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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(11)


従業員との関係と、子供の教育はよく似ている。
親としてどうしていいかわからないことがあったとき、僕は子供によく言っていた。
「やいやい言うな。俺も親は初めてやから、わからへん。でもな、子供は1回経験してる。だからお前らの気持ちは一番わかるで。俺はお前たちを愛している。愛しているから期待はしない。自分の思ったとおりに、好きにやったらいい」


親が子供に期待をすると言うのは、子供に親のために頑張れというのと同じだ。
他人のために頑張るのは難しい。
しかし、子供だって自分のためなら頑張れるのだ。
期待しなかったおかげて、ウチの子供たちはそれぞれの道を自分で見つけた。


同じことで、店の若いやつらが夢を持って頑張っているのを見ながら、「俺もこういう立場は初めてやから、やいやい言うな」と言っている。
そのかわり、俺もお前たちに期待はしない。自分のために、自分の思うように仕事をしたらいい、と。
「でも、お前らの気持ちはわかるで。1回夢を達成した人間として、その道で何が起こるか、どんな精神状態になるか、その気持ちはわかる。だからこんな鉄板焼き屋でいつまで働いてもしゃあないぞ」と自分の店を否定することも言う。
彼らが成長していく過程で、いつかそう感じることはわかっているのだ。


寂しがり屋の僕としては、彼らがいつかは辞めていくと考えると辛くなる。
できれば、いつまでも一緒に走っていたい。
だけど、それは不自然なのだ。
人生が道のようなものであるとするなら、それぞれの人生が交差することはあっても、いつまでも並んで走ることはできない。


↑(引用ここまで)
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紳助氏が従業員に『こんな鉄板焼き屋でいつまで働いてもしゃあないぞ』と言うように、私たちも子どもに「こんなところ(家や学校)でいつまで勉強しててもしゃあないぞ」と言ってやる、そんな精神状態で「育児」や「教育」に携わることは、とても大切なことだと最近よく思います。


子どもはゆくゆくは家(学校)を出ていく。というか、出ていった先で、いかに愛想よく、フットワーク軽く、「粋」を振りまいて暮らせるように仕込んでやるか、が「育児」「教育」の目的だと思うのです。


だから、あえて子どもに「執着しすぎない」「干渉しすぎない」「自分自身もひとりの人間として”粋”を振りまいて暮らす」のも親や教師の務めだと思うのですが、それができていない親や教師のなんと多いことでしょう!


…「子どもこそがわが人生」みたいな顔をした、あまり魅力的に見えない主婦ども。
…子どもが失敗する前に手を差し伸べてしまい、「失敗から学習させる」機会を根こそぎ奪ってしまう「話しすぎ」教師たち。


「こいつが外に出てひとりになったとき、”ひとりのまともな人間”であるかどうか」を考えたら、ある程度知らんぷり(な素振り)を決め込んでおいて、失敗するのを辛抱強く待っといたらなアカンでしょ。
というか、子どもに関わりすぎるのは、「家事や育児などに忙殺されているのを言い訳に、自分自身を鍛えたり楽しんだりすることから目をそむけているだけ」なのではないでしょうか? 他にやることないんかい、って。


特に、巷の主婦どもの子どもへの「関わりすぎ」「事前に注意してあげすぎ」は目に余るものがあると思います。
危ないからといって、汚れるからといって、いつもいつも先回りして「○○しちゃダメだからね」とベッタリ注意することで、子どもが自分から危険を回避するように育つでしょうか?
いつもいつも「ほら、”こんにちは”は?」と親が先回りして教えてあげて、子どもがひとりでいるときに挨拶する子に育つでしょうか?
…「あえて失敗させる」という選択肢のない親や教師に、「こいつが外に出ても○○ができるか」という逆算が到底あるとは思えませんよね。
だからといって、いつもいつも「子どものことばかり」考えていて、当の本人がくたびれて全然魅力的でないのも、どうかと思いますよね。


今回は、自分への戒めでもあります。
たとえわが子でも、紳助氏も言うように『いつまでも並んで走ることはできない』のですから、ポイントポイントで子どものケツをたたき、自分は自分で魅力的に人生を楽しめる「大人」でありたいものです。


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