久しぶりにS君に誘われ、子どもらも連れて、ピザ食べ放題の「ナポリの食卓」へ。




ピザを取り分けるなら、なんと1歳児でも料金がかかるというので、ちょっとびっくり。




パスタどれでも1品+ピザ食べ放題+サラダバー+ドリンクで、大人ひとり1,296円+税。5歳以下は一律399円+税!


…S君とふたりで、20枚くらいは食べたでしょうか。。明日は絶食かな…?(^_^;)


ペタしてね

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↓『ヒンシュクの達人』ビートたけし著、小学館新書、2013)より引用(01)


だけど、国民だって「政治家はダメだ」なんて言えるんだろうか。
国民が政治家たちに大顰蹙の目を向けている一方で、自分たちはどうなんだって見方もある。


大人気ドラマの決めゼリフだとか、新型のスマートフォンの機能だとか、どうでもいいことばかりが話題になってるけど、国民の生活にズッシリのしかかる消費税の話は、みんなサラリと受け流すってのは一体どういうことなんだろう。


(中略)


別に今の若いヤツに欲がないってわけじゃない。
よく「オタク」だというけど、かえってひとつの対象や趣味にハマることは多い。
「AKB48に人生を賭ける」とか「新型のiPhoneを買うために何日も並ぶ」とか「都内の行列ができるラーメン屋を完全制覇する」みたいなヤツは至る所にいるわけでさ。
だけどよく考えてみると、そういうのはたいがい「小銭で済む道楽」なんだよな。


↑(引用ここまで)
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「そいつが何に多く言葉を費やすかをじっと見ていれば、そいつのレベルがわかる」。


私は、『大人気ドラマの決めゼリフ』だとか、『新型スマートフォン』だとか、「新作のLINEゲーム」だとか、たけし氏が言うような『小銭で済む道楽』ばかり口にする人たちを見ては、そう苦言を呈することにしています。


おまえら、他人の作ったエンターテインメント産業に、いいように金を払わされて、マインドコントロールされているだけやんけ、と。


2014年4月から消費税が8%に上げられても、まだ自民党に投票する(もしくは投票にすら行かない)し、消費税率アップが決まって数ヵ月後の今になって、フワっと「法人税は引き下げます」と言い出しても、何の疑問も持たない。
「それって貧乏人や小売店からは消費税をきっちり払わせておいて、政党や政治家個人に献金を欠かさない大企業ばかりが恩恵を受けるシステムなんじゃ?」なんて思いもしない。


「スマートフォン」やら「テレビドラマ」やら「B級グルメ」やら、手近な「オモチャ」を与えられて、それに夢中になっているうちに、「政治」や「誇り高く生きること」なんて、そんな面倒臭いことは、どうでもよくなってしまう。
…「衆愚」の極みです。


誰かと一緒にいるときは、ケータイいじるの、やめましょうよ。
「今、これが流行っています」という商売人の息のかかったインチキ報道は無視して、「自分がいいと思うもの」だけにお金を払いましょうよ。
「食」は確かに人間の大きな欲求ですが、「美味しいものが食べたい」などと臆面もなく言える節操のなさを、「恥」と感じましょうよ。


…たまに会いに来てくれる友人のT君は、仕事やら彼女やら忙しいはずなのに、私の前ではほとんど携帯電話をいじりません。たまにかかってくる仕事の電話に「ごめん」と言って出るくらい。
LINEのお誘いも「気持ち悪い」と一蹴です(笑)。
そんな彼の「誇り高さ」に感動してしまうのは、そうでない愚民で日本があふれかえっていることの裏返しなのでしょうね。


…そんな大口を叩きつつも、「自分がそうなっていやしないか」と、無駄にネットサーフィンしてしまう自分を戒める今日この頃でした。


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先日の国立劇場帰りがてら、「やよい軒」という定食チェーン店に寄ってみました。


基本は、定食を580円~食券形式で購入して、ごはんは、セルフでお替り自由、というシステム。




私が注文したのは、「和風たれかつ丼」(味噌汁つき)660円。


…これが意外に(失礼)美味しい!

甘みのある醤油ダレにわさびをつけてかけるだけなのですが、ごはんに敷き詰めてある鰹節とあいまって、卵とじかつ丼でもない、ソースかつ丼でもない、新しい「かつ丼」でした!


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最近、よく思うのですが、「結婚」=「幸せ」だとか、「ゴールイン」だとか、「結婚」(とそれに付随する「育児」)にフワフワとした短絡的なイメージだけで誘導する芸能ニュースやテレビCMには大罪があると思います。


私はこの場でも私生活でも、「結婚や育児」=「あってもなくてもいい人生の負荷」だと言い続けてきましたが、「結婚」「誰かと共同生活すること」は、「衣食住に関する終わりのない雑務を、気付いた人間がやっておく。気付かなかったり見て見ぬふりをすれば、誰かにやらせることになる」ことの連続だと思うのです。


朝起きて朝食の用意から、それに付随する洗い物。
洗濯→物干し→取り込み→たたんでタンスへ、という半日かかる作業。
夕食の用意、それに付随する米研ぎ・買い物・洗い物、乾いたら棚へ入れる作業。
キッチンや部屋、トイレの掃除、風呂や寝床の準備。
子どもがいれば、保育園の送迎・連絡帳やオムツや着替えの準備、生まれて2カ月後から毎月ある予防接種、朝食を用意して食べさせる、夕食を用意して食べさせる、挨拶や食べ方の躾、トイレトレーニング、遊んでやる、寝かしつけ。


…などなど、これらの作業を「誰か」がやらなくてはならないのです。
というか、シングルファザーやシングルマザーは、これら全てを当たり前のように毎日こなしているんですもんね。
これを「女の仕事だ」と言って、専業主婦として家庭に押し込んで全てやらせることは、前時代的というか、「それは”お手伝いさん”やんか」とツッコまずにはいられないというか、少なくとも私の感覚では、それは他人にやらせられません。


というかむしろ、「その”作業”こそが”結婚する”ということなんとちゃうか?」「その”作業”が味わいたくて、”結婚”に飛び込んだんとちゃうんか?」とすら思うのです。


「結婚」「共同生活」は、実家暮らしやひとり暮らしでは味わえない「作業」と「苦労」、「誰かのためにやっておく・やってもらう」を自ら味わいに行く、「大人の楽しみ」と言っていいのではないでしょうか。


自分のことで手いっぱいな「子ども」には無理ですよね。だって、「誰かのために何かをする」という滅私奉公的な行為を「楽しい」と思えないのですから、あえて飛び込む必要もありません。
「苦労がしてみたい」「もうちょっと生活に”負荷”が欲しいなぁ」と思う、ゆとりある「オトナ」だけが、「結婚」「共同生活」に飛び込めばいいと心底思うのです。


だからといって、別に「結婚している者が偉い」わけでもありませんよね。
フルマラソンや富士登山にチャレンジして自ら「苦労」に飛び込む人を見て、「すごいなぁ」と思うことはあっても、「チャレンジしない人はダメな人」というわけでもないのと同じことです。


…とはいえ、私が見るところによると、特に男性は、「結婚」に自ら飛び込んでおきながら、すすんで「苦労」を楽しんでいる人は少ないように思います。
結婚前・同居前と同じ、「仕事」中心の生活スタイルが続くと決め込んで「結婚」に飛び込んでいる人がいまだに多いことは、想像に難くありません。


炊事・洗濯・掃除(+育児)のメインの責任者は女性で、自分は気が向いたときに手伝う程度で「イクメン」「自分も家事はやっている」などとうそぶく。
女性を「お手伝いさん」扱いして家庭に押し込めている自覚もなく、「仕事が忙しいんだから」「自分が稼いでいるんだから」と開き直り、自分の生活リズムは結婚前と変わらない・変えるつもりもない。


…だったら、なんで、何がしたくて「結婚」に飛び込んだんだ? と言ってやりたくなります。
「”苦労”を楽しまないで、何が”結婚”だ?」「”結婚”というステータスが欲しかっただけじゃないのか?」と。


(注)私は「結婚」という制度は「男性が、セックス付きのお手伝いさんを無料で雇う」ことが起源の、過去の遺物だと思っているので、「結婚」はしてもしなくてもいいと考えています。
「結婚」という表現を、それぞれ「同棲」や「共同生活」と読み替えてもらって構いません。


だから、冒頭で述べたように、「結婚」=「幸せ」だとか「ゴールイン」だとか軽々しく口にする輩を見ると、虫唾が走るのです。
「結婚」=「滅私奉公的な苦労を楽しむ」とちゃうんかい、と。
その表現は、「誰かのために何かをする」ことに「楽しさ」を感じられないガキどもに、覚悟せず「結婚」に飛び込ませるだけやぞ、と。
結局は女性に「お手伝いさん」をさせておきながら、「”結婚”ってそういうもんでしょ?」と物知り顔の男どもばかりなのに、別に飛び込まなくてもいい「結婚」に女性を走らせているだけやぞ、と。


「自分がシングルファザーだったら」と常に自問し、率先して「苦労」を楽しむ自覚のある私など、少数派であることは理解しています。
21世紀になった今でも、「結婚」が「男がセックスつき家政婦を無料で雇う」ことを意味していた時代の名残りを大きくはらんでいる現状も、理解しているつもりです。


でも、だからこそ言いたいのです。
「結婚」=「幸せ」って言うの、もうやめましょ?
「イクメン」なんていう流行り言葉を吹聴して、「家事の”協力”も中途半端、仕事も中途半端なやさ男」「家事でも仕事でもメインを張れない、女性に媚を売ってモテようとする軟弱男」を量産するの、やめましょ?


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ドトールは、ミラノサンドなんかも基本的に温かくないパンで作られていますが、毎年この季節だけ限定販売される朝カフェセットBは、あったか~いトーストで挟んでくれているのがうれしいです。




しかもコーヒーがついて390円(税込)!


10:30までの時間も限定ですが、ついつい買いに行ってしまいます。。


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最近、松本人志氏出演の「ワイドナショー」というテレビ番組をよく観るのですが、先日ゲストで来ていた武田鉄也氏が「正義」について話していたのが、非常に印象に残りました。


武田氏曰く、「”正義”ほど怖いものはない」、と。


「自分は間違っているんじゃないだろうか?」「自分の言動が、知らないうちに誰かを傷つけているんじゃないだろうか?」と自問できる人物こそが、「人間として成熟している」と彼は語ります。


「自分は正しい」「これこそが”正義”だ」と思い込んでいる人間ほど、誰かを傷つけたり、周りを困らせたりしている、と。


…確かにその通りだと思いました。


私も、こんな文章を毎週毎週つらつらと書いて偉そうなことばかり言っていますが、毎回怖いですもん、「自分は間違ったことを言っているんじゃないのか」「知らず知らずに慢心していやしないか」と。


やっぱり、宗教家や政治家を筆頭に、職場にいるおっさんやおばはんまで、私が一番違和感を覚えるのは、「自分だけわかったふうな口ぶりで話す」人たちです。


宗教の勧誘然り。インターネットニュースを見て「この○○見た? どうしようもないよね」と物知り顔でしゃべってくる職場のおっさん然り。
「自分は間違っているんじゃないだろうか?」という自問や奥ゆかしさなんて、微塵も感じさせません(笑)。
…武田氏の言葉を借りれば、「人間として成熟していない」人たちなのかもしれません。


そうはなりたくない、「こいつ、偉そうに語るなあ」なんて思われたくない、自分を棚に上げてニュース番組に毒づくなんて恥ずかしい、と強く思って暮らしている(と思い込んでいる?)私にとって、武田氏のこの発言にはヒヤっとさせられました。


どんなに歳を重ねても、「自分は間違っているんじゃないだろうか?」と自問しなくなったとき、そこで「人間としての成熟」が止まってしまう。そして、成熟することをやめてしまっている人間で、世の中はあふれている。
…そんな仲間に入らないよう、今日もせっせと自己懐疑です。


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都合で行けなくなってしまった職場の先輩から、国立劇場歌舞伎のチケットをいただいて、通し狂言「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」を観劇してきました。




朝食は、いつものモスでモーニングを。


国立劇場は、東京芸術劇場と同じく、終日託児サービスの対応をしてくれるので、通し狂言4時間半の間、がっつりと預かってもらいました。要事前予約。0~1歳児2,000円。2歳~1,000円。格安です!


おかげさまで、しっかり予習もしていって、なかなか内容まで楽しめました。


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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(12)


(鮨屋のオーナーになって)正直、最初はかなり嬉しかった。だけど、その喜びも時間が経てば当たり前になる。


何をやっても、結局は飽きてしまうのだ。
最初は大喜びしていても、そのうちに、「なんや、こんなもんか」と思い始める。


飽きるということは、つまり慣れるということで、それは人間の持っている基本的な性質なのだと思う。
お金のないときはお金のないことに慣れていたから辛くともなんともなかったように、お金があったらお金があることに慣れてしまう。
お金があって幸せでしょうと言われても、自分ではそうは思えない。


贅沢な悩みと言われようと、それが人生の真実だ。


↑(引用ここまで)
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「飽きる」。


若い頃は、そんなことは考えられませんでした。
美味しいものが食べたい。たくさん食べたい。
セックスがしたい。たくさんしたい。
…そんな欲求は、未来永劫続くものだと思っていました。


でも、30代になって、そんな「食」や「快楽」に対する「固執」が激減してきたのを実感しています。
20代は、本当に毎日、365日友人たちと外食していました。「今日の夜、何食べる?」という楽しみがない日なんて、考えられませんでした。
さすがに「10年以上も外食産業を食べつくせば、そりゃ飽きるわ」ということなのでしょうか。
そりゃあ現在でも、どうせ食べるなら美味しいものが食べたいですが、なかったらなかったで別にええかな、というくらいにしか思わないようになっています。


セックスについても然りです。
「ウソを言うな! 男だったらいろんな女とやりたいに決まっているだろう?」と言われれば、そりゃそうなのですが、セックスするとなったら相手も日々の暮らしのある「人間」ですから、その前段階や事後のことなんかを考えると、どうにも面倒くさく感じてしまうのです。


ちょうどそんな「固執」が激減してきた頃です。「育児」という長丁場の「人生の負荷」にあえて飛び込んでもいいかな、と思ったのは。
フルマラソンや富士登山のように、「やってもやらなくてもいい」けど、苦労や手間から生まれる「じわっ」とした充実感・おもしろさを味わってみようかな、と。


学生の「勉強」や「部活動」のように、一銭の金にもならないけど、そういう「苦労」を「楽しい」と感じる面が我々人間にあることは、経験上わかる気がします。
だから、今のところは、「自ら”苦労”したくて、”苦労”を楽しみたくて、すすんで”育児”に飛び込んだ」自覚があるので、毎日の炊事・洗濯・掃除・保育園の送迎・糞尿の世話も楽しんでやれていると思います。
「シングルファザー(マザー)だったらこれ全部ひとりでやってるんだし」と思えば、何をやるのもそんなに苦に思わないでできますし。
特に私なんかはひとり暮らしの期間が長かったので、「今この洗濯物を見て見ぬふりするということは、後で別の人にやらせてしまうことになる」ことをすぐに想像してしまって、手を付けずにはいられないタチなものですから、なんでもかんでも自分でやってしまおうとしすぎなのかもしれません。
…そんな大口叩いておいて、気付かずスルーしてばっかりだったらすみません(笑)。


だから、「育児は大変よ」「どうせ男の人なんて、何もやらないんだから」とか言う女の人を見ると、「なめんなよ」「その”大変”が育児の醍醐味ちゃうんかい、愚痴るなよ、アホが」と毒づいてしまいます。…心の中で(笑)。


こんな自ら飛び込んだ「育児」も、「飽きる」日がやってくるのかなあ、もしいろんなことに「飽き」てきたら、そのときは次の世代にバトンタッチして、死んでいくものなのかなあ、それとも何歳になっても「まだ死にたくない」と思うのかなあ…なんて考えながら、紳助氏のこの本を読み終えました。


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ゆっくり起きた休日の朝は、11:00までモーニングをやってくれている「コメダ珈琲」に。




珈琲を注文すると、ハーフカットの厚切りトーストにゆで卵がもれなくついてきます。…さすが名古屋発祥!


最近は、バターかジャムかも選ばせてくれるので、アツアツでいい具合の柔らかさのしっとりトーストを食べさせてくれます。


そしてまた帰り際に、私の珈琲のオトモの定番・1個10円の豆菓子を100袋買って帰ってしまいました。。(^_^;)


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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(11)


従業員との関係と、子供の教育はよく似ている。
親としてどうしていいかわからないことがあったとき、僕は子供によく言っていた。
「やいやい言うな。俺も親は初めてやから、わからへん。でもな、子供は1回経験してる。だからお前らの気持ちは一番わかるで。俺はお前たちを愛している。愛しているから期待はしない。自分の思ったとおりに、好きにやったらいい」


親が子供に期待をすると言うのは、子供に親のために頑張れというのと同じだ。
他人のために頑張るのは難しい。
しかし、子供だって自分のためなら頑張れるのだ。
期待しなかったおかげて、ウチの子供たちはそれぞれの道を自分で見つけた。


同じことで、店の若いやつらが夢を持って頑張っているのを見ながら、「俺もこういう立場は初めてやから、やいやい言うな」と言っている。
そのかわり、俺もお前たちに期待はしない。自分のために、自分の思うように仕事をしたらいい、と。
「でも、お前らの気持ちはわかるで。1回夢を達成した人間として、その道で何が起こるか、どんな精神状態になるか、その気持ちはわかる。だからこんな鉄板焼き屋でいつまで働いてもしゃあないぞ」と自分の店を否定することも言う。
彼らが成長していく過程で、いつかそう感じることはわかっているのだ。


寂しがり屋の僕としては、彼らがいつかは辞めていくと考えると辛くなる。
できれば、いつまでも一緒に走っていたい。
だけど、それは不自然なのだ。
人生が道のようなものであるとするなら、それぞれの人生が交差することはあっても、いつまでも並んで走ることはできない。


↑(引用ここまで)
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紳助氏が従業員に『こんな鉄板焼き屋でいつまで働いてもしゃあないぞ』と言うように、私たちも子どもに「こんなところ(家や学校)でいつまで勉強しててもしゃあないぞ」と言ってやる、そんな精神状態で「育児」や「教育」に携わることは、とても大切なことだと最近よく思います。


子どもはゆくゆくは家(学校)を出ていく。というか、出ていった先で、いかに愛想よく、フットワーク軽く、「粋」を振りまいて暮らせるように仕込んでやるか、が「育児」「教育」の目的だと思うのです。


だから、あえて子どもに「執着しすぎない」「干渉しすぎない」「自分自身もひとりの人間として”粋”を振りまいて暮らす」のも親や教師の務めだと思うのですが、それができていない親や教師のなんと多いことでしょう!


…「子どもこそがわが人生」みたいな顔をした、あまり魅力的に見えない主婦ども。
…子どもが失敗する前に手を差し伸べてしまい、「失敗から学習させる」機会を根こそぎ奪ってしまう「話しすぎ」教師たち。


「こいつが外に出てひとりになったとき、”ひとりのまともな人間”であるかどうか」を考えたら、ある程度知らんぷり(な素振り)を決め込んでおいて、失敗するのを辛抱強く待っといたらなアカンでしょ。
というか、子どもに関わりすぎるのは、「家事や育児などに忙殺されているのを言い訳に、自分自身を鍛えたり楽しんだりすることから目をそむけているだけ」なのではないでしょうか? 他にやることないんかい、って。


特に、巷の主婦どもの子どもへの「関わりすぎ」「事前に注意してあげすぎ」は目に余るものがあると思います。
危ないからといって、汚れるからといって、いつもいつも先回りして「○○しちゃダメだからね」とベッタリ注意することで、子どもが自分から危険を回避するように育つでしょうか?
いつもいつも「ほら、”こんにちは”は?」と親が先回りして教えてあげて、子どもがひとりでいるときに挨拶する子に育つでしょうか?
…「あえて失敗させる」という選択肢のない親や教師に、「こいつが外に出ても○○ができるか」という逆算が到底あるとは思えませんよね。
だからといって、いつもいつも「子どものことばかり」考えていて、当の本人がくたびれて全然魅力的でないのも、どうかと思いますよね。


今回は、自分への戒めでもあります。
たとえわが子でも、紳助氏も言うように『いつまでも並んで走ることはできない』のですから、ポイントポイントで子どものケツをたたき、自分は自分で魅力的に人生を楽しめる「大人」でありたいものです。


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