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↓『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』島田紳助著、幻冬舎新書、2007)より引用(12)


(鮨屋のオーナーになって)正直、最初はかなり嬉しかった。だけど、その喜びも時間が経てば当たり前になる。


何をやっても、結局は飽きてしまうのだ。
最初は大喜びしていても、そのうちに、「なんや、こんなもんか」と思い始める。


飽きるということは、つまり慣れるということで、それは人間の持っている基本的な性質なのだと思う。
お金のないときはお金のないことに慣れていたから辛くともなんともなかったように、お金があったらお金があることに慣れてしまう。
お金があって幸せでしょうと言われても、自分ではそうは思えない。


贅沢な悩みと言われようと、それが人生の真実だ。


↑(引用ここまで)
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「飽きる」。


若い頃は、そんなことは考えられませんでした。
美味しいものが食べたい。たくさん食べたい。
セックスがしたい。たくさんしたい。
…そんな欲求は、未来永劫続くものだと思っていました。


でも、30代になって、そんな「食」や「快楽」に対する「固執」が激減してきたのを実感しています。
20代は、本当に毎日、365日友人たちと外食していました。「今日の夜、何食べる?」という楽しみがない日なんて、考えられませんでした。
さすがに「10年以上も外食産業を食べつくせば、そりゃ飽きるわ」ということなのでしょうか。
そりゃあ現在でも、どうせ食べるなら美味しいものが食べたいですが、なかったらなかったで別にええかな、というくらいにしか思わないようになっています。


セックスについても然りです。
「ウソを言うな! 男だったらいろんな女とやりたいに決まっているだろう?」と言われれば、そりゃそうなのですが、セックスするとなったら相手も日々の暮らしのある「人間」ですから、その前段階や事後のことなんかを考えると、どうにも面倒くさく感じてしまうのです。


ちょうどそんな「固執」が激減してきた頃です。「育児」という長丁場の「人生の負荷」にあえて飛び込んでもいいかな、と思ったのは。
フルマラソンや富士登山のように、「やってもやらなくてもいい」けど、苦労や手間から生まれる「じわっ」とした充実感・おもしろさを味わってみようかな、と。


学生の「勉強」や「部活動」のように、一銭の金にもならないけど、そういう「苦労」を「楽しい」と感じる面が我々人間にあることは、経験上わかる気がします。
だから、今のところは、「自ら”苦労”したくて、”苦労”を楽しみたくて、すすんで”育児”に飛び込んだ」自覚があるので、毎日の炊事・洗濯・掃除・保育園の送迎・糞尿の世話も楽しんでやれていると思います。
「シングルファザー(マザー)だったらこれ全部ひとりでやってるんだし」と思えば、何をやるのもそんなに苦に思わないでできますし。
特に私なんかはひとり暮らしの期間が長かったので、「今この洗濯物を見て見ぬふりするということは、後で別の人にやらせてしまうことになる」ことをすぐに想像してしまって、手を付けずにはいられないタチなものですから、なんでもかんでも自分でやってしまおうとしすぎなのかもしれません。
…そんな大口叩いておいて、気付かずスルーしてばっかりだったらすみません(笑)。


だから、「育児は大変よ」「どうせ男の人なんて、何もやらないんだから」とか言う女の人を見ると、「なめんなよ」「その”大変”が育児の醍醐味ちゃうんかい、愚痴るなよ、アホが」と毒づいてしまいます。…心の中で(笑)。


こんな自ら飛び込んだ「育児」も、「飽きる」日がやってくるのかなあ、もしいろんなことに「飽き」てきたら、そのときは次の世代にバトンタッチして、死んでいくものなのかなあ、それとも何歳になっても「まだ死にたくない」と思うのかなあ…なんて考えながら、紳助氏のこの本を読み終えました。


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