験紙になっているのです。

 

 前に、私は踊り子さんとの「擬似恋愛」を楽しんでいるということを話しましたが、ポラを買うというのはある種デートに誘っているという意味です。そして手紙によりコミュニケーションを楽しみます。手紙への反応が全くないということは会話が全く弾んでいない状態。いくら魅力的な女性でも会話が弾まず自分に関心を示してくれなければ、これ以上デートに誘うわけにはいかなくなります。

 あくまで擬似恋愛ですが、劇場内で楽しいデートができた満足感は最高です。ベッドインまで想像できますからね(これは言い過ぎ^0^)

 また擬似恋愛とはいいながら、私が一方的に想っているだけでは冷めてきます。やはり、相思相愛の間柄でないと関係が成り立ちません。私の笑顔、手拍手、手紙、エッセイ、何でもいいから私のことを気に入ってもらう、その気持ちが伝わってこないと擬似恋愛といえども成り立ちません。私が相手の踊り子さんのファンであると同時に、踊り子さんが太郎ワールドのファンであるという関係が存するかどうか。

やはり最後は、「人とは気持ちの動物だ」と思うんです。ストリップによって癒されるというのは、単にヌードだけではなく、踊り子さんの気持ちによって癒される部分が大きいと思います。特に私のような常連さんはそうです。

 難しく考えることではなく、せっかく観に来てくれたお客さんに、今日は精一杯楽しんでもらおうという気持ちです。それが伝わるかどうかなんです。長くファンであっても、それが伝わらなくなるとファンも離れていきます。

 

 ストリップに通い始めた頃、私はポラを全く買いませんでした。いつも今のように盆前に座りニコニコ笑顔でステージを観ているだけでした。しばらくすると、そんな私に関心を示してくれる踊り子さんが出てきました。その一人、篠崎ひめさんはステージの上からたびたび「おはよう」と声をかけてくれました。なんか凄く嬉しかったのをおぼえています。そして、私も彼女により関心を抱き彼女目当てで劇場に足を運ぶようになりました。ひめさんは「ポラを買ってくれる人だけじゃなく、劇場に来てくれた人、喜んで観てくれる人、手拍子・拍手してくれる人、みんなに感謝している」と言ってくれます。彼女の人気の秘密はここにあります。今ではポラ時に手紙を添えますが、ひめさんからはいつも長い返事が返ってきます。あれだけポラサインを頼まれて忙しいのに、しっかり私の手紙を読んで自分の考えをもった内容の返事をくれます。信じられないほどの驚きです。ひめさんはとても頭のいい女性です。なによりも彼女の私に対する気持ちがひしひしと伝わってきます。必ず応援せざるをえない気分になります。これがひめさんの最大の魅力なのです。

 

 ストリップを観に来て、最後にこう云えた日は最高です。

「今日は一緒に遊んでくれてありがとう」

 単にステージを楽しんだだけでなく、踊り子さんと楽しいデートができた気分。

 仙台ロックで日夜通ったときなんかは、次のように云いたくなります。

「10日間の恋の物語をありがとう」

 

 

  今回はかなり自分の気持ちをストレートに書いてしまったので、お気に障ることがあったかもしれません。たしかに単に1人のファンの思い上がった戯言かもしれませんね。でも、固定ファンを得たいと思う方には、参考になることがあるかもと思い書きまとめてみました。

 

平成19年

 

 

 

 

 

 

 

 今回は私のストリップを通じての成長記録を話させていただきます。

 いま振り返ると、ストリップの見方がだんだん変わってきていることに改めて気付きます。

 

 ステップ1としてはこんな具合です。男たるもの誰しも最初にストリップ劇場に入るときは当然興味本位で入ります。性欲のおもむくままに飛び込むわけです。昔は本番まな板ショーなるものがあり、我先とジャンケンしながら舞台に上がった時代もあり、あのころのストリップは今よりもっとギラギラした感じでした。なかには、ストリッパーに憧れてくる人もいますが、いずれにせよ、かぶりつきで見る人は欲望のおもむくままに観ている、と云えるでしょう。 

 私もどうせ見るなら盆廻りで観たいといつも思っています。距離があるとストレスを感じるほどです。私の場合は性欲ギラギラというより、むしろ女性に対する憧れが強く、より近くで女性を感じたいというものです。私は全く女性にもてませんでしたから、その分女性に対しいつも高嶺の花的な憧れを感じています。いつもニコニコ観ていると思いますが、それは素敵な女性を近くに感じられる喜びなのです。

 若いころ初めてストリップに行ったときに凄い刺激を感じたものでしたが、それも最初のうちだけで、しだいに女性という対象はストリッパーからすぐに身近の女性に移りました。ストリッパーに憧れていてもそれ以上の進展はないわけですから、より身近な女性を求めるのも若いから当然のことです。もちろん、ただ見るだけでなく、直接的な関係に入っていきますよね。同じ風俗にしても、ストリップよりソープなど直接的な刺激を求めるため、しだいにストリップから離れていきます。

 最近は、歳もとり、そういう直接的な刺激を卒業し、また手軽で安価な遊びとして、またストリップに戻ってきたわけです。7年前は、昔嫌だった本番まな板ショーもなくなり、アイドルストリップになっていて凄く気に入りました。そしてストリップにはまっていきました。ただ最初は性欲の捌け口というか「欲望」というものがベースにあったということは疑いないことでした。

 

 それが段段と変化していきます。

 最初のころはあまりポラを撮りませんでした。撮ったとしてもエロポラで、サインを頼むこともしませんでした。

 足繁くストリップ通いしていくと、段段踊り子さんと顔見知りになってきます。ときには盆前で見ていると声をかけてくる踊り子さんもいます。そして、お気に入りの踊り子ができます。顔をおぼえてほしくてポラを買い出し、しかもエロポラは撮らなくなります。 

 最初は、単に「踊り子と観客」の関係だったものが、「踊り子とそのファン」という関係に昇華していきます。そうなると、彼女に顔をおぼえてほしい、気に入ってほしいと思い、せっせとポラを買ったり、贈り物をしたりします。なかには追っかけを始めるファンも出てきます。

 この段階になると、単に性欲の対象ではなく、アイドルに夢中になるファンであり、少しでもファンとしての自分の存在をアピールしようとします。こうして踊り子さんとの間にコミュニケーションが始まります。一般に踊り子さんとコミュニケーションするのは難しい。クラブやスナックでは気に入った女性ができたら話し掛ければいいですが、ストリップの場合、話し掛けるタイミングはポラ撮影のときだけで、長く話すことは不可能。

 憧れが強くなると、ますます相手のことを知りたい。ポラにちょっとしたコメントが入っていると凄く嬉しい。外見は確かに身体の隅々まで見れますが、今度は性格など中身を知りたくなる。そして自分のことも知って欲しくなる。コミュニケーションを図りたいわけです。人というのはもともと淋しがり屋だから、心のふれあいが最高の喜びなんですね。

 いまは引退してしまいましたが大阪東洋ショー所属の黒木純さんがお気に入りでした。彼女はポラにサインを頼むとびっしり書き込みがされてあり、私は「ポラ通信」と勝手に呼んで喜んでいました。そのお返しとして手紙を書き始めました。黒木さんが引退するH15年の春頃でした。

 手紙を書き始めて、踊り子さんとコミュニケーションをとる手段として、「手紙」というのが自分とって最良の手段だと判りました。書くのが好きですから。

 最近は気に入っている踊り子さんには、ポラを撮るついでに手紙を添えるように心掛けています。たいていは喜んでくれます。ただ全く反応してくれない方もいますが・・・きっと私に関心をもたなかったのでしょう。片思いということかな。

 

 さて、次なるステップはどうなるのでしょうか。

 最後は夢中になってリボンを投げてたりして・・・。なんの見返りも求めず、ひたすら好きな女性のために尽くす。「無償の愛」といえますか。神様のレベルです。いまのところ私はこの域には達していませんが。

 

 総じて云うと、われわれストリップファンの進化(成長)として、性欲のおもむくままの「野獣」のレベルから、コミュニケーションを求める「人間」のレベルへ、そして無償の奉仕である「神様」のレベルへと進化していくのかな、と大げさに考えてみました。

いかがでしょうか。ご納得できましたでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

質問1 「なぜ、この世には、ちんぽとまんこが存在するのか?」

 

この質問は、2017年8月2日の放送(ゲストパネラー:財前直見、関根麻里、石原良純)の番組5番目の質問「どうして男と女がいるの?」に関連している。

 この時の回答は「男は女にとっての保険。生物は、もともとメスがメスを生む仕組み(単為生殖)。異常気象などの天変地異、酸素濃度の上昇などの環境の変化が発生、生き延びるためにはバリエーション(多様性)が必要になり、オスが作り出された。」という結論。(以上はネットで検索した。)

 

 このバリエーションという意味で、最近たしかに人類の進化は凄まじいなと思うことがある。そのひとつとしてスポーツ界の混血の活躍だ。

来年の東京オリンピックを前にして、スポーツ界がにぎやかになっている。今年2019年6月に陸上男子100メートルで9秒97の日本新記録を樹立したサニブラウン・ハキーム選手(フロリダ大)、そしてテニスで2018年全米オープンと2019年全豪オープンでグランドスラムシングルス優勝し今年1月には日本人初の世界ランキング一位となった大坂なおみ選手。さらに付け加えると6月に米プロバスケットボールNBAで日本人で初めてドラフト一巡目指名された八村塁選手。三人とも日本人の母と黒人の父との混血である。

サニブラウン・アブデル・ハキーム(Abdul Hakim Sani Brown、1999年(平成11年)3月6日- 現在20歳)は、ガーナ人の父と日本人の母を両親に持つ。父親はガーナ人でサッカーの経験があり、母親は100mとハードルで全国高等学校総合体育大会陸上競技大会に出場した経歴を持っているアスリート一家であった。サニブラウンも子供の頃はサッカーに取り組み、ポジションはフォワードだったが、小学校3年生の時に母親からの薦めで陸上競技を始める。

大坂なおみ(英: Naomi Osaka、1997年10月16日 - 現在21歳)は、ハイチ系アメリカ人と日本人の両親を持ち、アメリカ合衆国に移住したが、本人は日本、アメリカ、ハイチという3つの国を代表している事を誇りにしている。父親はハイチ共和国ポルトープランス出身で、アメリカ合衆国のニューヨーク市立大学シティカレッジで学んだ後、13年間日本に在住した。母親は北海道根室市出身の日本人で、苗字の「大坂」は母方から来ている。札幌で出会った両親は、その後大阪に転居し、父親は市内で大手語学学校の英語講師をしていた。姉の大坂まりもプロテニス選手である。

八村 塁(はちむら るい, 1998年(平成10年)2月8日 - 現在21歳)は、父親がベナン人、母親が日本人。富山県出身。身長203cm、体重106kg。幼少時は陸上の短距離と野球をやっていた。投手と捕手を兼任しており、イチローに憧れていた。 同級生から、バスケットボールを勧められ、入部した。2019年のNBAドラフト一巡目でワシントン・ウィザーズより指名を受けた(全体9位)。

この三人を見て思うのだが、陸上もテニスもバスケットも純血の日本人では越えられない壁があるが、黒人の優秀な身体的遺伝子を受け継ぐことで一気に壁を打ち破っている。優性遺伝の典型だと感ずる。おそらく世の中には混血がたくさんいるだろうが、彼らは相手が黒人だからこそ目立ったわけだ。

優性遺伝はスポーツの世界に限らない。知能の世界でもノーベル賞は混血の方がどんどん出てくる。実際にノーベル賞受賞者が断トツのアメリカ合衆国はそもそも混血の国だ。

インターナショナルになり、混血が増えるにつれ、進化のスピードは飛躍的に進んだ。

 

地球史年表をみれば、46億年前に地球誕生。その6億年後、つまり40億年前に原始生命が誕生する。もともとは無性生殖。その後長い年月のなか異常気象などの天変地異、酸素濃度の上昇などの環境の変化が発生、生き延びるためにはバリエーション(多様性)が必要になり、オスが作り出される。これが5億6500万年前といわれる。その後は有性生殖がベースになっていく。

ここから生物進化のバリエーション(系統樹)は多岐に広がった。脊椎動物から四肢動物が生まれたのが約4億年前、その後、四肢動物から哺乳類が生まれ、哺乳類から霊長類が生まれ、霊長類からサル類と類人猿が分化し、類人猿からオランウータンとゴリラがそれぞれ分化しつつ、遅れて約800~500万年前に別れるのがチンパンジーと人類であった。

サルとヒトの共通祖先から、二足歩行を始めた猿人が分かれて、ヒトへの長い道のりを歩み始める。この人類の起源は、アフリカで発見されたトゥーマイ猿人を最古の猿人として、その登場時期を700万年前とされる。そして、ここ数年の間に目覚しい発展を遂げたDNA考古学によって、現生人類である新人=ホモ・サピエンスが登場したのは20万年前であることがはっきりした。

地球の46億年という期間を一年間の地球カレンダーとみなせば、私たちホモ・サピエンスが登場したのは20万年前で、カレンダー上では12月31日午後11時37分となる。地球史から見ればまだほんの一瞬なのである。

 そして、約7500年前から農耕が起こり、都市化が始まる。四大文明が栄えるのは約5000年前。

 気の遠くなるような長い年月をかけて人類は進化してきている。

 ところが最近の進化は劇的だ。身近な職場でも、パソコンとスマホ(携帯電話)の存在が大きい。40年前には存在しなかったが、これらの登場で仕事の効率が劇的に変わった。職場の要員が極端に合理化され、仕事の質・量が変わる。今やパソコンやスマホが当たり前の世代になってきて、これから先も世の中が大きく進化していくことだろう。個人的には、あまりの急激な変化が末恐ろしくも感ずる。

 

 以上、生物学的には、そういう回答になるのだが、説明していてもいかにも味気ない。以下でストリップ的に考察してみたい。

 

 ストリップを観に来ると、なんか癒されるなぁ、という気持ちになる。

 そのひとつの要素は女性と接するからだと思う。ストリップに限らず、男性は女性と接したくて、スナックやクラブ、いまはキャバクラか、に通ったりする。真面目な男性はまっすぐ奥さんの所に帰る。いずれにせよ、女性がいる所に向かう。

 男はなにゆえ女を求めずにいられないのか?

 一言で云うと、男にとって女とは「癒しの存在」といえるだろう。

 たしかに、ストリップに来るお客というのは、心の病みを癒したり、淋しさを忘れさせてもらうために来ている。先ほど見たように、生物学的にも故郷回帰と言えるだろう。

 

 以前、ある知人がこんなことを話してくれた。

弟が兄の家に泊まったときに、「兄貴の家は自分の家とどこか雰囲気が違うな。いったいどこが違うのかなぁと思ったら、どうも娘さんの存在と思う」と言っていた。

 弟にも二人の子供がいるが、男の子だけ。その点、兄のところは男一人に女二人の子供がいる。この二人の女の子が家族の雰囲気を変えている、と言うのだ。

 大きな男の子が二人いると、玄関口は大きな男の子のズックや靴が脱ぎ散らかっている。なんか味気ない。その点、女の子がいると可愛い靴がきちっと履き揃えてある。玄関口ひとつとってもこれだけイメージが違う。

 男子校・女子校と男女共学の違いを考えてみよう。男子校には特有の「男臭さ」が充満している。女子校も同様だろう。一方に偏ると一種の「におい」が強烈に発せられてくるが、その点、男女共学になると「におい」が中和されて感じなくなる。

 これは異性を意識することによって、それぞれが不潔感を消し去る努力をすることにもよるが、もっと根本的に、男がより「男らしさ」、女がより「女らしさ」を出すためだ。男と女は、DNA作用により子孫を残すために相手に好かれようとする。そのことが、男が「男らしさ」で女性の気を引き、女が「女らしさ」で男性の目を惹きつけることになる。

「男らしさ」「女らしさ」というのは単なる中和・消化作用ではなく、より洗練されたものに昇華されている。(消化→昇華の語呂がいい)

 

 この「女らしさ」こそが、男性を惹きつけて止まない魅力なのだ。

「女らしさ」というのは一言では云えない。さきほど「癒しの存在」といったがこれもひとつ。また人それぞれによって求めるものが違う。だからこそ、人の数だけラブ・ストーリーが生まれる・・・だからこそ、この世は面白い。

 

再度問う。この世になぜ男と女が存在するのか?

ひとつの解として、私は以前からこう考えていた。

「女は男がいるからより綺麗になれる。男は女がいるからより(仕事が)頑張れる」

 女はいい男に気に入られるために自分を磨く。もちろん男もいい女に気に入られるために自分を磨き、そしてその女や家族を養うために、いい仕事をしようとする。このスパイラル効果が永遠に続くことで人類は発展できたのだ。と、私は以前から考えていた。

 そして、ストリップを観ることで、より確信を得た。間違いなく、踊り子さんは男性の視線を感じてより美しくなっていく。まるで花が光を浴びて咲き輝くように。

 

 よくぞ神様は男と女を創りたもうたものだ、と感謝する。

 生きるということはそれ自体とてもつらいことである。われわれは自分にムチ打って生きていかねばならない。であるがゆえに、神は一方でアメを与えた。

 神は、われわれが人生を楽しめるようにと男と女を創りたもうた、と云えるだろう。

 

 なにはともあれ、男と女がいるだけで、人生というのは面白い。

 

 

 

 

 

 

 

今回は、踊り子さんに対する私の「愛シェアリング」(私の造語)という話をしてみます。

 

 

長年仲良くしているベテランの踊り子さんに「太郎さん、踊り子さんへの愛情は平等にお裾分けしてね」と笑顔で言われた。もっと応援に来てね!というメッセージに、思わず苦笑してしまう。

ところで、「ワーク・シェアリング」という言葉が最近よく使われる。直訳すれば、仕事の分配という意味。高齢化社会を迎え、年金受給開始年齢が65歳になることもあり、会社としても60歳定年となった社員を更に65歳までシニア雇用する義務を負うようになった。仕事を確保するため、これまで一人でやっていた仕事を二人でやるようにする。そうした仕事の分配をワーク・シェアリングという。当然、一人分の仕事を二人でやるわけだから、一人一人の仕事の報酬も少なくなるという痛み分けも出てくる。会社全体、ひいては社会全体でワーク・シェアリングへの取組みが行われている。

さて、以下、私の造語ではあるが、踊り子さんに対する私の「愛シェアリング」という話を展開してみるね。

 

 

今の私はどういう時間配分で踊り子さんの応援をしているのか?と問われると、新人さんに対する時間がかなり大きい。私の‘新人さんLOVE’はみなさん周知の事実?(笑)

スト仲間に、あなたが一番お気に入りの踊り子さんは誰ですか?と問われると、「これから出会う新人さんです」と冗談で(本気かな)答えるほど。

新人さんの魅力については、これまでも色々と述べてきているが、何といっても、出会いの新鮮さ、初々しさだろう。ベテランの踊り子さんは既に特定のファンに囲まれているため今から自分の存在価値を高めることはなかなかできないが、こと新人さんの場合は今からの応援次第でいくらでも自分の存在価値を高められる。仲良くなれる可能性が大きいので、期待に胸がふくらむ。仲良くなれればもちろん劇場通いが楽しくなる。

私の場合、新人さんとの擬似恋愛による心のときめきこそがストリップ究極の喜びと感じている。ここまで仲良くなれれば最高。あるベテランの踊り子さんから「太郎さんはストリップ界のプレイボーイですね。恋多き男性は魅力的です。」と言われ大感激したことがある。私は新人さんの素晴らしさに目敏く気づき、長所を褒め、気付かせ、自信を持たせる。それを手紙という手段で瞬時に行う特技がある。合わせて、私はすぐに相手を好きになる特技も持っている(笑)。というか、好きにならないと本気で応援できない。恋愛パワーこそが私のストリップ・エネルギーの源であり、私の若返り薬。

新人さんは初々しい魅力に溢れている。一生懸命だし、すごく素直に反応してくれるので相手をしていて楽しい。「鉄は熱いうちに打て」ではないが、新人のうちに仲良くなれれば一気に自分の存在価値も高まり、そのまま長くお付き合いができる。

実際、一部ベテランを除いた今の踊り子さんの殆どは私の手紙で薫陶を受けた私の娘と云える。私がスト業界で有名な客の一人であるのは、新人のうちに私がファンになり、かつ彼女が太郎ワールドのファンになってくれたから。踊り子とファンとしての信頼関係みたいのが自然とできており、私の顔を見つけるとみなさん笑顔で迎えてくれる。特定の方のみ追いかけるわけではないので「みんなの太郎さん」として定着。私ほど幸せなストリップ・ファンはいないと豪語できる。

 

また、新人さんは、これからのストリップ業界を担っていく宝物。彼女たちが頑張って多くのストリップファンを獲得してくれることでストリップの発展に寄与していく。新人さんの存在があるからベテランも刺激を受けて頑張る。ベテランさんばかりだとどうしてもマンネリ化してしまうし、もちろん新人さんだけでは成り立たない。やはり、ベテランと新人さんの適度な割合が大切になる。

ところが、先日スト仲間内で、最近は新人好きのお客さんが少なくなったねぇ~という話になった。以前は新人がデビューすると、すぐに新人さんを取り囲み、我先にファンとして立候補する方が多かった。特にリボンさんは熱心。ロックにはまだそういうリボンさんが少しはいるが、こと私がホームにしているTSではデビュー週から熱心に新人さんをサポートする方は私ぐらいしかいない。TS常連ですら、デビュー週は様子を見て、その新人が辞めないようだと確認してからぼちぼち応援しようかと腰を上げるといった感じ。お金が無いから無駄な投資はしないというのか、辞めない新人さんに絞って着実な応援をしたいというのか。これではストリップ熱を全く感じないなぁ。ストリップ人気の衰退を象徴するひとつの現象だと心配になる。

 

新人さんにとってデビュー週というのは物凄く特別な意味をもつ。右も左も分からない世界に飛び込み不安でいっぱいの中、笑顔で迎え、自分のことを気に入ってくれ、何度も通って応援してくれる客がいるというのは、心強い安心感と勇気を与えられる。極論すれば、デビュー週というのは、この仕事を続けていこうかorもう辞めようかの分水嶺にあり、背中を押すように応援してくれる人が一人でもいると全く違ってくる。その点において私の存在は新人の踊り子さんにかなり大きな存在感を与えていると思っている。

だから最近の私は特にデビュー週を大切にして劇場通いしている。可能な限りたくさん通って、応援してあげる。デビュー週以降もまめに応援し、ある程度固定ファンがつくまではしっかりフォローしてあげたい。

私と出会ったお陰で、踊り子を続けようと思ってくれる方もいるようで、私としては‘ストリップの父’としてスト冥利に尽きる。娘たちがたくさん活躍してくれれば私としては楽しい事この上ない。毎日劇場に娘たちの笑顔を見に行きたくなる。これが劇場通いに忙しい私の現状である(笑)。

 

確かに、ベテランのお姐さんになかなか愛シェアリングができていないのも事実。本当に申し訳ないと思っているが、決して馴染みの踊り子さんのことを忘れているわけではない。期待するほど応援に行けてないかもしれないが、できるだけ時間を見つけて応援に行っているつもり。

ただ最近はストリップにおける自分の役割みたいなものを強く感じてもいる。新人さんを守ってあげたい、いつも新人さんの味方でいてあげたい、と強く思うようになっている。新人さんを応援する条件としては、新人さんLOVEはもちろんのこと、まめに劇場に通えることが一番大切。そのための多少の経済力も必要。そうした条件に一番マッチしているのが自分であり、新人さんにとっても私の存在は小さくないと感じている。

最近は、ホームのTSで新人がデビューすると精力的に応援している。先日、まだ一周年経っていない海宙まみんさんと新人の憂さんがダブルポラなどで一緒に共演していた。まみんさんが「私のデビューのとき、太郎さんがたくさんいらして下さり心強かったので憂ちゃんもそうだと思います。」 新人の憂さんを応援してあげてね!という先輩としての熱い心遣いに打たれた。

デビュー週ラストに、応援を感謝され、踊り子を続ける決心をしたと言われるほど嬉しいことはない。「不安が沢山あった中で、今回のお姐さん、そして太郎さんとの出会いで、心が和らぎ、とてもありがたいデビューになりました。太郎さんには感謝してもしきれません。とっても心強かったです。ありがとうございました。 10日間やってみて、これからも続けようという気になりました。頑張ります。これからも素敵な笑顔で見守って下さいね。」 これこそが‘ストリップの父’としての私の真の役目ではないかと感じている。

もうひとつ付け加えると、新人さんのデビュー週楽日ラスト・ステージには、物凄い感動的な場面が待っている。心を決め踊り子デビューして10日間をやり切ったという達成感や満足感など様々な思いが交錯し、新人さんが感激で胸を振わせ号泣するシーンに出くわす。観ている私まで感動でもらい泣きしてしまう。しかも、通った日数に比例して感動共有度が違ってくる。だから多く通いたくなる。この瞬間は、彼女にとって一生に一度の大切なもので、このシーンを見られただけでストリップ・ファンとして最高の贅沢。最近の私はこの瞬間を味わいたくて新人さんを追いかけていると言っても過言ではない。

 

というわけで、なかなか時間的に愛シェアリングできない私をお許し下され!

ただ最後にあえて言わせてほしい。

親は、どうしても生まれたばかりの赤ん坊に手をかける。そうしないと赤ん坊は生きていけないから。しかし、だからと言って、親は上の子のことを愛していないはずがない。親の愛はすべての子供たちに平等である。私はストリップ界の娘たちをすべて愛シェアリングしていると自信をもって答えたい。

 

平成24年

 

 

 

 

 

 

今回は「デレデレした顔ってどんな顔」という話をしてみます。(笑)

 

その週は初日からはりきって池袋ミカド劇場に行った。ところが、初日土曜日というのに、当日会社の事務所の引越しがあり、私は引越しのリーダー役として朝8時半から、荷物の運搬、電話回線工事、インターネット回線工事と各業者の対応に追われた。終わったら早く池袋に向かいたかったが、結局夕方17時過ぎまでかかり、同僚が皆帰った最後に私は戸締りをして木更津の会社を出た。

池袋に着いたのは19時少し前くらい。3番目の小森ななさんのステージにセーフという感じ。

4番目のきよ葉さんが「今週は太郎さんがきっと来ると思っていたわよ。新人さんがいるもんね。」とにやり。私はすぐに「きよ葉さんを応援に来たんだよ」と切り返す。

さて、時間がかなり押しており、最終4回目ステージはダブル進行となる。3番目の小森ななさんと4番目のきよ葉さんのダブル・ポラのとき、きよ葉さんが小森ななさんの方をちらっと見ながら「やっぱり、太郎さん、デレデレしてるー」と私をからかった。

私は「えっ!」ととぼけた顔をしたが、目は宙を泳いでいた。

 

今週の池袋ミカドの香盤は最高の布陣。

トップの六花ましろさん(7月デビューの新人)、2番の北川れんさんの道劇コンビ。3番の小森ななさん(二週目の新人)、4番のきよ葉さんとTS勢が続き、5番は晃生のRinさん、ラストはTSの雛形ひろ子さん。私はラスト以外は全員応援していた。

だから、すべての踊り子さんを同じように応援しているつもりでいた。同じようにポラを買い、合わせて手紙を渡している・・・はず・・・

しかし、きよ葉さんから見たら、私がどの踊り子さん目当てか一目瞭然なのだろう。

いったい私はどんな顔をしているのだろう。デレデレしている顔とはどんな顔をしているのだろうか。ストリップなんだから他の客も同じようなにやけ顔をしているはずだが。

 

そういえば、以前、東洋の篠崎ひめさんからも「太郎さん、完全にめろめろになってるわよ。少し妬けちゃうわ~」と言われたことがあった。

デビュー以来12年お付き合いしているひめさんは私のお母さんみたいなもの。私は好きな踊り子さんができたら、まるで子供が母親に話すように、正直に話してしまう。ひめさんにはすごく話しやすいんだな。「太郎さん、また踊り子さんに恋しちゃったんですかぁ~」と言いながら、うんうんと聞いてくれる。ひめさんがたまたま私の気に入った娘と一緒の公演だったときに、フィナーレで私の好きな娘を見る目がデレデレしていたそうな。それが先ほどのコメント。小恥ずかしい限りである。

今回も、私が小森ななさんを見る目はかなりデレデレしているのだな、きっと。ななさんがこれだけチャーミングですから、私も恋に落ちますよぉ~ホント!!!

 

ひとつ私のストリップ恋愛論を話すね。

私はたくさんの踊り子さんを応援している。が、正直なところ、きよ葉さんのようなベテランの方とななさんのような新人さんとではパワーの使い方が異なる。仲良くなるまでのパワーと仲良くなってからのパワーとでは、エネルギーの量と質が変わる。仲良くなりたい新人さんには‘ときめき’を感じ、仲良くなったお姐さんには‘やすらぎ’を求める。おのずとパワーの調整弁が違ってくる。

 次々と新しい踊り子さんに食指を伸ばしているように思われるかもしれないが、ストリップの場合は浮気とは捉えてほしくない。一般の恋愛では一人の異性を愛することが求められるが、ストリップの常識としては出来るだけ沢山の踊り子さんを好きになることを求められる。たった一人の踊り子さんだけ応援するとなると、他の踊り子さんのステージが退屈になるからだ。全員を好きになり応援してポラを買うのが理想であり、それが劇場の収益、そしてストリップの繁栄につながる。だから、この人だけを選ぶという一般恋愛と違い、ストリップの場合はそれぞれの踊り子さんのチャームポイントをいち早く見つけて積極的に好きになるようにする。好きな踊り子さんがたくさん出演したら楽しくてたまらないし、どんどん劇場に足を運びたくなる。これがストリップにはまってしまった現在の私の状況でもある。

スト仲間の中には一人の踊り子さんのみを追いかけるファンもいるが、そういう方はその踊り子さんが辞めてしまうとストリップから足を洗ってしまうケースが多い。それだとストリップ人口がどんどん減ってしまう。つねに新人さんを追うストリップ・ファンこそがストリップを支える原動力。現実これは事実であり、これを否定されるとストリップは必ず衰退する。今の私の持論から言えば、新人とベテランのバランスが大切であり、つまり‘新人との出会いのときめき’と‘ベテランの方とのやすらぎのひととき’こそがストリップの醍醐味であり、両方がバランスよくあるのが嬉しい。

 

小難しい話をしてしまったが、いずれにせよ、私は新人さんの味方である。(笑)

ちなみに、ななさん(9月デビュー)と穂積あおいさん(7月デビュー)は同じ事務所のDUOエンターテイメント所属。

先週のTSにあおいさんが出演して、私は7日間通った。あおいさんも若くてチャーミングな女の子。私はデビューから一目でまいってしまった。

私は年甲斐もなくすぐ若い娘を気に入ってしまう。しかし、これが私のストリップファンとしての若返り薬。先週のTSは、あおいさんのお陰で1才は若返った気分だった。今週のミカドはななさんとましろさんがいるから2才くらい若返るかもしれないなぁ~。そのうち、私は若返り過ぎて赤ん坊になっちゃうかな。そうしたら、きよ葉さんの大きなおっぱいが欲しいなぁ~。妄想で顔がゆがみっぱなし・・・あっ、これがデレデレの顔かぁー!!!

 なにはともあれ、デレデレさせてくれる踊り子さんにたくさん出会いたいものですなぁ~(^0^) これがストリップの楽しみですからね。

 

平成23年10月頭                          池袋ミカドにて  

 

 

 

 

 

 今回は「謝り上手」という話をします。・・・大変申し訳ありませんが(笑)。

 

 

 先日、周りからとても評判のいいリボンさんがしみじみとこんな話をしてくれた。

「ぼくは踊り子さんから、よく怒られるんだよなぁ~。いつも謝ってばかりだよ」と嬉しそうに言っていた。なんで怒られるのか分からないが、嬉しそうに話すのだからきっとたいしたことではないのだろう。

「踊り子さんと仲良くなる秘訣は謝り上手なことかな」なんて言っている。

 

 言われてみると、私も女房には謝ってばかり。

新婚当初は、夫婦喧嘩したとき翌朝女房の方から「言い過ぎちゃってごめんなさい!」と言われ、それが無性にかわいく、ますます好きになっていたものだが、いつの頃からか謝るのは私ばかりになっていた。まぁ確かに非があるのはたいてい私の方ですが・・。

私の場合、夫婦喧嘩して気が収まらないときは、いつも事実関係を文章に落とし込んでみる。冷静に考えるとやはり私の方が悪いと思えることが多く、いつも私の方から謝っている。私には、こうしたものを書き集めた「サラリーマン夫婦考」という膨大なエッセイがある。ときに感情的に書きなぐったり、ときにしんみりと反省文を書いたり、・・・文章は「おまえが悪いんだからね」と優しく悟らせてくれ、私の心を落ち着かせてくれる。これは妻にも誰にも見せられない(笑)。なお、この中で考えた男女観、恋愛観などが今の私のストリップ・エッセイにも如実に表れている。

ともあれ、私が上手に謝っているから夫婦関係がうまくいっているのは間違いないこと。私が怒ったら、夫婦関係はとっくに破綻していたと思う。

男は謝り上手でないといけないんだろうなぁ~

 

 そのリボンさんが先に帰るとき、帰り間際に、ステージ正面の席に座っている私のところに来て、「もう帰るので!」とわざわざ挨拶してくれた。見たら、彼は顔見知りの人みんなに同じように挨拶して出て行った。それが自然にできる人であり、やっぱりみんなに好かれる人は違うなぁと感心させられた。

 立派な人ほど腰が低く、自分を下にもっていこうとするもの。周りの人を敬い、つねに相手から学ぶ姿勢を崩さない。

 リボンさんは踊り子さんのもつ神々しい美しさにひれ伏すからこそ真の奉仕ができる。低姿勢は相手に対する思いやりであり、優しさ。相手を大事に思うからこそ面倒なリボンの作業にも嬉々として没頭できる。

 また、好きな相手に対して怒るというレベルは少しむくれてみた程度が多く、所詮、愛情の裏返し。喧嘩するほど仲がいいということ。だから相手が上手に謝ってきたら、すぐ許しちゃう。男女関係がうまくいっている場合はそんなもの。

 謝り上手は相手のことを大事に思う愛情表現と思う。

 

 ということで、好きな女のために謝れる男というのは幸せなんだなぁ。。。

 

 

                        

 

 

 

 

 

 ストリップというのは禁欲の遊び(風俗)だなと思うことがある。目の前のステキな女体に触れたくても我慢しなければならない。女性を感じたくて入場したにもかかわらず、射精はできない。つまり、ストリップはきちんと自己抑制できる人向きの遊び、つまり「大人の風俗」なんだと思う。

 ファンには上下関係がない。リボンさんの中にたまに1番客だ2番客だなんて話を聞くが本来はそんなものはない。先日、踊り子Aさんが出演していたのに、Aさんの熱烈なファンの一人がその週に来なかったので、次に会ったときに「なぜ前回の公演では来なかったの?」と他のファンが気遣うといった具合である。だから踊り子さんの前では常にみなさん平等であり、踊り子さんも同じ気持ちで客と接している方が多い。そういう意味では、みんながとても大人だなぁと思う。

 

 また、ストリップというのは、嫉妬深い人には絶対に向かない遊び(風俗)だなと思う。

 例えば、キャバクラで好きな子ができたとする。その子を友人に紹介して、友人がその子と仲良く談笑しているのを見るのは辛い。だから友人には紹介しないだろう。仮にそれがソープランドで見えないところの話だとしても友人には紹介しないだろう。ところが、ストリップの場合は、気に入った子ができると、いい子だから応援してあげてと仲間内に紹介する。ことストリップにおいては、一対一で相手してもらう遊びではないから、その点において他の風俗とは一線を画す。その分、料金が安いという設定でもある。

 一見客はただヌード観賞に来るだけだが、常連客は好みの踊り子さんの応援にやってくる。その時に彼女が他のお客と親しげにしていようと、それを気にしない、見て見ぬ振りをする、いや、むしろそれを喜ぶくらいの度量がないとストリップは観られない。大好きな歌手やアイドルをファンクラブに入って応援するのに似ている。ストリップというのはみんなで応援するスタイルなのだ。俺が俺がというタイプはストリップには向かない。

 ただ考えてみれば、男と女というのは異性として互いに惹かれ合う仕組みになっている。それは子孫繁栄のために神が創りたもうた世界。男はその女に自分の子を産ませるために他の男を排除する摂理が働く。ストリップというのはそれを全く否定する。その点については単なる遊びだからと割り切るしかない。

 

 ところが、踊り子さんに対して、恋愛感情を抱き始めると厄介なものになってくる。

 私は時にストリップ評論家のごとく冷静に踊り子さんを観察し、個々の踊り子さんの個性を評価し、外見よりむしろ内面の美しさ、自分との相性などを評価していってるつもり。なのだが、時にどうしようもなく「恋に落ちた」状態になることがある。それだけその踊り子さんが素敵だということ。そうなると、情けない話がやきもちの心理が顕れる。他の客と楽しそうに談笑する姿を見て、なんか無関心でいられない。むしろ人気が出てきたのを喜ばなければならないのにどうも冷静でいられない。最初は自分の応援を凄く喜んでかまってくれていたのが、人気が出て多くのファンに囲まれだすと、自分の位置関係が彼女から遠く感じる。彼女の中の自分の存在が相対的に小さくなっているのをひしひしと思い始める。感じなくてもいいものを、自分への対応が悪くなったと感じたりもする。

 男なのだから、恋に落ちることもあれば、そういう心理状態になっても仕方ないとも云えそうだが、問題は一ファンとして素直にその踊り子さんを応援し辛くなること。私は以前、ストリップにおける究極の姿は「見守る愛」だなんてカッコよく話したことがあるが、こと恋愛感情を抱いてしまうととても偉そうなことはいえない。単なる自己中心の男に成り下がっている。

 

 話は変わるが、文豪・谷崎潤一郎の作品『痴人の愛』を思い出した。殺したいほどに美しい女ナオミに対する主人公譲二の倒錯の愛。愛する女が他の男に抱かれるのを見て、憎めば憎むほどナオミは美しくなっていく。男は美の前に跪(ひざまづ)き、その尊い憧れを崇拝する。そして美にふれた男は発狂する。破滅の愛に堕ちていくマゾヒストな内容。

 ストリップもこの「痴情の愛」に通じるものがあるのかな。自分の愛する女性の裸体が衆人の目に晒されるのを見て喜ぶ。・・・しかし今の私には到底この領域には行けそうもない。だからこうして葛藤してしまうのだ。

 

 長くストリップを楽しんでいると、お陰さまで心底気に入る踊り子さんと出逢うことができる。これは最高のご縁だと感じる。

 大好きな踊り子さんが現れ、そして彼女にはまっている間は夢見心地。そして彼女に堕ちていく。

自分が求める神聖で崇高な「見守る愛」ができずに、こうした葛藤に悩んだりしてしまう。これもストリップなのかなとも思う。。。

 

 

平成21年3月                           川崎ロックにて