先日、鎌倉まで出張があったので、名物「釜揚げしらす丼」を食べてみました。




鎌倉駅近辺は、どこも丼一杯で1,500円くらいするので、けっこう探し歩きました。


たどり着いたのは「レストランあさくさ」さん。

「釜揚げしらす丼」900円。しかも、+200円で、ごはんもしらすも1.5倍にしてもらえます。香ばしい梅醤油と、温泉卵つき。

ごはんはアツアツで、しらすの塩気と梅醤油もぴったり、美味しくいただけました。


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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(08)


乙武:たとえば、「スープを飲むときは、片手でなくて両手で飲みなさい」と親は言います。
片手で飲むほうがこぼす確率が高いということが、親はわかっているからですよね。
結果だけ教えられても、なぜ片手で飲んではいけないのかが子どもにはわからないまま、両手で飲まされ続けるわけです。
あるとき「どうして片手で飲んじゃいけないんだろう」と思い、つまづいて、いろいろ迷いが生じる。


今すごく身近な例で話しましたけど、それがもっと大事に至る価値観だったときに、迷いや戸惑いが「新型うつ」というような形になって表れて、それが自分を肯定できないことにつながる気がします。
「あ、片手で飲むとこぼしやすいな」と自分で気づいて、「じゃあ両手で飲めばこぼさなくてすむんじゃないか」と自分で考えて判断する。
自らやってみて怒られたり、失敗だとわかったりして学んでいく。
子どもにはそうやって生きていく人間になってほしい。
だから、なるべく親の立場で「こうしなさい」とは言わないようにしています。


泉谷:乙武さんの育て方は、「意味を自分でつかみなさい」ということを子どもに教えているのだと思うんです。
「両手で飲みなさい」という形だけを伝えると、それはマニュアルにしかならない。
なぜ両手で飲めばいいのか、その理由や意味がわからないと、他のことに応用が利かないですよね。
ところがそれがわかっていると、こういう場合なら逆に片手で飲んでもいいんじゃいかと、臨機応変に応用を利かせることも覚えていくんです。


↑(引用ここまで)
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子どもと関わるとき、ついつい「ほら、こぼしちゃうよ!」「両手で飲みなさい」と親は先回りして注意してしまいがちですが、乙武氏も泉谷氏も指摘するように、そこには「失敗から自学する姿勢」と、「言われなくても自分で気づく習慣」が無視されています。


だから私は、子どもと関わるとき、子どもがこぼすのを、できる限り待ちます。椅子から落ちて頭をぶつけるのを、できる限り待ちます。
一度失敗させてから、「こぼしたよ」と指摘してやります。態度によっては叱ります。
頭をぶつけて泣いたら、「ドンマイ」と言って笑ってやります。…周りが笑っていると、子どもってそんなに泣かないもんですよ(笑)。


私のこういう「あえて失敗させる」「あえてケガをさせる」姿勢を見聞きすると、人はたいてい怪訝な顔をしますが、ではいったいいつ「失敗から自学する姿勢」を身につけさせてやるのでしょうか? 「言われなくても自分で気づく習慣」を身につけさせてやるのでしょうか?


先日、1歳児が台所で棚からお茶碗を取り出して遊んでいるのを「危ないなあ」と思いつつも、夕飯の支度をしながら放置していました。
案の定、勢い余って地面に叩きつけ、割ってしまいました。
1歳のそいつは、パックリ割れた茶碗と私の「コラー!」の声に号泣しましたが、泣きやませて、「食器は割れる」「モノは乱暴に扱うと壊れる」ことを、身振り手振りで説明してやりました。1歳児とはいえ、「自分がいけないことをした」のは十分理解しているようでした。
するとどうでしょう、次から食器棚に手を伸ばそうとするときは、私の顔色を窺いながらそーっとするようになりました(笑)。
私が「それはダメだ」と顔を横にふると、同じように顔を横にふるマネをして、諦めて別のところへ。


まあ、1歳児の彼女が「食器を割ったのが悪いことだ」とどれだけ理解しているかはわかりませんが、「危ないから」と食器棚に近づいただけで「ダメ!」と理由も言わずに制止したり、いちいち「危ないよ!」「やめなさい!」と予防的に怒号を浴びせるのがはたして「正解」でしょうか?


…まずもって、日常的に「危ないよ!」「やめなさい!」「ほら、言ったでしょ!」と怒号を浴びせていては、いざ本当に怒ったときに効果が薄くなるように思います。そして、子どもにお小言を言うなら言うで、その都度「はい」「ごめんなさい」「ありがとう」と返事をさせないとダメですよね。親に何か言われたのに、「無言」でやり過ごさせてしまうのが、一番良くない。
何より、日常的に大人が先回りして注意してしまうことで、「自分で気をつけないと痛い目にあうぞ」という自己管理能力がなかなか身に付かないと思うのです。


我々大人は、「お茶碗を乱暴に扱ったら割れてしまう」ことを経験的に知っています。
でもそれは、過去に「経験」してきているから「知っている」のであって、子どもからその「経験」「実体験」を根こそぎ奪って、「結論」だけマニュアルのように教え込んでしまうのは、非常にかわいそうだと思うのです。
…茶碗の持ち主である妻には大変申し訳なく思っていますが(苦笑)。


やっぱり「先回りして注意してあげすぎ」な状況に陥るほど、「親がヒマ」「子どもに目を向けすぎている」のもどうかな、と改めて思わされた最近の出来事でした。
…親がそこそこ忙しければ、「茶碗を割ってしまったのを見てから叱る」ような場面も増えてくるでしょうから。


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「あけましておめでとうございます」。
「誕生日おめでとう」。
「メリークリスマス」。


そんな定番の挨拶を耳にするたび(そりゃ私だって必要最低限の挨拶はするのですが)、「一体何が”おめでたい”んだ?」「そこにおまえの”慶(よろこ)び”に対する哲学はあるのか?」と、それを言う人たちのことをじっと見てしまいます。


出た出た、またお得意の”ひねくれ者”が、と言わないでください(笑)。
「何の考えもなしに、形式的なそれを口にしていないか?」という自己批判でもあるのです。


豊作を祈りながら暮していた時代ならまだしも、現代日本に暮らす我々が新年の挨拶をする意味って何でしょうか?
「また1年、無事に生き長らえることができた”慶び”と”感謝”」を確認するための儀式。それなら理解できます。
人間は、儀式化や習慣化しておかないと、口では「感謝している」と言っていても、すぐに忘れてしまうものですからね。儀式化された「節目」は必要なのかもしれません。


でも、そうは言っても、「○年○月○日○時○分○秒」なんて、所詮はどこかの誰かが決めた基準に過ぎません。
我々が「時間」を数値化して、共有して、管理しやすいようにしているだけです。確かに便利ではありますが、「絶対的」なものではありません。
極端な話、「俺は一秒の単位をこれくらいに決めて、一日25時間で、一年を350日と考えて、独自の暦で暮らしていく。他人の作った”時間”なんかに左右されないぞ」と決めて暮したって、別にかまわないのです。


先日、渡哲也氏があるテレビ番組で、「私は誕生日もクリスマスも結婚記念日も一切祝ったことがない。自分の誕生日を言うこともないから、プレゼントをもらったりすることもない」と言っていました。


私の周りでは「クリスマスはどうするの?」「初詣はどこに行くの?」と、「哲学」不在、(少なくとも私から見ると)節操のない人たちが多い中、久しぶりに「自分独自の基準で暮らす」人を見た気がしました。


私は、「クリスマス」も「新年」も特に何もしません。
「誕生日」は、友人たちと会うきっかけに使わせてもらうだけ。もちろん腹を傷めて産んでくれたそいつの母親にはとびきりの感謝を。


そんな奴がいても、いいじゃないですか。というか、なんでみなさんそこに「独自性」を出さないんですかね?
どいつもこいつも「クリスマス」に「カウントダウン」に「初詣」。おもしろみのない人たちです。


私宛に「年賀状」や「年賀メール」が一通も来ないことに、ひそかに喜びを噛みしめる今日この頃です。


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通常、ケーキ屋さんで1カット390円もするケーキは一考するのですが、どうにもドトールのコーヒーテイクアウトついでだと、ノータイムで注文していまいます(^_^;)。




今回は「チョコバナナ ミルクレープ」390円。261kcal。



…ちなみに今晩も、松本幸四郎と市川染五郎の「勧進帳」を観に、歌舞伎座まで。

実家に預けさせてもらった子どもらを引き取って、ようやく帰宅しました。。


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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(09)


(ある鮨屋に)毎週のように通っていたら、だんだん「今日はこんなネタがあるんですけど」が増えていった。
僕はそんなグルメではないし、珍しい鮨が食べたくて鮨屋に行っているわけじゃないのだが、タレントの見栄もあるからそう言われたら断れない。


断らないということは、僕が頼んだということだから、その結果として勘定が高くなるのは仕方がない。
仕方がないのだが、釈然としない。


大人だから、そんなことを顔に出したりはしない。
「今日も美味しかったわ。ごちそうさん」と笑いながら店を出る。
だけど、なんだか気分が悪い。
店の人の気持ちが嫌なのだ。
「こんなんありまっせって、要は時価の高いネタを売りたいだけとちゃうんか?」
勘定が高くても文句を言わない客だから、取れるだけ取ったろうという魂胆なんじゃないかと勘繰りたくもなる。


まあそこまで酷い話ではないだろうが、少なくとも彼らに客への甘えがあったことは事実だ。
そもそも高いんやないかと僕が思ったこと自体が、すでに僕の中で「食べた鮨の満足感」と「払った値段」とが釣り合っていないことを意味している。


客にそう思わせてしまった時点で、店の負けだ。
なぜなら、気分が悪くなるような店に、僕はもう二度と行かないからだ。


↑(引用ここまで)
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…『「食べた満足感」と「払った値段」が釣り合っていない』。


私は、「安すぎる」という意味で、「釣り合っていない」と感じることが、最近よくあります。


一杯280円の牛丼。
悪い意味で、「安すぎる」やろ。
正直、「大丈夫? 生産農家まで安価競争に巻き込んでしまっていないか?」と勘繰ってしまいます。
「ちゃんと1000円くらい払うから、無茶なことしないで」って。…大きなお世話かもしれませんが(笑)。


聞くところによると、牛丼チェーン店は、牛丼(並)では利益はほぼゼロだそうです。
大盛や中盛、その他のメニューのみの売り上げのみで、利益をだしているとか。
原料費を切り詰めて切り詰めて、人件費を削減して、テレビCMや広告をバンバン流して客を入れて…なんて(私から見ると)下品な「激安商戦」に乗っからなきゃやっていけないほどキツいのかなあ、と想像してみたりもします。


1個100円のハンバーガー。
300円前後でたたき売られる弁当。
…そのどれもが、「安いものに飛びつく」群衆の「品のなさ」を露呈しているように思います。


「おまえは金持ってるからやろ」って言わないでください(笑)。
私だってランチに1000円なんて、毎日払うのはキツいです。
でも、たとえやせ我慢でも「ちゃんとカネは払うから、無茶な経営しないでよ」と言いたい、言っていくべきだと思うんです。


280円の牛丼や、100円のハンバーガーを「異常」だと、「絶対にどこかで無理をしている」「生産農家にしわ寄せがいっている」と感じるのは私だけなのでしょうか?


いったいいつから、恥ずかしげもなく「野菜の値段が上がって大変だ」なんて平気で言えるようになったのでしょう?
「別に200円のキャベツが300円になったくらいでゴチャゴチャ言いません。農家の方々も大変でしょうし、そのくらいのカネ、払いますよ」と、なぜ言わなくなったのでしょう?
私が野菜の高騰について、ニュース番組か何かのカメラを向けられたら、間違いなくこう言うんですけどね。
…そんなコメント、間違いなくカットされるでしょうけど(笑)。


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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(07)


乙武:たとえば、僕の友人で三十歳前後の女性たちの多くは「結婚しなきゃ」と焦っているんですよね。
また、結婚して子どもを生まないと幸せが手に入らないと思っていて、慌てて結婚してみたものの、「あれ?」という人もすごく多い。
それもまさに同じことが言えると思うんです。
みんなが「女性は結婚して子どもを生むのが幸せ」と思っているから、多数派の価値観に感化されて、自分も何となくそうなんだと思ってしまう。
自分でしっかり考えて結論を出す前に、流されて、結婚しなければ幸せになれないんじゃないかと思い込む。


でも、私にとっての幸せは家族を持つことじゃなくて、自分で仕事して、自分の食い扶持を稼いで、自由に海外旅行に行ったり、友達と遊ぶ時間を確保すること。
これが私の幸せだと自信を持って言える人は、大多数の人と価値観の違う少数派かもしれないけど、生涯幸せを感じて自分の道を歩いていくことができると思うんですよね。


泉谷:結婚を焦るような人は、これまた軽口なことを言いますけど、考えていないだけじゃなくて、よく見ていないんですよ。
世の夫婦というのを見ると、必ずしもみんなが幸せで満たされているかというと決してそうじゃない。
言いすぎかもしれませんけど、九割がたが違うんじゃないかな(笑)。
そういうことをしっかり見て判断できていれば、結婚しないと幸せになれないなんてウソだということが見抜けるはずなんですよ。


↑(引用ここまで)
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「結婚しない生き方」「オリジナリティあふれる生き方」には私も大賛成ですが、そんな「自分のアタマで考えた」「世の”常識”に埋もれない」人物、特にそんな女性には滅多にお目にかかれません。


もしそんな話のわかる女性がいても、「そら、男が寄り付かんだけやろ」と言いたくなるような人だったり(失礼)、妙に勝ち気な女性だったりが関の山です。…私の周りにいないだけですかね?


とはいえ、女性の大半が「結婚して子どもを産みたい」と思っているのが現状でしょうから、これを「洗脳」と言わずして何と言いましょうか?


どんなに賢い「自分のアタマで考えられる」女性でも、好きな男ができたら「その男の子どもが産みたい」と思ってしまうものなのかもしれません。
もし私が女に生まれていたら、「まだ結婚してないの?」「結婚できないの?」という周囲の目線に負けて、「いつかは結婚しなきゃ」と知らず知らずのうちに「洗脳」されてしまっていたかもしれません。


でも、それにしても、「この人、自分のアタマで考えてるな~」「この女性の独自性は、素敵だな~」と思わせてくれる人物が少なすぎるように、私には思えてしまうのです。
どいつもこいつも、「いつかは結婚したい」「子どもは産みたい」とアホみたいに口をそろえて言いやがって(失礼)、そういう「”結婚”っていう制度があるなら利用しなきゃ」「”出産”っていう機能が自分にあるんだから利用しなきゃ」「親や周りを安心させなきゃ」っていう安易な発想が、全然魅力的に見えへんわ、と私は心の中でつぶやくのです(笑)。


…そりゃあ、逆に「魅力的に見える男もいないぞ!」と言われちゃえば、そうかもしれないんですけど。。(笑)
男だって大半の野郎は「いつかは結婚しなきゃ」「自分の”家庭”を持ちたい」と漠然と思っていますからね。…炊事・洗濯・掃除&育児を全部自分でやろうなんて、考えもせずに。


私が思うに、現代の「結婚」「育児」に飛び込むのに必要な能力は、炊事・洗濯・掃除&育児一個一個の作業を淡々とこなせるキャパもさることながら、「周りの人間やテレビ・雑誌、親世代の言ってくることを鵜呑みにしないで、自分なりにテキトーにやって平気で笑っていられる、あっけらかんとした物腰」、これに限ります。
つまり、「こうしたほうがいいよ」という周りのおせっかいに耳を貸さず、わが道を行けるたくましさというか、それこそ「自分のアタマで考える」「少数派になるのを怖がらない」考え方が身についているか、どうかです。


「結婚」や「育児」に飛び込めば、不安の連続です。
「私は炊事はレトルトばかり、掃除もあまりしないで平気だけど、これでいいんだろうか?」
「子どもがワガママばかり言うけど、自分の育児は間違っているんじゃないだろうか?」
そこで、「周囲の目」を気にする癖がついてしまっていると、「周りと違う」自分を強く責めることになります。それこそ「育児ノイローゼ」まっしぐらです。
「周りにどう見られても、まあ、これでいいや」と思える、いい意味で「いいかげん」な、「あっけらかん」とした物腰は、必要不可欠だと思うのです。


そんな物腰が身に付いている人物であるかどうか、「自分のアタマで考えられる」人物であるかどうかは、その人が「結婚しなきゃ」「いつかは育児がしたい」という世の風潮に対して、どう自分なりの考えを持っているかを見ればよくわかる、とそう思い、今回こう書きました。


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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(08)


お金の便利さを僕は否定しない。
あの世まで持っていけるわけでもないのに、年寄りがそんなに金を貯めてどうする?
なんてことをよく言う。


僕はそうは思わない。
自分が何歳の何月何日に死ぬとわかっているなら、その日までに綺麗さっぱり遣い果たすのも悪くない。
だけど、そうはいかないのが現実だ。
それじゃなくても歳を取ったら、カラダは弱くなるし、肩身は狭くなる。
年寄りが堂々と胸を張って、自分のやりたいことをやって生きていくためには、お金は便利な道具になる。


↑(引用ここまで)
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「お金はないよりあった方がいい」。
それは誰もがそう思うでしょうが、私は、「何に言葉を多く費やして生きるか」という観点で、「お金はないよりあった方がいい」と、そう断言したい。


「貧しくても心豊かなら、暮らしてゆける」みたいなキレイゴトも個人的には嫌いではありませんが、金にゆとりがないからといって、スーパーの特売や、「オトク」情報のことばかり毎日口にするような人間が、はたして「心豊か」と言えるでしょうか?


マクドナルドや回転寿司など、「安い」「早い」をウリにした大衆向けのジャンクフードばかりで外食を済ます「品性」の持ち主が、はたして「心豊か」と言えるでしょうか?


最近特に思うのですが、夕方のニュース番組の特集なんかをみていて、「こんなにも上等な○○が○○円で食べられるなんて!」だとか、「今、話題の激安○○の行列に並ぶ人たち」だとかの報道が、やけに多くなったと思いませんか?


日本人の誰もが、「安い」「オトク」なことに興味があるんだろう? 、と言わんばかりの決めつけ報道に、嫌気がさしているのは私だけでしょうか?


…私だって、買い物をするときや外食をするとき、そりゃあ「安い」に越したことはないとは思いますが、「ドンキホーテで○○が特売だ」と知っても、「そこに群がる人たちと一緒にレジの行列に並ばされるくらいなら、高くても近所のお店でええわ」とか、「ステーキのけんで、1000円食べ放題をやっているけど、夕飯どきの行列に並んで何十分も待たされた上に、騒がしい、わさわさした中で食事をするくらいなら、3000円払って静かなお店でゆっくり食事がしたい」とか、思ってしまいます。


こんなことを言うと、「あなたはお金に余裕があるかもしれないけど、ウチみたいな貧乏家庭は、そうやって遣り繰りしていくしかないのよ」とかなんとか言う主婦(夫)たちの声が今にも聞こえてきそうですが(笑)、今日はあえて言わせてもらいます。


もう、「安い」「オトク」にノータイムに飛びつくのはやめて、自分の「品位」「生きざま」を大切にしましょうよ。「やせ我慢」しましょうよ。


紳助氏が『年寄りが堂々と胸を張って、自分のやりたいことをやって生きていくためには、お金は便利な道具になる』と評するように、堂々と胸を張って「きっぷのよさ」を振りまいて生きましょうよ。


…「”安売り”に堂々と胸を張って飛びついて何が悪い」って? それは恥知らずの「開き直り」そのものですよね(笑)。

恥を知れ、恥を。


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ガソリン入れついでに、ついついドトールでコーヒーを買ってしまいます。。




さらについでに秋の新作スイーツをお土産にテイクアウト。。思うツボですね(^_^;)。


今回は「スイートポテトタルト」370円。470kcal。


タルト生地がけっこう堅く、サクサクしているので、しっとりとしたポテトクリームにぴったり。コーヒーがすすみます。


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