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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(04)


どんなに店の内装に凝って、優秀なバーテンダーを置いて、いい酒を揃えたって、1人でも大声で騒ぐお客さんがいたらすべては台無しになる。
レストランなどと違って酒を売る場所なだけに、この問題にはあらゆるバーが頭を痛めているはずだ。


だから簡単にお客さんを選別する方法として、いいバーを作ろうと思ったら、客単価をある程度高く設定することになる。
他の店なら500円で飲める酒を、1000円で飲んでもいいというお客さんは、店で騒ぐような人物である可能性は低いというわけだ。


↑(引用ここまで)
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個人的な話になりますが、私は最近、レストランやホテルを選ぶとき、「安い」や「おトク」であることに、あまり魅力を感じないようになってきました。
それどころか、「安い」「おトク」には、中高生や下品なおばちゃんなどが集まってくる可能性があるだけに、「そんな騒がしい環境の中で食事をしたり、過ごしたりするのは御免だ」とデメリットすら感じつつあるように思います。


…私もそれだけ、歳をとったということなのでしょうか(笑)。
年齢相応にお金も持っているし、「安い」「早い」「量が多い」外食も若い頃に食べ尽くしてきました。
静かに食事ができるなら、それこそ『他の店なら500円で飲める酒を、1000円で飲んでもいい』と思うのです。


もっと言えば、「安い」や「おトク」に飛びつく集団の仲間に入りたくない、一緒だと思われたくない、という気持ちもあります。
お金を出せば「品のある」環境が買えるなら、買おう、と。
「特価」「激安」に目がくらんで、「品のない」自分の後ろ姿がそこにあるなら、買わないでおこう、と。


北野武氏はその著書『超思考』の中で、「”激安”に飛びつくのもいいけど、だったら人に知られないようにやれよ」「安いものを買うために行列に並ぶなんてみっともないマネは絶対にやめなさい、と母親によく言われた」と言っていました。
そういう意味で、『他の店なら500円で飲める酒を、1000円で飲んでもいい』と言える選択肢を持っているかどうか、がその人の「品」をつくる大きなウェイトを占めているように思うのです。


あなたは、「安い」や「おトク」、「○○放題」とどんなふうにつき合っていますか?
自分の「品」を保つ選択肢を持って、暮らしていますか?


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たまの平日休みに、ランチのラストオーダー滑り込みを目指して、地元の中華の定番「庄和飯店」へ。




…と思ったらびっくり!

14:30ラストオーダーかと思いきや、「その5分前なんです」と店員さん、時計を見たらジャスト14:25!

店員さんの計らいで、なんとか入れてもらえました。。

入店するなり、「Aランチ、Bランチひとつずつでお願いします」。



…ちなみに、子どもの熱はやはり、5日ほど放置しておけばなんとか下がるようで、火曜~土曜でほぼ完治。今日はピンピンしています。。(^_^;)

仕事中に面倒を見れくれたお義父さん、お義母さん、ありがとうございましたm(_ _)m。


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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(03)


もっと言えば、業界の常識というものには、一般人からすれば不合理な、理屈に合わないものがたくさんあるのだ。
その常識に惑わされずに、どうすれば成功するかを自分の頭でよく考えた結果として、常識はずれのビジネスが生まれるというだけのこと。
成功している人は、最初から常識はずれを狙っているわけではない。


業界の常識には、理屈の通っているものもある。
そういうものまで、否定しているわけではないのだ。
ただ、これが常識だからといって、それが本当に正しいかどうかを考えずに単純に従っているだけでは、本当に成功することはできない。
そこから新しいことは何も生まれないと言いたいのだ。


そういうわけで、常識はずれのビジネスをしている人は、例外なくきわめて合理的な考え方の持ち主でもある。
別の言い方をすれば、彼らが変な人に見えるのは、あまりにも合理的で筋が通っているからなのだ。
普通の人は、自分の考え方が世間の常識に反していると、不安になる。
けれど彼らは、それをまさしくビジネスチャンスだと思う。
常識に反しているということは、誰もそれに気づいていないということだ。


なんでも人と違うことをやればいいというものではない。


人と違うことをするのは、たとえ誰も認めてくれなくても、合理的に考えて自分はそれが正しいと信じるからなのだ。


↑(引用ここまで)
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周りがみんなスーツを着ているのに、自分だけ私服だと、『不安になる』。
周りがみんな行列に並んでいるのに、自分だけ列からはずれていると、『不安になる』。


何もビジネスに限らずとも、紳助氏の言う『普通の人は、自分の考え方が世間の常識に反していると、不安になる』類のことは、日常生活のあちこちに転がっています。


そして、「周りに合わせてスーツを着る」のか、「周りに合わせて行列に並ぶ」のか、「”今、これが流行しているから”でそれに乗っかる」のか、そこであなたが選ぶ選択肢の積み重ねが、「あなた」という人の生き方・立ち振る舞いのレベルを決めていくのです。


そしておそらく、「なんであいつだけスーツ着てないんだよ」という凡人の陰口を気にも留めず、行列にも並ばない、「あっけらかんとした態度」を身につけてきた者だけが、いい意味で「常識はずれ」、「突出した者」と呼ばれるようになると思うのです。


…正直な話、私はけっこう気を張って「あっけらかんとした態度」を取ろうと努めている方だと思います。
内心、周りの目がけっこう気になっているときでも、それは外に出さず、「人は人、自分は自分でええやんか、周りは黙っとけ!」という強気の態度を取るようにしています。
天然モノでない、作られた「常識はずれ」ですね(笑)。
でも、凡人にすぎない私が、集団に埋没しない「常識はずれ」であるための、唯一のやり方だとも思っています。


自分の中では「自分くらいは、周囲に迎合しない、素敵な”頑固オヤジ”という役回りでいたい」というポリシーでやっているのですが、周りに白い目で見られながら、毎日それを貫いて歩くのは、けっこうしんどかったりもします。


「人と違う」「個性的」と他人に言われ悦に入る、自分の話や自慢話ばかりの(悪い意味で)「変わり者」のおっさんやおばはんには、何の「突出」も感じませんが、せめて、「周りと違うことをする”不安”」と戦い続けようと思う、今日この頃です。


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火曜日に保育園から38.3度の電話で強制お迎え。


水曜日は36.8度に下がるも、大事をとって、彼女の実家にお世話に。3歳児のみ保育園。


木曜日も37度前後で咳が止まらず、じじばばのお世話に。3歳児のみ保育園。
なんと夜中に39度超え…さすがに息を切らしてつらそうだったので、坐薬を入れてやります。


そして金曜日もじじばばにお世話になることに。。3日連続…ご迷惑おかけします。


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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(02)


さて、実際に喫茶店をやることになったら、おそらく、比較的お客が入っている喫茶店がどういう具合に商売をしているかを調べるところからスタートするだろう。
少なくとも、その店は失敗していないからこそ、今そこで営業していると考えられるからだ。
実はその店は、ドル箱がすっからかんの状態なのかもしれないのだが、それは外側からではよく見えない。


商売というものは、やってみなければわからないことだらけだ。
喫茶店のことを調べるにつれて、自分がどれだけ、喫茶店の常識というものを知らなかったかということに気づくに違いない。
そして同時に、その業界の最低限の常識はわかっていないと失敗する。
そう思ってしまうのが、自然な人間の心の動きだろう。


だけど、その常識にとらわれていたら、成功する店は作れない。


なぜなら、その常識は、失敗している店の常識だからだ。
繰り返し書くが、本当に成功しているのは100軒のうちの1軒なのだ。


つまり、成功しているのは特殊な店、常識はずれの店ということになる。


これは理屈で言っているわけではなく、どんな業種でもいいけれど、本当に成功している店をよく見てみればわかることだ。
成功しているところは、どこもみんな個性的だ。
業界の常識を覆すようでなければ、おそらく本物の成功は望めない。


↑(引用ここまで)
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「世間の常識」は、そのほとんどが「失敗者(没個性者)の常識」。


自営業でも、結婚生活でも、育児でも、休日の過ごし方でも、「これが常識だよ」「こうした方がいいよ」と言ってくるような人、もしくはそういったニュースやテレビ番組を鵜呑みにするような人がどの程度の人なのか、ちょっと想像すればわかると思います。
そんなことを言ってくる人のほとんどは、「失敗者」、もしくはマネしたくもない「個性のない者」ではないでしょうか?

金銭的にも、精神的にも、自分自身はもちろん、周囲の人も幸せにすることのできる人を「成功者」と呼ぶならば、はたしてそんな人が「これが業界の常識だよ」なんて言うでしょうか?
「家事は夫婦で分担すべきだよ」「子どもは褒めて伸ばすんだよ」なんて、どこかで聞いた風なセリフを口にするでしょうか?


私見ですが、世の自営業も、結婚生活も、育児も、9割は「失敗」だと思うんです。
一見、みなさん「私はできてますよ」みたいなすまし顔で暮らしていらっしゃるからわかりにくいですが、「あの人の立ち振る舞いは極端に見えるけど、一本筋が通っている。天晴だ!」と思わせてくれる人の少なさを思うと、どいつもこいつも没個性的な、自分のアタマで考えない、「失敗者」だらけのように、私には見えます。
というか、近所で顔を合わせても挨拶もできず、落ちたゴミを素通りできる大人が大勢を占めている(と私は実感している)昨今ですから、少なくともそんな奴らにまともな「育児」ができるとは思えません。「そんなこともできないような奴が、ガキに何を教えられるんだ?」と。


つまり、こういうことです。
世の「常識」「こういうもんだ」に耳を貸していたら、それを言う凡人ども、つまり9割の「失敗者」の方にあなたも入ってしまいますよ!


儒教で言われるような、いつの時代も変わらない「人間」としての常識や作法もそりゃあるのでしょうが、それすらも、一度自分のアタマで理解しなおして、納得できるものだけセレクトして、自分独自の言い回しにするようにやっていかないと、こんなことを偉そうに言っている私だって、いつの間にか「失敗者の常識」に埋もれてしまうと思うんです。


私は、「誕生日は、そいつ自身よりも、腹を痛めて産んでくれた母親に感謝する日」と周囲にも子どもにも明言していますし、「人が集まる機会」に利用する以外は、世間のイベントごとは一切やりません。


また、「自ら好んで”育児”という作業に飛び込んだんだから、炊事も保育園の送迎も糞尿の世話も、できるだけ全部やりたい」と公言して実行しています。…だから、「育児に”協力的”な、いい旦那さんね」とか褒められても、違和感が残ります。「”協力的”とかそういうつもりでやってないんだけどなあ」って。
「炊事洗濯掃除は、妻がやるもの。夫はその”お手伝い”」という「世間の常識」を実感する瞬間でもあります。


「人の話に耳を傾けなさい」と人は言うけれど、「人(凡人)の話に耳を貸さない」という選択肢こそ持つべきなんじゃないかなあ、と最近本気で思うのでした。


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昨日は、職場の同僚たちに声をかけて、歌舞伎座へ。




演目は、

七之助・扇雀「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)」

扇雀「近江のお兼(おうみのおかね)」、橋之助・獅童「三社祭(さんじゃまつり)」

勘九郎・七之助「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」

でした。

幕間休憩合わせて11:00~15:00です。


写真は幕間の「歌舞伎幕の内」2,150円。要予約。

今回はチケット発売10:00と同時に3階A席6,000円を5枚予約。


ちなみに観劇マナー上で妨害電波が出ているのか、座席に入ったとたん、携帯の電波が0本に。

仕事の電話等は、観劇中は受けられないの注意されたし。


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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(04)


(乙武氏が教師として小学三年生を受け持った授業中にて)


「先生、新しいページにしたほうがいいですか?」
「ここは一行空けるんですか?」


自分のノートにもかかわらず、どのように書いたら見やすいのかを自分で決められず、教師にすべてを委ねてしまうのだ。
これは危険な兆候だと感じた。
このままでは、自分で考え、自分で決断することを放棄する人間になってしまう。


だからと言って、そのことで子どもたちをなじる気にもなれなかった。
きっと彼らだって好んでそうなったわけではなく、親や教師の影響によって、「自分で決められない子」になってしまったと思うのだ。


子どもとは、本来、好奇心旺盛なものだ。
いくら親が顔をしかめようとも、あれこれとやってみたがる性質がある。
そうした子どもたちのチャレンジに対して、大人たちはどのように受けとめているだろうか。


もしも、それが大人にとって好ましい結果であれば、「よくできたね」「がんばったね」。
ところが、それがいざ大人にとって好ましくない事態に発展すると――。
「何やってるの!」
「もう、だから言ったでしょ」


感情に任せた金切り声をあげて、子どもたちを圧迫してしまう。
こうした言葉をかけられた彼らは、いったいどのように考えるだろうか。
「せっかくがんばったのに、怒られちゃった……」
「大人に言われたことだけやっていれば、きっと怒られなくてすむんだ」
「これからは、自分から何かをするのはやめよう」


世間には、「指示待ち族」と呼ばれる若者たちを揶揄する声がある。
だが、こうして指示されたこと以外をやろうとしない若者を増やしているのは、ほかならぬ大人たちの態度なのではないだろうか。


↑(引用ここまで)
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巷の母親の叱り方で私が特に気になるのは、「何やってるの!」だとか「どうして○○するの!」だとか、「行動の理由を問う」型の叱り方です。


たとえば、
子どもが食べこぼしをした → 母「何やってるの!」 → 子「……」
というやりとりになるのでしょうか。
つまり、「自分が、何をやったのか、どんな悪いことをしてしまったか」をあえて相手に答えさせようとすることで、プライドを傷つけ、再発を防止するという叱り方です。


でも、「何やってるの!」に対して「よそ見してて、こぼしました」なんて「自分が何をやったのか」をきっちり答えようとする子どもはいないですよね。…漫才の「何でやねん!」というツッコミじゃないんですから(笑)。
「何やってるの!」という攻撃的発言に委縮し(もしくは慣れっこになってしまい)、無言になってしまう子どもがほとんどではないでしょうか。…親のほうが一方的に叱り言葉を浴びせて終わるという。
これは、ダメですよね。
そもそも、「はい」と答えづらい叱り方は、子どもとしても困ると思うんです。お説教が締まりにくいというか。


子どもが食べこぼしをした → 親「よそ見しないで食べなさい」 →子「はい」
で、済む話ですよね。
もし「はい」ではなく、口答えを始めたら、一発ひっぱたいて、別室に連れて行って1対1になり、泣きやむのを待って、「ごめんなさい」と言わせてから、「食べるときは、食べることに集中しないとダメだよね?」と諭して、最終的に「はい」と言わせて、食事に戻す。
…ここまでが、「お説教」ワンセットですよね。


「この親は、口答えを許してくれないんだな」「食事中に、立ち歩いたり、よそ見をしたりしちゃいけないんだな」と、「やっていいことと悪いこと」の線引きも子どもにとってわかりやすいですし、そして何より「身の程を知る」機会になります。
そして、このワンセットを一回やっておけば、次また、食事中によそ見をしたら、黙って睨みをきかせるだけで、子どもはハッと気づいて食べることに集中するもんですよ。
いちいち金切り声をあげて「何やってるの!」なんて言う必要はありません。


「はい」「ごめんなさい」と、子どもが答えやすいように誘導する叱り方。
面倒臭くても、子どもが「身の程を知る」お説教タイムを作って(できれば1対1で)、しっかり泣かせて、しっかり謝らせる叱り方。
結局は、親の見ていないところで――保育園で、実家で、「はい」「ごめんなさい」「ありがとう」「こんにちは」が自分から言えて、周囲にかわいがってもらえる奴であるかどうかが勝負どころなのですから、親が見ていないところでも、親の睨みがきいていると子どもが感じるくらいの叱り方を、普段からしていなくちゃいけませんよね。


…少なくとも、「何やってるの!」「どうして○○するの!」と日々罵声を浴びせられて、その場しのぎでしぶしぶ言うことを聞く子どもが、外で愛想よく、かわいがられる奴にはなりづらいよなあ、と心底思うのです。


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今回は11:00前ギリギリだったので、「コメダ珈琲店」のモーニングサービスに滑り込みました。




ドリンク一杯につき、トースト(厚切り半分)とゆで卵1個がサービス。

バターかジャムかを選ばせてくれます。




単品で「チリドッグ」400円も。

チリソースがかかっているだけなので、モスバーガーに比べると、若干チープ感がありました。




「コロッケバンズ」420円。定番です。



…昨日は、子どもふたりを連れて、17:00前から近所のスーパーへお買いものへ。

ミネラルウォーターを16リットル汲み、無洗米あきたこまちを5キロ、ほかもろもろ買い物を済ませて0歳児を抱っこしながら帰宅。

2歳児のトイレトレーニングに付き合いながら、夕飯の支度。2匹に食べさせる。洗濯機を回す。食べさせ終えたら洗い物をする。洗濯機が終わったら乾燥機にかける。干す。洗い物を拭く。床全面拭き掃除。2匹を遊ばせたのち、お風呂へ入れる。出たら着替えさせる。0歳児にミルクをやる。乾燥機が終わったら畳む。遊びたがる2匹を寝かしつける。…で、22:00前就寝の5時間育児コースでした(^_^;)。パソコン開く暇なし。。


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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(01)


なぜ、パチンコをするのか。
理由は人それぞれだろうが、要するに、ちょこっと小銭を儲けようと思っていくわけだ。
パチンコ屋に入れば、あのドル箱(儲けたパチンコの玉を入れる箱)が、どの客の後ろにも山のように積まれているように、見える。
みんなソコソコ儲かっているように見えるわけだ。


だけど、それはもちろん幻想でしかない。


実際には、1箱も積んでいない人もたくさんいるのだが、それはあまり見えていないわけだ。
さらに、もっと重要なことを言えば、ドル箱を積んでいる人だって、必ずしも儲かっているわけではない。
ずっと眺めていれば気づくことだが、2箱や3箱のドル箱は、驚くほど簡単にゼロに戻ってしまう。


山のようにドル箱を積んでいる人にしても、それだけの玉を出すまでに、その何倍ものお金を投資していることだって十分あり得るのだ。


その台がどれだけ玉を出しているか、最近はいろいろなデータが一目で確認できるようにはなってはいるけれど、そのためにお客がどれだけお金を遣ったかは、もちろん絶対に表には出てこない。
パチンコ台の上に、お客さんが遣ったお金まで表示したら、おそらくみんな家に帰ってしまうだろう。


パチンコ屋さんの収入源とは、要するに客の負けたお金なのだ。
そのお金で、駅前の一等地だの、郊外の広大な土地に、大きなビルを建て、パチンコ台をたくさん揃えて、従業員を大勢雇って、あのビジネスは成立している。
冷静に考えれば、どれだけお客が負けているか、簡単に想像できるはずだ。


↑(引用ここまで)
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こんなことは今に始まったことではないし、あまりに陳腐なので口にも出したくないのですが、日本人の商品の買わされ方があまりにアホに見えるので、今日はあえて言います。


タダだと思って見ている、そのテレビCMの莫大な宣伝費・製作費も、起用されているタレントのギャラも、当然のごとく、商品の値段に含まれていますよ、と。
あなたは自分の意志でお金を払って商品を「買っている」つもりでしょうが、作り手の誘導によって、「買わされている」んですよ、と。


家畜がエサを与えられるのと同じように、飼い主(作り手)が笛が吹けばみんな揃ってそちらにドドーっと流れて同じモノを買わされているように見えてなりません。その姿は、「畜群」と言って差し支えないでしょう。


数年前、地デジ対応の大画面テレビも、当時みんなでこぞって買いにいっていました。いや、「買わされて」いました。
…アナログ放送終了とともに「これをきっかけにテレビをやめよう。こんなえげつないやり方で”買わされる”のはゴメンだ」と言っていたのは、私の知り合いの中では、私の父くらいなものでした。


最近の「スマートフォン」も、私には同じように見えます。
大人も、ガキも、電器店に足しげく通っては、こぞってスマートフォンの新機種を買っています。いや、「買わされて」います。
毎月の支払い能力のないはずの中高生の多くが「スマートフォン」を所持している現状は、どう考えても「異常」だと思うのですが、そう思うのは私だけなのでしょうか?


「いざというときの連絡手段として、子どもに買い与えている」? …笑わさないでください。ガキのワガママに押し切られただけでしょうに(笑)。保護者としてどうしても緊急連絡手段が必要なら、通話機能だけの「安心だフォン」みたいなものだけ持たせればいいじゃないですか。


「友だちがみんな持っているから、持っていないとイジメられる」? …そんな程度のことでイジメられるなら、イジメられたらいいんですよ。いや、本当に。
そして、そんな輩は「友だち」じゃないですよね。「友だち」だったら、急用があったら、家に電話してきますよね。
むしろ、「子どもにスマートフォン(携帯電話)なんて、必要ないじゃん」と言ってのける子どもを「おもしろい奴だ」と思える感覚が若者の中に育ってほしい、とすら私は思います。


…いや~、なんでみなさん、ガキどもに携帯電話を買い与えるんでしょうか? 全員、アホなんでしょうか? ガキのワガママと勝負できないバカ親だらけなんでしょうか?
今偉そうにこんなことを言っている私も、いざ自分の子どもが年頃になったら、「防犯上の理由」とか何とか言って、買い与えてしまうんでしょうか? …もしそんなことになったら、その場で、謝罪文を書かせていただく所存ですが(笑)。


子どもだけでなく、大人だって、「数万円もする(なおかつ毎月料金を払わされ続ける)オモチャを”買わされる”くらいなら、携帯電話なんていらないよ」と言ってのける人が、もっといてもいいと思うのですが。。


別に、「スマートフォンを持っている奴は全員アホだ」とか言いたいわけじゃないんですよ。
現に(数少ない)私の友人たちだって、みんな持っています。スマートフォンの画面を見せて、子どもと遊んでくれたりもするので、けっこう助かっちゃったりもしています(笑)。
要は、「こだわり」「ポリシー」の出しどころの問題だと思うんです。その人が、どこに「それはちゃうやろ」と言って歩く人物であるか。
全員が全員、私と同じ「ポリシー」の出しどころである必要はないですし、逆に、私が何の気なしに使っている言葉やモノに「それはちゃうやろ」と、別の「ポリシー」の出しどころを持っている人も、もちろんいると思うんです。


つまり、テレビや携帯電話に対して「それはちゃうやろ」と言う人の少なさに危機感を覚えるというか、みんながみんな同じ方向を向くことに抵抗がないように見えるというか、「個性、個性」なんて言いながら「没個性」な自分の行動には無頓着に見えるというか…日本人の商品の「買わされ方」、ポリシーのなさに苦言を呈したくて、今回こう書きました。


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